月下に杯を重ね

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各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

粟田口國綱

2006-01-12 21:10:49 | 刀工
 建仁年間(1201-1204年)、山城の国の人。藤六郎。
 後に相州に下向し、内山に住む。
 粟田口一門の始祖である粟田口國家の六男。
 左近将監。
 新藤五國光の父といわれるが、年代的な隔たり(國光は永仁(1293-1299)から正安(1299-1302))が大きい。老後の子と考えるのも苦しい(鎌倉時代の平均寿命は30代といわれている)。今後の研究が待たれるところである。
 銘は「國綱」。
 
 國綱は六人兄弟で五人の兄粟田口國友(長男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人)・粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)・粟田口國安(三男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、山城守)・粟田口國清(四男)・粟田口有國(五男)もまた、いずれ劣らぬ名工揃いであった。

粟田口國安

2006-01-12 21:06:34 | 刀工
粟田口國安
 正治年間、山城国京粟田口の人。
 京鍛冶の名門粟田口派初期の刀工。
 粟田口一門の始祖粟田口國家の三男。藤三郎。林三と号す。
 後鳥羽上皇の御番鍛冶の一人で四月番を務めた。
 山城守を受領。
 兄弟の六名、兄である粟田口國友(長男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人)・粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)、弟である粟田口國清(四男)・粟田口有國(五男)・粟田口國綱(六男)らはいずれも名工揃いである。
 作風はすべてに古調が見られ、匂口は総体にウルミごころがある。
 銘は「國安」。
 國安の銘はその字形や鏨運びに多少の差異はあるが筆法は同意のものがある。

粟田口國友

2006-01-12 21:04:32 | 刀工
 粟田口派の祖國家の長男。
 後鳥羽上皇御番鍛冶の一人で六月番、承元二十四鍛冶では正月番を務める。
 弟の粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)・粟田口國安(三男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、山城守)・粟田口國清(四男)・粟田口有國(五男)・粟田口國綱(六男)らも、國友に劣らずいずれも名工揃いである。

粟田口國清

2006-01-12 21:01:07 | 刀工
 建仁年間、山城国京粟田口。
 粟田口派の祖國家の四男。
 藤四郎。
 兄弟六名、兄である粟田口國友(長男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人)・粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)・粟田口國安(三男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、山城守)、弟である粟田口有國(五男)・粟田口國綱(六男)はいずれも名工揃いである。

細田平次郎直光

2006-01-12 09:27:53 | 刀工
 安政年間、武蔵の国の人。湯島天神下住。
 初代直勝の門人、細田平次郎。
 銘は「直光」「細田平次郎直光」
 廃刀令後は偽作を多く作ったので、これらの偽銘を鍛冶平銘と呼ぶ。

福岡一文字

2006-01-11 22:23:37 | 日本刀
 鎌倉時代に備前国福岡で盛行した一文字派の刀工集団である。
 後鳥羽上皇の御番鍛冶で菊一文字として有名な則宗を祖とする。
 鎌倉時代の一文字派は、吉岡一文字派と福岡一文字派があり、吉岡は鎌倉中期以降、福岡は鎌倉初期から中期にかけて盛行した。
 一文字派の銘は、「一」のみ切る物、「一」と個人銘を切る物、個人銘のみをきるものの三種類に分かれる。
 
 鎌倉中期に福岡一文字から助吉が出、吉岡に住し吉岡一文字の祖となる。

 また、同鎌倉中期に福岡一文字から助真が出る。
 助真は時の執権北条時頼に招聘され、鎌倉に下向。
 鎌倉の地で作刀を始め、同時に招聘された備前國宗とともに相州鍛冶の草分けとなった。
 なお、この一文字助真を鎌倉一文字と呼ぶ。

 福岡一文字の名物といえば、無銘ながら享保名物牒にある「日光一文字」であろうか。
 日光一文字は、うぶでありながら無銘である。しかしながら、鎌倉中期の福岡一文字の粋を集めた名刀といわれ国宝に指定されている。

吉岡一文字

2006-01-11 22:16:38 | 日本刀
 鎌倉時代に備前国吉岡で盛行した一文字派の刀工集団である。
 吉岡一文字派は、福岡一文字派の刀工助吉を祖とする。
 鎌倉時代の一文字派は、吉岡一文字派と福岡一文字派があり、吉岡は鎌倉中期以降、福岡は鎌倉初期から注記にかけて盛行した。
 一文字派の銘は、「一」のみ切る物、「一」と個人銘を切る物、個人銘のみをきるものの三種類に分かれる。


堀川國廣

2006-01-11 22:05:23 | 刀工
 慶長年間、山城國の人。
 旅泊と号す。実忠の孫、あるいは門人か。藤原國昌(田中國昌)の子ともいう。
 明寿とともに、新刀鍛冶の祖といわれる。
 日向國飫肥の産で、伊東家で作刀した。
 伊東家没落後は、各地を回りながら鍛刀し、晩年に京一条堀川に定住。
 多くの優秀な弟子を排出したことでも知られる新刀初期の名工である。
 その門下には、
  國安(國廣弟)
  越後守藤原國儔(國廣甥)
  和泉守國貞(初代)
  初代河内守國助(ソボロ助広の師)
  石見守國助(初代河内守國助の弟)
  阿波守在吉
  山城守國清(初代)
などがいる。
 また、和泉守國貞(初代)の子である井上真改(和泉守國貞二代目)も一門といってよいだろうか。

 彫り物が巧みで、國廣一派の彫り物を俗に堀川彫りと呼ぶ。
 埋忠明寿一派の埋忠彫り、越前康継一派の越前彫りと並び、初期新刀に見る彫り物の代表的三派である。
 銘は「日州古屋住國廣作」「信濃守國廣」「洛陽一条住國廣」「國廣」「洛陽一条堀川住藤原國廣造」。

 豊太閤供養のため北野天満宮の再造営を行った際、豊臣秀頼の依頼によって作刀した太刀が同社に現存している。
 また、秀頼が寄進した國廣刀は、高野山金剛峯寺にも現存する。

粟田口國家

2006-01-11 21:51:19 | 刀工
 文治年間、山城国京粟田口住。
 本国、大和添上群丹波市。藤氏林姓、弥九朗。
 國頼の子で、粟田口派の始祖。
 國家の六人の子
  粟田口國友(長男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人)
  粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)
  粟田口國安(三男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、山城守)
  粟田口國清(四男)
  粟田口有國(五男)
  粟田口國綱(六男)
 はいずれも名工揃いで後の粟田口派の盛行の礎となった。
 承元御番鍛冶の奉行といわれる。
 銘は「國家」