■第五代考昭天皇の御世に小矢部川と庄川の合流点に水神の「八河江比売神」を祭った事を始まりとして、当初は浅井谷自体を女神と見なして谷の入口に二本の御柱を立てた。この二本の御柱はその後、神社の鳥居に代わったと云う。
■「赤丸浅井神社」は、「元正天皇」(元明天皇の娘で、兄の文武天皇の皇子の聖武天皇、石川広成兄弟の親代わりに成った女帝)の養老年間の717年に聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」が再興されたと云う。この時に小矢部川と庄川の合流点の「阿光ケ淵」(「悪王ケ淵」・「吾子淵」・「阿古ケ淵」)に毘沙門天像が流れ着いて漁師がこの時に駐在された「元正天皇二宮」(石川朝臣広成)に御持ちした所、この毘沙門天像を「赤丸浅井神社」に祭って、脇士に十一面観音を祭った「石堤浅井神社」、八幡大神を祭った「舞谷八幡宮」を祭ったと云う。この形は「三社権現形式」と呼ばれ、格式の高い寺院と神社とされた。
この時に、赤丸浅井神社には七堂が建立され、本堂、護摩堂、御輿堂、鐘楼、雁塔、二王門、馬堂が建てられてその御堂には、各々、祠官を定めて「東坊」・「玉蔵坊」・「宝仙坊」・「宥坎坊」・「宝林坊」・「玄皆坊」・「宝池坊」を吏長に任じ、又、これ等を代表する別当としては「川人山鞍馬寺」を「吉岡庄」に勘請された。
■「社伝」には、「五位庄」と改名された「室町時代」には、この庄園を十二郷、53ケ村 に分けて、各々の村に主官吏が置かれた。その各々の名前は「竹内加門」・「宗観」・「番道」・「宗信」・「道願」・【権之守】・「大秋嘉門」・「正光」・「嶋倉」・「左小」・「羽間」・「道吉内」と云った。これ等の人達は官位を受けて、代々、春秋の収穫物や税の徴収に当たっていた。
⇒【義経記】に「五位庄二位の渡しで義経主従を疑い喚問した人物は【平権守】と記載されている。」
🔻「義経記」は南北朝時代に書かれたと言われ、「五位庄」は室町時代に、それまで「越中吉岡庄」と呼ばれた庄園が改名された庄園で在った。室町幕府第三代将軍「足利義満」は「五位庄」を「相国寺」の庄園として寄進した。この時に「足利義満」はその地域の統治を「管領畠山満家」に託された。「畠山満家」の子供の「畠山持国」は越中守護、室町幕府管領と成ったが、室町時代の「畠山文書」の「越中絵図」には、「赤丸浅井城」と見られる位置に「畠山持国」の記載が在る。
■南北朝時代になると、「後醍醐天皇」は都に在って64州を統治され、その後、「五位庄」は室町幕府の御糧所として足利家の庄園と成ったが、「一向一揆」が活発になると、守護畠山氏は越後の上杉謙信に援軍を要請した。その為に越後の太守の上杉が来襲して「浅井城」を攻めたと云う。「浅井城」には一時期、一向一揆の首領の「下間和泉」が入ったと云う。又、この時に一向一揆側の「下間頼龍」は赤丸村の信徒から「志納金」を集めており、その領収証が富山県立公文書館の「善徳寺文書」に遺されている。「浅井城」から東十里ばかりの「立野」の地には、上杉軍の旗が連なって立ち、坂井谷、広谷、鳥越坂から兵が道を開いて攻めて来た。その後、一旦は上杉勢は越後に引き揚げたが、再び来襲した。「上杉謙信」は遂に「浅井城」を落城させたが、この戦は三年間も続いた。その為に、「赤丸浅井神社」の七坊は悉く焼き尽くされて、天皇の綸旨等の全ての文書や記録が焼き尽くされた。
《この天皇の「綸旨」は、「赤丸浅井神社に五位庄53ケ村から各戸当たり米一升を集める事を認めた」もので、【薄墨の書】と呼ばれていたと云う。「前田利家」が西山に連なる「石動山」等を焼き尽くし、殺戮の限りをした後に越中を統治した。「石動山」には、福井県から高岡城の地鎮祭を行い「高岡」と名付けたとされる「波着寺法印」を寺主に据えて、「石動山」の復興を命じた。この時に、「前田利家」は「赤丸浅井神社」に対して「米一升を集める権利」を改めて安堵したと云う。》
■その後は、七坊が散り散りと成って、一人「東坊」だけが残って「西宝院」と称して「天台宗門跡寺院聖護院」の末寺として幕末迄続いたが、明治二年、「両部神道廃止令」が出されて「廃仏毀釈運動」が高まる中で、赤丸村の「西宝院」も還俗して「川人他治馬」と名乗って神官に成っている。