月下に杯を重ね

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各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

福岡一文字助宗・大一文字・継俊

2006-01-15 20:43:37 | 刀工
 承元年間、備前国の人。
 福岡一文字則宗(菊一文字則宗)の子。大一文字と称する。
 後鳥羽上皇の承元御番鍛冶の九月番。修理亮と号す。
 銘は「助宗」、「継俊」とも切る。
 助宗の大一文字に対して、助宗の子助則は小一文字と呼ばれる。なお、助則は後鳥羽上皇配流後の隠岐国御番鍛冶の一人とされている。


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吉岡一文字助光

2006-01-15 20:31:25 | 刀工
 元享年間、備前国の人。
 備前国を代表する一文字派と長船一門であるが、一文字派は鎌倉中期以前に栄え、長船一門は鎌倉中期以降室町時代に駆けて栄えた。
 一文字派はさらに福岡一文字とそこから分かれた吉岡一文字からなる。
 吉岡一文字の祖助吉の子である助光は、吉岡一文字派の中で最も技量に優れるといわれている。
 銘は「一備州吉岡住助光」「一備前國吉岡住左近将監紀助光」。
 寛永年間に阿部豊後守が隅田川を水馬でわたりきったこと。この功により時の将軍家光から下賜された助光の太刀は、現在国宝に指定されている。


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山城守國清(初代)・助宗

2006-01-14 18:27:12 | 刀工
 慶長・元和・寛永年間、越前の人。
 銘は「山城守藤原國清」、初銘は「助宗」。
 本国は信州松代。
 島田彦八助吉(三代島田助吉)の嫡男。吉左衛門。
 堀川國廣の門下。山城守受領。
 慶長十九年(1628年)に師の堀川國廣が亡くなって後、松代に帰り、松平家の抱え工となった。
 ついで越前高田、さらに越前福井に移住。
 寛永五年(1628年)二月、山城守を受領し童子に菊花紋も拝領した。

 この当時、南蛮文化の流入の影響が各所に見られ、鍛刀にもその風潮が繁栄してか南蛮鉄を使用した鍛刀法が流行した。
 越前国の名工越前康継によって試みられたこの鍛刀法は、同国である國清にも用いられている。
 その鍛刀の中には「以南蛮鉄……」の銘が見受けられる。
 國清の担当には年紀のある物はまれであるが「寛永二十一年二月日」の年紀のある物があり重要美術品に指定されている。


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新藤五國光

2006-01-13 10:39:26 | 刀工
 相模國鎌倉在住、正安年間の人。
 相州正宗の師といわれている。
 一説には粟田口國綱の老後の子供と伝えられるが、年代的な隔たりから疑問の残るところである。
 法名は光心。
 
 年紀として「鎌倉住人新藤五國光作」裏に「永仁元年十月三日」とあるものがあり、作刀に見る年紀としては最も古い(永仁元年は1294年)。
 太刀作の現存は少なく、もっぱら短刀であり、秀作も短刀に多い。
 短刀作りの名手、古今を通じ粟田口藤四郎吉光と短刀の名人の双璧とたたえられている。
 國光は一人ではなく、その子國重・國康・國廣(二男)は皆「國光」と銘したといわれる。
 しかしながら、國廣以外はその作刀が明らかではなく「國光」銘の区別も付かない。
 また國光の子の中には、幼くして日光山の法師になり後に下山して鍛冶となった大進坊もいる。
 銘は「國光」「鎌倉住人新藤五國光作」「鎌倉住新藤五國光法名光心」。
 
 門人に、行光・則重・正宗の三工がおり彼らが相州伝を大成した。
 國光が刀剣の歴史に残した影響は計り知れない。

 名物
  会津新藤五