赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🌸🏯【富山県西部の赤丸浅井城とその出城の木舟城】 【徳川御三家水戸徳川家 副将軍水戸光圀】に仕えた【助さん】の事⇒「佐々木助三郎」は、富山県高岡市の【木舟城城主前野加賀守】 の子孫!!

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町





🔻【越中吉岡庄】の山城「赤丸浅井城」と出城の「木舟城」の考察!!
「後白河上皇」と「崇徳上皇」が争った【保元の乱】で、「崇徳院」側で戦って敗れ、全国の藤原氏の頂点に立った「藤原摂関家藤原氏長者藤原頼長」の全国に在った庄園は、勝者の「後白河上皇」に没収された。「藤原頼長」の個人庄園の全国29庄の直轄庄園の中には、「後白河上皇」の「後院領」に編入され、後白河上皇の創建された「蓮華王院三十三間堂」を維持する為の庄園として寄進されたものがある。その中に富山県西部の赤丸村の周辺に拡がった「越中吉岡庄」が在り、その庄園は、「後鳥羽上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた。

その範囲は、「五位庄惣社赤丸浅井神社由緒」(室町時代から越中五位庄になっている)に出てくる、小矢部市北部から高岡市国吉郷、「石黒光景」の居城「赤丸浅井城」からその子の「石黒光弘」の居城の「木舟城」も含む「利波郡」で在ったと見られる。

(※「越中吉岡庄」の範囲は近世の「五位庄」の範囲を超えたもので在った様だ。又、室町時代に足利義満が相国寺の庄園として寄進した「五位庄」は、更に拡大して、越中守護の館で在る「赤丸浅井城」を中央として、小矢部川流域の海沿いの「六渡寺村」から「福光町」辺りの地域迄を含んでいたと見られる。)

利波郡五位庄福光町には、石黒一族の「福満五郎」が居た「福光城」が在ったとされるが、「福光城」は一向一揆衆に敗れ、後は「木船城」に拠ったとされる。高岡市立野に比定される「東大寺庄園越中杵名蛭庄絵図」には、「石黒上里」、「石黒中里」や「石黒川」が記される。いずれが発祥地かは明らかでは無いが、明らかに藤原一族の「越中石黒氏」の発祥地は高岡市立野地域で在り、当初は「杵名蛭庄」の庄官を勤めて、小矢部川の全域を見晴らす山城の「赤丸浅井城」を防衛拠点としていたが、鎌倉時代の源頼朝が「後白河上皇」の庄園の「吉岡庄」に「地頭の成佐」を配置した時期に、この「成佐」が現在の高岡市福岡町大滝地区を開発したと福岡町木舟の石黒一族に伝わっている。「源平盛衰記」には高岡市伏木に残る「六渡寺村(六動寺村)」に関係するとられる「六動太郎光景」(赤丸浅井城石黒太郎光景と同じ?)の名前が見られ、かつての「六渡寺」には、篤く仏教を信仰して「仏教の六道」に由来する「六動寺」が在ったと見られる。石黒氏は「越中利波郡の郡司利波臣」の後継者で在るとされるが、「古代豪族利波臣」が各地に東大寺の庄園を開発して、各地域の中心神社には「東大寺庄園」から「神田」が寄進されており、「赤丸浅井神社」にも【東大寺庄園越中石粟庄】から「神田一段」が寄進されていた。




【東大寺大仏造営の時に、「米五千石」を寄進して、「越中国司」に任じられ「東大寺修院過去帳」の筆頭に記される「利波臣」の末裔とされる「越中石黒氏」が、代々世襲した「越中利波郡」の大滝村(※木舟)も、源頼朝配下の地頭の「越中吉岡庄地頭 成佐」が開いた土地と伝えられる。「吉岡谷」と呼ばれる地域が赤丸村と馬場村の間の地域に現在も残り、古くはこの場所が「成佐」の居館跡で在ったと見られる。この居館の周辺には、「東砦」、「西砦」と呼ばれた軍事的な拠点跡も残っている。(※「木舟城古今誌」、「吾妻鏡」、高岡徹氏論文「福岡町中世城館調査報告書」)】



■「皇室庄園」の【越中吉岡庄】は、南北朝時代末期に「五位庄」と改名されて足利室町幕府の軍俵を賄う「粮所」に成り、次いで、「三代将軍足利義満」によって「相国寺」に寄進され、後にも「等持院」、「等持寺」等の足利家菩提寺の庄園として寄進されていた。
(※「相国考記」、「万山編年年精要」)



▼富山県西部は奈良時代から平安、鎌倉、南北朝時代末期迄は、藤原氏領、上皇、天皇領の「吉岡庄」として伝領した。




■南北朝時代末期に、足利家庄園として横領された「五位庄」は「吉岡庄」の庄域を更に広げ、「利波郡」のほぼ全域に迄及び、小矢部川を挟む東部(※般若野庄には五位の東庄を含む)と西部(※福野町野尻は五位庄に含む)に分かれて、東部は石黒氏等の武将の知行地と成り、西部は守護畠山一族の知行地とされた。富山市蜷川郷に城を構えた室町幕府政所代の蜷川新右衛門は利波郡を統治したと云う。
(※室町時代の「赤丸浅井神社」での法要記録の中に「越中五位庄利波郡赤丸村住藤原直家」が営んだ法要記録が在り、その中で「赤丸村」は「五位庄利波郡赤丸村」と記載されており、絵図に見られる「利波郡」は「蓮間郡」とされる小矢部市の一部を除いて「利波郡」に含まれていた様だ。⇒「富山県史中世」)
(※「東寺百合文書」・「畠山家文書」・「蜷川村の昔」)





▼【越中木舟城】は【赤丸浅井城】の出城で、「赤丸浅井城城主石黒光景」の子供の「石黒光弘」が平安時代末期に居城にした。「石黒光弘」は【源平盛衰記】や【平家物語】にも登場する。
(※「越中石黒系図」)



🔻富山県の古書には「石黒光弘の後裔石黒光景」と記載されるものが在るが、「越中石黒系図」では明確に石黒光景は石黒光弘の父として記載されている。(※「石黒氏の歴史の研究」小矢部市図書館)

◆越中利波郡の加賀藩時代の「十村役」(村長)で在った杉野家に遺された「木舟城絵図」。


◆平成30年(2019年)に新発見された、江戸時代初期の古文書で加賀藩の軍学者「有沢永貞」が描いた加賀藩の全城郭を描いた「加賀藩城郭絵巻」(※写本)。その中に記載される「木舟城」と見られる絵図。「前田利家」が攻略、新設した加賀藩の初期の城郭が「国主城郭絵図」として描かれている。








▼「室町時代」には足利氏の「御粮所」(※軍事の兵糧を調達する場所)となった「利波郡五位の東庄」には、「福満城」、「木舟城」に「石黒氏」の記載が在る。又、小矢部川西部の「利波郡」の「赤丸城」には、室町幕府管領「畠山満家」の長男の越中守護「畠山持国」の記載が在る。(※「越中絵図」羽曳野叢書ー畠山文書)








◆戦国時代には、【織田信長】は越中に侵攻して、家臣「佐々成政」は家老の「佐々平左衛門」を「木舟城城主」にしたが、その次には、「佐々平左衛門」の娘を妻にした「前野加賀守」を木舟城城主にしている。その子は後に「佐々」の姓を名乗っており、この子孫から通称「助さん」と呼ばれる水戸光圀の家臣で、「大日本史」の編纂にも関わった【佐々木助三郎】(※佐々宗淳[サッサムネキヨ])を輩出している。












▼【佐々成政】は「宇多天皇」を祖先とした【宇多源氏】で、近江国佐々木を拠点とした「宇多源氏佐々木氏」である。この一族からは、近江国を領した「六角氏」等が出ている。又、この一族からは、南北朝時代の「太平記」に登場する「甲賀宇多氏」や越中吉岡庄鍛冶屋町島(※赤丸村「赤丸城」の麓)で南北朝から江戸時代迄名刀を産出した「宇多刀鍛冶」、「木下藤吉郎」改め「関白豊臣秀吉」等の人物を輩出している。
(※木下氏は「宇多源氏高島氏」)
この一族は、室町時代に「織田家」等と同様に足利一族の「斯波氏」に仕えたが、ある時に斯波家が間違えて「佐々」を宛名にした書状を与えた。その後、「佐々木氏」の中でも、この一族は後に「佐々」を名乗っている。

元々、「摂関家長者藤原頼長」の庄園で在った「越中吉岡庄」は、没官されて「上皇」や「天皇」の庄園に編入され、「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、伝領した。その時代から江戸時代、明治時代を通じて、藤原一族と云われる「越中石黒一族」は様々な時代の節目に登場している。















🔴🔹越中の刀鍛冶【宇多国光】⇒南北朝時代に越中吉岡庄(赤丸村)鍛冶屋町島に住したと言われる「宇多派刀工の祖 宇多国光」!!

2021-04-12 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■【大和国宇陀郡】(奈良県)から「越中吉岡庄鍛治屋町島」(※越中吉岡庄)へ移り住んだ「越中刀工 宇多源氏 宇多一族」











🔻「大和国宇陀郡」に遺される「宇多国宗の刀」


🔻「豊臣秀吉遺品帳」に遺る「宇多刀」の記録
⇒【太閤記】には、「豊臣秀吉」の父方の「木下家」は 【宇多源氏高島流】と記載される。

■「宇多國光」の太刀


■豊臣秀吉の重宝「宇多」


■南北朝時代の宇多刀は「古宇多」と言われる。


■「太閣記」に記載される「宇多刀」






■「富山県指定文化財」の【宇多刀】


■菊水の波紋を刻む「宇多國光」の脇差し


▼天皇家の紋【菊水紋】(※「宇多国光」が鍛刀した「越中吉岡庄(赤丸村)は南朝の後醍醐天皇の庄園」)


















■この刀は「乱れ波紋」や「菊水紋」等が入り交じり複雑な波紋を残していると云う。
大きな波紋の連続は「のたれ」と呼ばれたらしい。この刀には菊花や大波等が現れており、波紋が真っ直ぐな直波スグハとは大きく様子が異なり、宇多派の初期の特徴の黒ずんだ地肌で在り、茎尻が丸く成っている。棟は古刀の特徴とされる「庵棟」。波長41cm.白鞘全長65cm。古刀は元々、長尺のものが多く、南北朝時代迄は従者に持たせたが従者が倒れると戦いが終わった事から、室町時代からは「太刀」の形と成って大小を腰に付ける形に成ったと言う。その為に、古刀は「磨きあげ」と言って刀の束部分を削り取って寸法を短くして大刀でも二尺三寸位に短くした。その為に「古刀」は殆どが「銘」を削られており、「無銘」のものが多い。この小刀は「磨きあげ」の様子が無く、元々、小刀として製作されたものか?

◆古の刀工は客先からの注文製作では「銘」を入れなかったと言われ、新川郡松倉郷に住んだ「郷義弘」には在銘のものが無く、殆どが鑑定士の目利きに因って「郷義弘」として流通している。先日、富山市水墨美術館で開催された「尾張徳川家の秘宝」の展示でも「郷義弘」の銘は無く「無銘」で在った。この刀は加賀藩前田家から伝来したとされていたが、前田家には他にもう一振りの「郷義弘」が在り、「前田郷」と呼ばれている。「郷義弘」に付いては「郷とお化けは見た事が無い」と言われている様だ。

🔻【越中松倉郷に住した刀工「正宗十哲」の一人[江義弘](「郷義弘」)は《大江氏》と云われる!!】
源頼朝の家臣の「大江広元」は、初期には「長井氏」を名乗り、子孫は「毛利」を名乗った。「大江広元」は膨大な統治記録の「大江広元日記」を遺しており、「義経」との記録も遺している。富山県高岡市内島村は、「南北朝時代」に大江氏の先祖とされる「長井氏」の所領で在った事が「毛利家文書」に遺されている。(※「富山県地名大辞典」)

又、古書の「刀剣鑑定書」には、「江義弘」と記載されるものも在り、「郷義弘」は、「越中の松倉郷に住んだ」事から、「郷義弘」と刻んだと伝えられる。しかし、真贋は明らかでは無いが、実際に「江義弘」と「制作年月」が刻まれる「古刀」が存在しており、都から遠い越中の国に住んだ「江義弘」は「松倉郷住 義弘」とされるのが普通だが、何故か「郷」と伝えられる。「郷義弘」と銘打ったものが見つからないのは、実際には「江義弘」で在ったからでは無いだろうか?
「歴史」として伝えられるものは、「口伝」が多く、誤りも多い。それ故に「幻の郷義弘」は更に人気が出たものかも知れない。従って、現在伝えられる「郷義弘」は「刀剣鑑定家」が墨書きを加え、鑑定書を作文して、鞘書きを加えて「郷義弘」として流通している。当時はこの「鑑定書」や「鞘書き」を加えただけで、その刀の一振が「一国」とも交換される位に高価なものになった。そこに、「偽刀」が登場する余地が在った。
「源頼朝」と「越中吉岡庄(※(富山県赤丸村)」の統治を巡って、「後白河上皇」がやり取りした有名な古文書が「鎌倉幕府の正史」とも云われる【吾妻鏡】に遺されている。「毛利家文書」に遺されている高岡市内島村の記録は、当時は「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」の隣接の「高岡市内島村」の記録で在り、「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」の域内で在ったのかも知れない。後世の「五位庄」では「内島村」は完全に「五位庄」に含まれている。又、内島村の隣接の「越中吉岡庄」には、同時期に「宇多一族」が繁栄しており、刀剣鑑定の古書に「宇多派」と「佐伯則重」、「郷義弘」が各々、技術を交流したと記録されているのも、それぞれが小矢部川流域の近接地や北陸街道沿いに栄えたからで在ったのでは無いだろうか?



・「大江氏」の「江義弘」の銘の古刀が旧家に遺されている。






■宇多派刀工でも、初代国光は通称「古入道国光」と呼ばれるが、この「宇多国光」の大刀に付いては「在銘」のものは僅か数振りとされ、殆どが刷りあげで銘が無いと云う。在銘の「宇多国光」を調べると、特徴の黒ずんだ地肌や茎尻の形、波紋等で鑑定している様だが、比較検討すると随分書体が異なり、明らかに後に成って銘を堀込んだものもある様だ。その様な刀剣も「鑑定書」が発行されるといきなり高値で取引される。中々、専門の鑑定家でも真贋を極めるのは難しい様だ。近年、刀剣のブームに成って様々な刀剣が市場に出て来るが、宇多派に付いては数代続いたとされる「宇多国光の孫」の「宇多国宗」の刀が圧倒的に多く、室町時代には越中・能登守護畠山家の争いでも在った「応仁の乱」を始め、大きな戦が多かった事も在り、相当の「宇多刀」が生産されていた様だ。江戸時代の有名な剣客「荒木又右衛門」が使用した刀も「宇多国宗」とされている。

■「越中国吉岡庄(赤丸村領鍛冶屋町島)に住したとされる 宇多国光」









■「宇多刀工」は系図には「越中吉岡庄三日市に移り住んだ」とされるものと、「越中吉岡庄宇津に移り住んだ」とされるものがある。これはこの刀工が移り住んだ地域は往古、小矢部川と庄川が合流して「阿光ケ淵」と言う広大な水郷を形成していたと云われる所から、「宇津」は「水の渦」を意味し、その淵はその昔、宇多刀工が工房を構えた「鍛冶屋町島」の至近に在ったからだと見られる。
(※「系図」には「吉岡庄三日市」、「五位庄三日市」と記載されるが、加賀藩時代には、嘗て前田利家と戦った「赤丸村」の表示は地図から消されていた。この実際の場所は赤丸城の麓の「鍛冶屋町島」の事だと云う。尚、元々、「越中吉岡庄」と呼ばれた皇室庄園は、室町時代に足利幕府の糧所になると「五位庄」に改名された。)









■「赤丸浅井神社古墟図」
(※「森田柿園文庫」石川県立図書館)
嘗て、小矢部川は西山の麓を流れ、「延喜式内社赤丸浅井神社」、「赤丸浅井城」の前面には「阿光ケ淵」が拡がっていた。




■「義経記」ではこの「赤丸浅井神社」前の舟乗場を「二位の渡し」、「赤丸浅井城」は「如意の城」(※五位の城)と記載している。あの有名な「弁慶が義経を打擲した勧進帳」のシーンは正にこの「阿光ケ淵」の舟乗場での事件として記載される。
当時、「延喜式内社赤丸浅井神社」を郷社とした「越中吉岡庄」は「義経」を庇護していたと云われる「後白河上皇の庄園」で在った。




■【宇多氏のルーツ】
「宇多氏」のルーツは「宇多源氏佐々木氏流」(近江国)と云われるが、「富山県姓氏家系大辞典」では、大和国宇陀郡を発祥とする古代氏族「宇陀県主・菟田首」や、大和、和泉の宇田臣が在り、「宇田」は清和源氏土岐氏族(美濃)、藤原姓斎藤氏流が在り、陸奥、遠江国等にも在ると云う。

■【南朝太平記 巻三 勝尾合戦 附 安田滅亡の事】に「後醍醐天皇方の楠正成軍として見られる宇多一族」


🔴🔹 【太閤記の太閤遺品帳】にも掲載される越中刀工【宇多】⇒本家【宇多】、分家【宇田】、【鍛冶】!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「宇多刀工初代 宇多国光」の太刀





■越中刀工「宇多本家」の墓


■大和国宇陀郡から【越中吉岡庄】の赤丸村鍛冶屋町島に移り住んだ【宇多刀工集団】は、元々、近江国に移り住んだ【宇多源氏佐々木氏流】と言われ、【太閤遺品帳(※「太閤記」小瀬甫菴著)】にも「宇多刀」が記載されている。「太閤秀吉」は一説には「宇多源氏高島流」とも言われ、そのルーツは「重修真書太閤記」には、【木下氏は木下郷に住んで木下を名乗り、元々は宇多源氏佐々木氏流高島氏である】とし、【秀吉の母「なか」の母方で、秀吉の叔父には「鍛冶と言う人物が居た」】と書かれている。「なか」は幼少期に父を亡くして、その「鍛冶」と言う家で育ったのだと云う。この「鍛冶」と言う名前が【宇多源氏の鍛冶氏】であれば、「なか」も又、宇多源氏の流れを汲んでいたものか?
(※【秀吉】の祖父は「木下」と言う下級武士で元々は出家僧だったとか、妻の「おね」の実家(※養女)は浅野家で在り、後に浅野長政(※養子)を輩出し、この本家が「安芸広島浅野家」で在り、その分家が「赤穂浅野家」で在った。)

■【佐々氏】の家紋は【隅立四つ目結】(宇多源氏佐々木氏流)を使用している。











■昨年、【宇多一族の菩提寺】の高岡市四日市の【三光寺】を訪問した時に、御住職から、【「宇多」は高貴な姓で在り、本家筋しか「宇多」は名乗れないとされ、分家は「宇田」、「鍛冶」しか名乗れない。】と御教示頂いた。その後、墓石群を見ると、【宇多】は一軒のみで、周辺には分家筋の「宇田」、「鍛冶」の墓が取り巻いている。又、刀剣協会の方の話しでは、【刀に「宇多」と銘を入れられたのは宇多本家にのみ許されており、分家筋は「宇多」の姓を入れずに単に「●●」と名前のみを入れた。】と知らされた。

■「宇多」の刀は、鎌倉末期から南北朝時代に作刀したものは【古宇多】と呼ばれて、文化財にも指定されている。下の写真の「古宇多」は最近、「特別保存刀剣」の鑑定を受けたもので、今年の民俗資料館特別展で「初お目見えする予定」だ。









■昨年、「高岡市福岡歴史民俗資料館」がその【特別展】で、赤丸村鍛冶屋町島の歴史として、初めて、「宇多刀」を紹介して以来、その関心が深まってきている。近年迄、魚津市の【郷義弘】や富山市五福の【佐伯則重】はその地域でも研究者も多く、現地には刀工の顕彰碑も立っているが、この【宇多刀工】についてはその場所すら知られて居なかった。高岡市の「西山歴史街道事業」で案内板を各地に立てたが、「福岡町史」や「小矢部市史」にも紹介されておりながら、殆ど知られる事がなく、研究も発表も行われる事はなかった。
元赤丸小学校教諭で、後に福岡町歴史民俗資料館の館長になられた、「地崎淳一先生」の著作(※私家版)「福岡町の民俗」には、この「宇多刀工は鍛冶屋町島で作刀した」事 が記載されているが、この場所は地元の「山林図」を熟知していないと確認できない。近年、富山県西部森林組合の西山整備事業で、赤丸村舞谷の山林図を法務局で調査した所、現在、高岡市関町に動いている「総持寺」の旧地の近接地に「鍛冶屋町島」を発見した。
その周辺には、高岡市関町の「越中宮極楽寺」が在ったと言う「極楽谷」や、「下加茂神社跡地」、「中山島」、「池田島」、「前田島」、「山崎島」や「熊野神社跡地」等も法務局の古絵図に残っている。
赤丸村には数々の史蹟が有りながら、最近迄、これ等の場所は「老人の伝承」だけで伝わって来たが、高岡市の法務局を調べると歴然とした「絵図」も残されている。







【●但し、この地域は全て私有地で在り、高岡市主催の「ウオーキング行事」等以外に、山林中に入る事ができない。】


■【越中刀工「宇多一族」の本家「宇多家」・分家「鍛冶家」の分布を見ると、この姓は富山県、高岡市に多い!!】









■南朝の牙城【赤丸村】に因んでだろうか? 富山県に多い【赤丸姓】!!



■南北朝時代は、「赤丸浅井神社」を中心とする「後醍醐天皇」の庄園は「越中吉岡庄」(※富山県高岡市赤丸周辺)と呼んだ。
明治維新では、【南朝の牙城】で在った赤丸村の歴史調査が宮内省や歴史学者等によって再調査された。【赤丸村】は【後醍醐天皇】の軍旗の【赤丸の御旗】に由来すると見られる。






■元「越中吉岡庄」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」
(※「吉岡庄」は南北朝時代末期から「五位庄」に改名された。)









■「後醍醐天皇」が使用された「白地に赤丸」の「赤丸の御旗」と後醍醐天皇軍の皇子が使用された「金地に赤丸」の軍配!!





🔴🌸 「越中五位庄 惣社 延喜式内社赤丸浅井神社」の由来の謎⇒【先代旧事記】と近江物部氏浅井一族の神『八河江比売』を祀る『赤丸浅井神社』!!

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「延喜式内社赤丸浅井神社古墟図」(石川県立図書館 森田柿園文庫)






■近江国びわ湖の近くに『延喜式内社赤丸浅井神社』の祭神と同じく『八河江比売(葦那陀迦神)』を祭神とする「矢合神社」が在る。
・【延喜式神名帳】矢合神社 近江国 浅井郡鎮座 【現社名】矢合神社 【住所】滋賀県長浜市【祭神】『八河江比売神(葦那陀迦神)』 【例祭】4 月10日 例祭 【社格】旧村社 【由緒】由緒不詳 元亀・天正の兵火で焼失 後に矢合神社と改称 明治9年10月村社 。

・『延喜式内社赤丸浅井神社』は一般的に「元正天皇の時代、717年頃に創建された」と伝えられているが、『赤丸浅井神社由緒』にはその前段が記載されており、それに拠ると「第五代考昭天皇の時に八河江比売を祭神として創建された」と記載され、その後に「元正天皇の時代に元正天皇二宮(文武天皇二宮)が中興された」と記載されている。




■近江国に繁栄した古代氏族「浅井氏」に就いては様々な議論が在る中に、古代氏族物部守屋の末裔とされる意見が在り、又は、物部氏を妻にしたとする意見が在る。
しかし、「蘇我馬子」が「厩戸皇子(聖徳太子)」が編纂されたものを修撰したと記載される「先代旧事紀」に拠れば、「越中新川郡」の発祥が「物部連」の祖の『大新川命』に由来すると云い、又、赤丸村に近い高岡市域には『物部神社』が鎮座している。『物部氏』は蝦夷討伐の為に「北陸道将軍 大彦命」に従って越中に来たり、祖先神を祀って「物部神社」を創建したと伝わる。「大彦命」は第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父であり、四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。第九代開化天皇(孝元天皇の皇子)の兄弟に当たる。
(※「厩戸皇子(聖徳太子)」;父 31代用明天皇、母 第29代欽明天皇の娘の穴穂部皇女
妻 蘇我馬子の娘の刀自古郎女トジコノイラツメ、子 山背大兄王、蘇我馬子の子に蝦夷、孫に入鹿)
(※「越中国射水郡 物部神社」;富山県高岡市東海老坂字川田1068
(祭神) 宇摩志麻治命
この神社は、その後、「前田利家」に因って金沢市に勘請されて『金沢尾山神社』の祭神に成っている。)



■伊勢神宮外宮の神宮「度合延佳」は「神名帳考証」の中で、「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神が近江の「矢合神社」の祭神と同じで在ると指摘し、「浅井とは浅井の神有れば成り」として「浅井神社」の由来がこの近江の古代氏族浅井氏の氏神を祀ったもので在る事を指摘している。
又、「赤丸浅井神社由緒」では、小矢部川と庄川が合流していた「赤丸浅井神社」の前には大きな水郷が在って、これを当時、「阿光ケ淵(※吾子ケ淵)」と呼んだとされて、その絵図が石川県立図書館の「森田柿園文庫」に保管されている。



■又、【「物部氏」の祖先の「宇摩志麻治命」の八世孫(※新川大連の子)「物部武諸隅連タケモロズミノムラジ」は「第11代崇神天皇」として即位された】とされており、「瓊瓊杵尊ニニギノミコトの十八世孫の「尾治乙訓與止連オワリノオトクニヨジノムラジ(※尾張連)」の弟の「宇摩志麻治命」の子孫から「第11代崇神天皇」が出たとされている。








◎「先代旧事紀」は、【「蘇我馬子」が「厩戸皇子(聖徳太子)」が編纂されたものを修撰した】とされ、歴史的には蘇我氏と物部氏の対立が指摘されるにも拘わらず、その内容は寧ろ、「物部氏」の歴史を詳細に記載している。それに拠ると、
【「高皇産霊神タカミウブスナノカミ」の子の「饒速日命ニギハヤヒノミコト」が中つ国の豪族「長髓彦」の妹を妃として生まれた子供が物部氏の祖の『宇摩志麻治命』で在るとし、その子孫から「尾張連」や「新川大連」を輩出して、「新川大連」の子は第11代崇神天皇として即位された】と伝える。

■「先代旧事紀」を調べると、古代の天皇家には「物部氏」が深く関わっており、その先祖は「越中新川郡」の語源に成っている「新川大連」で在ると言う。又、近江国(滋賀県)の『浅井一族』は「物部氏」で在るともされており、広大なびわ湖の周辺の近江国「矢合神社」にも『八河江比売』を祭神とする神社が在る。この女神は天孫降臨の時に神々の指令神・最高神の「高皇産霊神タカミウブスナノカミ」から神々を率いて国の安定を図る様に指示された『大国主命』の孫の妻の神とされ、「大河の畔に祀られる水神で在る」とされる。

従って、当初は、「第五代考昭天皇」の時に、「物部氏」と所縁の強い越中の地に物部氏で在る近江国の浅井一族が信仰した『八幡河内江比売神』を勘請して、「延喜式内社赤丸浅井神社」が小矢部川と庄川の合流地点の赤丸村に創建された。その後、天皇家と近かった「物部氏」を駆逐した蘇我氏の「蘇我馬子」が、「先代旧事紀」を再編纂したものと見られる。
又、【蘇我氏の血を濃厚に引く『文武天皇』の姉の「元正天皇」の時代に、古くから物部氏の神社で在った「赤丸浅井神社」を再建し、改めて、『八河江比売』よりも上位に当たる『高皇産霊神』を祭神として物部一族の近江国浅井一族との関係を伏せて、この神社を蘇我氏と密接な「文武天皇二宮」の「石川朝臣広成」が再建されたとした】と理解すると、この神社の歴史の謎が解けて来る。
(※「石川朝臣広成」;父 文武天皇、母 石川刀自郎女、母親代りとして元正天皇)



💠【大江広元日記】源頼朝家臣の「大江広元」(旧姓 中原広元、巴御前の一族)の日記に記される鎌倉幕府の実録⇒もう一つの【義経記】、【吾妻鏡】、【源平盛衰記】!!

2021-04-10 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
🔴【越中松倉郷に住した刀工「正宗十哲」の一人[江義弘](「郷義弘」)は《大江氏》と云われる!!】





🔻「越中国」と「長井」➡「大江」➡「毛利」一族の痕跡!!
源頼朝の家臣の「大江広元」は、初期には「長井氏」を名乗り、子孫は「毛利」を名乗った。「大江広元」は膨大な統治記録の「大江広元日記」を遺しており、「義経」との記録も遺している。富山県高岡市内島村は、「南北朝時代」に大江氏の先祖とされる「長井氏」の所領で在った事が「毛利家文書」に遺されている。(※「富山県地名大辞典」)

又、古書の「刀剣鑑定書」には、「江義弘」と記載されるものも在り、「郷義弘」は、「越中の松倉郷に住んだ」事から、「郷義弘」と刻んだと伝えられる。しかし、真贋は明らかでは無いが、実際に「江義弘」と「制作年月」が刻まれる「古刀」が存在しており、都から遠い越中の国に住んだ「江義弘」は「松倉郷住 義弘」とされるのが普通だが、何故か「郷」と伝えられる。「郷義弘」と銘打ったものが見つからないのは、実際には「江義弘」で在ったからでは無いだろうか?
「歴史」として伝えられるものは、「口伝」が多く、誤りも多い。それ故に「幻の郷義弘」は更に人気が出たものかも知れない。従って、現在伝えられる「郷義弘」は「刀剣鑑定家」が墨書きを加え、鑑定書を作文して、鞘書きを加えて「郷義弘」として流通している。当時はこの「鑑定書」や「鞘書き」を加えただけで、その刀の一振が「一国」とも交換される位に高価なものになった。そこに、「偽刀」が登場する余地が在った。
「源頼朝」と「越中吉岡庄(※(富山県赤丸村)」の統治を巡って、「後白河上皇」がやり取りした有名な古文書が「鎌倉幕府の正史」とも云われる【吾妻鏡】に遺されている。「毛利家文書」に遺されている高岡市内島村の記録は、当時は「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」の隣接の「高岡市内島村」の記録で在り、「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」の域内で在ったのかも知れない。後世の「五位庄」では「内島村」は完全に「五位庄」に含まれている。又、内島村の隣接の「越中吉岡庄」には、同時期に「宇多一族」が繁栄しており、刀剣鑑定の古書に「宇多派」と「佐伯則重」、「郷義弘」が各々、技術を交流したと記録されているのも、それぞれが小矢部川流域の近接地や北陸街道沿いに栄えたからで在ったのでは無いだろうか?

・「高岡市内島村」は、「毛利氏」の祖先に当たる「長井氏」の所領で在った。



🔽「越中刀工系図」➡【江義弘】、【宇多国光】








■【大江広元】は紀伝体(「本紀」・「伝」で記される歴史を伝えた)で歴史を伝えた歴史家の「中原廣季」へ養子に入り、後に「大江氏」に復姓した。
「中原氏」は、古くからの学者の一族で、代々「天皇」や「上皇」にも近侍して「院宣」等を発行した著名な学者を輩出した。又、「木曾義仲」を密かに養育した「中原兼遠」やその息子で、「源平の戦い」で木曾義仲軍として名を挙げた「今井兼平」、「樋口兼光」、「巴御前」の同族としても有名だ。
この子孫から「長井氏」や戦国武将「毛利氏」が出ている。
「大江広元」は鎌倉幕府の正史とも云われる【吾妻鏡】や、室町時代に成立したと云われる「義経記」とも異なる観点で、「後白河院庁」や鎌倉幕府の中枢で政務を取り続けた人物として【大江広元日記】(76巻、78巻の写本等が在る。)を遺している。
嘉禄元年(1222年)、「北条政子」、「大江広元」が死去。初めて「北条泰時」、「北条時房」の複数の執権制が成立した。



≪◆ここに一部紹介するのは、【扶桑見聞私記】(「別名 大江広元日記」:「扶桑国」=「日本国」)の76巻本の写本で、「信州松本藩水野忠幹」が享保3年に藩主になると「松本地誌」とも云われる【信府統記】の編纂事業に着手して、家臣の「鈴木重武」、「三井弘篤」、「丸井友陳」、「野村政助」を助手として編纂に着手された。しかし、この【信府統記】は、完成する事無く「水野忠幹」が死去して、その完成は次代の「水野忠恒」の時代で在ったと云う。この写本は「野村政助」がその編纂資料として写本を記載した自筆本で在り、76巻本の内、12巻下と「壇之浦の戦いの部分」と見られる24,34~41巻が欠けた68冊本で在る。この写本は信州に関係した「木曾義仲」の部分に就いて遺されたものらしく、「義経、弁慶主従」の奥州落ちや「富樫屋敷」での弁慶の勧進の様子やその時の富樫の心情等が詳しく記載されている。又、後白河院政や鎌倉幕府の官僚としての立場から、「後白河上皇」の皇子「以仁王」の「平家追討の令旨」を承けて全国の源氏に伝えた源義朝の弟の「源行家」の動きを具に記載してその功労を愛でている。これ等は「後白河院」や源氏三代将軍や藤原摂家将軍、執権北条氏の時代の「鎌倉幕府」の実録として貴重な記録である。≫

・「加賀安宅川の戦い」、「越中般若野(高岡市中田~砺波市)」の「木曾義仲」の平家との戦い




◆【大江広元】
久安4年(1148年)大江維光の妹が嫁いだ「藤原光能」を父、先祖に白河院、堀川院の時に和漢、和歌の才人として著名な「大江(江)匡房」を持ち、京都に生まれる。後に、母が「中原廣季」と再婚してその養子となる。
■【中原兼遠】中原氏の祖とされる「以忠」の系統とされ「木曾義仲」を匿って育てた。子に「木曾義仲」に従った「樋口兼光」、「今井兼平」、「巴御前」は本姓は「中原氏」。
(※【羣書系図部集巻176大江系図、165中原系図)

・年月不詳:明経得業生となる。
・仁安3年(1168年)12月13日:縫殿允に任官。
・嘉応2年(1170年)12月5日:権少外記に遷任して後白河院政(※「越中吉岡庄」は後白河院の庄園で在った。)に通暁する。
・承安元年(1171年)1月18日:少外記に転任。
・承安3年(1173年)1月5日:従五位下に叙位。
・月日不詳:九条兼実の政務に関与。
・寿永2年(1183年)4月9日:従五位上に昇叙。
・元暦元年(1184年)六月:36才、兄の中原親能の進言で相模国鎌倉に下向。源頼朝に招かれてこの年の十月に家政機関たる「公文所別当」に就任。9月17日:因幡守に任官。
【・元暦元年(1184年)2月、木曾義仲、中原兄弟が戦死。
木曾義仲軍は近江国粟津の戦いで破れ、「倶利伽羅谷の戦い」(富山県小矢部市、石川県津端町)等で平家追討に戦効が在った中原兄弟の「今井(中原)兼平」は義仲の後を追って自害。「樋口(中原)兼光」が「源義経」に捕縛されて斬首。「巴御前(中原氏)」は落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだが「和田合戦」の後に、越中国礪波郡福光の越中石黒氏の元に身を寄せ、出家して義仲・中原親子の菩提を弔い91歳で生涯を終えたと云う。】
・文治元年(1185年)4月3日:正五位下に昇叙。4月27日:頼朝が公卿に列したのに伴い、「公文所」を「政所」と改め、別当に留任。6月29日:因幡守を辞す。
・建久2年(1191年)4月1日:明法博士兼左衛門大尉に任官。検非違使にも補任。11月5日:明法博士を辞す。
・建久3年(1192年)2月21日:検非違使・左衛門大尉を辞す。
・建久7年(1196年)1月28日:兵庫頭に任官。
・正治元年(1199年)正月将軍頼朝が没した後、北条氏を中心とする執権政治の確立に貢献。四月、十三人の御家人の合議制を取り、三善康信、中原親能、藤原行成等と共に北条時政、義時を補佐して政務を取り仕切った。12月9日:掃部頭に遷任。
・正治2年(1200年)5月:大膳大夫に転任。
・建仁3年(1203年):将軍頼家が比企氏と共に謀殺された。時政の娘婿の平賀朝雅の乱が起こり時政が失脚して、広元は北条義時を補佐。大膳大夫を辞す。
・建永元年(1206年):政所別当を辞す。
・建保元年(1213年)1月5日:和田義盛の乱の鎮圧。従四位上昇叙。
・建保2年(1214年)1月5日:正四位下昇叙(極位)。
・建保4年(1216年)1月27日:陸奥守に任官(極官)。▼閏6月1日:【「大江氏」に改める】事を朝廷が許可。8月:政所別当に復職。
・建保5年(1217年)11月10日:陸奥守を辞す。出家して覚阿を号す。
・承久三年(1221年)五月:【後鳥羽上皇】により「承久の乱」が起こる。
「越中吉岡庄」が「後鳥羽院」の庄園で在った為に「越中宮崎氏」や「赤丸浅井城を累代居城とした」(※「富山県西礪波郡紀要」)とされる「越中石黒氏」、「加賀林氏」等は後鳥羽上皇軍に馳せ参じたと云う。
この時、「大江広元」は、鎌倉幕府「北条義時」に京都への進撃を薦め、長男の親廣が上皇に従った為に他の子息を幕府軍に参加させて大江家を繋いだ。
・嘉禄元年(1225年)6月18日:死去。享年78。法名「覚阿」。










■【今昔物語】にも登場する「大江氏」のルーツ
➡「垣武天皇」と「大江氏」、富山県西部と「垣武天皇」の繋がり!!

文武天皇から聖武天皇の時代の朝廷の実力者は「藤原不比等」だったがその後は、天武天皇の孫で壬申の乱で活躍した高市皇子の子「長屋王」が力を持った。政変が起こり長屋王が自殺すると、「藤原不比等」の子の4人が政権を担当する。だが藤原氏には相次ぐ不幸が訪れ、藤原四兄弟の武智麻呂、房前、宇合、麻呂が相次いで天然痘で死亡。その後、孝謙女帝・淳仁天皇・称徳天皇の時代では、臣籍降下した皇族で聖武天皇の妻の「光明皇后」の異父兄で在る「橘諸兄」が、次いで光明皇后の甥で南家の「藤原仲麻呂(恵美押勝)」、次いで孝謙女帝が寵愛した僧の「道鏡」が権力を握る。「称徳天皇」の後の「光仁天皇」、その皇子の「桓武天皇」は「光仁天皇」を擁立した「藤原永手、良継、百川、魚名」等と調和していたが、延暦15年(796)に右大臣藤原継縄が死亡して大納言以上に藤原氏が1人もいなくなると、「桓武天皇」の従兄弟の皇族達が太政官の要職を占めた。「桓武天皇」は、百済系渡来人である母方の和氏や百済の王族の子孫で百済王一族を優遇し、外祖母にあたる【土師氏】の一族にも、【大枝(後の大江氏)朝臣】や「秋篠朝臣」、「菅原朝臣」の姓を与えて皇族に連なる氏族とし、有能な官人を登用して親政を行った。【大江氏】は天皇の一族として繁栄して、鎌倉幕府では源頼朝の側近として権力を握った。
この一族が「加賀藩」の「前田氏」と云われ、「土師氏」末裔の「菅原氏」を名乗った。
🔽「垣武天皇」の姪に当たる「五百江女王」は、「越中国」の国吉村に在った庄園「須加庄」を所有していた。「橘諸兄」の支援を受けていた「大伴家持」も連座した「垣武天皇」の弟「早良親王」が犯人とされた「藤原種継暗殺事件」の後に、「五百江女王」はこの庄園を「東大寺華厳院」へ寄進して「東大寺庄園」として存続した。(※「平安遺文」)

🔴🔹【義経記の「勧進帳」の場面のルーツ】⇒【川人山鞍馬寺三社記】と【本山派修験道 門跡寺院聖護院派 五位庄赤丸村 川人山鞍馬寺】の本山【三井寺】の【修験道作法】!!

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町赤丸村


■平安~南北朝末期に「越中吉岡庄」と呼ばれた庄園は室町時代から「越中五位庄」と成って登場する。


■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「吉岡庄・「五位庄」の惣社(代表社)で在った。その別当は「本山派修験道 門跡寺院聖護院派 川人山鞍馬寺」と云う。













■「義経記」に登場する山伏姿は本山派修験道三井寺の山伏衣裳。「義経一行」は、赤丸浅井神社前の「二位の渡し」から舟に乗ろうとした所を「平権の守」に見咎められて、咄嗟に「弁慶」は「義経」を引きづり出して扇子で打擲して疑いを晴らす。
このシーンが【勧進帳】の見せ場の【安宅の関】のシーンとして改変されている。この「権の守」は、室町時代の「川人山鞍馬寺三社記」と言う記録に【権之守】として登場する。「義経記」が室町時代に書かれた事から、この事件の実際の場所は「後白河上皇の庄園の越中吉岡庄」の事件なのだが、「義経記」では、「足利義満の庄園の五位庄」の事件として記載されている。




















■【越中吉岡庄】の庄園領主「後白河上皇」は篤く熊野三山を信仰されて、自らが出家された【近江国 三井寺】に総取締の「熊野三山検校」の位を与えられた。赤丸村の「川人山鞍馬寺」はこの「本山派」で在り、これに対して、平安時代~江戸時代に隆盛を得た「真言宗系」の修験道の一派で「金峯山」を拠点として【三宝院(醍醐寺)】を本寺とした修験道を「当山派修験道」と言う。「本山派修験道」は天台宗系だが、何れの流派も「役の行者」が開いた山岳修験道を元にする。















■越中には、白山を開いた「泰澄大師」が開いた「医王山」系の「白山修験道」や「立山修験道」等の流れが在り、「川人山鞍馬寺」は元々、「赤丸浅井神社」の神域に「大澄大師」が開いた「庵」を元にすると云う。
現在、「井波瑞泉寺」の宝蔵に祀られている「富山県重要文化財木造阿弥陀如来立像」は、元々、「川人山鞍馬寺」の本尊と伝えられており、瑞泉寺でもこの仏像は「 医王山系の仏像」として伝えられている。


🔴【衆徳山総持寺】(※高岡市関町)に安置される福岡町木舟の【貴船神社】の御神体【大彦命像】の遍歴!!

2021-02-14 | 富山県高岡市福岡町
【能登末森城の戦いに出陣する前田利家】
(※【淳正公家伝】加賀藩前田家第十五代「淳正公(利嗣)」所蔵)
「能登末森城の戦い」では、攻める「佐々軍」(※「木舟城佐々平左衞門」、「守山城神保氏張」、「五位庄柴野城寺嶋牛介」、「赤丸城中山直治」)と「前田利家軍」が激突したが、決着はつかなかった。
(※「寺嶋牛介」は「中山直治」の叔父)








🔻【木舟城の鎮守社【貴船神社】の「御神体」】
最近、発見した高岡市関町の「総持寺」(元々、五位庄赤丸村に在った。)に安置される「貴船神社」の御神体。長く木舟城の城主で在った越中石黒氏の祖先「大彦命」の「神像」と見られる。
➡【天正元年、大彦命】と見られる文字が彫り込まれている。




◆後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸)から動いたとされる古刹の「高岡山総持寺」は、前田利長の菩提寺「瑞龍寺」が隣接地に創建された時に、山号の【高岡山】が瑞龍寺に召し上げられ、現在は「衆徳山総持寺」になっている。(※「富山県大百科辞典」富山新聞社刊)

◆この寺は室町幕府から「安堵状」が出されていた古刹で在った。(※【蔭涼軒日録】足利義満が創建した京都府「相国寺」の記録)





◆総持寺には「越中吉岡庄」の領主で在った【後鳥羽上皇】の祈願仏が祭られている。
胎内名に「後鳥羽上皇」の法名【本願聖人 金剛位理卿】が記される。




■【木舟城城主越中石黒氏】の祖先「利波臣」の祖「高志利波臣」(※「古事記」)

🔽この御神体とされる「石像」には、「越中石黒氏」の祖先同族の「(北陸道将軍)大彦命」の名前と「天正元年」の記載が在る。
⇒「彦」は「ヒ」+「子」の略か?

🔽【大彦命】は「先代旧事記」(※伊勢神宮神官度合延経 著)では、【越前、越中、加賀、能登、越後を領した「高志国造」は「大彦命」の末裔】とされる。
《※「古事記」では、「孝霊天皇」の子孫に「高志利波臣」の記載が在る。
又、「先代旧事記」では越中の「射水国造」は蘇我氏の同祖の「武内宿弥」の子孫とされるが、「石黒系図」では「利波臣」と「射水臣」は同祖とされる。「越中石黒系図」では、「武内宿弥」を祖とするという説明と「藤原不比人」の末裔の藤原氏とする説が在り、累代の婚姻や分家等に因って様々な系図が作られている。》

🔻【先代旧事記】に記載される「越中石黒氏」の祖先の「高志国造」
(※「古事記」には「高志利波臣」と記載される。)








■【木舟城】と「石黒氏」
「総持寺」で発見した「貴船神社」の「御神体」の【大彦命】は、年代から想定すると、佐々軍が入城する前の城主で在った【越中石黒氏】が製作したものと見られる!!
石黒氏は織田軍に攻められ天正年間に木舟城を去っている。








🔻「石黒氏居城」の「木舟城」
・天正年間(1573年 - 1591年)、越中国中田城、越中国柴田屋館(天正3年(1575年)頃か)を攻めたとされる。
・天正2年(1574年)7月、上杉謙信に攻め落とされて臣従した様だが、それ以前にも臣従、離反していたフシがある。
・天正5年(1577年)12月23日に書かれたとみられる『上杉家家中名字尽』に石黒左近蔵人(成綱)の名が見える。
・天正6年(1578年)、上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付いた。
・天正8年(1580年)2月、天正9年(1581年)4月と2度にわたって一向一揆勢の重要拠点で当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされた。因みに同年7月、石黒成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて殺害され、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)。



🔻「木舟城主佐々成政」の入城
・天正8年7月、織田信長軍の圧力に抗し切れず「木舟城主石黒宗信」が「木舟城」から海路を使って退去した。結果、「木舟城」は織田方の手に落ちて佐々成政の支配下に入り、成政の重臣佐々平左衛門が入った。
《◆「木舟城主佐々平左衞門」の娘婿「前野加賀守」の子孫に、水戸光国の家臣【佐々木助三郎】(※通称【助さん】)が居る。》
・天正12年(1584年)、佐々軍(木舟城佐々平左衛門、守山城神保氏張、柴野城寺嶋牛介、赤丸浅井城中山直治)15000名が「能登末森城」攻略のため木舟城を出発するも撤退【末森城の戦い】。
・天正13年(1585年)5月、木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主神保氏張、越中国井波城主前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めたが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退された(今石動合戦)。



🔻【前田家入城】
.天正13年8月、豊臣秀吉の北国征伐(富山の役)により成政が降伏(なお、この時に成政は大した抵抗もせずに降伏したと云われているが、成政軍の一部が木舟城辺りで夜討ちを仕掛け、前田軍に数十人の死傷者が出たという記述も在る。成政降伏後に前田軍が慰霊祭を行ったとされるが、その時の死者に対して行なわれたものと思われる)。木舟城は前田氏の支配下に入り、前田利家の末弟である秀継が城主となって4万石を与えられた。
・【飛越大地震】同年11月、天正大地震発生。これにより城の地盤が三丈(約9m)も陥没。木舟城は倒壊して秀継夫妻は多くの家臣等と共に圧死した。遺体が見つかったのは3日も後の事だったと云う。また城下も壊滅的な打撃を受けた。遺領は秀継の子である利秀が継いで木舟城に入った。
🔽この時に前田軍は貴船神社の御神体を引きずり出して犬の首に縛り付けて木舟城の前を流れる川に投げ入れて「御神徳が在るならば浮かんで見よ」と嘲り笑ったと言う。この「御神体」が現在、高岡市関町の「総持寺」に密かに祭られている。この直後に起こった「飛越大地震」でぬかるみの上に建てられた木舟城は土の下に埋もれて、城主以下全員が土中に埋もれて死亡した。貴船神社の御神体の「天罰」と言われて、その伝承が語り伝えられた。
「越中石黒氏」の祖先は東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進したと伝わる「越中国利波郡」の名前の由来にもなっている古代豪族「利波臣」の末裔とされて、奈良時代から南北朝時代に越中西部に勢力を持っていた。そこへ、尾張の前田家が攻め込んだ事から、地元民衆の反感が強かった様だ。同じく、尾張から木舟城へ入城した「佐々成政」は信義に篤い武将と伝えられて越中では信頼されていたが、その後に越中に進攻した「前田利家」は各地で「浄土真宗の一向一揆」を皆殺しにしたり、「天台宗石動山」に攻め込んで「全員皆殺し」にして一千以上の人の首を山門に吊したと言う「悪逆非道」の武将で在った。
・天正14年(1586年)5月、利秀が上洛途中の上杉景勝を木舟城に迎えているが、震災の痛手からの立て直しは困難であるとの判断から、その年のうちに廃城となる。行政機能は今石動城に移され、城下の民は四散した。小矢部市の今石動城下に残る糸岡町、鍛冶町、御坊町、越前町などの(旧)町名は木舟城下にあった町名に由来していると云う。慶長14年(1609年)に高岡城が築かれるとゆかりの町人がと移住し、今日に木舟町の名を遺している。
(wikipedia参照)


📚📖 「加賀藩記録」の【御家御系図】に見る加賀藩の事跡⇒加賀藩士【松島孫三家文書】!!

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「加賀藩 御家御系図」(※加賀藩士 松島孫三家文書)





■この書には加賀藩前田家の所領、系図、各藩主の事歴が記される。「前田家 」は当初、「豊臣」を名乗り、次いで「源氏」を名乗り、後には「菅原」を名乗ったと云う。又、領国は加賀郡、江沼郡、能登四郡(一万石は除く)、越中四郡(新川、婦負郡の内十万石を除く)、近江国高嶋郡の内 三ケ村(今津弘川、梅津、中村町)が加賀藩領地で在り、石高は百二万五千二十石二斗八升二合で在ったと記されている。この内、近江に二千四百石もの所領が在った事は余り知られていない。この松島家は家録は少いながら武芸の家紋で在り、第十三代藩主前田斎泰から御前試合の褒美に加増されたと云う。
この家系は剣道、柔、軍略等の家で在った様で、多くの軍略書が遺されていた。


🔴【身近に残る室町時代の足利幕府の痕跡。】 室町時代の「宇多刀鍛治」と「越中守護畠山持国」!!➡ 高岡市柴野「天冠山三光寺」に残る「畠山家墓地」と「宇多家墓地」

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










■高岡市柴野(十日市)に在る【曹洞宗三光寺】(※元は臨済宗で、寺名は臨済宗の高僧「三光国師」に由来する)は「加賀藩主前田利長」の菩提寺の「繁久寺」の末寺で、「繁久寺」の住職の隠居寺に成った寺。寺紋に加賀藩の「剣梅鉢紋」を使用している。織田信長の四女で、前田利長の妻に成った「永姫」(玉泉院」は、伯母(信長の妹)が嫁いでいた元の「神保氏張」の居城の「高岡守山城」を見晴らす高岡市柴野に「三光寺」を再建して、「繁久寺」の僧を招いた。
高岡市の前田家菩提寺「瑞龍寺」には、「織田信長」の分骨廟が在る。
【▼天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時に、利長は永姫と共にに上洛途中の近江国瀬田(現在の滋賀県大津市東部)でこの変事を聞き、当時7歳の「永姫」を前田家の本領「尾張国荒子」へ逃がして匿った。子供は無く、加賀藩第三代前田利常は前田利家の四男を養子に迎えた。】

この寺は、「室町時代」に臨済宗寺院として建立されたと言う由緒在る古寺で、この寺には室町時代の越中守護を務めた「畠山家」や、「越中吉岡庄」(※宇多刀工の工房跡は赤丸村舞谷 鍛冶屋町島)と呼ばれた南北朝時代から江戸時代迄続いたと云われる越中刀工「宇多家」やその一族の墓が在る。

















■「室町幕府」と「五位庄」
「越中吉岡庄」は室町時代に入ると、室町幕府御粮所に成り、「足利義満」は「五位庄」を「臨済宗相国寺」に寄進した。南北朝末期に「吉岡庄」から「五位庄」と改名された後に、越中は八郡に分割され、「利波郡」は「蓮間郡」と「利波郡」に分かれていた。(※室町幕府御粮所; 幕府の兵粮を調達する庄園)
「赤丸浅井城」の在る小矢部川西部は「利波郡」と成り、「畠山文書」の「越中統治絵図」に拠れば、この頃は「赤丸浅井城」は「畠山一族」で【応仁の乱】の原因を作った「畠山持国」の居城で在った事が記されている。「応仁の乱」では「畠山持国」の跡目を巡って「畠山義就」と「畠山政長」が争った。
(※「越中之絵図」大阪府羽曳野市羽曳野資料叢書 畠山文書)

















■「足利義満」の時代には「越中守護畠山氏の居城」の「赤丸浅井城」の周辺から、「臨済宗」以外の寺院は立ち退きを命じられた。
又、「越中蜷川氏」は北陸自動車道富山インター前に位置する富山市蜷川の「蜷川城」を本拠とした。「足利義満」の近臣で「政所代」に任じられた「蜷川新右衛門」は「越中国新川郡、利波郡」を統治したと云う。「蜷川城」の跡には「蜷川新右衛門」の菩提寺で曹洞宗の「最勝寺」が在り、この寺を開いた僧が「赤丸浅井神社」とその別当に当たる「川人山鞍馬寺」で「越中国利波郡五位庄住の藤原直家」の先祖の法要を営んだ記録が「東海宗洋法語録」(※「富山県史中世」)に掲載されている。(※「蜷川の昔」)













「越中国利波郡五位庄」




🔴《重修真書太閤記》【宇多派刀工】と【太閤 豊臣秀吉】⇒【宇多源氏佐々木氏流】の刀工【宇多派】と【宇多源氏佐々木氏流高島氏】の流れを汲む【木下藤吉郎】!!

2020-09-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「越中吉岡庄(赤丸村領鍛治屋町島)」に展開したと伝わる「刀工 宇多派」の作品 が「豊臣秀吉」に愛されて「太閤遺品帳」(※「甫菴太閤記」)にも記載される。!!
「豊臣秀吉」は宇多源氏佐々木氏流と言われ、「宇多刀工」も同じく「宇多源氏佐々木氏流」で在ると云う。
秀吉の出身地は宇多源氏佐々木氏流が繁栄した「近江国浅井郡」で在ったと云う。

■鎌倉時代末期に、【宇多刀工】が大和国宇陀郡から移り住んだ『後醍醐天皇』の庄園『越中吉岡庄』の鍛冶屋町島(※富山県高岡市福岡町赤丸)









【宇多派初代 『宇多国光』 の太刀】



【南北朝時代迄は『古宇多』と言う】

《※特別保存刀剣『古宇多』》

■【太閤記】には主なものとして、江戸時代発刊の「真書太閤記」、「甫菴太閤記」(※「加賀藩小瀬甫菴 著」)、「重修真書太閤記」(※「栗原孫之丞信充 著」)が在る。

①「真書太閤記」は「太閤記物語」で在って実際には行われなかった「太閤秀吉の葬儀次第」等も作文して、秀吉の功績を吹聴する意図が大きく、実録としては物語性が強い。






②加賀藩士「小瀬甫菴 著」の「甫菴太閤記」は、実録に近くしようと苦心した様子は在るが、「実録」としては物足りない。





③「重修真書太閤記」は、全六編60巻(※十一編?)の大作で在り、関係者 についても出自等迄が詳細に記されている。作者自身、巻頭言で「甫菴太閤記」等の既刊の「太閤記」には記載 されない部分も補充して記載した事を述べているが、この書には豊臣秀吉の本姓【木下家】や秀吉の母【於仲】の系図等も詳しく載せている。この系図では、木下藤吉郎の曾祖父は元々、比叡山の僧で八才の時には出家して比叡山に登ったと言う。その後還俗して尾張國中村に住み、「中村弥助國吉」と名乗り、その子は「中村弥右衛門昌高」と名乗る。その子は「藤吉郎」の父の「中村弥助昌吉」と云い、「織田信長」の父の「織田信秀」に仕えて、数々の武勲をあげたものの戦争で負傷して侍を辞したと言う。

















■「豊臣秀吉遺品帳」には多くの「宇多刀」がみられ、近臣の「長谷川秀一」には「国光」の太刀が与えられている。一部の書には「豊臣秀吉」自身が「宇多一族の同族」と記されるものも在り、「宇多源氏佐々木氏流」とも言われる系図の中に、「宇多源氏佐々木氏流高島氏」が在ると「重修真書太閤記」は記している。又、この「高島氏」には【越中守】に任じられた者も在ると言う。





■「中村家」の祖の「比叡山の僧の昌盛」の身元は、元々、「木下郷」に住んで【木下】を名乗ったと云う。江州浅井郡長野村の「百姓長助」と云う者の二男が八才の時に比叡山に登り、「昌盛」と名乗ったが、修業の成果に満足できずに遂には還俗したとする。元々、先祖は「佐々木流高島家の末裔」の武士で在ったので、「昌盛」は還俗して暫くは、近江国浅井郡長野村に帰り、兄の「長左衛門」の家に同居していたと云う。



■又、藤吉郎の母の「於仲」の素性は、「持萩中納言保廣卿」の娘であった。この公卿は、明応三年、後土御門院の御宇に天皇に不快な「歌」を献上したとして、罪を得て尾張国御器所村に遠流に成り、そこの猟師次大夫の娘「いう」と恋仲に成り、一女を設けたが、やがて、赦されて都に帰って間もなく亡く成ってしまった。寄る辺無き身の母と娘は、仕方なく叔父の【鍛冶五郎助】の世話になる事に成ったと云う。
(※明応《1492年から1501年迄》天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。)

◆【※「鍛冶」と言う姓は「越中刀工宇多派」の分家筋で在り、この家系も「宇多源氏佐々木氏流」の一族で在ったものか? 「宇多」は本家のみに許されて、分家は「宇田」、「鍛冶」を名乗ったと云う。⇒高岡市四日市の「宇多家」の菩提寺「三光寺」住職 談】

■【宇多一族の菩提寺三光寺】と【宇多一族の宇多、宇田、鍛冶家の墓】














■「宇多刀工」の祖の「宇多国光」は、滋賀県甲賀市付近(旧:甲賀郡)で平安時代の天皇である「宇多天皇」の後裔の「佐々木氏」の後裔と伝える。「佐々木氏」は宇多天皇の子孫の「成頼」がその祖と言われ、その子には「佐々木義経」が居る。
甲賀衆には「宇多」と名乗った一族がおり、この一族が奈良県の宇陀郡に移り住んで作刀したと見られる。
大和国宇陀郡は伊勢市とも隣接しており、この国の国侍達は伊勢国司北畠親房の配下で在り、「後醍醐天皇」が宇陀郡の「八咫烏神社 ヤタカラスジンジャ」を崇敬された事から、南北朝の頃は「南朝」の強固な地盤で在った。「北畠親房」は「後醍醐天皇」の皇子の「後村上天皇」の為に「神皇正統記」や朝廷の制度や法律を集約して「職原鈔」を著して、関東でも南朝軍に参戦している。
「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇」の庄園で在り、赤丸村は南朝の牙城で在った事から、大和国宇陀郡から作刀の為に「宇多刀工」を呼び寄せ、大量に刀剣を作刀していたものと見られる。「後醍醐天皇」は吉野への途中に五条市の「賀名生里アノウノサト」に宿を借り、そこに天皇の標の「金の丸」を赤く塗った「赤丸の御旗」を遺されて、天皇の皇子達は「赤丸」を旗標として軍配にも書かれている。「赤丸村」は「南朝の牙城」 として後にこの「赤丸の御旗」から「赤丸村」と呼び慣わされたものと見られる。興国三年、越中に入られた「後醍醐天皇」の「第八皇子宗良親王」は「赤丸城ケ平山」に「親王屋敷」を構え、石黒氏の居城の「赤丸浅井城」や各地の南朝支援の軍を鼓舞されて巡航されたと云う。その時に、隣接した「極楽谷」には「越中宮極楽寺」(※高岡市)を創建されたと言う。
(※「越中宮極楽寺由緒」参照)

◆《大和国宇陀郡》


◆《甲賀郡》


◆《宇多源氏 系図》