たいへ~ん。寝坊した!
記事は帰ってから書きます。
ということで、大変失礼いたしました。昨夜は急な眠気に襲われてしまい、朝まで目が覚めませんでした。
さて、過去ログ『101系・103系 (赤羽線)』で赤羽線については総括したことになっているのですが、実は私が写真を始めた頃に撮ったものが1枚だけあるんです。
昭和48年 赤羽線 板橋駅にて
これがその写真で、確か、カメラ(サクラパック)を買ってから3本目くらいのフィルムだと思います。1本目と2本目は捨ててしまったようなので、現存する私が撮った写真のネガとしては最古のものになります。(←大袈裟な!)
小学3年の時、結婚して家を出た叔母が高島平団地に住んでおり、じいさんと兄と私の3人で三田線への乗換の際、板橋駅で撮ったものです。
赤羽線の101系は、山手線がオール103系化された後もしばらく残っており、過去ログのようにその後も撮影したことがありましたが、如何せんあまり電車に乗って出掛ける頻度がなかった年代ですので、やはり枚数としては少なかったようです。
板橋駅も貨物扱いが無くなって、周辺も変貌してしまった箇所が多く見られますが、ホーム脇の側線は今でも若干残っており、ホームに関しては、現在もこの写真とあまり変わっていないような気がします。
お隣の十条駅も然り、『赤羽線』時代のまま変わりません。
今は『埼京線』などと呼ばれてしまっていますが、池袋~赤羽間は、今でも『赤羽線』なんです。
その昔は『山手線』だったって知ってました?
記事は帰ってから書きます。
ということで、大変失礼いたしました。昨夜は急な眠気に襲われてしまい、朝まで目が覚めませんでした。
さて、過去ログ『101系・103系 (赤羽線)』で赤羽線については総括したことになっているのですが、実は私が写真を始めた頃に撮ったものが1枚だけあるんです。
昭和48年 赤羽線 板橋駅にて
これがその写真で、確か、カメラ(サクラパック)を買ってから3本目くらいのフィルムだと思います。1本目と2本目は捨ててしまったようなので、現存する私が撮った写真のネガとしては最古のものになります。(←大袈裟な!)
小学3年の時、結婚して家を出た叔母が高島平団地に住んでおり、じいさんと兄と私の3人で三田線への乗換の際、板橋駅で撮ったものです。
赤羽線の101系は、山手線がオール103系化された後もしばらく残っており、過去ログのようにその後も撮影したことがありましたが、如何せんあまり電車に乗って出掛ける頻度がなかった年代ですので、やはり枚数としては少なかったようです。
板橋駅も貨物扱いが無くなって、周辺も変貌してしまった箇所が多く見られますが、ホーム脇の側線は今でも若干残っており、ホームに関しては、現在もこの写真とあまり変わっていないような気がします。
お隣の十条駅も然り、『赤羽線』時代のまま変わりません。
今は『埼京線』などと呼ばれてしまっていますが、池袋~赤羽間は、今でも『赤羽線』なんです。
その昔は『山手線』だったって知ってました?
知らぬこととは言え、トップへの書き込み、申し訳ありませんでした。
「あけぼの」で上京すると、大宮を過ぎた当たりで車窓をポケ~と眺めていると、線路際にカメラを構えた方を、よく見かけますね。
上野駅の櫛形ホームの先端でも見かけ、その日は81号機でした。
来月改正で、牽引機EF64に変わるそうで、EF64-0も入るとか。
キハ181つばさ様も、上手くカメラで、捕らえられることを期待しています。
頑張って下さいね。
コメントの件は別に気にしなくて良いですよ。本当は入れられないように出来ればいいんですがね。全体で同一の管理しかできないので、仕組み的に仕方が無いんです。
昨年は「あけぼの」に田端機の運用が入っていたので、今までより人出があったと思います。私も昨年は結構撮りましたからね。
今度のEF64も楽しみですが、EF81が見られなくなってしまうのは残念です。EF64の0番代はヘッドマークステーが無い筈なので、ちゃんとヘッドマークを付けてくれるか、心配です。
大宮よりから池袋・新宿へ出るさいには赤羽より池袋までこの黄色い電車に乗っていったものですが、私が記憶にあるのは幼稚園の頃に秩父へ家族と共に乗ったときーもっとも京王電車沿線にある親類宅に行くときも、武蔵野線ができるまではこの赤羽線回りで行ったそうですがーにこの101に乗ったことがあります。
電車が着くやたちまちのうちに満員となり、おぼろな私の記憶にあるのは貫通路近くに立ってたことくらいしか憶えてません。
中央・総武緩行線や南武線の101の黄色い電車とは異なり、この赤羽線の101は印象薄いけど前述の忘れられない思い出があるから、この写真をみると本当に30余年前の記憶が甦ってきます。
赤羽線のまえはたしか「山手支線」だったそうですね。
今日はこの辺にて失礼いたします。
103系の高運転台になってからはよく見かけましたが。
カナリアイエローの101系というと総武・中央緩行線のイメージですが赤羽線は6連じゃ無かったですか?
赤羽線が独立する前は山手線の赤羽支線と言って良いのか難しいのですが、元々の山手線が赤羽~新宿~品川で開通しており、環状運転を行うために後から田端~池袋間が開通しているので、本筋から言えば田端が支線になるんです。この辺は歴史を追及しないとなかなか理解できない部分でしょうね。
101系の時期は詳しく分かりませんが、103系に余剰が出るためには、中央快速の201系化、山手線の205系化あたりが軸となっていたのではないでしょうかね。過去ログのマダラ編成が走っていた頃が56年なので、201系量産の時期とリンクしているように思われます。
赤羽線は徐々に編成を延ばしていますが、この写真の頃には8連になっていましたね。昭和56年時点でも103系8連ですから、10連になったのは埼京線開業時でしょうかね。
赤羽線の101系は、私が知る限りずっとこの表示でしたね。当時の国電では珍しい表示でしたが、短い区間で折り返し運転をしていたので、いちいち方向幕を回転させるのが面倒だったのでしょう。103系が入った頃は標準で装備されていた「赤羽線」が使われていましたね。
字幕も変化がないので、面白味もなかったから撮らなかったかもしれないです。
この頃は101系・103系がどこに行っても当たり前で、茶色が気になってぜんぜん撮らなかった感じですね。でも、101系は以外に寿命が早かったような気がします。まあ、撮っておいて良かったですよ。