●「保元の乱」の後に「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の庄園(※「後院領」)と成り、南北朝時代末期迄、「上皇」・「天皇」の庄園として続き、「室町幕府三代将軍足利義満」がこの庄園を室の「業子 ナリコ」の菩提を弔う為に「相国寺」に寄進した頃は「五位庄」に成った。加賀藩記録「宝永誌」では、南北朝時代末期に後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」が「赤丸浅井城」に入られた時に「吉岡庄」を「五位庄」に改名されたと云う。(※「宝永誌」加賀藩記録)
・「越中吉岡庄」(※国立歴史民俗博物館庄園データーベース)
・「越中五位庄」(※国立歴史民俗博物館庄園データーベース)
■天皇の「行幸」では、天皇の身の廻りの世話や警護を行った「舎人 トネリ」・「内舎人 ウドネリ」の先導で行列が進んだ。越中国司を勤めた「大伴家持」や「赤丸浅井神社」を中興されたと云う「元正天皇二宮」(※石川朝臣広成)も、若い時に「恭仁京」に「内舎人」として赴任していたと云う。(※「万葉集」)
「醍醐天皇」の時に制定された「延喜式」には、各部署に配置された「内舎人」の人数等も定められていた。
■寛政2年の御遷幸
天明8年(1788年)正月晦日、御所の南東の鴨川の東宮川町団栗図子の空き家から出火した火事は御所など京の町の過半を焼き尽くしてしまった。
「光格天皇」は『聖護院』を仮御所とされた。そして「松平定信」を御所造営総奉行に任命し再興が始まった。
「足利義満」は「越中五位庄」を「相国寺」の庄園として寄進した。「相国寺塔供養記」には「聖護院」が招かれていた事が見える。
■『聖護院』は「聖体護持」を表し、「天皇を護る」の意で在り、初代門跡は「越中吉岡庄」(※赤丸浅井神社を郷社とした庄園)の庄園領主で在った「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」で在った。
「赤丸浅井神社」の神域には京都の「鞍馬寺 クラマデラ」が勘請されて「川人山鞍馬寺」と称し、両部神道 本山派修験道「聖護院」の末寺で在った。
この寺院の跡は現在も「鞍馬寺 アンバイジ」と呼ばれて赤丸浅井神社前に残っている。
・「越中吉岡庄」(※国立歴史民俗博物館庄園データーベース)
・「越中五位庄」(※国立歴史民俗博物館庄園データーベース)
■天皇の「行幸」では、天皇の身の廻りの世話や警護を行った「舎人 トネリ」・「内舎人 ウドネリ」の先導で行列が進んだ。越中国司を勤めた「大伴家持」や「赤丸浅井神社」を中興されたと云う「元正天皇二宮」(※石川朝臣広成)も、若い時に「恭仁京」に「内舎人」として赴任していたと云う。(※「万葉集」)
「醍醐天皇」の時に制定された「延喜式」には、各部署に配置された「内舎人」の人数等も定められていた。
■寛政2年の御遷幸
天明8年(1788年)正月晦日、御所の南東の鴨川の東宮川町団栗図子の空き家から出火した火事は御所など京の町の過半を焼き尽くしてしまった。
「光格天皇」は『聖護院』を仮御所とされた。そして「松平定信」を御所造営総奉行に任命し再興が始まった。
「足利義満」は「越中五位庄」を「相国寺」の庄園として寄進した。「相国寺塔供養記」には「聖護院」が招かれていた事が見える。
■『聖護院』は「聖体護持」を表し、「天皇を護る」の意で在り、初代門跡は「越中吉岡庄」(※赤丸浅井神社を郷社とした庄園)の庄園領主で在った「後白河上皇」の皇子「静恵法親王」で在った。
「赤丸浅井神社」の神域には京都の「鞍馬寺 クラマデラ」が勘請されて「川人山鞍馬寺」と称し、両部神道 本山派修験道「聖護院」の末寺で在った。
この寺院の跡は現在も「鞍馬寺 アンバイジ」と呼ばれて赤丸浅井神社前に残っている。