かの内田樹先生は「師弟モノ」に弱いそうですが、私の場合は「父子モノ」でしょうか。それも現実の交流よりも、時空を超えた物語に強く惹かれます。タイムマシンを絡めた小説では、浅田次郎の「地下鉄に乗って」や重松清の「流星ワゴン」が有名ですが、今日読了した池井戸潤の「BT’63」もなかなか趣の深い作品です。
私がいつも日経新聞で最初に読むのは「私の履歴書」、週刊文春の場合は「家の履歴書」。人や物の来歴、成り立ちといったルーツが好きなんです。当代きってのノンフィクションライターである佐野眞一は、人物評伝を書くときに少なくとも2代さかのぼって取材するといいますが、これは非常に首肯できるところです。本人のパーソナリティーを検証するにはDNAを探り、その人間がどのように形成されてきたかを歴史の連続性の中で見ていく必要があるわけです。
先日、父親の小・中・高の同級生にして高名なエッセイストの方とお会いする機会があり、去り際に一冊の著書をいただきました。文庫化されておらず、既に絶版となっている本なのでありがたく頂戴して読んだのですが、そのエッセイ集には、少年時代の父親の話がちょくちょく出てくるのです。悪ガキ仲間だったその方と父親のエピソードは、結構「へえー」と思うものがあり、しばし読み耽ってしまったのです。
「文芸春秋」の最新号にも、ちょうど日経で「私の履歴書」の担当を長く務めた方の寄稿が載っていますが、なるほどなあと思ったのは、この欄の登場者はすべからく各界で功成り名とげた方なのですが、共通点があるというのです。それは「母を思う気持ち」だそうです。多くの人が深い思いをこめて語るのは母であり、父親についてはさっと数行で済ませても、母については、やさしく励まされたこと、涙と共に叱られたこと、苦労や心配をかけたことなどを具体的なエピソードとして触れる人が実に多いんだそうです。昔の母親は子沢山で、家事労働の負荷もきつく、とりわけ戦中・戦後は大変な苦労をしたからだろうと筆者は分析しているのですが、それだけではないと思います。今も昔も、母と子はコミュニケーションの量や会話の機会が父とのそれを上回っているのです。だから、来し方振り返った時には、どうしても母親との場面が甦ってくる。
でも、自分がどこから来たのか、自分が何者なのかという哲学的な思索になったときは、父親の存在が大きくなってきます。でも同性の親子はちょっと距離があり、稀薄な関係にあるのが一般的ですから、自分の父親がどういう人物であったかを知るには、「あなたのお父さんはこういう人だったんだよ」という第三者からの証言に頼るしかない面があります。
池井戸潤の大作「BT’63」は、心の病いのために職も妻も失った主人公が、静養する実家で、ひょんなことから父の或る遺品を身につけた瞬間、自分が生まれる前の時代にタイムスリップして、若き日の父親に降りかかる様々な事件を体験することになるというストーリーです。鉄鋼会社の経理マンとして仕事一筋の人生を送ったかに思われた無骨で寡黙な父の前史には、実は凄まじいほどにドラマティックな出来事があり、その重さ故に、過去を語ることなく黙していたのではなかったかということが、徐々にわかってきます。人に歴史あり。父のルーツを辿る旅は、自分探しの旅であり、主人公の再生の物語でもあります。
「BT21」には血塗られ呪われた過去を持ちますが、奇跡的に現代に生き残った因縁のボンネットトラックを手に入れた主人公が、それに乗って疾走する場面は感動的です。若き日の父の情熱に押されるようにして、主人公は「自分」を取り戻していくのです。40年の時を超えて、父と子がつながった瞬間でした。
池井戸潤は「空飛ぶタイヤ」が、先の直木賞最終選考で惜しくも落選してしまいましたが、この作品も、銀行・警察・運送会社を軸に展開していくようです。三菱銀行出身で銀行ミステリーの俊英と称される著者は、前職でもしかしたら運送会社の審査などにコミットしていたのかもしれません。
今後も注目の作家といえるでしょう。
私がいつも日経新聞で最初に読むのは「私の履歴書」、週刊文春の場合は「家の履歴書」。人や物の来歴、成り立ちといったルーツが好きなんです。当代きってのノンフィクションライターである佐野眞一は、人物評伝を書くときに少なくとも2代さかのぼって取材するといいますが、これは非常に首肯できるところです。本人のパーソナリティーを検証するにはDNAを探り、その人間がどのように形成されてきたかを歴史の連続性の中で見ていく必要があるわけです。
先日、父親の小・中・高の同級生にして高名なエッセイストの方とお会いする機会があり、去り際に一冊の著書をいただきました。文庫化されておらず、既に絶版となっている本なのでありがたく頂戴して読んだのですが、そのエッセイ集には、少年時代の父親の話がちょくちょく出てくるのです。悪ガキ仲間だったその方と父親のエピソードは、結構「へえー」と思うものがあり、しばし読み耽ってしまったのです。
「文芸春秋」の最新号にも、ちょうど日経で「私の履歴書」の担当を長く務めた方の寄稿が載っていますが、なるほどなあと思ったのは、この欄の登場者はすべからく各界で功成り名とげた方なのですが、共通点があるというのです。それは「母を思う気持ち」だそうです。多くの人が深い思いをこめて語るのは母であり、父親についてはさっと数行で済ませても、母については、やさしく励まされたこと、涙と共に叱られたこと、苦労や心配をかけたことなどを具体的なエピソードとして触れる人が実に多いんだそうです。昔の母親は子沢山で、家事労働の負荷もきつく、とりわけ戦中・戦後は大変な苦労をしたからだろうと筆者は分析しているのですが、それだけではないと思います。今も昔も、母と子はコミュニケーションの量や会話の機会が父とのそれを上回っているのです。だから、来し方振り返った時には、どうしても母親との場面が甦ってくる。
でも、自分がどこから来たのか、自分が何者なのかという哲学的な思索になったときは、父親の存在が大きくなってきます。でも同性の親子はちょっと距離があり、稀薄な関係にあるのが一般的ですから、自分の父親がどういう人物であったかを知るには、「あなたのお父さんはこういう人だったんだよ」という第三者からの証言に頼るしかない面があります。
池井戸潤の大作「BT’63」は、心の病いのために職も妻も失った主人公が、静養する実家で、ひょんなことから父の或る遺品を身につけた瞬間、自分が生まれる前の時代にタイムスリップして、若き日の父親に降りかかる様々な事件を体験することになるというストーリーです。鉄鋼会社の経理マンとして仕事一筋の人生を送ったかに思われた無骨で寡黙な父の前史には、実は凄まじいほどにドラマティックな出来事があり、その重さ故に、過去を語ることなく黙していたのではなかったかということが、徐々にわかってきます。人に歴史あり。父のルーツを辿る旅は、自分探しの旅であり、主人公の再生の物語でもあります。
「BT21」には血塗られ呪われた過去を持ちますが、奇跡的に現代に生き残った因縁のボンネットトラックを手に入れた主人公が、それに乗って疾走する場面は感動的です。若き日の父の情熱に押されるようにして、主人公は「自分」を取り戻していくのです。40年の時を超えて、父と子がつながった瞬間でした。
池井戸潤は「空飛ぶタイヤ」が、先の直木賞最終選考で惜しくも落選してしまいましたが、この作品も、銀行・警察・運送会社を軸に展開していくようです。三菱銀行出身で銀行ミステリーの俊英と称される著者は、前職でもしかしたら運送会社の審査などにコミットしていたのかもしれません。
今後も注目の作家といえるでしょう。
あれだけ世界的に有名な人なのに、父親の存在はどこに・・・。といった感じですね。
私は母親ですが、心理テストのエゴグラムによると、母性よりも父性のほうが強いのです。
我が夫はといえば、父性もまあまあだけど、私よりはるかに母性の数値が高い結果でした。
ということは、うちの子供が高名な人物になった時に回顧録に出てくるのは、父親のことばかり、ということなのか・・・・。
がっくり。毎日ご飯作ってるのになあ。
いや、その前にうちの子が高名になることはないだろうから、杞憂に終わるって。かえるの子はかえる。
池井戸さんて、初めて知りました。
面白そうなので是非読んでみたいと思います。
我が家も父母逆転というか、母親が畏怖されて、私がフォローするという役回りになっています。でも子ども達にとって、圧倒的に存在感あるのは、やはり母親でしょうね。