赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹【越中で対決した二人の宇多源氏】「豊臣秀吉」と「佐々成政」⇒【宇多源氏佐々木氏流】の同族と伝える二人の武将!!

2021-04-16 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●【豊臣秀吉】が越中に侵攻して富山の呉羽山に着陣すると、越中の領主【佐々成政】は戦わずして僧形に成って自ら秀吉の軍営に赴いた。秀吉は自ら降伏した成政に対して、越中国の内新川郡のみを与えて、他は「前田利家」に与えた。

■豊臣秀吉の死後、前田利家の屋敷で秀吉の遺品の分配が行われたと【甫菴太平記】は伝える。
その中に記載される【豊臣秀吉遺品帳】には越中の刀工「宇多刀」も多く遺されていた事が記載されている。






■【宇多源氏佐々木氏流】の系図を見ると、「豊臣秀吉」と「佐々成政」は何れも近江をルーツとして「宇多天皇」の末裔として近江に繁栄した「宇多源氏」、「近江源氏」の同族で在り、「越中吉岡庄」で作刀した刀鍛冶の「宇多一派」も同族に当たる。「宇多刀工」は、近江国甲賀郡を発祥として 南朝の武将として「太平記」にも登場する。しかし、南朝軍の「桃井直常」が敗れると、「宇多一族」は武将として登場しなくなる。恐らくこの後に宇多一族は「宇多国光」と共に北上して、加賀から越中に入ったとみられる。
越中に入り、倶利伽羅山を越えて越中に入ると 、小矢部川沿いに「後醍醐天皇」の庄園の【越中吉岡庄】が広がっている。
「越中吉岡庄」の郷社の【延喜式内社赤丸浅井神社】の由緒には、「小矢市石動の宮島郷から赤丸村、国吉郷迄の53ケ村」をその神領として「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」が「毎年、各戸から米一升を徴収した」と云う。
(※「赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館)



























とすれば、「宇多一族」は「越中吉岡庄」に入ると、「吉岡庄」の地頭の館が在った東・西砦の周辺の赤丸城ケ平山の麓の「下加茂神社」の近接地で、小矢部川沿いの山林に鍛冶屋の工房を構えたと見られる。
「越中吉岡庄」の赤丸村の旧地は、南朝の「桃井直常」が最終決戦の「五位庄の戦い」(※「花営三代記」群書類従) に臨んだ場所で在る。「清和源氏」の「桃井直常」が行方不明に成った後には、後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が吉岡庄に入られ、南朝軍を鼓舞されたと云う。
(※「宇多源氏」は歴史的に、「征夷大将軍」となる「清和源氏」の下で戦っている。)

■「太平記」の「神内合戦」に見られる南朝側の「宇多河氏」(※「宇田川」)と「宇多氏」!!

⇒「宇多氏」の一族郎党はこの戦いで全滅したとされる。
1351年(正平6年/観応2年)「観応の擾乱」で北朝は足利尊氏派と弟の足利直義派に分裂して激しい戦いを繰り返し、南朝側に付いた足利直義の養子足利直冬は父の足利直義が尊氏に殺害された後に中国地方に勢力を広げていたが、1354年(正平9年/文和3年)山名時氏、桃井直常、斯波高経等の旧直義派武将、南朝方の楠木正儀と共に上京作戦を開始した。足利尊氏は京都での戦いを不利と判断して北朝の後光厳天皇を伴って近江国武佐寺へ退去し、翌1355年(正平10年/文和4年)1月に足利直冬は桃井直常、斯波高経等の北国勢を伴って入京した。足利尊氏の子の足利義詮は当初播磨国で戦って山崎の西、神南の峰に布陣した。これに対し足利直冬方の山名時氏・山名師義等が攻撃を行なったものの佐々木道誉、赤松則祐らの奮戦により山名勢は敗退した。その後、足利直冬は京都の東寺に入り戦闘を継続したものの足利尊氏・義詮軍に敗退して、3月には直冬方は京都から撤退した。この後、越中を拠点とした桃井直常は彼の有名な「五位庄の戦い」(※「花営三代記」群書類従 塙保己一編)で敗れ、行方不明に成ったとされる。「五位庄」の赤丸村舞谷の麻畑島には桃井直常の三男が創建した「西大寺」が在ったが、現在は高岡市木町に移り「光釜山西大寺」と成っている。







■敗走した「宇多 一族」は、本拠地の大和国宇陀郡から南朝の牙城の赤丸村に移り住むと、軍備を整える任務として「刀」の製作に励んだものと見られる。当時、宇陀郡は南朝軍で伊勢国司「北畠親房」の配下に在り、「北畠親房」は「宗良親王」と呼応して中部から東北方面の鎮圧に動いていた。


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