“ワクチンを接種してから、体調が悪くてワクチン後遺症のようになってしまって
絶望してしまって、死んでしまいたい、”
そういう書き込みを見かける。
“接種して亡くなった方の遺族が医師に「ワクチンが原因か」と尋ねると医師は黙ってしまった。
でも帰るとき、車が見えなくなるまでいつまでも頭を下げていた。”
こんなツイートを見かけた。
遺族の方の行き場のない思い、お医者さんの自分を責めるお気持ち、自分でもよくわからないうちに亡くなられた方、
どの立場の人のお気持ちも、思うと、すべてつらい。
絶望。悲しみ。自分を責める思い、あるいは国や製薬会社を責める思い。
まず、これらは全部当然だ。
まず、自分の気持ちを「ダメなんだ」、「前を向かなきゃ」などと否定すると、よけいつらくなるんだ。
だから、腰を据えて覚悟を決めて、「当たり前なんだ」ってその感情を感じ切ってあげてください。
この自分の感情との向き合い方が、今後を決めると言っても過言ではないんだ。
とりあえず、どうしたらいいかはそれからだ。
まずは感情を感じてあげることが先決だ。それをしないでアタマだけで考えても、本当の行くべき道は見えてこないんだ。
私も10年くらい前、うつで動けなくなっちゃって、そのときは絶望した。
だって自分ではどうにもならないからな。医者も薬も治せない。
トイレに行くのもしんどい、家事もろくにできない。
心も憂鬱と絶望と、湧き上がってくる過去の恨みと痛みと、もう生きててもしょうがないと思ったことがある。
でも、10年経った今、すっかり元気なのね。治んないと思ってたのに。
あのときは、うつになったらもうおいまいだという人もいた。
でも本当におしまいかどうかはわからないのね。
ワクチンもそうだ。たしかに亡くなった方、体調不良に苦しむ方はたくさんいる。
でもそれが永遠かどうかはわからないのね。
それから私もブログに書くけれど、ワクチンに関するもろもろの暴露情報には、たくさんこわいものがある。
遺伝子が変えられてしまうのではというのもある。
でも、本当にそうなるかどうかは、誰にもわからないのね。
人によって起きていることが全然ちがうしね。
公開されたファイザーの文書には副作用リストがあって1291種類も書いてあったということなんだけど、これは、その数に驚くと同時に、
人によって何が起こるのか、あるいはなにも起こらないのか、
起きても軽度で済むのか、回復するのか、
全然わからないってことも示唆している気もする。
だから絶望というのも、こういった情報を思考で処理することで、いくらでも感情をつくるから、正確かどうかはわからない。
思考が感情をつくるということなんだ。
思考が暴走していれば、無限にマイナス感情がつくられてしまう。
その感情は、単に思考が作り出したもので、本当にそうなるか、どの程度正確か、自分に当てはまるのかまでは、わかんないんだ。
わりと一面的、平面的なんだ。思考の処理とは。
(思ってる以上にポンコツなの。思考は。でもそれが希望でもあるのね)
だから、意識して、思考を止めて、感情や五感を感じるってことが、すごく大事なの。
情報社会だからね、情報の海のなかでついつい思考にとらわれていってしまうんだ。
でも、もし、その情報の中に自分の問題を解決するのに繋がりそうなら利用しよう、くらいの取り方でも全然かまわないわけだ。
それなのに、わたしたちはそこから、未来をアタマで予測して、もうだめだという結論をはじき出し、絶望してしまったりする。
でもそれは、思考が作り出した感情なのかもしれないと頭の片隅で思いつつ、
でもそう感じるのは当たり前なんだと、その感情は感じ切ってあげてほしいんだ。
私も日々いろいろ情報収集していると、やばい方向にむかっているなと感じて、絶望の気持ちになることもあるんだ。
そして自分がそんな情報を発信したところで、たかが知れているし、
街に出れば、そんなことなにも知らずにのんきな人たちばかりに見える。
それにまた絶望したりもするんだ。
でもこれもまた、思考のはじき出したもので、本当にそうかはわからないんだって気づくの。
このまま行くとヤバいだろうと思うのは、私が知り得た情報で、私のちっちゃな脳みそを駆使して分析すればそうかもしれないけど、もっと他の私からは見えない要因もいっぱいあるわけなんだ。
予想外のことが起きて、まったく違う方向へ行くなんてこともありえる。
だから未来はわかんないんだって気が付くの。
〈能動的か、受け身的か〉
自分から能動的に、感じたり、考えたり、よいと思うことをしてみたり、つまり行動したりするってことは、犠牲者意識から抜けるために大事だなって思うんだ。
でも絶望しているときは、そんな気にはとてもなれないものだ。
自分がうつだったころは、やっぱり「うつ」というくらいだから、犠牲者的な意識で、受け身の割合が多かったなと思う。
なにやってもムダなんだって気分。
情報の取り方も、不満をつのらせながらなんだけど、じゃあ具体的にそれに対して私はどうしよう?っていう発想はあまりなかった。
でも、私がえらかったのは、じっくりその「うつ」の感情と向き合ったところにあると、最近自分をほめてあげているんだ。
なんでも深掘りして研究するのが好きだから、自分のそんな精神状態もつらいんだけど、興味深くもあり、研究したくなっちゃうってのもあったのね。
するとね、「死にたいなら死んでもいいけど、死ぬのはいつでもできるから、もうちょっと待って、とりあえずできそうなことをちょっとしてみようかな」って気になったりしたの。
たぶん、「死にたいなら死んでもいいけど」っていうのがポイントで、
そんな感情を否定して、がんばらなきゃと思っていたら、そういう気持ち(できることをちょっとしてみようかなって気持ち)にはならなかったと思うんだ。
こうやってじっくり感じてOKしてあげると、ある日、すこしだけ、能動的にやってみようかな、行動してみようかなって気持ちが生まれるの。
だから自然にそうなるまでは、感じてあげる必要がある。
なにもしたくないなら、しない。休む。
休むことをOKすることもとっても大事だ。
いけないと思いながら休むか、堂々とOKして休むか。
ここも大きな違いを産む。つらいときほど、自分の感情と一致していることだ。
もしかしたら、今までちっとも自分の感情を見てあげてなくて、そういう機会を作っているのかもしれないんだ。自分の無意識が。
感じてあげることが愛だから。
自分への愛情不足から、こういう状態をつくったりもする。
病気やトラブルも、自分の心と向き合う必要から、自分自身が起こしていたりするんだ。意識の視点から見ると。
それが達成されると、治ったり、問題が解決の方向に向かったりするの。
だから深いんだ、起きていることは。頭で考えていることとは全然ちがったりする。
そうだとすると自分の感情との向き合いで、物理的なことも変わっちゃったりするわけから、希望があるわけだ。
だから、自分の苦しい気持ちを感じ切ってあげて、「とりあえずできそうなことをちょっとしてみようかな」って気持ちが自然にでてきたならば、
もう絶望の一番底からは抜けたってことなんだ。
ここで大事なのは、自然にそういう気持ちになるってことであって、ムリに「行動しなきゃ」「前向きにならなきゃ」ってやらないことだ。
わたしも、苦しい感情を否定して、見ないようにして、がんばらなきゃってやっていたら、ずっとうつ気分をかかえながら、ムリして生きることになってたと思うの。
なぜなら、感情は抑えていると、滞って、ずっと残ってしまうのね。
感情は目に見えないけれど、たしかにあって、エネルギーだから、水みたいに、きれいに循環させることがコツなんだ。それには感じてあげるってことなんだ。
マイナスや苦しい感情も、否定しないで、見てあげるんだ。
今まで見て見ぬふりをしてきたならば、最初はこわいような、苦しいような気がするんだけど、やってみると、案外大丈夫なの。
すると、すこーしずつ、感情が循環をはじめて軽くなっていくの。
すごい昔のつらかった経験が思い出されたりもするんだ。それはそのときに抑えて、感じてあげなかった感情が、残っていて出てきたからなんだ。
自分への愛情不足だったところだから、よーく感じてあげてください。
これが癒しということなんだ。
だから自分で自分を癒すことがいくらでもできるんだ。
そして「自分を愛する(感情を感じる)、OKする」ってことが、じつはすべての問題解決なんだ。
ふだん思考で理性的に生きていて感情を感じるのが苦手だったり、あまりしない人は、こういう昔の感情が残っていて、今のトラブルの原因になっていたりもするんだ。
ここが解消されてくると、すこし、自分から能動的になにかしてみようかなって気分に、自然になるんだ。
だから、まずはそういうふうに心ができているから、今は絶望していたいなら、思いっきり絶望の気持ちを感じてあげてください。
それで大丈夫。
そしてどう見ても絶望にしか思えなくても、心にはこんな可能性や力があるんだってことをどこかで覚えておいてほしいんだ。
現在は、なんでもデジタルで、合理的にしようとする社会だから、人間がロボットみたいになってきている。買い物ひとつするにも、そうだ。
人間に会わなくても物が買える。
たまに店員さんがいても、その店員さんがロボットみたいであったりする。
わたしも気づくと感情を感じることを忘れて、思考にかたよってしまうくらいだから、こんな感情の意味や働きをご存じなければ、みなさんそうなってしまうだろうと思う。
こんな状態で、絶望してしまうと、なおさら、抜け方がわからなくて迷子になってしまうと思うんだ。
だから思考が過剰だと、だんだん「今」にいられなくなっちゃうんだ。
(楽しくないのね、これだと)
「今、どうするか」、この選択で、未来も変わっちゃう。
過去も未来も変えることができないわけだ。
「今」しか変えたり選択したり、扱うことができないんだ。
だから、今、自分の感情に戻って、楽に、心地よくいるってことなんだ。
例えば、ワクチンやコロナで絶望していたら、それをちょっと置いといて
上記、書いたような自分の体が楽になる食べ方を研究して試してみたりしてみる。
で、めでたくツボにはまって、体が元気に快適になったとする。
そしたら、なんだか大丈夫かもしれないなって気になっていくと思うんだ。
実際そうなる可能性が高まると思うんだ。
感情を感じ切ってあげて、ちょっと楽になるためにどうしようって、発想が出てきたら、思いついたことを、できる範囲でちょっとやってみる。
一気に解決なんて思わず、ちょっと楽になったらよしとする。
これを楽なペースで継続してやっていると、勝手に状況が変わっていくんだ。
年単位で見ると大きな変化のはずだ。
そして、自分だけでなく、社会や世の中もいろいろ起きてくる。
悪いことも起こるかもしれないけど、いいことも起きて、解決や楽になるための後押しとなるかもしれないんだ。
絶望してる気持ちを否定しちゃうと停滞するから、
否定しないで見てあげる。
心の目を、自分の内に向けて。
目は外を見るようについているけど、くるっと内に向けるんだ。
こうして自分の心を見てあげるんだ。
お医者さんや医療関係者の方が、ご自分を責めて悔いて、苦しまれるかもしれないと思っていました。
でも自分ばかりを責めることが果たして適切かどうか?ということを書いた。
それも、そうお感じになるのなら、その感情もじっくり感じてあげてください。
ちょっと思考を止めて。
そのあとに、なにか見えてくるものがあるはずです。
自分の心が教えてくれます。
愛してあげる(=感じてあげる)とちゃんとこたえてくれるんだ。
心を無視していると、「こっちをみてくれよ!」とトラブルや問題を起こしたりするんだ。
だから自分の感情を見てあげると解決の方向に向かうの。
だから、なにが起きようとも、その状況の中で、こういうふうにいるということだよなって最近思います。
そういう覚悟が最近できてきた。
先人たちもそうだったみたい。
達人になると、
やはり戦時中で、ご自分も金持ちというわけではなかったんだけど、グルメと女性を愛し続け、耽美の世界を書き続けたのね。
戦時中の食べ物がない中で、牛肉にありつけて、妻と食して感激していたというエピソードを聞いたことがある。
殺伐とした時代に、こういう喜びを放棄しなかったこの人が私は好きだね。
たとえ戦時中であっても流されずにこうなるのね。