マル鉄回顧録

鉄道写真・鉄道模型を始め、バスやトラックなど、乗り物中心のブログです。昔の写真はマル鉄鉄道写真館で再編集しています。

ローカルな風景 第10回 (同和鉱業小坂鉄道)

2007-03-30 01:30:06 | ローカルな風景
鉄道コレクションの報告だけでは何なので、1枚ネタですがお届けいたします。

以前の掲載いたしましたが、運転免許を取って初めて東北地方へ遠征したとき、日本海縦貫(羽越・奥羽線)や南部縦貫鉄道の写真を撮ってきたのですが、行程の途中で「同和鉱業小坂鉄道」の線路の近くを走っていたので、列車の来るタイミングを見て、来そうだったので待っていた次第です。

同鉄道が貨物運用中心であることやどのような気動車・機関車が走っているのかも知っていましたし、当初は予定もしていなかったので、何となく撮った形になってしまいました。


昭和61年9月9日撮影

この旅行の時の撮影地の記録が見つかり、かなりの部分で撮影地が判明したのですが、同和鉱業小坂鉄道だけはメモがなく、結局どのあたりで撮ったのか、判明しませんでした。

皆さんご存知のとおり、同鉄道は細々と旅客営業を行っておりましたが、平成元年に小坂製錬(株)となり、平成6年9月30日をもって旅客営業が廃止されてしまいました。その後同鉄道には訪れておりませんので、この1枚が最初で最後のカットとなりました。
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ローカルな風景 第9回 (天北線:急行「天北」)

2007-03-29 00:23:19 | ローカルな風景
こんばんわ。

このところチョットご無沙汰の「ローカルな風景」シリーズをお届けいたします。
第9回は、今は廃止となってしまった、「天北線」です。

「天北線」は、宗谷本線「音威子府」からオホーツク海側にある「浜頓別」を経由して、宗谷本線の「南稚内」に再び合流する、北海道最北の路線の1つでした。
同線には、急行「天北」という優等列車がかなり古くから定期運転されていましたが、私が乗った普通列車での様子からすれば、長大な路線であるにも拘らず「ローカル」としか表現のしようのない路線でした。
同線は、ただローカルな路線というだけではなく、宗谷本線か天北線がどちらか不通になった場合でも、お互いに迂回ルートとして稚内と名寄・旭川・札幌のアクセスを確保できるという、重要な役割を持っていました。現実、私が昭和55年3月に初めて稚内に行ったとき、猛吹雪で丸24時間以上足止めを喰いましたが、この日(というか翌日なんですけど)の初列車として動いたのが急行「天北」で、宗谷本線経由として運転されました。おそらくこの逆パターンで、急行「宗谷」を天北線経由で運転したこともあったのだろうと思います。

私が同線に乗ったのは、昭和56年に興浜北線に乗るために一部区間に乗ったときと、ここにある写真を撮るために訪れただけの2回のみでした。

では、写真をご覧ください。


昭和56年3月14日 天北線 浜頓別駅にて
写真のキハ22は天北線ではなく、興浜北線の運用車輌です。この頃は既にキハ40系が導入されていましたが、標準色や首都圏色のキハ22などもまだまだ見ることができました。


昭和63年6月25日 天北線 曲淵駅にて 時間調整中のキハ22首都圏色車


昭和63年6月25日 天北線 曲淵駅を通過する上り急行「天北」
腕木式信号がローカルな雰囲気にピッタリですね。


昭和63年6月25日 天北線 小石~曲淵間を行く下り急行「天北」
この時はヘッドライトを点灯していなかったのですが、私たち(2人)の存在に気付くと、機関士さんがヘッドライトを点灯してくれました。感謝の気持ちを込め手を振ると、機関士さんも窓から手を出して応えてくれました。


昭和63年6月26日 天北線 芦野~猿払を行く上り急行「天北」
撮影2日目。この日はレンタカーで移動しました。前日の徒歩に比べれば天国です。


昭和63年6月26日 天北線 撮影地不詳
「北海道といえば牧場」というようなイメージがあったので、モーモーちゃんたちをいれてパチリ。実はココをレンタカーで走っていったら、ビックリした牛たちが怒涛の如く逃げて行ってしまい、落ち着くのを待つまで大変だったんです。モーモーちゃんたち、驚かせてゴメンネ!


この撮影の目的は、元々稚内方面の14系客車の急行運用がなくなるということで訪れたのですが、気動車化されてから以降はこの地域を訪れることはなく、結局そうしている間に「天北線」は廃止されてしまいました。
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憧れの車輌たちVol18 (三つ目のDD51)

2007-03-28 01:06:55 | 国鉄・JR機関車(ディーゼル)
皆さん、こんばんわ。

このところ仕事が忙しい上、写真のデータ調べなどで寝不足の日々が続いております。何とか楽をしながらブログを更新できればと思っているのですが、自動車による撮影が増えて以降、どの場所で撮ったかすら分からなくなってしまうことが多く、非常に苦労しております。でも、あまりにも不正確な情報を公開するわけにもいけませんので、日々調査に励んでいます。表示に不備や多少の誤りがあるかもしれませんが、どうぞ寛大に受け止めていただきますよう、お願い申し上げます。

では、憧れの車輌たちVol18として、「三つ目のDD51」をお届けいたします。

皆さんご存知だとは思いますが、北海道の自然環境は大変厳しく、特に夜間や冬季における視認性向上を目的として、標準の前部標識(ヘッドライト)に補助灯を増設する工夫が行われていました。全ての車両というわけではありませんが、古くはSLの時代から施行されており、C62を始め数々の蒸機に見られました。国鉄時代の485系1500番台や781系などにもその形態がハッキリと現れています。

DD51型にも同様に、五稜郭区に配置された同型の一部に補助等を増設したカマを見ることができました。しかし、その数は意外と少なく、710、716、741、742、そして、晩年は長岡区に配置されあまりにも有名になった745の各号機の5輌のみでした。
DD51自体は数が多く、特に珍しいわけではありません。しかも、DF50やDD54を淘汰に追い遣った敵役と思われる世代の方もいることでしょう。しかし、車体の長い凸形の洗練したスタイルは、DD13など小型機にはないカッコよさを感じました。特に重連運用やこの「三つ目」には大変魅力を感じていました。

私が興味をもってDD51の写真を撮るようになった頃には、既に800番台未満の車輌が淘汰されてしまった頃でしたので、残念ながらあまり若番車の写真は持ち合わせていません。そして、この「三つ目」もほとんどカットがありませんので、内容的には希薄かもしれませんが、どうぞご覧いただきたいと思います。


昭和63年2月13日 磐越西線 山都~喜多方間 12系カヌ座を牽くDD51745


昭和63年4月10日 磐越西線 山都~喜多方間 12系カヌ座を牽くDD51745

同機は、磐越西線のカヌ座(上沼垂区配置のお座敷車輌)専用車といえるほど限定的に運用されていました。時に50系客車を牽引したこともあったようですが、団体運用自体が非常に少ない同線では、いつでもお目にかかれるような代物ではありませんでした。12系オリジナル塗装のカヌ座も懐かしいですね。



昭和58年9月7日 函館本線 大沼公園~赤井川間 急行「ニセコ」を牽くDD51710

これは、同年に北海道のキハ82系の最後の姿を撮るために、函館本線の大沼から赤井川まで徒歩で撮影してきたときのものです。この時は「三つ目」というのを気にしていなかったのですが、745号機が有名になってきた頃、気になって写真を見ていたら「写っていたのを見つけた」という感じで、非常にラッキーだったと思います。この時は、撮影の全工程が雨という悲惨な状況でしたので、惜しむらくはコントラストの非常に弱い、ねむたい写真になってしまったのが残念でした。

745号機の廃車によりこの「三つ目」は名実ともに姿を消してしまったわけですが、残るDD51には末永く活躍して欲しいと願っています。
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貨物機の牽く客車列車(EF15+サロンエクスプレス)

2007-03-27 11:50:27 | 国鉄・JR機関車(直流型)
皆さん、こんばんわ。

今日は昨日に引き続き、「貨物機の牽く客車列車」をお届けします。

総数202輌が製造され、東海道や近畿、首都圏を闊歩していたEF15ですが、昭和60年には全国からほぼ姿を消してしまい、高崎第2機関区に165号と200号の2輌が残るのみとなっていました。両機は、両毛線や吾妻線専用のような運用となってなっていましたが、両線とも既に貨物営業はなくなっており、工臨が主な仕業となっていました。

そんな中、EF15にスポットライトの当たる時が巡ってきました。団体のサロンエクスプレスの入線にあたり、EF15の仕業が組まれたのです。私の記憶では、この時が初めての組み合わせだったと思います。

では、そのときの写真をどうぞ。

撮影は、すべて昭和60年2月9日です。



吾妻線 長野原~川原湯間にて (2枚とも:駅名は当時標記)


吾妻線 小野上~祖母島間にて

この日はあいにく、雨又はみぞれのようなカメラマンにとって一番うっとうしい天気でした。どうせだったら雪のほうが良かったのですが・・・。それでも、このイベント並みの組み合わせは、ファンを集めるには十分すぎるシチュエーションでした。しかも、もう1台の僚機である200号機も工臨として運転されたため、天気の不良にも拘らず、かなりの人手がありました。

これはオマケです。

吾妻線 小野上~祖母島間にて EF15200の牽く工臨。
これは、追っかけで追いつき、サロンエクスプレスを待っていたら、偶然来たので撮りました。(運用があるとは知りませんでした。)

※実物の写真はもう少し明るいのですが、スキャニングの都合で暗くなってしまいすみません。


EF15が牽く客車列車としては、隅田川~汐留間の荷物列車牽引が有名でしたが、EF16改造前の時代の補機や紀勢線の荷物+貨物の混合などの特殊用途を除いては、まず客車を牽く機会のなかったカマでした。この引退間際になってのサロン牽引の運用は、彼らにとっても良き思い出となったことでしょう。そして、両機引退後は、電化区間にも拘らず、ディーゼル機関車であるDD51が務めるようになりました。

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貨物機の牽く客車列車(西武鉄道さよならE851)

2007-03-26 01:20:39 | 列車・車輌カタログ(私鉄)
こんばんわ。

今日も過去の写真を整理していて、大変遅い時間になってしまいました。明日の仕事が心配です。

今日は、整理してあるネタから「さよならE851」をお届けいたします。

西武のE851は、民鉄史上最強の機関車であることは皆さんご存知だと思います。西武鉄道では、セメントや石灰石など重量貨物を中心に多くの貨物列車が走っておりましたが、トラックへの切替による貨物需要の低迷もあり、輸送量は年々減少し、そして全面廃止となってしまいました。

E851の廃止にあたり、貨物機であった同機に最後の花道として企画されたのが、この「さよならE851」のイベントでした。JRから12系客車を借り入れ、団体扱いとして客車を牽かせるという、他の私鉄ではまずお目にかかれない大胆な手法により行われました。イベントを手がけた社員たちも相当な苦労があったようです。(と、私の友人の社員が行っておりました。)


平成8年5月26日 西武秩父線 東吾野~吾野間にて


平成8年5月26日 西武秩父線 吾野駅発車

本イベントは、客車の借り入れに加えて全工程を重連による運転、そして横瀬駅構内で様々な車輌の展示、即売会が行われる等、西武鉄道ファンにとっては最高のイベントだったでしょう。イベント実施にあたっての、社員さんたちの苦労が偲ばれます。
各民鉄における機関車自体が減少し、またJRの客車保有数も減少している状況ですので、今後このようなイベントが行われることはまず無いのではと思われます。そういった意味で、この「さよならE851」のイベントは、鉄道史に残る貴重なイベントとなったのではないでしょうか。
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