赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🐎共通の歴史【越中吉岡庄】と【奥州平泉】⇒【保元の乱】で殺害された 藤原摂関家長者「藤原頼長」の29ケ所の庄園に含まれた「越中吉岡庄」・「能登一青庄」と奥州の「陸奥の二庄園」・「出羽の三庄園」!!

2021-04-18 | 奥州 陸奥・出羽国と越中・能登国
《富山県高岡市福岡町赤丸の歴史》
🔻【保元の乱と越中吉岡庄(赤丸村)】
「崇徳上皇」と「後白河天皇」が争った「保元の乱」で、崇徳上皇側の「藤原頼長」は敗れて奥州五庄を含む藤原頼長領で在った庄園29庄が「後白河天皇」が譲位後の「後院領」等に組み込まれた。




🔽「崇徳上皇」側で「後白河上皇」と争った「越中吉岡庄」、「能登一青庄」、「奥州五庄」等の庄園を全国で所有した【藤原頼長。
【藤原頼長」(※「天子・摂関御影」)】














■「人車記」として「近衛家文書」に保存されている写真版を見ると、「陸奥国二ケ所」・「出羽国三ケ所」 を保有していた事が解る。
「陸奥国」では「本吉庄」・「高幡庄」、「出羽国」では「大曽根庄」・「遊佐庄」・「屋代庄」と成っているが、室町時代には越中の守護代として「遊佐氏」や氷見市の藤原氏祈願寺「東福寺」の庄園を管理していた「屋代(八代)氏」等が越中に見られ、高岡市には「大曽根地区」が残っている事から、この奥州にいた藤原氏が後に越中に動いた可能性が在る。



🔻【平治の乱】
「保元の乱」の後に、「後白河上皇側」で内紛が在り、「源義朝」・「高階通憲≪信西≫」が「藤原信頼」・「平清盛」に討たれた。(※「平治の乱」で、「信西」は逃げ惑って穴に隠れていたところを討たれ、「源義朝」は「後白河上皇」の館を先制攻撃して「平清盛」に討たれた。)





🔻【義経記】
「義経記」では、「源頼朝」に追われて奥州に落ち延びた「源義経」は「後白河上皇」の「後院領」で在った「越中吉岡庄」(※鎌倉時代には「吉岡庄」、南北朝末期から「五位庄」)を経由している。「吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」の前の「二位の渡し」での【弁慶の義経打擲事件】は、やがて「歌舞伎」や「能」の【勧進帳】のモデルに成った。













🔻室町時代には越中国の「利波郡」に「守護代」の「遊佐氏」が、「射水郡」の氷見市郊外には「八代氏」が見られる。(※「八代氏」は織田信長書状に「屋代」と見られる。)


(※「能登畠山文書」)

■藤原氏の英雄「藤原利仁将軍」の末裔とされる加賀の林氏は越中の石黒氏とも縁組して、分家として富樫氏や石浦氏を輩出し、「越中石黒系図」にはこの「石浦氏」が石黒氏の系図に見られる事から「林氏」との縁組や「石浦氏」との縁組で、「越中石黒氏」と「加賀林氏」の同盟が成り立っていたものと見られる。
「加賀林氏」(※石川県つるぎ町の郷土史家著作で、北国新聞発行)には、「加賀林氏は白山山伏と揉めて、白山山伏が比叡山に訴えた為に、林氏の棟梁は捕縛されて都に送られたが、当時、権力をほしいままにしていた左大臣の藤原摂関家長者藤原頼長の尽力で林氏は解放された」と記されており、その謝礼に能登「一青庄」や越中「吉岡庄」の庄園を「藤原頼長」に寄進した可能性が高い。「保元の乱」の後に藤原氏から没収されたのは藤原頼長の固有の庄園だけで在り、その他は頼長の兄の藤原摂関家藤原忠実に引き継がれている。


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