赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📑📖📒 加賀藩の歴史を刻んだ二人の歴史家。 ⇒「富田景周」と「森田柿園」!! 新たに発見した「富田景周校正の原本」!!

2021-02-09 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸





■加賀藩の歴史学者で「越登賀三州志」等を著した「富田景周」が校正した「陽廣公偉訓 ( 陽廣公百首 )並 観樹公言行録 」を、幕末から明治にかけて多くの著作を遺した「森田柿園」等が写しを取ったものが石川県立図書館、金沢市立図書館に保管されている。しかし、この「校正本の原本」自体はどこにも保管されていなかったが、写本との照合結果、偶然入手した古本がその原本と見られる事が判明した。

■「富田景周校正原本」の加賀藩の二人の主君の記録『陽廣公偉訓』と『観樹公言行録』











■この度、金沢大学の研究者が所蔵本を処分したものを偶然に入手した。この本は相当古いもので、虫食い、変色も在り、著作者のサインの「臣富田景周頓首百拝謹撰」が記されている。石川県立図書館の「森田文庫」に保管されている森田柿園の自筆写本とこの古い校正本を比較すると、古い方には所々に実際の「訂正、書き入れ」等が在り、欄外に校正した部分が枠に囲まれて記されている。又、訂正部分には上書きや添え書きがして在る。
石川県立図書館の森田文庫の写本も、この校正本を忠実に写しているが、所々に訂正の省略や訂正部分の転記ミスも見られ、石川県立図書館に保管される富田景周の「越登賀三州誌」の筆跡とこの校正本は筆跡が良く似ている。
この校正本の「正本」は本来「陽廣公偉訓」、「陽廣公百首」、「観樹公言行録」が合本になったもので、富田景周は序文で「加賀藩の幾つかの偉訓を合わせて本を作成しようとした」事を記載しているが、結局、校正本は作成したものの実際に発行されずに 加賀藩に伝来したもので、その為に数人の家臣が此の写しを作成して富田景周の著作を遺そうとしたものと見られる。その為、写本には忠実に富田景周の校正本自体を写し取ろうとした形跡が見られ、外見的、内容的に入手した本が富田景周の自筆校正本と判断される。

■「森田柿園写本」(※石川県立図書館)




■「陽廣公偉訓 並 観樹公言行録」は 、加賀藩第三代(前田家四代)前田光高作「陽廣公偉訓」、「陽廣公百首」と、前田 重教(シゲミチ 加賀藩の第9代藩主)の子で、第十代治脩の養子前田斉敬(ナリタカ)の伝記「観樹公言行録」を富田景周が校正して合本にしたもの!!


■森田柿園の著作は石川県立図書館の「森田柿園文庫」に現物が保管されており、申請して写真撮影も許されているが、これ等の著作について専門に研究している方はいないと聞いた。森田柿園文庫には別冊で「観樹公言行録」が保管されており、柿園が富田景周校正本の写本を作った時に別冊にしたものと見られる。
この森田文庫には富山県赤丸村の「浅井神社古墟図」の畳二枚分位の大判のカラー絵図が遺されている。しかし、この絵図は巨大な為に、又、貴重絵図の為に一般に余り知られて居なかったが、平成28年に石川県史編纂室が森田文庫の絵図を白黒、A4版で発行している。富山県西部は加賀藩に含まれていた為に富山県内に加賀藩時代の元本が遺されていない。赤丸浅井神社の由緒や藩政時代の古文書は石川県立図書館と金沢市立図書館近世資料館に多くが保管されており、残念ながら富山県内に現物が遺されていない事から、推測、伝承等が恰も富山県・高岡市の歴史かの様に伝えられている部分が在る。
奈良、平安時代には越中の資料は奈良、京都に遺され、鎌倉、室町時代のものは幕府の資料の中に遺されているのは当然だが、越中は政権中枢が置かれた歴史が無い為に残念ながら歴史資料の現物が殆ど遺されていない。長く属国、被占領国で在った為に古文書が少ない事と多くの戦乱で焼かれた事も在り、奈良、京都、鎌倉、名古屋等の都市は真剣にこれ等の古文書を遺して来たが、越中では支配者が代わる度に資料が焼かれ廃棄されて来ている。何よりも属国の民は支配者が代わる度に、嫌な支配者の記録を積極的に廃棄、焼却して来た歴史が在る事も越中の歴史に多くの推測が入り込んだ原因の様だ。
高岡市でもこれ等の歴史資料の保管が真剣に行われたとは思われない。高岡市の図書館、博物館等には本当に古い資料は他都市に比べて大変に少なく、「貴重書」、「貴重絵図」等の数も少ない。大体、富山県史、高岡市史や福岡町史等の資料の現物すら、現在は何処に在るのか見当もつかない。しかも、これ等の史書には推測、決め付け、作り事が多く見られ、原本主義の歴史書とは言えない。
時々の政治家は思い付きの様に「県史」、「市史」、「町史」を編纂し、終わればその原始書類が何処かへ消えて仕舞う。石川県では現在も継続的に「編纂室」がそれらの機能を果して来ているが、昭和時代の中頃にはこの金沢市でも加賀藩の記録、古文書等が一束幾らで古書店の店頭で叩き売りされていた。しかも、これ等には加賀藩の「花押」の在るもの迄売られていた。この状況に当時の金沢市長に石川県、金沢市での公共的な資料館開設と自治体自体での資料収集を提案した事を思い出す。富山県、高岡市はその時から既に数十年も経っているが、未だに思い付きの様な「歴史都市構想」を唱えて、実際は古書、古文書の保管施設や収集機関すら動いていない。「老朽した博物館に金をかけて何になるのか」と言う「ガラパゴス的な意見」を云う議員さえ居る事に、高岡市の「歴史都市構想」の実態が見えてくる。



2017,2.23


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