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赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🏯 「富山県西礪波郡紀要」に記載される「砺波郡」から出た「国司」の「利波臣志留志」と後裔の「越中石黒氏」の居城『赤丸浅井城』!!

2021-02-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「富山県西礪波郡紀要」に記載される「赤丸浅井城」




■明治42年、小矢部市内に在った「西礪波郡役所」が発行した「西礪波郡紀要」には、「赤丸浅井城」に付いて、「砺波臣の後裔累世此地方を領して此処に居館せり 花園天皇の頃より石黒光弘の後裔此地に住し延元中 次郎光景 此地に城を築きて南朝の為に謀りしことあり 興国二年宗良親王を此地に奉迎せり」と記載されている。
【花園天皇:永仁5年7月25日(1297年8月14日)~ 正平3年11月11日(1348年12月2日)、鎌倉時代の第95代天皇(在位:延慶元年11月16日(1308年12月28日)~文保2年2月26日(1318年3月29日)。持明院統に属す。次代は後醍醐天皇(大覚寺統)】

■「越中石黒系図」に拠れば、「木船城主石黒光弘」は「浅井城主石黒光景」の子供に当たり、「源平盛衰記」では「石黒光弘」は石川県小松市の「安宅川の合戦」で矢傷を受けたが倶利伽羅山(利波山)の戦いにも参戦している。尚、加賀藤原氏の惣領「加賀の林氏」と共に戦った武将の中に「従者」として「六動太郎光景」が見られ、この人物は「赤丸浅井城主石黒光景」と見られる。(※「源平盛衰記」)

■「利波志留志」は聖武天皇が造営された「東大寺大仏」の為に「米五千石」を寄進して国司待遇の「従五位下員外介 越中国司」と成り、後に「従五位上行員外介 伊賀国司」に成っている。「石黒氏の歴史の研究」の「越中石黒系図」では、石黒庄の庄官として赴任した藤原氏が後に「利波臣」の名跡を継いで「藤原利仁の末裔」、「利波臣の末裔」と称していた様だ。
「越中石黒氏」は「孝霊天皇」の皇子「彦刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」の末裔(古事記)とされ、「源平盛衰紀」の「倶利伽羅谷の戦い」、「承久の乱」、室町時代の上杉との戦いの「越中般若野の戦い」、「一向一揆との戦い」、「上杉謙信家臣名簿」、「織田信長の信長公記」等の大戦記録には必ず登場する一族だ。加賀藩時代にも「侍帳」にその名前が出ている。
(※系図には、別に「孝元天皇の系統の武内宿弥の末裔」とするものが在り、何れも天皇家の系統とされている。)


■「孝元天皇末裔の系図」では「武内宿弥」の末裔とされる。


■「孝霊天皇末裔の系図」では「高志之利波臣」として記載される。(※古事記)


■東大寺大仏造営の時の寄進者名簿である「東大寺修院過去帳」には寄進者筆頭に「利波臣志留志 米五千石奉加」と記載されて、毎年、東大寺二月堂のお水取り行事で読み上げられている。


■「利波臣志留志」は越中の東大寺庄園の開発に国司「大伴家持」と共に関わり、正倉院に伝わる「東大寺庄園図」には志留志のサインが記載されている。

■越中は東大寺庄園が30%以上も在った地域とされ、高岡市周辺には「くぼ田庄」、「杵名蛭庄」、「鳴戸庄」、「須加庄」、「鹿田庄」等が在り、庄川上流に在ったとされる「石粟庄図」には「延喜式内社赤丸浅井神社の神田」に寄進されていた事を示す「浅井神一段」の記載も在る。
平成29年には「杵名蛭庄」が祖父川沿いの「高岡市立野地区」に想定されている。この庄園図にも「利波臣志留志」のサインが在る。(※「日本庄園データーベース」国立歴史民俗博物館)

















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