福井小学校の記憶をたどろうと考えたが、アマゾンから森本季子著「キリシタン紀行」が届いて、さらに事実がわかったので付け加えようと思う。
僕の記憶の始まりである龍神教会。
山間の立派な龍神教会の設立には、米軍機が龍神村に墜落したこと(6人死亡、2人生存)が関係あるようであったが、実際には直接には関係なかったというのが事実のようだ。
龍神村は昭和30年3月1日に4つの村が合併して出来た。
明治22年に町村制施行以来、日高川上流より龍神村、上山路村(かみさんじむら)、中山路村(なかさんじむら)、下山路村(しもさんじむら)に分かれていた。
ちなみに僕のおじいちゃんは下山路村の村長をしていた。
ちょうど、昭和24年にカトリック龍神教会ができた頃に村長であり、カトリック信者の爆発的増加に寄与していたそうだ。(おじ談)
大島医院は僕の生家の隣だったしね。
龍神教会のある下柳瀬地区は、当時中山路村に属していたが、明治22年8月に下柳瀬地区が壊滅するほどの大水害にみまわれている。
下柳瀬地区83戸のうち70戸が流失し、83人が亡くなっている。
この水害までの下柳瀬地区は、中山路村でも中心的存在であったが、この水害を境に、村の施設も学校も道路も下柳瀬地区を避け、上柳瀬に移ってしまった。
そして、下柳瀬は「柳瀬のセタン子(はずれの子)」と呼ばれ心身的な差別を受けるようになった。
下柳瀬の青年には嫁の来てがないほどであった。
もともと下柳瀬地区出身であった大島仙吉は、京都大学医学部を卒業して和歌山市で医師として開業していたが、戦争の末期に空襲を受けて故郷の龍神村に疎開してきた。
大島仙吉は和歌山市で教会に関連していた関係で、龍神村、それも下柳瀬にカトリック教会を誘致して、下柳瀬の住民に心身的な自信を取り戻したかったようだ。
大島仙吉は人格者で、村人から慕われ、「あの大島先生が勧める宗教だから、間違いない!」
ということで、龍神教会ができた後は洗礼を受けるものが絶えなかったようだ。
初代主任にモリアルティ神父が着任するのだが、その後も外国人神父の着任が続いたことも、集団改宗の1つの要因だったかもしれない。
この頃の神父様は、自国から山間の村に来て、何もないところから教会をスタートするために多くの私財を投げやり、カトリックの布教を超え、献身的に“村の進歩”に尽力していたように思う。
同じ村に生まれた、いまさらながら神父様には感謝したい。
僕は小さい頃、そんな神父様に向かって「赤鬼や・・・」と泣きながら逃げまとっていたのだ。
申しわけないことしたなぁ・・・。
昭和31年~47年までの16年間、オーストラリアからケビン・フリン神父が着任している。(その後イートン神父10年、ホーガン神父と続く)
僕は小さい頃“グリーン神父”という名前を何回も聞いたと思っていたが、事実は“フリン神父”だった。
僕の家に残っている写真の神父様は主にフリン神父様だろう。
僕が「赤鬼・・・・」と言ったのもフリン神父様だったようだ。
この神父様は村人に溶け込みながら、幼稚園を作った。
そう、僕の出た幼稚園だ。
さらに英語教室やサマーキャンプなども始めたようだ。
フリン神父様は龍神村に大きな変革をもたらした偉大な神父様だった。
(その後千葉東金教会に移られ、1990年11月6日東京の病院で帰天、71歳だった。)
フリン神父様、ありがとうございました。
その後の龍神教会は、あまりにも信者が増えすぎたので、福井にもう1つの教会ができたようだ。
このときに僕のおじいちゃんが尽力して、福井カトリック教会が完成するまで一時的に僕の生家が教会になっていたそうです。
皆さんには、詳しいことはわからないと思いますが、僕はカトリック龍神教会について調べたことで、様々なことを学んだ。
特に印象に残ったのが、神父様が自分を犠牲にして村のために尽くしてくださった
ことだった。
カトリック龍神教会について調べる前は、「赤鬼が・・・」だったのに・・・。
2007年夏 教会入口のマリア様の前にて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/44/85fe911ac5b4c84dd9992fe7cf146823.jpg)
幼稚園の遠足
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a0/5513b3e5a973d65058fbc33be65425bd.jpg)
僕は最前列に
さぁ、記憶は福井小学校へ。
待っとれよ! 龍神村!
僕の記憶の始まりである龍神教会。
山間の立派な龍神教会の設立には、米軍機が龍神村に墜落したこと(6人死亡、2人生存)が関係あるようであったが、実際には直接には関係なかったというのが事実のようだ。
龍神村は昭和30年3月1日に4つの村が合併して出来た。
明治22年に町村制施行以来、日高川上流より龍神村、上山路村(かみさんじむら)、中山路村(なかさんじむら)、下山路村(しもさんじむら)に分かれていた。
ちなみに僕のおじいちゃんは下山路村の村長をしていた。
ちょうど、昭和24年にカトリック龍神教会ができた頃に村長であり、カトリック信者の爆発的増加に寄与していたそうだ。(おじ談)
大島医院は僕の生家の隣だったしね。
龍神教会のある下柳瀬地区は、当時中山路村に属していたが、明治22年8月に下柳瀬地区が壊滅するほどの大水害にみまわれている。
下柳瀬地区83戸のうち70戸が流失し、83人が亡くなっている。
この水害までの下柳瀬地区は、中山路村でも中心的存在であったが、この水害を境に、村の施設も学校も道路も下柳瀬地区を避け、上柳瀬に移ってしまった。
そして、下柳瀬は「柳瀬のセタン子(はずれの子)」と呼ばれ心身的な差別を受けるようになった。
下柳瀬の青年には嫁の来てがないほどであった。
もともと下柳瀬地区出身であった大島仙吉は、京都大学医学部を卒業して和歌山市で医師として開業していたが、戦争の末期に空襲を受けて故郷の龍神村に疎開してきた。
大島仙吉は和歌山市で教会に関連していた関係で、龍神村、それも下柳瀬にカトリック教会を誘致して、下柳瀬の住民に心身的な自信を取り戻したかったようだ。
大島仙吉は人格者で、村人から慕われ、「あの大島先生が勧める宗教だから、間違いない!」
ということで、龍神教会ができた後は洗礼を受けるものが絶えなかったようだ。
初代主任にモリアルティ神父が着任するのだが、その後も外国人神父の着任が続いたことも、集団改宗の1つの要因だったかもしれない。
この頃の神父様は、自国から山間の村に来て、何もないところから教会をスタートするために多くの私財を投げやり、カトリックの布教を超え、献身的に“村の進歩”に尽力していたように思う。
同じ村に生まれた、いまさらながら神父様には感謝したい。
僕は小さい頃、そんな神父様に向かって「赤鬼や・・・」と泣きながら逃げまとっていたのだ。
申しわけないことしたなぁ・・・。
昭和31年~47年までの16年間、オーストラリアからケビン・フリン神父が着任している。(その後イートン神父10年、ホーガン神父と続く)
僕は小さい頃“グリーン神父”という名前を何回も聞いたと思っていたが、事実は“フリン神父”だった。
僕の家に残っている写真の神父様は主にフリン神父様だろう。
僕が「赤鬼・・・・」と言ったのもフリン神父様だったようだ。
この神父様は村人に溶け込みながら、幼稚園を作った。
そう、僕の出た幼稚園だ。
さらに英語教室やサマーキャンプなども始めたようだ。
フリン神父様は龍神村に大きな変革をもたらした偉大な神父様だった。
(その後千葉東金教会に移られ、1990年11月6日東京の病院で帰天、71歳だった。)
フリン神父様、ありがとうございました。
その後の龍神教会は、あまりにも信者が増えすぎたので、福井にもう1つの教会ができたようだ。
このときに僕のおじいちゃんが尽力して、福井カトリック教会が完成するまで一時的に僕の生家が教会になっていたそうです。
皆さんには、詳しいことはわからないと思いますが、僕はカトリック龍神教会について調べたことで、様々なことを学んだ。
特に印象に残ったのが、神父様が自分を犠牲にして村のために尽くしてくださった
ことだった。
カトリック龍神教会について調べる前は、「赤鬼が・・・」だったのに・・・。
2007年夏 教会入口のマリア様の前にて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/44/85fe911ac5b4c84dd9992fe7cf146823.jpg)
幼稚園の遠足
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a0/5513b3e5a973d65058fbc33be65425bd.jpg)
僕は最前列に
さぁ、記憶は福井小学校へ。
待っとれよ! 龍神村!
森本季子著「キリシタン紀行」を読まれたのですね。
龍神村の「集団洗礼」はおそらく昭和20年代できごとでして、私は詳細について教える事など出来ないのですが、これは『集団改宗』だったと認識しています。
鈴木文蔵著『龍神村史』に詳細が書かれているかもしれないので、調べる機会がありましたら詳細を書きます。
コメントおおきに。
写真見せて頂きました。
ありがとうございました。
非常に貴重な写真だと思います。
今ある教会の前の教会だと思いました。
実は、かなり前にネットで見つけて見させていただいたことがありました。
写っている方々の表情が非常に平和で和やかな写真でした。
貴重な、非常に貴重な写真、本当にありがとうございました。
本当にうれしかったです!
と、予習に森本季子著「キリシタン紀行」を読んでいました。すると 天草キリシタンの章の後に、龍神村の「集団洗礼」のことが書かれていて、興味を持ちました。
そして、ネット検索で行き当たったのがこのブログです。
私は都会に暮らす次男坊の親の意志で水をかけられた幼児洗礼の信者です。信者になる人間は、田舎から都会へ出てきた者が多いとばかりこれまで思っていました。
日本の田舎ではほとんどの場合、寺の檀家となって地域ぐるみで仏事付き合いなどがあり、他宗教の入る余地などないと考えていたのですが、龍神村はそうではなかったのでしょうか。
そんなお話を聞かせていただければ有り難いです。
写真公開の件ですがこちらのブログに投稿ができればと思ったのですが投稿は可能なのでしょうか、よく判らないので自分が利用している画像投稿サイトに4枚
ほど以下に載せていますので一覧頂ければと思います、スクロールは掲載写真の上部の左右どちらかを
タッチすると見られます、よろしければどうぞ・・・
http://photozou.jp/photo/show/2957396/225191821
なかなか更新しなかったので気づくのが遅くなって済みません。
私はグリーン神父さんだと思っていたくらいですから、フリーン神父さんが正解でしょうね。
写真を公開いただけると非常に嬉しいです。
また、福井教会を知っている方がいたこと、非常に嬉しいです。
このコメントにを見て頂く機会がありましたら、よろしくお願いいたします。
昭和42年新聞記事で福井カトリックの事を知り酷いアルペンラインを走り辿り着いたのが福井協会でした、
当時の新聞記事の記憶によるとB29が撃墜され搭乗員が村人に救助された事から戦後竜神村に協会が
建てられたとありましたが、私の記憶違か撃墜ではなく墜落だったのですね、協会設立は戦後ではなく既に存在していたのですね、初めてお会いしたのはオーストラリヤから着任したと言う神父さん名前はフリーン神父と自己紹介を頂きました
記事ではフリンとなっていますが日本語に堪能な神父さんの名ははっきりとフリーンとお聞きし、この年数回お目にかかり親しくさせて頂き多くの記録を写真に残す事ができました
お送りした写真から礼状も頂きながらその後ご無沙汰してしまい記事の内容から1990年71歳で帰天との事に愕然と致しました
フリーン神父の人格は多く村民の人望を集めそのお人柄が偲ばれます。
当時撮影させて頂いた記録も貴重のものとなり大切に保管しています、もしよければ公開させて頂きたいですが如何でしょうか