赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📃「東大寺大仏」造営の寄進者「利波臣志留志」と「お水取り行事」!!

2021-02-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「後白河上皇」の「後院領」の「越中 吉岡庄」は「後醍醐天皇」迄皇室領として伝領され、南北朝時代の末期に「五位庄」に改名されたと云う。(※「宝永誌」加賀藩記録)


「越中吉岡庄」の惣社「延喜式内社赤丸浅井神社」は東大寺大仏を建立された「聖武天皇」の弟の「石川朝臣広成」(※「元正天皇二宮」)の創建と伝わる。





























●越中「砺波郡」の語源になった越中「石黒氏の祖 利波臣」の「利波臣志流志」は東大寺大仏造営の時に「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進した。
東大寺では毎年三月の「お水取り行事」の時に、沢山の御経と一緒に「上院修中過去帳」と呼ばれる功績者名簿を読み上げている。

この「過去帳」の読み上げでは「利波臣志流志」は東大寺独特の読み上げをしている。そこで、東大寺の学芸員の方に読み方、意味についてお訊ねした所、以下の回答が在った。

【 「利波志留志」は「りはしるのさかん」と読みます。しかし、実際に読む際には「さかん」を「さくゎん」と読みます。
これは東大寺で受け継がれている“読みクセ”のようなものと考えていただければと思います。
そして「志(さかん)」ですが、こちらは7世紀後半から8世紀初頭に導入された「四等官制」の中で定められている
長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の「主典(さかん)」と同じ意味ではないかと言われています。
よって、意味としては、志(さかん)とは四等官(しとうかん)の最下位の官であり、記録・文書を起草したり公文の読み役を務めたりした者の名称ということです。】

(※「註」「利波臣志流志」は「続日本紀」の記録では当初、米三千石を寄進して、後に庄園100町(井山庄)を寄進して「員外介」と成り、越中国司として任用されており、この「介」は上から二番目の位に当たる。「太政官」においては、 大宝令官員令(養老令では職員令)において、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典( さかん)の四等官が定められ、「国司」は「律令制」で、中央から派遣されて諸国の政務をつかさどった地方官の事で在り、その役所を国衙(コクガ)といい、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官の他、その下に史生(ししょう)などの職員がったと云う。志流志もいきなり「介」になったのでは無く、「目サカン」から順次に「介 スケ」に昇進した為か?
国には上国、中国、下国の格が在り、その国の格式により国司の位も異なった。越中国は礪波郡・射水郡・婦負郡・新川郡の4郡で構成される律令制国家の「郡」が在り、国力は「上国」とされた。「利波臣志流志」は747年に米三千石を寄進して外従五位下と成り、767年には国司(※員外介)と成り、庄園100町を寄進して従五位上となった。779年には「伊賀守」と成り伊賀国司となっている。「有職故実」に因れば、六位の資格では足袋の着用も認められず裸足で在ったと言う。)


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