赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚⛵ 【義経記】⇒【弁慶】の素性は伊勢神道の【度会一族】(※「群書類従」)!!

2021-02-01 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸


■「勧進帳」のシーンで、弁慶が義経を扇子で打ち据えるシーンが登場する。このシーンは「義経記」に拠れば、「五位庄の二位渡し」での事件とされている。「延喜式内社五位庄総社 赤丸浅井神社」の由緒に拠ると、この「二位渡し」の由来はこの神社が『元正天皇の二宮が創建された』と伝わる事から、この神社の前に在った『阿光ケ淵』に在った小矢部川の渡し場の名前と見られ、その為か、この神社の拝殿には現在も巨大な二枚の「義経と弁慶」を描いた奉納額が掛けられている。














■「群書類從」(※塙保己一編)に記載される『源義経』の忠臣「弁慶」の事。
⇒伊勢神宮外宮の神官「度会ワタライ一族」から出た剛力「弁慶」の記録!!

『弁慶』に就いては熊野別当の湛増の子で、紀伊国出身ともされ、生年も不詳で出自や生い立ちも良く分からないが幼名を「鬼若」と呼んだとされ、身元がはっきりしないとされる。しかし、塙保己一が編纂した「群書類從」には「伊勢神宮 微古館所蔵」とされて、【「弁慶」は伊勢神宮外宮神官家度会一族】として系図にも載せられている。詳しくは分からないものの、「吾妻鏡」の中の「義経都落ち」の時に、義経に従った従者の中に、伊勢の人物で伊勢三郎と言う人物が居る。この人物は【伊勢三郎(伊勢国二見郷の人。伊勢の度会義連(ワタライヨシツラ)と言う伊勢神宮の神主の子。】とされており、明らかに伊勢神宮の度会一族が義経に随行している。この系図では弁慶の父ともされる「度会義連」は登場しないが、「弁慶」の父は「僧 浄智」とされており、明らかに両部神道の「熊野本宮別当」で在った可能性が高い。





■逃亡する「源義経」の一行には、加賀の林氏等の同族とされる「越前斉藤氏」の「藤原友実」が随行していた。
「藤原氏系図」では「藤原利仁将軍」の子供から、「福井斉藤氏」・「加賀林氏」・「加賀富樫氏」・「越中井口氏」等に分かれた。「後鳥羽上皇」が興された「承久の乱」で主役を演じた「越中宮崎氏」も藤原一族とされる。「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から五位庄に改名)の「赤丸浅井城」はこの同族の「越中石黒氏」の居城で在ったと言う。頼朝が初めて吉岡庄に地頭を配置した時には「成佐」と言う地頭で在ったが、この「成佐」が石黒氏の居城の「木舟城」の地域を開発したと石黒家に伝わる事から、「赤丸浅井城」・「木舟城」は地頭代として石黒氏が実際に支配していた可能性が高い。後に、「成佐」は「後白河上皇」の庄園管理が悪いとして「頼朝」から解任されている。これも、現地の武士「石黒氏」の実効支配の為に「成佐」の支配が徹底されなかった為と見られる。⇒「吾妻鏡」)






■「加賀林氏」から分かれた「富樫氏」


■「鎌倉幕府の記録」の「吾妻鏡」
文治元年(1185年)十一月大二日辛巳。豫州已欲赴西國。仍爲令儲乘船。先遣大夫判官友實之處。有庄四郎者〔元与州家人。當時不相從〕今日於途中相逢友實問云。今出行何事哉。友實任實答事由。庄僞示合如元可属与州之趣。友實又稱可傳逹其旨於豫州。相具進行。爰庄忽誅戮廷尉訖。件友實者越前國齋藤一族也。垂髪而候仁和寺宮。首服時属平家。其後向背相從木曾。々々被追討之比。爲豫州家人。遂以如此云々。
【文治元年(1185年)十一月大二日辛巳。予洲(源九郎義経)は、西国(九州)へ行こうとした。(舟の用意の為)先に、家臣の大夫友実を遣わした。庄四郎と言う人が居た。〔この男は元は予洲(義経)の家来だったが今は従っていない。〕今日、途中で友実に出会ったので、友実に問うた。「何事が在ったのか?」友実は事情を答えた。庄は、嘘を言って示し会わせて与州(予洲、伊予守義経)の家来になりたいと云う。友実は「この事を予洲(義経)に伝えよう」と云って(義経の下に)一緒に連れて来た。しかし、庄四郎は忽ちに予洲(義経)に首を刎ねられてしまった。この友実は、実は越前国(福井県)の藤原一族で在る斉藤氏の一族だ。子供の頃には仁和寺宮(後白河上皇の皇子で母は熱田大宮司の娘で義経を支援していた守覚法親王の事)に仕えていた。元服の時には平家に仕え、その後、木曽義仲に従っていたが、木曽義仲が追討されると、予洲(義経)の家人になっていた。その結果はこの有様でした。】

■文治元年(1185)十一月大三日壬午。前備前守行家〔櫻威甲〕伊豫守義經〔赤地錦直垂。萌黄威甲〕等赴西海。先進使者於 仙洞。申云。爲遁鎌倉譴責。零落鎭西。最後雖可參拝。行粧異躰之間。已以首途云々。前中將時實。侍從良成〔義經同母弟。一條大藏卿長成男〕伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。弁慶法師已下相從。彼此之勢二百騎歟云々。
【文治元年(1185)十一月大三日壬午。源行家、源義経等が西海に向かった。追従したのは
平時実(平時忠の子)、一条良成(常盤御前と再嫁先一条長成の子供)、源有綱(源頼政の孫で仲綱の子供)、堀景光(藤原一門で斉藤氏)、佐藤忠信(奥州藤原氏の家臣)、伊勢三郎(伊勢国二見郷の人。伊勢の度会義連(ワタライヨシツラ)と言う伊勢神宮の神主の子。)、片岡八郎(頼朝と対立した佐竹一族で平姓良文系)、武蔵坊弁慶(伊勢神宮度会一族)等。この時には兵二百騎と言う。】

この記載に拠ると、兄の「源頼朝」に疎まれた「源義経」は奥州藤原氏、常盤御前の義理の子供の一条良成、平家、源氏、伊勢神宮外宮神官度会神官家等、様々な有縁の人物が付き従って、西海に舟で逃亡するも、風の為に逃げられず、一旦、方向を変えて、北陸道を奥州に向って逃げる事に成った。この逃亡の先には、義経の支援者で、熱田大宮司の縁者で在る「後白河上皇」の皇子の「仁和寺宮守覚法親王」の福井県九頭竜川沿いの庄園や父、後白河上皇の庄園の「越中吉岡庄」等が在った。「吾妻鏡」に拠れば、義経一行が逃亡する時には、事前に法親王に説明もしていた様だ。

(※「源義経」は幼名を牛若、鞍馬寺で遮那王、元服して義経、しかし、頼朝から追われてからは源氏と連なる藤原良経が同名の為に勝手に義行、義顕と改名させられている。「顕」は「明らかに成る」と言う意味から、逃亡している義経を早く見つけ出せと言う意味か? 古くは「罪人改名」と言う習慣が在ったと言う。)

■高野山の近くで、南朝の行宮で在り、周辺で「楠正成」が活躍した「河内国金剛寺」は、「後白河上皇」が創建され、その第二皇子「守覚法親王」が仁和寺御室六代に就任されていた時に仁和寺喜多院末(本寺)に編入され、 興福寺大乗院門跡(本家)が六代に亘り院主職を兼務した。「赤丸浅井神社」を中心とした「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の「後院領」で有り、「守覚法親王」は「源義経」の熱心な支援者であったと云われ、全国の源氏に平家追討の令旨を下した「後白河上皇」の皇子「以仁王」の同母兄に当たる。出家して仁和寺御室第六代と成る。義経が頼朝と不和になり都落ちして各地に潜伏した時には、義経を庇護して頼朝から非難されている。
「義経記」で、「如意の城(五位の城=赤丸浅井城)」の前の「二位の渡し」で平権守が義経を見逃した背景や、後の南北朝時代に、河内金剛寺から重要な観音像が赤丸の「観音寺」(※後に「惣持寺」→「高岡山総持寺」→「衆徳山総持寺」)に伝わったとされるのも「仁和寺」の僧「守覚法親王」と「河内金剛寺」の由緒が背景に在ったものと思われる。何れにも「後白河上皇」が絡んで居るのだ。




■【「後白河上皇」の皇子の『守覚法親王』と「源氏」・「藤原氏」との繋がり!!
「保元の乱」、「平治の乱」に登場した「源義朝」は熱田神宮神官の藤原季範の娘(由良御前)を正室として、側室には常盤御前、三浦義明の娘、波多野義通の妹、遠江国池田宿の遊女が居た。正室「由良御前」の子供として「頼朝」、「坊門姫」が産まれた。常盤御前を母としては、今若、乙若、牛若(源義経)が産まれた。弟の「源範頼」は母を池田宿の遊女として産まれたが、由良御前の実家に当たる熱田神宮神官藤原季成に養育され、 季成の娘の藤原成子は後白河上皇に嫁して守覺法親王・以仁王を生む。以仁王は「平家追討の令旨」を発して木曽義仲や源頼朝は平家追討に出陣している。
(※富山県朝日町には木曽義仲が越中宮崎氏と共に、以仁王の皇子「北陸宮」を迎えて旗印としていた。)
義経の母の常盤御前は奥州藤原氏の政治顧問をしていた「一条(藤原)長成」に嫁いでおり、義経にはこの子息の一条良成が従っていた。この関係から法親王は義経の逃避行に深く関わっていた可能性が高い。この時に、「義経記」の「二位の渡し場」での義経殴打事件が起こった「越中吉岡庄(赤丸村)」は「後白河上皇」の「後院領」と呼ばれた直轄庄園で在り、「後院領」では上皇直属の「院庁」が政務を執り、「院司」と呼ばれる役人が統治して、守護不入の庄園で在った。源頼朝はこの「後院領」にも強引に義経探索を口実に地頭を配置したが、後白河上皇はこの地頭「成佐」が勝手に領地で横取りをしているとして頼朝に替える様に文書を出している。⇒「吾妻鏡」】


■「重文木造千手観音座像」を祀る「衆徳山総持寺」
富山県高岡市関町
(※毎年、11月15日に特別御開帳)
★【越中吉岡庄】は「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いた皇室庄園で在ったが、南北朝時代末期に【越中五位庄】に改名されている。南北朝時代には「後鳥羽上皇」の祈願仏の黄金の【千手観音像】が後白河上皇御創建の「河内金剛寺」から赤丸村の【総持寺】に伝えられた。「義経記」は室町時代に書かれたと云われ、その為に「越中吉岡庄」は「越中五位庄」と記載されている。













■江戸時代の伊勢神宮外宮の神官家[度合延経ワタライノブツネ]の著作「神名帳考証」には「延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒の検討が掲載されており、 「先代旧事本紀」(※1673年、寛文13年/延宝元年、度合延佳ワタライノブヨシ〈1657年-1714年、 江戸時代前期-中期〉著)の中の「国造本紀」には全国の国造クニツコの祖や越中の国造「高志国造コクノクニツコ」についてや、「物部連」の祖が「越中新川郡」の名前の元に成っている「大新河命」で在る事等が記載される。

■「延喜式内社 五位庄総社 赤丸浅井神社」


■「神名帳考証」(度会延経 著[1657-1714]江戸時代前期-中期の神職)



■「先代旧事本紀」(度会延佳[1615~1690]江戸前期の伊勢外宮の神官。伊勢の人。伊勢神道の中興の祖とされ、伊勢神道から仏教色を排し儒教を導入した。)







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