『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例25【信長馬攻め、および、武士は一騎で駆け回らない!】

2012-12-15 21:32:11 | 因縁と先例
信長公記首巻に出てくる「信長馬責め(馬を飼い鍛える)」

のエピソードにも先例があります。


当カテゴリーの、因縁と先例6【いつの時代も馬は諍い

(いさかい)のもと】でも書きましたが、あまり名馬を

所有していてもろくなことはないという大田牛一の考え

は徹底的です。信長の舎弟喜六郎信孝が一騎で道を行き

孫十郎信次の手のものに弓で誤射された件につき、信長

に「自分の弟とあろうものが人も召し連れず一騎で駆け

回るなど、いうまでもなくあきれた次第である。生きて

いたとしても許さなかっただろう」と言わせています。

つまりは「いくらいい馬でも全軍の中で活かすべき」

ということです。

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因縁と先例24【信長は今川勢に向かって攻め下ったか?】

2010-05-05 12:55:29 | 因縁と先例
以前信長が桶狭間の軍のとき、今川義元の陣に「攻め

下る」ように思われていたのは、源平盛衰記で義経が

鵯越を落す場面からの類推と思われます。すなわち、

江戸時代の読者も信長公記と源平盛衰記を読み比べて

いた証拠といえます。


大久保彦左衛門尉忠教(ただたか)著の三河物語には、

桶狭間の今川陣が崩れるきっかけがきちんと書いて

あります。それによると、今川勢が進軍中三河勢を

馬鹿にして軍議に入れなかったところ、桶狭間山から

信長の軍を見た三河武士の石河六佐衛門尉が「上から

見れば兵数は少なく見えるもの。またどこの城を

攻めるかどこに移動するかの評定で時間を無駄にして

いては、いいことはおきない。はやく帰陣すべし!」

と叱責します。「すでに登り始めた信長勢を見た駿河

勢が慌てふためき、散り散りに逃げ始め負け戦になった」

とはっきり書いてあります。


源平盛衰記巻三十六に「一陣破れて残党全からず」

(主力が破れると残りの者は逃げ散ってしまう)とあり

ます。敵将今川義元を討ち取ったとはいえ、駿河の太守

の軍が破れる様子を目の当たりにした信長の心境は

いかばかりだったでしょうか?

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因縁と先例23【信長は美しい、小鼓の上手、および『縁日』のこと】

2010-04-24 11:39:47 | 因縁と先例
弘治2年(1556)津嶋の踊りは「7月18日」の

興行となっていますが、毎月18日は観音の縁日。

踊りの中に地蔵が出てくるので地蔵の縁日ではないか?

それならば24日が正確ということになります。現代では

東京/巣鴨のお地蔵さんは「4の付く日で月3回」となって

いますね。


津嶋の踊りで、信長は天人のいでたち・小鼓を打ち・

女踊りをします。信長の兄弟・姉妹について、

*弘治元年(1555)に守山城勢から誤射されなく

 なった舎弟織田喜六郎秀孝の美しさ

*絶世の美女と言われた妹市の美しさ

から言って、「信長も実はすばらしく美しかったの

ではないか?」と思います。信長公の日ごろの鍛錬

で鍛え上げられた筋肉美と天女のような美しさに

ボーッとして、よだれを垂らして見ている津嶋衆・

織田家家臣の姿を想像すると、何か現代の三島由紀夫

と丸山明宏の関係を思い出します。


また、のちの永禄11年(1568年)信長上洛戦後の能で、

小鼓の演奏を所望されていることから、信長が小鼓の

上手であることは京雀の耳にも入っていたものと思われ

ます。おそらく信長が築き上げた情報網を使って。

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因縁と先例22【取次衆はとても儲かる】

2007-12-28 19:08:41 | 因縁と先例
公的な職制ではありませんが、武家には『取次衆』

といわれる人々がいます。現代で言えば『渉外担当』

にあたり、自家と他家の間の交渉を担当します。よく

テレビで出てくるような「有力武将同士がたびたび

大広間で直接会見する」といったことは当時ありえ

ないことであって、全んどの場合互いの『取次衆』が

主に成り代わって段取りを進めていきます。たとえば

「会社同士のビッグプロジェクトを進めるとき、実質的

にはプロジェクトリーダーが段取りを進め、社長が出て

くるのはキーポイントとなるときだけ」といえばわかり

やすいでしょうか?


【源平盛衰記の時代】

*平大相国清盛の家では源大夫判官季貞・平越中次郎

 兵衛盛嗣らが『取次衆』を務めていました

*清盛の嫡男である小松内大臣重盛の家では平主馬

 判官盛国が『取次衆』を務めていました

*源頼朝の家では安達藤九郎盛長らが受け持っていま

 した


【信長公記の時代】

*織田家では、信秀の時は平手中務丞政秀が『取次衆』

*信長の時は丹羽五郎左衛門長秀が受け持ちました

*徳川家では家康のとき、酒井忠次・石川数正および

 大久保一門が『取次衆』に当たるかもしれません


現代と戦国時代では大きく違う点があります。現代の

渉外担当が決められた月給で動いているのと比べ、

戦国時代の『取次衆』は仲介するたび「引出物」

(=女性物の小袖、小刀、金銀など)を受け取って

いたので、莫大な手数料を稼ぐことができたようです。

成立させれば主からの褒美も出るので『往復ビンタ』

でもうかります!ただ扱う案件が、身方同士・身方対敵・

対朝廷・対幕府・対宗教などと多岐にわたるので、軍事力・

交渉力・知性と教養・人間の魅力・統率力・財力などの

要求される難しい業務です。そのうえで主君に忠誠を誓う

という・・・難しそう・・・

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因縁と先例21【相討ちは卑怯なり!】

2007-12-20 19:11:01 | 因縁と先例
『相討ち』は現在では「斬りあってお互いに倒れる

こと」の意味で使われますが、源平争乱期から信長

公記が書かれた江戸初期までは、『何人かで敵一人

を倒すこと』の意味で使われていました。当時

『相討ち』は卑怯とされ、禁止されていました。


信長公記首巻第三十七「十四条合戦の事」の段の

記事です。「永禄四年(1561)十四条の合戦で池田

勝三郎恒興と佐々内蔵助成政は、敵の稲葉又左衛門

を相討ちに討ち取った」とだけ書かれており評価も

何も書いてありません。おそらく「相討ちは卑怯!」

という常識が書くほうにも読者のほうにもあったため

に、あまり詳しく書かなかったものと推察します。

池田恒興と佐々成政の二人は、かわいそうですが

論功行賞もなかったことでしょう!

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因縁と先例20【天の与ふるところ】

2007-12-14 17:55:31 | 因縁と先例
信長公記によく出てくる表現の一つに『天の与ふる

ところ』があります。意味としては「天が与えて

くれた絶好の機会をのがしてはいけない!」という

ことになります。


【信長公記】

①首巻第二十四『今川義元討死の事』の段で、桶狭間

 山を望み、信長が「運は天に在り」と諸将を鼓舞します

②首巻第三十六『もりべ合戦の事』の段で、信長が『天

 の与ふる所』

③巻八第四『三州長篠御合戦の事』の段で、武田軍が

 接近する直前に信長が『天の与ふる所』

④巻八第七『越前御進発、賀越両国仰付けらるゝの事』

 の段で、今度は羽柴筑前が『天の与ふる所』

⑤巻九第四『御後巻、再三御合戦の事』の段で、信長が

 『天道照覧にて苦ず』また『天の与ふる所』


【源平盛衰記】

①巻二十八に機会を逃してはいけないという意味で、『時

 の花をかんざしの花にせよ』また『勇士は敵を得た日を

 吉日とす』とでてきます

②巻四十六に『これ人のなすに非ず。天の与ふる所なり』

 とでてきます


【吾妻鏡】

*巻第一に『天の与ふるを取り、時至りて行ふ』とでて

 きます


【史記-淮陰侯列伝】

*『天の与ふるを採らざればかえってその咎を受く。時

 至って行なはざればかえってその災いを受く』とでて

 きます


おそらく今思われているより、戦国時代の武将たちは

よく本を読み、日本・中国の古典に通じていたものと

思われます。織田信長や徳川家康が、燈火の下で夜更け

まで、目器(老眼鏡)の焦点を合わせながら中国古典

をむさぼるように読んでいる姿も、あながちありえない

光景ではありません!

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因縁と先例19【信長は鉄砲を撃ちまくったか?】

2007-11-27 21:58:09 | 因縁と先例
「織田信長は鉄砲の性能を重視し、戦国時代の軍の

進め方を飛躍的に進歩させた」ということになって

いますが、本当にそうでしょうか?


永禄元年(1558)7月、信長は岩倉城の伊勢守織田家

(信賢)を攻めるため浮野に陣を構えます。そのとき

の話、信長方橋本一巴(鉄炮)と岩倉勢林弥七郎(弓)

の一騎打ちの場面が出てきます。林はあいか(?)の

4寸の矢じりの矢を番え、橋本は二つだまで鉄炮を放ち

ます。もし1543年に、教科書どおり鉄炮伝来している

ならば、15年で『二つだま』による攻撃まで開発された

ことになり、武器の工夫開発はすごい勢いで進んだこと

になります。ちなみに、この『二つだま』というのは、

当時の鉄炮撃ちたちが、「鉄炮はすぐかやくを詰める

部分が加熱するため、連発できない」と熟知して開発

した方法と思われます。


また逆に従来の武器『弓矢』も、『4寸のやじり』と

いうと『12cmのやじり』ということになりますから、

小さな包丁が飛んでいるようなすごい武器に変化して

います。


つぎに諸書から鉄砲に関わる記述を羅列してみます。

*1543年 鉄砲伝来

*1544年 足利12代将軍義晴が流浪先の近江国

 国友村の鍛冶に種子島銃の製造を命じ新造の銃二挺

 を献上させる

*1552年 信長が斎藤道三と面会するときに「弓・鉄炮

 500挺」の記事あり

*1554年 近江朽木にいた将軍足利義輝に大友宗麟

 が「南蛮鉄放」を献上

*1554年 信長村木取手攻めで、実戦で初めて鉄炮

 を撃つ

*1554年 薩摩岩剣城攻めで、日本で初めて(おそらく

 世界ではじめて)鉄砲隊による攻撃が行なわれる

*1556年ごろ 信長が鉄炮の稽古をしていると尾張の

 僧天沢が武田信玄に語る

*1556年 斎藤道三救援が失敗し退却するとき信長

 が鉄炮を打つと敵が近づいてこず退却できたとある

*1556年 山科言継、駿河で義元から鉄炮で撃った

 鳥を送られる

*1558年 浮野の合戦での林弥七郎の弓と橋本一巴

 の鉄炮の一騎打ち

*1559年 大友宗麟、将軍義輝に鉄炮を進上する→

 うち一挺は上洛した長尾景虎に下賜される

*1559年 信長岩倉攻めで2~3ヶ月火矢・鉄炮を撃ち

 こむ。これがおそらく信長が集団で鉄炮を使った最初

 の例

*1560年 将軍足利義輝に大友宗麟が「石火矢」と

 「種子島筒」を献上

*1560年 桶狭間では、信長軍には鉄炮の記載がなく、

 今川軍のほうに鉄炮の記載がある


その後の信長のいくさでは全く鉄炮の記述が見られず、

1569年の伊勢平定戦で「鉄炮衆」の語が初めて出て

きます。若者の頃練習していたわりには、戦略的に

鉄砲を使用するまでにかなり時間がかかっていると

いうことです。

【備考】上記の鉄砲に関する記述は

①角川ソフィア 信長公記

②学研歴史群像シリーズ⑫ 戦国九州軍記

③鈴木眞哉/洋泉社 鉄砲と日本人

から引用しました

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因縁と先例16【織田家の宗教と朝家との関係】

2007-10-29 21:01:45 | 因縁と先例
信長公記の中から

*巻四 叡山御退治の事→対天台宗の戦い

*巻七 河内長嶋一篇に仰付けらるゝの事→対一向宗

 (浄土真宗)の戦い

*巻十二 法花・浄土宗論の事→法華宗(日蓮宗)と

 浄土宗の宗論

などの記事を抜き出して、「信長は日本の宗教を弾圧

しようとした」はては「信長は天皇を含め全ての宗教

権威の上に立とうとした」などと煽る先生が多いですが、

ちょっと待ってください。


信長の先祖からの菩提寺を見てみると、

①織田信秀の菩提寺「万松寺」は禅宗(曹洞宗)

②平手政秀の菩提寺「政秀寺」は禅宗(臨済宗)

③織田信長が安土城内に築いた惣見寺は禅宗(臨済宗)

④織田信忠の菩提寺「妙心寺」は禅宗(臨済宗)

⑤織田信行が父信秀の菩提寺として建立した「桃巌寺」

 は禅宗(曹洞宗)

ということで、どうみても「基本的に織田家は敬虔な

禅宗信者」です。例えば同じ天台宗でも叡山は攻撃

しましたが、宇治平等院は攻撃していないなど、

「信長は是々非々で判断していたもの」と考えます。


次に織田信秀の代からの朝家とのつながりを見ると、

*天文二年(1533)

 織田三郎信秀、勝幡城改築。都から飛鳥井雅綱・

 山科言継、その他武衛公の直臣・長井藤左衛門

 景弘の与力・今川竹王丸氏豊(義元の弟)とその

 重臣らが招かれる

*天文九年(1540)

 織田信秀、伊勢神宮遷宮(下宮)を援助。七百貫文

 拠出

*天文十年(1541)

 織田信秀、前年1540年の伊勢神宮遷宮(下宮)の

 援助が評価され「三河守」に叙せられる

*天文十二年(1543)

 織田信秀、内裏修理に4000貫文拠出

*天文十三年(1544)

 後奈良天皇、勅使を織田信秀に遣わし、天文12年

 (1543)の内裏修理への献金を嘉賞

*永禄七年(1564)

 正親町天皇、御蔵職の立入宗継を清洲に遣わし、

 信長に御料所の回復・御所の修理などを命ずる

*永禄十二年(1569)

 信長、内裏の修復を日乗上人・村井貞勝に指示。

 及びこの年内裏修復開始

となっており、どうみても「織田家は代々主上を敬い、

朝廷その他に資金援助をしてきたこと」は紛れも無い

事実です。


以前別の記事にも書きましたが、幕末鳥羽伏見の戦い

では朝廷の召しにより織田信雄の後胤が御所の守備に

当たっています。「后は藤原家から娶る」という原則

を1000年近く守るほど先例を極めて重んじる朝家が

御所の守備役に織田家を選ぶということは、幕末以前

に織田家と朝家との間に何の意趣もなかったという

ことの例証となります。まとめると、「敬虔な禅宗

信者である織田家の信長が、主上を敬い朝廷その他

に資金援助をしてきた。その後胤は幕末御所の警備

に召しだされた」となります。


ということは、金銭的・表面的には織田家と朝家の間

に問題はないため、信長が何か「金では償えない朝家

への無作法、朝家に理解不能の行動、あるいは触れて

はいけない朝家の秘密への接近」をした可能性があり

ます。それはなにか・・・わかればいいのですが・・

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因縁と先例15【信長の『火起請』と頼朝の『手水(ちょうず)』】

2007-10-24 20:25:24 | 因縁と先例
『火起請』というのは灼熱した鉄を手に取らせ、

「嘘をついているかどうか」神前で判定することです。


信長公記首巻第二十八「火起請御取り候事」に出て

くるエピソード。ある時信長の関係者同士でトラブル

が発生します。

*尾張の豪族織田造酒正信房(さけのかみのぶふさ)

 の家来甚兵衛 ※信房は菅屋長頼の父

*信長の乳兄弟(ちきょうだい)池田勝三郎恒興の

 被官左介

の二人、ともに信長の関係者というややこしいもめごと

が発生します。山王社の社前で『火起請』ということ

になり、左介が真っ赤に焼けた手斧を取り落とし、

恒興方にかくまわれたところに丁度御鷹野帰りの信長

が登場します。信長は左介が取り落としたのと同じだけ

手斧を焼かせ、「自分が手に取れれば左介を成敗する

ことになる」と宣言してから手にとって三歩歩いて棚に

置いたといいます。左介は信長の宣言通り成敗されます。

初めてこれを読んだときは「すごいもんだ!」と思い

ましたが、よくよく考えるとありえない話で、おそらく

鷹狩りのときに使った『皮の手袋』をそのままはめて

『火起請』を行なったのではと想像しています。この章

は「信長が焼けた鉄を手に取った」ということよりも、

「信長の裁きは身内も何も関係なく公正である」という

点を表わそうとしたものと思われます。


同じような場面が源平盛衰記にもでてきます。源平盛衰記

巻四十六、源頼朝が西国の木曽義仲の討手を決めるとき、

蒲冠者(範頼)・小野冠者(朝信)・九郎冠者(義経)の

3人を呼び、提(ひさげ)の弦を焼いて「手水(ちょうず)

をかけてほしい」と告げて様子を見ます。蒲冠者は手を

焼いて「あっ」と叫んで退き、小野冠者も「手が熱い」と

いって退きますが、九郎冠者は顔色も変えず声も出さず

始めから終わりまで頼朝に手水をかけました。頼朝はその

後、「義経を『これぞ今度の大将』と思い木曽義仲を討伐

に向かわせ、確かに征伐し天下を鎮めたのは神妙であるが、

今は増長しているように見える」と感想を述べています。


簡単に言えば、「突出した実績を上げても命じたとおりの

やり方で無いと認めない」という、現代でもありがちな

事例です。

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因縁と先例14【信長の『朱武者(あかむしゃ)』と平家の『赤旗』】

2007-10-22 15:07:22 | 因縁と先例
本姓「藤原氏」の織田信長は平姓「上総介」を

名乗りますが、信長公記の中でも「信長-平家

-赤旗」の連関を補強する記述が出てきます。


信長公記首巻第七「上総介殿形儀の事」で、

「~悉く朱武者(あかむしゃ)に仰付けられ~」

とあり、赤い装備の武者軍団のことが記述されて

います。


源平盛衰記では、

 八葉大臣の「禿童(かむろわらはべ)」

 清盛の「三百人の禿童」

 王莽の「赤童(しゃくどう)」

という記述があります。


平家の「赤旗」からさらにさかのぼると、(※)

 天武天皇(大海人皇子)「衣につけた『赤色の布切』」

 漢の高祖

という先例まで行き着きます。


【備考】※印の部分は「新人物往来社 歴史読本セレクト

日本秘史シリーズ②秘史!天皇家の系譜」の中の「宿命

の対決 大海人皇子VS大友王子」の章を参照しました

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