月下に杯を重ね

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埋忠明寿(うめただみょうしゅ)

2005-11-17 15:44:28 | 刀工
 慶長年間、山城の国の人。
 代々金工(金属の彫り師)の技を持って足利家に使えた金工界の名門埋忠家の出。
 埋忠重隆二男、埋忠彦次郎。長子早世により家を継ぐ。
 明寿(みょうしゅ)は初め「重吉」「宗吉」と銘し、自らを三条宗近二十五代孫とした。父埋忠重隆も三条宗近二十四代目を称していたと言われているが、それを継いだものか。
 入道して鶴峰明寿と号す。
 父重隆も刀工のようであるが、当方に資料なし。今後の研究対象としたい。
 西陣に住し金工の他に刀工としても活躍。国広とともに新刀鍛冶の祖といわれる。
 その出身からも彫り物を得意とし、その彫り物も古刀期には見られない「昇り竜」「下り竜」、また以前から見られた題材でも特色が強く、信仰的要素よりも装飾的要素を多分に含む。
 短刀を得意とし、これに一流の刀身彫刻を施し斬新な作品を残している。
 彼の作中で刀(ただし太刀銘)で現存しているのは、重要文化財に指定されている一振りのみである。姿はあまりよくないが、大磨上無銘のものに倣ったからであるといわれている。裏銘に「他江不可渡」とあるところを見ても近親者に与えたものであり、愛着の深かったものであることが偲ばれる。
 銘は「城州埋忠作」「城州埋忠明壽作」「山城國西陣住人埋忠明壽」「埋忠明壽作」。
 寛永八年没、享年七十四歳。
 
 余談ながら、明寿は金工家としての技量も群を抜き、真鍮・鉄・銅などの材料を用い、さらに色がねを組み合わせることで平象嵌を施した鍔が残っているそうである。
 
 この時期に彫り物を得意とした三派が出そろっている。埋忠率いる埋忠彫りの一派のほかに、堀川国広一派の堀川彫り、越前康継一派の越前彫りである。