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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例13【信長は水練(泳ぎ)が得意!】

2007-10-20 14:36:11 | 因縁と先例
『水練』とは読んで字の如く「水泳の練習」です。


信長公記では首巻第七「上総介信長殿行儀の事」に

「三月から九月までは川に入り、水練の御達者なり」

とあります。


源平盛衰記では宇治川をわたるときの指示について、

以下のような詳細な記述があります。非常に臨場感

あふれる指示が下されています。

1)巻十五 謀反を起こした高倉宮を平家が討伐に

 向かった戦い

 《この場面では足利又太郎忠綱が渡河戦の指示を

  出します》

 ・強い馬を上流に立たせ弱い馬を下流に並べる

 ・馬の足が底についているうちは手綱を操作して

  歩ませる

 ・馬が足をバタつかせたら手綱をゆるめて泳がせる

 ・前よりに重心をかけるよう

 ・水を越したら馬の尻尾の付け根のほうに下がって

  おりる

 ・水の中では足に力を込め馬に軽く身をあずける

 ・手綱はしっかりにぎりかといって引き絞らない

 ・敵をしっかり注視する

 ・仰のきすぎて甲の内側を射させないよう

 ・うつむきすぎて甲の天辺を射させないよう

 ・鎧の袖を真向にあてて防御する

 ・水の中では身繕いしない

 ・自分の馬が弱いからと言って人の馬をたよって

  二人とも押し流されることのないよう

 ・敵が弓矢を射て来ても返し矢をしようとして弓

  を引き押し流されて笑われることのないよう

 ・弓の本はずのほうを軽く引いて射掛けるよう

 ・全員が心を合わせて『えい』と声を出して

  わたるよう

 ・水を真直ぐにわたろうとして失敗するな

 ・流れに従い『流れ渡り』で渡るよう

2)巻三十五 源範頼・義経が木曽義仲を討伐に

 向かった戦い

 《まずは畠山庄司次郎重忠が指示を出します》

 ・馬の足が立つうちは手綱をしっかり握る

 ・馬の足がはずんだら手綱をゆるめて泳がせる

 ・馬が水に没したら草頭(尻尾の付け根)に乗り

  下がり鞍から尻を外して水を通す

 ・強い馬を上流に歩ませ厳しい流れを防がせる

 ・弱い馬を下流に歩ませ流れのゆるくなったところ

  を渡る

 ・川の中では弓を引かない

 ・射向けの袖を真向にかざし常に鎧突きをする

 ・互いの弓をつかみ合い前の馬の草頭に後ろの馬の

  頭をのせ息をつがせる

 ・息が弾むと馬も弱るのですきま無く並んでいき

  馬にも人にも力添えをする

 ・真直ぐに川をわたろうとして誤つことのないよう

 ・流れに任せて川を渡るよう

 《同じ場面で源義経も指示を出します》

 ・馬筏を組み強い馬を上流に歩ませ厳しい流れを

  防がせる

 ・弱い馬を下流に歩ませ流れのゆるくなったところ

  を渡る

 ・馬の足が届かなくなったら手綱をくれて泳がせる

 ・馬が足をばたつかせたら弓手(左手)の手綱を

  ゆるめ妻手(右手)の手綱を少し引く

 ・四つんばいの形に乗り馬を楽に泳がせる

 ・手綱を強く引き馬に引きずられて誤つことの

  無いよう

 ・尾の方が沈めば前輪(鞍の前のほう)にすがる

 ・馬に石突き(石を強く踏むこと)させて足を

  いためさせないこと

 ・常に鐙で馬の胴をはさみつける

 ・敵が射てきても射返すな

 ・敵に合わせて弓を引き錣を射られることの

  無いよう

 ・伏せすぎて天辺を射られるな

 ・射向けの袖(鎧の左の袖)を真向にかざし物具に

  隙間を作るな

 ・下流に流された武者がいれば弓の弭を差し出し

  取り付かせて泳がせよ

 ・川を真直ぐに渡ろうとして誤ちすな

 ・馬の頭は水面に出させ童すがり(子供のような

  だっこ)に馬の首にすがり弓の本弭をかけながら

  『えい』と声をだして馬に力を添えよ


なかでも畠山庄司次郎重忠はこの戦いで、「川に

流された武者二人を助けた上に、傷ついた愛馬

『鬼栗毛』を背中にからって川を渡りきった」と

されています。なんともすさまじい怪力!


信長公記では、首巻第二十七「蛇がへの事」

(※「蛇」は原文は「虫」へんに「也」)で

信長の水練の腕が自らの命を救ったエピソードと

して記載されています。おそらく平安期から信長

公記が成立した江戸初期まで、「渡河戦を制する

者が天下を制する」という考え方が読者にとって

常識であったのではないかと思います。

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因縁と先例12【信長は舎弟信行を誘殺した!】

2007-10-19 21:29:15 | 因縁と先例
『誘殺』とは相手をおびき出して殺害することです。

信長公記での『誘殺』で有名なのは織田勘十郎信行

殺害のエピソード。1557年信長は仮病を使い、舎弟

信行を清洲城北矢倉までおびき寄せ河尻与兵衛秀隆・

青貝に殺害させます。


それ以前の他家の例では、1555年斎藤義竜は仮病を

使い、長井隼人正道利の策略で弟孫四郎と喜平次を

稲葉山におびき寄せ、日根野備中弘就に殺害させた

例があります。


仮病を使って兄弟をおびき寄せ殺害しようとするのは、

遠く日本書紀までさかのぼります。壬申の乱の時病床

に臥せった天智天皇から呼ばれた大海人皇子(天武

天皇)が、見舞いに行かず出家して逃走したという

事件が記載されています。これは大海人皇子が兄から

誘殺されそうになったのを避けたもの。結局大海人

皇子はそこから畿内に戻り帝位(天武天皇)につく

ことになります。

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因縁と先例11【名調子:激戦の例え】

2007-10-18 17:48:41 | 因縁と先例
戦記物の書物には、必ず「よっ、名調子!」と手を

たたきたくなる表現が出てきます。


*信長公記首巻第二十四「今川義元討死の事」では、

 「しのぎをけづり、鍔を割り、火花をちらし火焔を

 ふらす」と出てきます。鑓・刀のせめぎあいが目の

 前に現れてくるようです。

*源平盛衰記では頻繁に「白刃をぬぐうひまなし」と

 出てきます。一度斬った相手の血糊をぬぐう暇なく

 次々と斬り合うという凄絶なシーンです!

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因縁と先例10【信長は本当に第六天の魔王なのか?】

2007-10-17 21:46:43 | 因縁と先例
さまざまな小説・テレビドラマで、信長が『第六天の

魔王』と呼ばれる場面が出てきますが、信長公記には、

『第六天の魔王』という言葉は一度も出てきません。

これは一体どうしたことでしょうか?


1)源平盛衰記巻剣の影響

 源平盛衰記巻剣に「第六天の魔王が天照大神と日本

 国の支配について打合せ、天照大神が『日本国に仏法

 もひろめないし僧・法も近づけない』と約束したので

 魔王は大神に日本国の領有を許し『手験(てじるし)

 =領主の印』を与えた。これが今(源平盛衰記の成立

 した南北朝期)に伝わる『神璽』である」というとん

 でもないエピソードがのっています。信長公記と源平

 盛衰記の類似点を熟知した江戸以降の学者・作者が、

 読者にわかりやすいように、天下を支配しようとした

 『信長=第六天の魔王』と典型化した可能性があります。

2)桶狭間の戦いの時の今川義元の台詞から

 あるいは信長公記に、今川義元の台詞として、「桶狭間

 山から自軍が千秋四郎・佐々隼人正を打ち破った様子を

 見て、『義元が戈先には天魔鬼神も忍(タマル)べから

 ず。心地はよし』と悦び謡をうたい陣を据えた」とある

 ので、ここから拡大解釈されたことも考えられます。


ちなみに、『第六天』というのは仏教用語では『六欲天の

第六』(最高の天)のこと。三界(欲界・色界・無色界)

のうち欲界に属する六つの天を『六欲天』とよび、第一

から順に、

 「四王天」(しわうてん)

 「刀利天」(たうりてん)※「刀」は左に「りっしんべん」が付く

 「夜摩天」(やまてん)

 「兜率天」(とそつてん)

 「楽変化天」(らくへんげてん)

 「他化自在天」(たけじざいてん)

といいます。したがって『第六天』は「他化自在天」にあた

ります。


『第六天』とは「最高の天。天魔の世界でここに生まれる

と欲望を自由に楽しめる」世界であり、『第六天の魔王』

とは「六欲天の最高である他化自在天の大魔王」となり

ます。「他化自在」とは他人の変化を以って己の楽しみ

とするという意味です。

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因縁と先例9【信長の『無』の旗印と五郎左衛門の『×』の旗印、およびいろいろな習作】

2007-09-10 17:49:52 | 因縁と先例
信長公記の首巻の部分だけでも、源平盛衰記と絡む

部分はまだまだたくさんあります。今回は箇条書きで

できる限りまとめてみます。


1)信長『無』の旗印と五郎左衛門の『×』の旗印

・信長公記には直接は出ていませんが、信長は『無』

 の旗印を使っていました。ちなみに丹羽五郎左衛門

 の旗印は『×(すじかい)』ですから、二人合わせ

 れば『敵を切り裂き無間地獄へ臨む覚悟!』となります。

・源平盛衰記巻二十六で平清盛は『無間地獄』へ落ち

 てゆきますので、こんなストレートな『習作』もめずらしい!

2)犬山の落書

・『落書』とは情けない為政者を風刺した立て看板の事

 で、信長公記首巻第八『犬山謀叛企てらるゝの事』に

 でてきます。

・源平盛衰記では、巻第二『清水寺縁起(以下略)』で

 清水寺炎上の翌日に焼けた大門の前に立てられた

 『高札』のエピソードがでてきます

3)あら川与十郎の剛刀

・信長公記首巻第十一『三ノ山赤塚合戦の事』で、信長

 方先手足軽のあら川与十郎が持っていた刀につき、

 『長さ一間(1.8m)幅5~6寸(15~18cm)あった』と

 されています。通常の日本刀は幅1寸、長さ2尺7寸、

 重量は重くて1kgというところですから、与十郎の太刀

 は10倍の推定10kg(!)ということになります。こう

 なると斬るというよりか叩きふせるという感じですか。

・源平盛衰記では、畠山庄司次郎重忠(宇治川をわたる

 とき、弱っていた愛馬『鬼栗毛』を背負ったまま渡って

 しまったという怪力の持ち主)の愛刀「かう平の太刀」

 が幅四寸(12cm)長さ三尺九寸(117cm)とありますの

 で、与十郎の刀がどれだけすさまじい剛刀かよくわかり

 ます。

4)信長『敦盛』を舞う

・信長公記首巻第二十四『今川義元討死の事』では、信長

 は桶狭間に向かう前に『敦盛』を舞います。

・源平盛衰記巻五で平清盛は自分の怒りを静めるために3~4

 回舞いを舞います

5)『敦盛』の供養と『義元』の供養

・桶狭間戦後、信長は義元の頸を同朋に駿河まで持って

 行かせ、しかも須賀口に義元塚を築き、丁重に弔って

 います。

・源平盛衰記巻三十八で熊谷次郎直実は、敵の平家で

 あるがために若く美しい無官大夫敦盛の首を切らざる

 を得なかった世の無情さに耐え切れず、敦盛の首と

 その他一切を父修理大夫経盛に消息を添えて丁重に

 送り、その後入道して敦盛の菩提を弔いました。

6)信長『人間五十年~』の名台詞

・信長公記首巻に出てくる信長の句、「人間五十年、

 下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度この

 世に生を受け、滅せぬ者のあるべきか」。

・これに対して源平盛衰記巻三十九で、黒谷の法然坊

 が三位中将重衡との対話の中で述べる「盛者必衰の

 理明らかであり、夢幻のようである」。

・源平盛衰記巻四十では、高野山の滝口入道時頼が三位

 中将維盛に「誠に夢幻の世の中は、とてもかくても

 ありなん・・・」という。その後「この世は夢幻の所、

 憂きことも悲しきことも、始めて驚き思し召すべきに

 あらず・・・」と続きます。こんなに明らかな引用も

 めずらしい!逆に引用したことが分かるように筆者の

 大田牛一が記述したのかも。


そのほか、信長公記首巻第十『山城道三と信長御参会

の事』で信長が行列の先頭に先払いを歩ませ『健者

(すくやかもの)先に走らかし』と表現されていますが、

これも義経記巻5に全く同じ表現があるようです。

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因縁と先例8【信長、平家、上総介、朝廷、幕末】

2007-09-07 09:12:51 | 因縁と先例
信長が「上総介」を名乗ったのは、平家の祖高望王

が「上総介」を名乗った故実に基づいています。

桓武帝の玄孫高望王は、889年平姓を与えられ皇族

を離れ、上総介となって現地へ赴任しました。


信長は1553年ごろに「上総介」と名乗り、1554年の

書面で「上総守」、1555年の書面で「上総介」と

署名しています。因みに上総国をふくめ関東十カ国

は親王の任国であり、皇族が「国の守」を名乗る

伝統があるので、一介の武家が「上総守」を名乗る

のは、実は間違いです。おそらく織田信長は周囲

からの指摘で間違いに気づき、上記の通り第二位の

官「上総介」と署名することにしたのでしょう。


もっと深読みすると、もし信長が、

*今川家の家宰として落ち度なく戦果をあげている

 うちに関東に覇をとなえた伊勢盛時殿(=伊勢

 宗瑞=北条早雲)を先達として尊敬していたので、

 平家ゆかりの「上総介」を名乗った

*平家由緒・皇族由緒の名を名乗り、ゆくゆくは

 盛時殿のように関東に覇をとなえ、関東に天子様

 の御所を・・・

などと考えていたとしたら、戦国の歴史も『しびれる

ほど』面白くなるような気がします!


織田信長と朝廷の関係につき、信長公記にも記され

ている案件は多いですが、その約三百年後に因縁を

感じさせる事件が起きています。信長の二男織田

信雄は徳川家康から五万石で大和松山に封ぜられ、

信雄五代の孫信休の時丹波柏原(かいばら)に封ぜ

られます。その後胤は、幕末鳥羽伏見の戦いでは

朝廷の召しにより、なんと御所の守備に当たって

います。(【日本「名家・名門」総覧-新人物往来社】

から引用)先例を極めて重んじる朝廷が御所の守備

役に選ぶということは、幕末以前(戦国期も含めて)

に織田家と朝廷との間に何の意趣もなかったという

ことの例証となります。「本能寺の変」のなぞを探る

人たちも、この視点を念頭においておいたほうがいい

と思います。

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因縁と先例7【七段の陣は吉例である】

2007-09-06 16:47:40 | 因縁と先例
信長公記首巻『あづき坂合戦のこと』で、駿河衆が

織田方(織田信広)の守備する安祥城を奪還しよう

と三河正田原に布陣しますが、このとき『七段に

人数を備へ候』と記されています。


源平盛衰記巻二十九で平家が北陸地方へ進軍する場面

が描かれていますが、源氏側の木曽義仲が「軍勢を

七手に分けるのが吉例」、と乳母子の今井兼平に告げ

ています。


信長公記の作者太田牛一は、ここでも源平盛衰記の

記述を意識しています。ひょっとしたら江戸前期まで、

『七段の陣は吉例』ということは常識だったのかも

しれません。

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因縁と先例6【いつの時代も馬は諍い(いさかい)のもと】

2007-08-30 15:38:13 | 因縁と先例
信長公記の首巻第九『備後守病死のこと』で、平手

中務丞政秀の子息五郎右衛門長政と信長が、長政の

馬をめぐりいさかいをおこし、しこりを残した事件

がえがかれており、のち平手政秀が切腹した遠因と

なったことが暗示されています。


源平盛衰記巻十四では、以下のような事件が描かれ

ています。当時源仲綱が名馬『木の下(このした)』

を所持しており、それを平宗盛がどうしても手に入れ

たいと思い種々画策します。平右大将宗盛の請いに

対し源仲綱は初め拒みましたが、父三位入道頼政の

忠言もあり『木の下』を宗盛に送ることになります。

ところがその後、仲綱が再三返却を願い出たのに対し、

宗盛はこの名馬が惜しくなり、『木の下』を返さず

『南鐐(なんれう)』というかわりの馬を下します。

さらに仲綱が『木の下』を惜しんでいたのを憎み、

『伊豆』『仲綱』と呼んで引きずりまわしたりしま

した。これが遺恨となり、頼政が平家討伐の謀反を

起こす一因となったと書かれています。


源平盛衰記の筆者は「妙に勇ましい乗り物など用い

ないほうがよいのである」と意見を述べ、例として

周の穆王の八駿・文帝の千里馬の逸話をしめして

います。前者は、「周の穆王は八頭の駿馬を手に

入れたばっかりに政を省みなくなり身を滅ぼした」

というエピソードから来ており、後者は「前漢の

文帝は、千里の馬を献上されたが、『御幸とは千官

が万乗に付き従うものである。自分ひとりだけ千里

行く馬に乗っても仕方がない』とこれを用いなかっ

た」というエピソードから来ています。いずれも

「あまり優秀な馬ばかりを所持してもいいことは

ない」という戒めになっています。


よくよく考えれば戦国時代としては当たり前の話で、

数千名・数万名の進軍を行なう場合、進軍速度を

決めるのは弓矢・食糧・鉄砲などを運ぶ兵站部隊

ですから、特別足のはやい馬がいたとしても、

(伝令などを除き)特に役に立ちません。この通り、

名馬をめぐる平手長政と織田信長の諍いも、信長

公記筆者の太田牛一は源平盛衰記を強く意識して

記述しています。

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因縁と先例5【信長の『梅の花』と景時の『花箙(はなえびら)』】

2007-08-23 21:07:02 | 因縁と先例
信長公記巻十四『御馬揃への事』で、織田信長はあで

やかに着飾り、唐冠をかぶった背後に梅花の枝を折り

挿して馬を遣ります。


源平盛衰記では、巻三十七『景高・景時城に入る並

景時秀句のこと』で、平家の籠もる一の谷に梶原平三

景時が攻め込むとき、梅の枝を箙にさした「花箙」の

エピソードが出てきます。


本歌は拾遺集-凡河内躬恒(おおしこうちみのつね)の歌、

 吹く風を何といひけん梅の花
 
     散り来る時ぞ香はまさりける


であり、主上(正親町天皇)以下朝廷の面々が、

「ほほ~っ!内府殿(内大臣信長)も古の雅がおわかり

と見える」と賞賛する声が聞えてきそうな名場面です!

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因縁と先例4【逆櫓問答-源平の戦い】

2007-08-22 09:12:25 | 因縁と先例
信長公記首巻第十六『村木ノ取手攻めらるゝこと』は、

天文二十三年(1554)駿河衆に攻撃された小川城の

水野金吾信元を織田信長の軍が救出に向かう様子を

描いた条です。


信長は熱田から船を出し知多半島を回りこんで小川に

向かおうとしますが、折からの強風で主水(かこ)・梶取

(かんどり)は「出港は無理」と告げます。ここで信長は

「昔渡辺・福島で(梶原景時と源義経が)『逆櫓』を争った

ときの風もこれくらいだっただろう。絶対に渡海する」と

先例を引き合いに出し出港を強行します。ちなみにこの

『逆櫓問答』というのは源平争乱期のエピソードで、四国

に逃げた平氏を追撃するため大物ヶ浦から船を出そうと

したとき、梶原景時が「海の上で自在に敵と戦うため舟の

舳先にも櫓を付けた方が良い」と進言したところ、源義経

が「舟の先頭に櫓をつけるなど臆病者の仕業である」と

言ってなじり、切りあい寸前までいってしまった事件です。

言い争いの後義経は、「よい天気波穏やかなときに船を

出せば、平家も『こういう日に源氏が渡ってくる』と用心を

厳しくしてくる。このような大風の中では『船で渡ってくる

ことはあるまい』と守備がゆるくなる。そこをするりと

わたり、敵を誅するのだ」といって強風の中出港を強行

しており、織田信長もこの故事を例に出して小川へ

向けて出港をしたものです。


このエピソードも、江戸時代初期の信長公記の読者が

『源平盛衰記』を読んでいることが前提となっています。

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