赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌸 「越中五位庄鍛冶屋町島」の鍛冶屋の歴史⇒「川人山鞍馬寺」(※延喜式内社赤丸浅井神社の別当)に伝わる「鰐口」と函館市文化財「平氏盛阿弥作 鰐口」!!

2021-02-12 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
●「延宝六年(1678年)」の記名が有る「旧越中五位庄」の「赤丸浅井神社宝物」の「鰐口」と、「川人山鞍馬寺(※赤丸浅井神社)」の記録「赤丸古代帳」に記載される「永享年中に赤丸の鍛冶屋町島に盛阿弥と言う鍛冶が工房を構えた」とする記載の検討。



■「赤丸古代帳」
●「浅井神社寶物目録」
1.寄進状 壱通 宝永十七年九月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
2.書状 弐通 寛永十六年三月及五月加賀藩主第四世前田光高ヨリ
3.書状 弐通 慶長十年九月及元和八年五月第三世利常ヨリノ書
4.御員筆額 一面 明治十一年正三位前田齋泰ノ書
5.古額 壱面 丈二尺 五寸 巾一尺四寸二分 但シ文字不明
6.古鏡 三面 一ハ直径三寸六分 一ハ直径三寸三分 一ハ直径三寸 右ハ往古神祇官ヨリ御下賜ノモノト言傳フ
7.太刀 一腰 丈一尺六寸 村正ノ作ト言傳フ
8.刀 一腰 丈一尺二寸四分 無銘白鞘
9.刀 一腰 丈二尺一寸五里 銘アルモ不分明
10.古鏡 一面 直径七寸壱分 藤原丈長ノ作
11.大鰐口 壱個 延寶六年八月吉日ト記セリ 目方約八貫目アリ
12.古記録 参拾弐冊 慶長以降天保ニテ古文書一冊ノ半数約百枚アリ
13.古画 壱軸 兆殿司ノ筆(二王像)
14.古画 壱軸 高祖神変大師ノ御影 大師ハ泰澄大師ナリ

●「盛阿弥」盛阿弥ハ刀鍛冶ニシテ永享年中赤丸村ニ住セリ 鍛冶ノ跡アリ(中越史料雑纂)現今鍛冶屋町島ト小字残レリ ( ※ ⇒永享年中に鰐口等の制作で文化財に残る「平氏盛阿弥」の事か?)













■「越中吉岡庄」(※南北朝時代末期から「五位庄」)の「鍛冶屋町島」(※高岡市福岡町赤丸)には南北朝時代に「宇多刀工」が大和国宇陀郡から移り住んだと伝わる。「鍛冶屋」と言う言葉は元々、「鋳物師らをも含む金属加工者」を指し、「製鉄」に従事するものを「大鍛冶」というのに対し、「刀鍛冶」を「小鍛冶」と称している。
「越中吉岡庄」が「後白河上皇」の庄園で在った時の仁安二年(1167年)、『後白河上皇』は「河内国日置庄」の鋳物師に全国を自由に通行する特権を与え、越中には「鋳物師」や「刀鍛冶」が移り住んだと言う。
(※高岡市では「仁安の御綸旨」と云う。高岡市には同内容の文書が在る。)







■「高岡市鋳物資料館」に展示される「仁安の綸旨」(※コピー)



■「宇多刀工初代 宇多国光作 太刀」








■「宇多刀工」の氏神『槌の宮』(※高岡市関町)


■函館市の文化財に「永享十一年(1439年)三月 平氏盛阿弥作」の「鰐口」が有る。この一族は源実朝の時に奥州を追放された一族では無いかとされている。「函館市史」には以下の記載が有る。
【かの永享十一年(一四三九年)の紀年をもつ「鰐口」に関わっての仮説である。「奉寄進夷嶋脇澤山神御寳前 施主平氏盛阿弥敬白 永享十一年三月日」と刻まれているこの「鰐口」から、「脇澤」とは石崎の「宮の沢」を指すので、「澤山神」なる神社が石崎に存在していたことは間違いない。「平氏盛阿弥」を特定視することは容易ではないが、「阿弥」という「阿号」を名乗っていることから、念仏系信者であろう。推測をたくましくすれば、永享十一年以前のある時期、「平氏盛阿弥」を中心とする「渡党」たちが、昆布漁や鍛冶業などの順調なる生業を祈念して、石崎の「脇澤」の地に「山神社」を勧請したのではなかろうか。】

永享と言う室町時代に「越中五位庄」に「盛阿弥」と言う「鍛冶」が住み、この同時代には函館市の脇沢の「沢山神」に「平氏盛阿弥」が「鰐口」を奉納している。
「●●阿弥」と言う称号は越中の小矢部市川流域の福光から海岸一帯に栄えたと言う「時宗」の出家者が用い、南北朝時代の興国三年に後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が越中に入られて「時宗」に改宗されて、富山県西部には「時宗」が一挙に拡がったと云う。元々、赤丸村に在った高岡市の総持寺の「木造千手観音座像」の胎内にも時宗の信者の「●●阿弥陀佛」と言う記名が多い。
福光町の記録に「時宗という宗教は、開祖一遍上人(知真)で弘安二年の秋越中をとおり、その二世他阿(たあ)が砺波郡吉江道場の盧阿を教化し、医王山麓に念仏湧躍歓喜の声が起こりはじめた。」とされ、福光の吉江は時宗の越中の本山として機能してきたと云う。

▼「室町時代初期の越中国図」(※「畠山文書」羽曳野叢書)
室町時代には「越中利波郡」の殆どが「五位庄」に組み込まれ、「五位の西庄」・「五位の東庄」に分かれており、「五位の東庄の一部」は「徳大寺家庄園般若野庄」に含まれていたとされる。(※「東寺百合文書」)




■越中は日本海交易で北海道とも交流が在ったと云われ、平安時代に「越中吉岡庄」は藤原摂関家「藤原頼長」の庄園で在り、奥州平泉の周辺の出羽国、陸奥国にも庄園を持ち、奥州藤原氏に庄園の管理をさせていた事から、「奥州」は「越中吉岡庄」と文化的に密接で在った。奥州藤原氏は蝦夷に向き合い、文化的にも交流が深く、奥州の馬、金、布等を庄園主の藤原頼長に送っていたと云う。又、奥州藤原氏は越前の白山山伏の信仰「平泉寺」を信仰して、「鐘」を寄進している。
藤原氏の庄園の産物は海路、舟で能登や越中伏木の港を経由して越前敦賀港から都へ送られており、越中と北海道との交流も相当深かった筈で在り、函館市に越中産の鋳物製鰐口が伝えられた可能性が高い。



■五位庄の鍛冶屋町島に工房を構えた「宇多刀工」は江戸時代初期迄続いたとされ、「延宝六年」の記載が有る赤丸浅井神社宝物の「鰐口」もこの五位庄に栄えた鍛冶屋の制作かも知れない。




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