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🔻【越中吉岡庄】の山城「赤丸浅井城」と出城の「木舟城」の考察!!
「後白河上皇」と「崇徳上皇」が争った【保元の乱】で、「崇徳院」側で戦って敗れ、全国の藤原氏の頂点に立った「藤原摂関家藤原氏長者藤原頼長」の全国に在った庄園は、勝者の「後白河上皇」に没収された。「藤原頼長」の個人庄園の全国29庄の直轄庄園の中には、「後白河上皇」の「後院領」に編入され、後白河上皇の創建された「蓮華王院三十三間堂」を維持する為の庄園として寄進されたものがある。その中に富山県西部の赤丸村の周辺に拡がった「越中吉岡庄」が在り、その庄園は、「後鳥羽上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた。
その範囲は、「五位庄惣社赤丸浅井神社由緒」(室町時代から越中五位庄になっている)に出てくる、小矢部市北部から高岡市国吉郷、「石黒光景」の居城「赤丸浅井城」からその子の「石黒光弘」の居城の「木舟城」も含む「利波郡」で在ったと見られる。
(※「越中吉岡庄」の範囲は近世の「五位庄」の範囲を超えたもので在った様だ。又、室町時代に足利義満が相国寺の庄園として寄進した「五位庄」は、更に拡大して、越中守護の館で在る「赤丸浅井城」を中央として、小矢部川流域の海沿いの「六渡寺村」から「福光町」辺りの地域迄を含んでいたと見られる。)
利波郡五位庄福光町には、石黒一族の「福満五郎」が居た「福光城」が在ったとされるが、「福光城」は一向一揆衆に敗れ、後は「木船城」に拠ったとされる。高岡市立野に比定される「東大寺庄園越中杵名蛭庄絵図」には、「石黒上里」、「石黒中里」や「石黒川」が記される。いずれが発祥地かは明らかでは無いが、明らかに藤原一族の「越中石黒氏」の発祥地は高岡市立野地域で在り、当初は「杵名蛭庄」の庄官を勤めて、小矢部川の全域を見晴らす山城の「赤丸浅井城」を防衛拠点としていたが、鎌倉時代の源頼朝が「後白河上皇」の庄園の「吉岡庄」に「地頭の成佐」を配置した時期に、この「成佐」が現在の高岡市福岡町大滝地区を開発したと福岡町木舟の石黒一族に伝わっている。「源平盛衰記」には高岡市伏木に残る「六渡寺村(六動寺村)」に関係するとられる「六動太郎光景」(赤丸浅井城石黒太郎光景と同じ?)の名前が見られ、かつての「六渡寺」には、篤く仏教を信仰して「仏教の六道」に由来する「六動寺」が在ったと見られる。石黒氏は「越中利波郡の郡司利波臣」の後継者で在るとされるが、「古代豪族利波臣」が各地に東大寺の庄園を開発して、各地域の中心神社には「東大寺庄園」から「神田」が寄進されており、「赤丸浅井神社」にも【東大寺庄園越中石粟庄】から「神田一段」が寄進されていた。
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【東大寺大仏造営の時に、「米五千石」を寄進して、「越中国司」に任じられ「東大寺修院過去帳」の筆頭に記される「利波臣」の末裔とされる「越中石黒氏」が、代々世襲した「越中利波郡」の大滝村(※木舟)も、源頼朝配下の地頭の「越中吉岡庄地頭 成佐」が開いた土地と伝えられる。「吉岡谷」と呼ばれる地域が赤丸村と馬場村の間の地域に現在も残り、古くはこの場所が「成佐」の居館跡で在ったと見られる。この居館の周辺には、「東砦」、「西砦」と呼ばれた軍事的な拠点跡も残っている。(※「木舟城古今誌」、「吾妻鏡」、高岡徹氏論文「福岡町中世城館調査報告書」)】
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■「皇室庄園」の【越中吉岡庄】は、南北朝時代末期に「五位庄」と改名されて足利室町幕府の軍俵を賄う「粮所」に成り、次いで、「三代将軍足利義満」によって「相国寺」に寄進され、後にも「等持院」、「等持寺」等の足利家菩提寺の庄園として寄進されていた。
(※「相国考記」、「万山編年年精要」)
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▼富山県西部は奈良時代から平安、鎌倉、南北朝時代末期迄は、藤原氏領、上皇、天皇領の「吉岡庄」として伝領した。
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■南北朝時代末期に、足利家庄園として横領された「五位庄」は「吉岡庄」の庄域を更に広げ、「利波郡」のほぼ全域に迄及び、小矢部川を挟む東部(※般若野庄には五位の東庄を含む)と西部(※福野町野尻は五位庄に含む)に分かれて、東部は石黒氏等の武将の知行地と成り、西部は守護畠山一族の知行地とされた。富山市蜷川郷に城を構えた室町幕府政所代の蜷川新右衛門は利波郡を統治したと云う。
(※室町時代の「赤丸浅井神社」での法要記録の中に「越中五位庄利波郡赤丸村住藤原直家」が営んだ法要記録が在り、その中で「赤丸村」は「五位庄利波郡赤丸村」と記載されており、絵図に見られる「利波郡」は「蓮間郡」とされる小矢部市の一部を除いて「利波郡」に含まれていた様だ。⇒「富山県史中世」)
(※「東寺百合文書」・「畠山家文書」・「蜷川村の昔」)
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▼【越中木舟城】は【赤丸浅井城】の出城で、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が平安時代末期に居城にした。「石黒光弘」は【源平盛衰記】や【平家物語】にも登場する。
(※「越中石黒系図」)
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🔻富山県の古書には「石黒光弘の後裔石黒光景」と記載されるものが在るが、「越中石黒系図」では明確に石黒光景は石黒光弘の父として記載されている。(※「石黒氏の歴史の研究」小矢部市図書館)
◆越中利波郡の加賀藩時代の「十村役」(村長)で在った杉野家に遺された「木舟城絵図」。
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◆平成30年(2019年)に新発見された、江戸時代初期の古文書で加賀藩の軍学者「有沢永貞」が描いた加賀藩の全城郭を描いた「加賀藩城郭絵巻」(※写本)。その中に記載される「木舟城」と見られる絵図。「前田利家」が攻略、新設した加賀藩の初期の城郭が「国主城郭絵図」として描かれている。
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▼「室町時代」には足利氏の「御粮所」(※軍事の兵糧を調達する場所)となった「利波郡五位の東庄」には、「福満城」、「木舟城」に「石黒氏」の記載が在る。又、小矢部川西部の「利波郡」の「赤丸城」には、室町幕府管領「畠山満家」の長男の越中守護「畠山持国」の記載が在る。(※「越中絵図」羽曳野叢書ー畠山文書)
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◆戦国時代には、【織田信長】は越中に侵攻して、家臣「佐々成政」は家老の「佐々平左衛門」を「木舟城城主」にしたが、その次には、「佐々平左衛門」の娘を妻にした「前野加賀守」を木舟城城主にしている。その子は後に「佐々」の姓を名乗っており、この子孫から通称「助さん」と呼ばれる水戸光圀の家臣で、「大日本史」の編纂にも関わった【佐々木助三郎】(※佐々宗淳[サッサムネキヨ])を輩出している。
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▼【佐々成政】は「宇多天皇」を祖先とした【宇多源氏】で、近江国佐々木を拠点とした「宇多源氏佐々木氏」である。この一族からは、近江国を領した「六角氏」等が出ている。又、この一族からは、南北朝時代の「太平記」に登場する「甲賀宇多氏」や越中吉岡庄鍛冶屋町島(※赤丸村「赤丸城」の麓)で南北朝から江戸時代迄名刀を産出した「宇多刀鍛冶」、「木下藤吉郎」改め「関白豊臣秀吉」等の人物を輩出している。
(※木下氏は「宇多源氏高島氏」)
この一族は、室町時代に「織田家」等と同様に足利一族の「斯波氏」に仕えたが、ある時に斯波家が間違えて「佐々」を宛名にした書状を与えた。その後、「佐々木氏」の中でも、この一族は後に「佐々」を名乗っている。
元々、「摂関家長者藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」は、没官されて「上皇」や「天皇」の庄園に編入され、「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、伝領した。その時代から江戸時代、明治時代を通じて、藤原一族と云われる「越中石黒一族」は様々な時代の節目に登場している。
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