建仁年間(1201-1204年)、山城の国の人。藤六郎。
後に相州に下向し、内山に住む。
粟田口一門の始祖である粟田口國家の六男。
左近将監。
新藤五國光の父といわれるが、年代的な隔たり(國光は永仁(1293-1299)から正安(1299-1302))が大きい。老後の子と考えるのも苦しい(鎌倉時代の平均寿命は30代といわれている)。今後の研究が待たれるところである。
銘は「國綱」。
國綱は六人兄弟で五人の兄粟田口國友(長男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人)・粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)・粟田口國安(三男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、山城守)・粟田口國清(四男)・粟田口有國(五男)もまた、いずれ劣らぬ名工揃いであった。
後に相州に下向し、内山に住む。
粟田口一門の始祖である粟田口國家の六男。
左近将監。
新藤五國光の父といわれるが、年代的な隔たり(國光は永仁(1293-1299)から正安(1299-1302))が大きい。老後の子と考えるのも苦しい(鎌倉時代の平均寿命は30代といわれている)。今後の研究が待たれるところである。
銘は「國綱」。
國綱は六人兄弟で五人の兄粟田口國友(長男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人)・粟田口久國(二男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、大隅権守、日本鍛冶宗匠)・粟田口國安(三男、後鳥羽上皇御番鍛冶の一人、山城守)・粟田口國清(四男)・粟田口有國(五男)もまた、いずれ劣らぬ名工揃いであった。