赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📙📖「越中国古代のロマン」 ・・【東大寺大仏】の造営の貢献者越中国【利波臣志留志】 ⇒ 「東大寺上院修中過去帳」に登場する東大寺の怪談『青衣女人』の物語 !!

2021-02-08 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「東大寺大仏」の勧進を進めたと云う「行基」は「高志氏」!!


■「行基」の墓碑に記載される「本姓高志氏」の記載












■【利波臣志留志】
越中の利波郡司をしていた「利波臣」の中で「大伴家持」が越中国司をしていた時に、東大寺の大仏造営の為に「米五千石」(※「東大寺要録」)を寄進して「従五位上行員外介」と成り、「大伴家持」の後には「越中国司」に任命された「利波臣志留志」は、東大寺の越中庄園の開発にも当たり、正倉院に残る絵図には「利波臣志留志」のサインも残る。高岡市の周辺には「須加庄」、「杵名蛭庄」、「クボタ庄」、「鳴戸庄」、「鹿田庄」が在り、大伴家持はこの東大寺庄園の開発の為に越中に来た東大寺の僧「平栄」を歓迎して宴会を催した事が「万葉集」に残されている。





▼「大伴家持」の後に越中国利波郡郡司の「利波臣志留志」は、「員外介」に任じられ、「越中国司」に任じられた。「延喜式」では、「赤丸浅井神社」の格式の神社は、「国司」が天皇に代わり参拝する「国幣小社」と呼ばれた。従って、「大伴家持」や「利波臣志留志」も国司として「延喜式内社赤丸浅井神社」に参拝していた。時の「聖武天皇」は、「東大寺大仏造営」を祈願され、「大伴家持」や「利波臣志留志」は越中国で東大寺の庄園開発に従った。その結果、「聖武天皇」が東大寺に許された4000町歩の庄園の内、越中ではその1/3が開発された。この時に、「聖武天皇」の義弟の「石川朝臣広成」が再建された「赤丸浅井神社」には「東大寺庄園石粟庄」から「神田一段」が寄進されている。









🔻「延喜式内社赤丸浅井神社」を中興された「石川朝臣広成」は、「文武天皇の二宮」で「文武天皇」が早逝された為に文武天皇の母「元明天皇」、続いて文武天皇の妹「元正天皇」が兄の「聖武天皇」、義弟の「石川朝臣広成」の「母親代わり」を勤められた。従って、「赤丸浅井神社由緒」には「元正天皇二宮」と記載される。「石川朝臣広成」の母は蘇我氏の「石川刀自郎女(娘)」(イシカワノトジノイラツメ)を母として産まれた。「蘇我氏」は、「蘇我入鹿」、「蘇我蝦夷」が「乙巳の変イッシノヘン」で「中大兄皇子(後の天智天皇)」と「中臣鎌足」に殺害された為に、「蘇我石川磨呂」等は「蘇我」を名乗る事を遠慮して「石川」を名乗った。文武天皇の母の「元明天皇」は「蘇我氏」で在り、我が国初の鋳造貨幣とされる「和同開珎」を鋳造する等実績を上げた。(※「続日本紀」)



■毎年三月一日から十四日に行われる東大寺の「お水取り行事」で「上院修中過去帳」と呼ばれる東大寺大仏の造営・維持に貢献した関係者の過去帳が読み上げられる。
この中には聖武天皇を初め歴代の天皇や皇族、藤原氏、源頼朝、実朝等の源氏や北条義時等の北条氏等の権力者が列記され、天皇の次には寄進者筆頭の「利波臣志留志」の名前が記載されている。越中では「東大寺の大仏」造営の時に、越中には東大寺庄園4000町歩の内の三割が在ったとされ、大仏造営には越中の協力が最も大きかった事を富山県の人達には余り知られていない。この庄園の中の「石粟庄」(※富山県庄川町)には「延喜式内社赤丸浅井神社」へ「神田一段」が寄進されていた事が記載される。









■当初、聖武天皇の発願で造営された「東大寺大仏」は、平家が源氏に追われた時に東大寺、興福寺他の南都の著名な寺院に火を放った。「東大寺大仏」は、当初造営された時には「僧行基」や「利波志留志」等の関係者の寄進と勧進で造営されたが、平家に焼かれた南都の寺院はなかなか復興できなかった。寺院の建物だけで無く各寺院の著名な仏像、絵画にも多大な損害を受けた。その時に活躍したのが、運慶、快慶等の「慶派仏師」等の「木仏師」や「南都絵所」と云われた「絵仏師」達で在った。この時、「慶派仏師」は現在の京都駅前近くの七条に工房を構えた事から「七条仏所」と呼ばれた。
高岡市関町の「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」を造った仏師の胎内署名には、「仏所 幸賀 大仏師」・「同 頼真 小仏師」と記されており、この仏師達が鎌倉時代の「七条仏所」の仏師で在ったと記されている。








■「総持寺」の「千手観音像」が国宝に指定された時の官報「国宝概説」には「総持寺は元赤丸村に在った」と記載される。


■「源頼朝」は源平の戦い後、東大寺や興福寺等の奈良の寺院の復興を祈願して全国に復興の勧進を進めた。源頼朝に追われた義経と弁慶が勧進僧に身をやつして北陸路の「五位庄」(※鎌倉時代は「吉岡庄」と呼ばれた。)を奥州へ落ち伸びたのは、正にこの時に東大寺の復興の為に全国的な勧進が行われていた背景がある。又、弁慶の衣裳は「聖護院派山伏の装束」で在り、「後白河上皇の庄園」の「越中吉岡庄」の「聖護院派山伏 川人山鞍馬寺」や「延喜式内社赤丸浅井神社」はこの「聖護院派」で在った事から、義経一行にとっては「吉岡庄」は比較的安全な地域で在ったと見られる。

■「義経一行」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の前に在った小矢部川の渡し場の「二位の渡し」で疑われた為に弁慶が苦肉の策として義経を扇子で打擲した。(※「義経記」)











■毎年、お水取り行事で読み上げられる「上院修中過去帳」の中で、「源頼朝」の18人後に「青衣女人」の名前が記載されている。二月堂縁起にはこの謎の女人について記載されている。
承元年中の頃(1207年~1210年迄。天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。)この「上院修中過去帳」を読む僧集慶の前に青い衣装の女人が来て「どうして私を過去帳に読み落としたのだ」と言って掻き消す様に消え失せた。
この人物ははっきり素性が分からず、取り敢えず「青衣女人」と記載して今も読み続けていると云う。過去帳の女人の名前を集慶が読み落としたものか、それとも初めから記載されて居なかったものか。しかし、読み落された人物の見当がつかない事から、この人物は初めから記載されて居なかったと見られている。この人物の前後の記載からしてこの人物は土御門天皇の時代の人物で、この僧集慶の時代の人物と推定される事から、この女人は僧集慶所縁の人物で在ったものかとドラマチックに考えれられているらしい。通常、この過去帳を読むのは相当年配の僧であり、この青色の衣装は当時は高貴な女人の衣装で在ったと言うから、この女人はこの老僧の若かりし頃のロマンスを秘めているかも知れないと想像を逞しくしていたらしい。
このお水取り行事が十四日間と言う長丁場の行で有り、毎日沐浴、読経、五体投地と精進を繰り返す行で有り、この過去帳を読み上げる後半の十二日に入ると疲労で妄想と幻覚に襲われるらしい。この「青衣女人」は現在も謎の女人とされたまま毎年読み上げられているのだと言う。 (※「青衣女人」全国書房発刊 参照)

■滅ぼされた平家の中で、「平清盛」と源義経の母の「常盤御前」の間に産まれ女の子は長じて公卿の「五辻家」に嫁いで「廊の御方」と呼ばれた。高岡市関町の「千手観音像」が伝来したと云われる河内国の「金剛寺」の過去帳には、この「廊の御方」が「清盛の娘」として記載されている。「廊の御方」は「源義経」とは父親が異なる義兄弟に成り、平家の血筋を継ぐものの母の常盤は奥州藤原氏の親族の公卿一条長成に嫁いでおり、奥州藤原氏は義経を庇護しており、頼朝も交流を持っていたと云う。(※この「廊の御方」の血筋は南北朝時代の後醍醐天皇の母方にも連なっている。)
この「廊の御方」が「青衣の女人」で在った可能性は高い。「廊の御方」は、父方の平清盛の一族が焼き払った奈良の寺院について源頼朝が復興を祈願していた事から、「廊の御方」には贖罪の気持ちが在ったからではないだろうか?



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