思ったこと

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打算なしに接すること

2014-07-19 | 日記
今、福田恆存の著作を浜崎洋介さんがまとめられた「保守とは何か」を読んでおります。

まだ半分と少しまでしか読んでおりませんが、いやー最初の方(西洋の宗教革命の所らへん)は難しかったなあ、宗教的な感覚は中々実感わかないからかな。もう一回読見直さないと。

途中まで読んで、印象に残った一文を

「日本の歴史、あるいはその固有の伝統文化が、現代に対して、現代の意識から算定しえない可能性を寄与しうるのは、私たちがなんらの目的意識なしにそれに接するときをおいて他にありません。現代の自己証明のための大よその日本文化研究は、伝統にも現代にもなんの役にも立ちますまい」

こちらは前段がやや分かりにくいですが、「日本の歴史や伝統文化が現代の私たちに本当の意味で光をもたらすのは」という感じでいいかなと。「光をもたらす」ってちょっと打算的で不適切な表現かもしれませんが。
要は、過去の歴史や伝統文化を「現代の価値観」で評価や堪能した所で、何の意味も無い、という事ですね。
そういう事をする根底には「今現在が全て」という現代人の価値観があり、それは結局「過去である歴史や伝統文化」と「自分」を切り離して見ている事になり、その姿勢自体が「歴史や伝統文化」にとっても迷惑な話であり、「自分」にとってもただの自己満足で意味のない事だと。

仮に現代の価値観で過去の歴史を批判した時(「江戸の身分制度なんて差別だ無茶苦茶だ」とか)、実際に江戸を生きた人々がそれをどのように感じていたかは、その時代の常識なり状況なり文化伝統風俗なりの背景に心底浸ってみないとなんとも分からないものですし、それを現代の価値観で頭ごなしに否定されたら歴史からしたら迷惑な話です。
また、日本の伝統文化を現代の価値観で良いものだ・美しいと評価しても、結局それは評価対象の伝統文化は、現代の現実の自分から切り離された鑑賞物でしかなく、それが自分の中に身近に生活レベルで息づいておらず、良いものだといいつつも結局お金や目先の生活や欲望とを測りにかけた時、わりとあっさり切り捨ててしまうものに過ぎなく、なのでそんなものは「自分」にとってなんら役にもたたないレベルのものでしかないと。
さらにまた、日本の歴史や文化の「良いところを今に活かそう」っていう考えも、結局「良い」という基準が「現代の今の基準」である以上、現代という価値観から抜け切れず、その考えの姿勢自体が現代と過去を切り離したものの見方であるので、結果は同じ事で、ただの現代の肉付けに過ぎないのでしょう。

という事で、これらの日本の歴史や伝統文化が本当の意味で現代の私たちの中に息づく為には、「ただそれらに浸る」しかないという事になります。といっても過去にタイムスリップして江戸時代とかを生きる事もできないですし(しかも現代人がタイムスリップして現代目線で生きても意味ないですしね)、そこはもう無心で過去の歴史や伝統文化の作品や文献を読んだりしながら、当時の背景を感じながらその中身に浸っていくしかないんだろうなと思います。
そういう姿勢がいずれ過去と現代との繋がりを自分の中で生み、確かな生き方を見いだせるのかもしれません。

さしたる方向性も足場もなく、それを確かめたりする姿勢もなく、その場の流れや気運に振り回されながら乗り遅れないよう・最低限生き損じることのないようということだけを押さえてなんとか進んでる苦しい現代人にとって、「そんな事言っても今この場この時の自分や周囲や環境が全てであり現実だもん」という姿勢自体を見直せる、大きなヒントを示してるんじゃないかと思えました。