思ったこと

思ったことを書きます

劇のように

2014-07-24 | 日記
またまた福田恆存つながりで、「人間・この劇的なるもの」を拝読しました。
こちらは代表作の一つで、ページ数は少ないですが、中身はかなり濃く、ためになる事が多かったです。

人間の死生観を劇に投じ、主にシェークスピアの劇についての考察が書かれています。
自分はあまり演劇を見たことがないので、最初はあまりピンと来なかったんですが、
劇についての福田さんの論を読んでいくうちに、劇というものの美しさのようなものが伝わってきました。
そして人はその人生の中で、演劇の舞台で生きるような「必然性」を欲している、という事も理解できました。
元々「自由」というのに懐疑的だったので余計と浸透が早かったかと。というか多分誰しも「自由」が心地いいのは煩わしいことや嫌なことから「解放されてる」と感じている時だけで、その自由を手にしたあとは、またその人なりの目標や目的という、必然のようなものを求め始めるだろうと思うので、当たり前ではあるのでしょうけど。そしてまたその中でしがらみや煩わしさなどのうまくいかない内外環境に悩まされ、そこから「解放されたい自由」を求める事をくり返す。。多分、自由や、自分で決めた目的・目標だけを支えにして生きる事が間違っているというか、そんなものでは弱い、という事のように感じます。

この本を読んで、「形式」の大事さや美しさを強く感じました。
例えは悪いかもしれませんが、スポーツ等の試合の場合も、'この時間からこの時間まで試合をします'という「形式」がまず最も大事なんだと思います。その舞台の中で選手は迷うことなく自分のプレーができる。観客も迷うことなく応援に励める。舞台上の選手の中に「プレーをしない」という選択肢は起こりえない。もちろん個人の自由は無制限だから「プレーをやめて帰る」という選択肢だってその人個人の人生の中では存在はする。でもそれを認識したり認めた時点で、その選手にとって試合の重みはぐんと落ち、試合なんてどうでもいいものに成り下がる。観客についても然り。こういう無制限の個人の自由というもので得られる無制限の選択肢は、人生の重みや充実感を希薄にし、その分生きる活力も削り取るものなんだろうと。
また、こういう「何を選んでも良いはず」という無限の選択肢を信じすぎる事で、実際には色々なしがらみ(他人、環境、金銭、時間、自分の性格・感情)によってそんなに選べない、という現実に苦悩する事にもなりますね。「俺は野球がしたいのにサッカーをしなくてはならないので不幸だ」なんて考えてるサッカー選手はいないでしょうけど、自由による選択肢は、そういう不幸感も生みかねないかと。
という事で突き詰めると、演劇のように始まりから終わりまで、為すべきことが決まった舞台に没頭するという事は究極の必然性であり、その必然に全てをゆだねた演者や観客は、何も迷うことなく伸びやかに自分の役割を全うできる、というのも納得できます。
また、自由による個人の行動動機の弱さや都合よく行かない現実への不満やそういう現実への妥協感によって空虚になった人生の中に、そういう劇のような必然性を求める、という事も理解できます。

また、そういう必然性は個人の努力では得られず、自分を超えたもっと大きいものの強制力によってしか成り立たないという事も確かだと思いまいます。どれだけ意思が強くて、自分で自分を強制的に張りを持たせて奮い立たせようとしても、どこかで「こんな誰も見てない事に意味があるのか」という自分が現れるし、結果的にそうやって経た経験で人に評価してもらうんだ、という目的がありそれに期待する事がすでに、自分1人で生きる事には意味がないという価値観を自分が持っていることの証明にもなりますし。そういった「個人(または全体の中での個人)」という事から脱却して、全体の中に没頭する事が必然を感じる道でもあるのでしょう。漠然とでも、自分を超えた全体という大きなものを信じる事が大事なのかも。
まあ試合をしている選手も、仕事をしている従業員も、同じような事で、全体を信じて委ねているからこそ試合や仕事に没頭しているのでしょうし。ある意味、個人というもの諦め、とも言えるかもしれません。その先に「必然性」という欲しかったものが得られる、という真理でもあるのかと。

またこの本ではそういう必然の形式は「終わり」があってはじめて完成する、とも書かれています。
終わらない運動会ほど締りの無いものはないですしねwしっかりと閉会すからこそ、中身そのものが一つの作品として輝くのかと。
人生でいうと、終わりとは「死」を意味しますが、文中で

「人々はヒューマニズムの浅薄な生の讃歌のうちに、そのこと(「私たちは日々、死を欲している。もちろん、新しくよみがえるために。」ということ)を忘れているのだ。生が、そして個人が、死や仮死(睡眠)を必要としないほど強いものと錯覚しているのだ。そしてその錯覚が、実は私たちの生を弱めていることに気づかずにいる。」

と語られていまして、
この必然性という全体があったとして、それが終わる時に自分個人の活動も終わる(死ぬ)ことを欲する気持ちで生きるからこそ、力強く生きる事ができる、という事かなと思いました。
全体が終わったのに、個人だけ生き残ると、また個人の空虚が続くだけ、という事で、逆にそういう「終わるべき時に終わる」という覚悟があるほどに全体による必然性に没頭する事で、個人が真に求めていた人生も成立する、という事なんだろうと思いました。
なかなか実践には難しいものもありますが、頷けるものも大きいです。


とまあ長々と拙い(そこそこ的外れで浅くしか理解してないであろう)感想を書きましたが、
それよりもまず「ハムレット」すごい読みたい、って思ったのが正直な第一感想ですw