赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🏯 【北陸七国史】「能登末森城の戦い」を 左右した 「五位庄沢川村 田畑兵衛の裏切り」!!

2021-02-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




●『能登末森城の戦い』に於ける中山直治の赤丸村「赤丸城」、「浅井城」とその叔父の寺島牛介の居城柴野村「柴野城」
⇒衛星写真に拠る道路地図を見れば分かる佐々軍と前田軍の位置関係と戦略!!









■「能登末森城の戦い」は実質的には柴野城の寺島牛介と赤丸浅井城の中山直治軍と能登末森の前田軍の直接対決で在った。

■五位庄の中に在り、しかも県境の要衝に当たる「沢川村」は丁度、両城の中間に当たり、しかも、網の目の様に張り巡らされた山道の結節点に当たる。その「沢川村」を束ねていた土豪の田畑兵衛は佐々軍に味方すると見せかけて佐々軍を遠回りさせ山中で迷子にさせて佐々軍の末森への参陣を業と遅らせた。この身内と思っていた田畑兵衛の裏切りは、赤丸、柴野の佐々軍にとっては思いもかけなかった。このまさかの裏切りで、前田利家軍の応援部隊が到着して、佐々軍は末森城を落とせなかった。この戦いでの失策は実質的に佐々軍の敗北に直結し、その後、前田軍の連絡で越中に攻め寄せてきた豊臣秀吉の大軍は富山市の呉羽山に本陣を設け、出城の安田城を築いて富山城の佐々軍に対峙した。成政は秀吉から「僧の姿で本陣に詫びに来れば許す」とする書状を受け取り、戦う事無く敵陣の中を歩いて秀吉の下に出向いた。途中、敵陣の将兵が嘲笑う中を成政は一人、呉羽山を登り秀吉の下に膝を屈した。
その後、九州熊本に転封になった成政は予てからの知り合いの秀吉の妻ねねに越中富山の立山に咲く珍しい「黒百合」を献上するが、この黒百合が「不吉」だと噂されて、遂には一揆の責任を取らされて成政は切腹させられた。

(※「北陸七国史」には、田畑兵衛の口上等が具体的に記されている。この中に登場する「鳥越城」は白山市の鳥越では無く、津幡町に在った鳥越城の事。)





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