龍神村に生まれて

僕は和歌山県龍神村に生まれ、13歳まで龍神村で育った。大人になって、龍神村について何も知らないことに気がついた。

さらに事実が・・・

2008-09-19 02:19:14 | Weblog
福井小学校の記憶をたどろうと考えたが、アマゾンから森本季子著「キリシタン紀行」が届いて、さらに事実がわかったので付け加えようと思う。

僕の記憶の始まりである龍神教会。
山間の立派な龍神教会の設立には、米軍機が龍神村に墜落したこと(6人死亡、2人生存)が関係あるようであったが、実際には直接には関係なかったというのが事実のようだ。

龍神村は昭和30年3月1日に4つの村が合併して出来た。
明治22年に町村制施行以来、日高川上流より龍神村、上山路村(かみさんじむら)、中山路村(なかさんじむら)、下山路村(しもさんじむら)に分かれていた。
ちなみに僕のおじいちゃんは下山路村の村長をしていた。
ちょうど、昭和24年にカトリック龍神教会ができた頃に村長であり、カトリック信者の爆発的増加に寄与していたそうだ。(おじ談)
大島医院は僕の生家の隣だったしね。

龍神教会のある下柳瀬地区は、当時中山路村に属していたが、明治22年8月に下柳瀬地区が壊滅するほどの大水害にみまわれている。
下柳瀬地区83戸のうち70戸が流失し、83人が亡くなっている。
この水害までの下柳瀬地区は、中山路村でも中心的存在であったが、この水害を境に、村の施設も学校も道路も下柳瀬地区を避け、上柳瀬に移ってしまった。
そして、下柳瀬は「柳瀬のセタン子(はずれの子)」と呼ばれ心身的な差別を受けるようになった。
下柳瀬の青年には嫁の来てがないほどであった。

もともと下柳瀬地区出身であった大島仙吉は、京都大学医学部を卒業して和歌山市で医師として開業していたが、戦争の末期に空襲を受けて故郷の龍神村に疎開してきた。
大島仙吉は和歌山市で教会に関連していた関係で、龍神村、それも下柳瀬にカトリック教会を誘致して、下柳瀬の住民に心身的な自信を取り戻したかったようだ。

大島仙吉は人格者で、村人から慕われ、「あの大島先生が勧める宗教だから、間違いない!」
ということで、龍神教会ができた後は洗礼を受けるものが絶えなかったようだ。

初代主任にモリアルティ神父が着任するのだが、その後も外国人神父の着任が続いたことも、集団改宗の1つの要因だったかもしれない。
この頃の神父様は、自国から山間の村に来て、何もないところから教会をスタートするために多くの私財を投げやり、カトリックの布教を超え、献身的に“村の進歩”に尽力していたように思う。

同じ村に生まれた、いまさらながら神父様には感謝したい。
僕は小さい頃、そんな神父様に向かって「赤鬼や・・・」と泣きながら逃げまとっていたのだ。
申しわけないことしたなぁ・・・。

昭和31年~47年までの16年間、オーストラリアからケビン・フリン神父が着任している。(その後イートン神父10年、ホーガン神父と続く)

僕は小さい頃“グリーン神父”という名前を何回も聞いたと思っていたが、事実は“フリン神父”だった。
僕の家に残っている写真の神父様は主にフリン神父様だろう。

僕が「赤鬼・・・・」と言ったのもフリン神父様だったようだ。

この神父様は村人に溶け込みながら、幼稚園を作った。
そう、僕の出た幼稚園だ。
さらに英語教室やサマーキャンプなども始めたようだ。

フリン神父様は龍神村に大きな変革をもたらした偉大な神父様だった。
(その後千葉東金教会に移られ、1990年11月6日東京の病院で帰天、71歳だった。)

フリン神父様、ありがとうございました。



その後の龍神教会は、あまりにも信者が増えすぎたので、福井にもう1つの教会ができたようだ。
このときに僕のおじいちゃんが尽力して、福井カトリック教会が完成するまで一時的に僕の生家が教会になっていたそうです。


皆さんには、詳しいことはわからないと思いますが、僕はカトリック龍神教会について調べたことで、様々なことを学んだ。

特に印象に残ったのが、神父様が自分を犠牲にして村のために尽くしてくださった
ことだった。


カトリック龍神教会について調べる前は、「赤鬼が・・・」だったのに・・・。


2007年夏 教会入口のマリア様の前にて



幼稚園の遠足


僕は最前列に



さぁ、記憶は福井小学校へ。



待っとれよ! 龍神村!


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32 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
フリン神父さま (小川芳史)
2014-07-03 06:29:42
わたしも、弟といっしょに その保育園に通いました。フリン神父さま よくおぼえています。
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フリン神父さま その2 (小川芳史)
2014-07-03 12:49:26
保育園には、ジャングルジム、ブランコ、それからコンクリート製のすべりだいが あった。ルルドと 伝道師館、二階建ての司祭館。バス待ちの 小柳瀬停留所の小屋。教会の鐘。教会の入り口の 両側にあった木は あれはヒマラヤ杉だったか。
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フリン神父さま その3 (小川芳史)
2014-07-06 20:41:55
司祭館の裏には 給水塔があった。あの給水塔の水は  川向こうの谷から 引いていたのだろうか。
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フリン神父さま その4 (小川 芳史)
2014-07-07 12:25:19
そして 給水塔のそばに とても きれいな 八重桜があった。
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フリン神父さま その5 (小川芳史)
2014-07-07 18:34:45
あの花は 桜茶に 使う 花だろうか。きっとそうだ ソメイヨシノとは 全くちがっている。司祭館の 裏の 八重桜。
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クリスマス その1 (フリン神父さま その6)
2014-07-08 12:09:54
クリスマスには 馬小屋の 飾り付けを やった。それは 子供たちの仕事。馬小屋の中には キリストとマリア そしてヨセフ。外には 東の国からやってきた 博士たち。その上には 博士たちに おさなごの誕生をつげた 天使がいる。そして 馬小屋のそばには 毎年 大きな モミの木があった。あの大きなモミの木 一体だれが用意してくれたのだろう。
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クリスマス その2 (小川 芳史)
2014-07-08 12:19:47
クリスマスの楽しみは ビンゴ大会。ビンゴは当時からあった。細長いベージュ色のカードに 数字が書いてある。フリン神父さまが 数字を読み上げた。数字が出ると その上に プラスチック製の 小さな円盤を置く。カードの数字が全部かくれると 『ビンゴ!!』。フリン神父さまは 豪華賞品を用意してくれていた。
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聖体拝領と断食 その1 (小川芳史)
2014-07-10 13:41:58
教会には ミサがある。どの教会でも 日曜日の朝には 必ずミサがある。大きな教会では 土曜日や そして日曜日であっても午前2回、午後1回といったふうに、さらに 英語やタガログ語のミサを やるところもある。私たちは そのミサのことを 御ミ(ごみさ)と 呼んでいた。
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聖体拝領と断食 その2 (小川芳史)
2014-07-10 18:13:25
御ミサの中に 聖体拝領(せいたいはいりょう)という 場面がある。聖体拝領は 最後の晩餐を再現している。イエス・キリストが パンと葡萄酒を手に持って、「これは 私の 血であり肉である」と やったあの場面。聖体拝領の聖体は肉。そして 御ミサの中で これをいただくのが 聖体拝領。
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聖体拝領と断食 その3 (小川芳史)
2014-07-10 18:29:33
御ミサで いただく 聖体は 500円玉くらいの大きさの 丸くて 薄い パン。パンといっても ウエハースのようなもの。白くて 食感は 柚モナカの 皮に似ている。私たちは それを ホスチアと 呼んでいた。
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