赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴◼▪ 【越中吉岡庄】の【郷社 延喜式内社赤丸浅井神社】の由緒⇒奈良時代から続く「藤原氏庄園」・「皇室庄園」の歴史!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■第五代考昭天皇の御世に小矢部川と庄川の合流点に水神の「八河江比売神」を祭った事を始まりとして、当初は浅井谷自体を女神と見なして谷の入口に二本の御柱を立てた。この二本の御柱はその後、神社の鳥居に代わったと云う。



■「赤丸浅井神社」は、「元正天皇」(元明天皇の娘で、兄の文武天皇の皇子の聖武天皇、石川広成兄弟の親代わりに成った女帝)の養老年間の717年に聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」が再興されたと云う。この時に小矢部川と庄川の合流点の「阿光ケ淵」(「悪王ケ淵」・「吾子淵」・「阿古ケ淵」)に毘沙門天像が流れ着いて漁師がこの時に駐在された「元正天皇二宮」(石川朝臣広成)に御持ちした所、この毘沙門天像を「赤丸浅井神社」に祭って、脇士に十一面観音を祭った「石堤浅井神社」、八幡大神を祭った「舞谷八幡宮」を祭ったと云う。この形は「三社権現形式」と呼ばれ、格式の高い寺院と神社とされた。
この時に、赤丸浅井神社には七堂が建立され、本堂、護摩堂、御輿堂、鐘楼、雁塔、二王門、馬堂が建てられてその御堂には、各々、祠官を定めて「東坊」・「玉蔵坊」・「宝仙坊」・「宥坎坊」・「宝林坊」・「玄皆坊」・「宝池坊」を吏長に任じ、又、これ等を代表する別当としては「川人山鞍馬寺」を「吉岡庄」に勘請された。











■「社伝」には、「五位庄」と改名された「室町時代」には、この庄園を十二郷、53ケ村 に分けて、各々の村に主官吏が置かれた。その各々の名前は「竹内加門」・「宗観」・「番道」・「宗信」・「道願」・【権之守】・「大秋嘉門」・「正光」・「嶋倉」・「左小」・「羽間」・「道吉内」と云った。これ等の人達は官位を受けて、代々、春秋の収穫物や税の徴収に当たっていた。

⇒【義経記】に「五位庄二位の渡しで義経主従を疑い喚問した人物は【平権守】と記載されている。」
🔻「義経記」は南北朝時代に書かれたと言われ、「五位庄」は室町時代に、それまで「越中吉岡庄」と呼ばれた庄園が改名された庄園で在った。室町幕府第三代将軍「足利義満」は「五位庄」を「相国寺」の庄園として寄進した。この時に「足利義満」はその地域の統治を「管領畠山満家」に託された。「畠山満家」の子供の「畠山持国」は越中守護、室町幕府管領と成ったが、室町時代の「畠山文書」の「越中絵図」には、「赤丸浅井城」と見られる位置に「畠山持国」の記載が在る。







■南北朝時代になると、「後醍醐天皇」は都に在って64州を統治され、その後、「五位庄」は室町幕府の御糧所として足利家の庄園と成ったが、「一向一揆」が活発になると、守護畠山氏は越後の上杉謙信に援軍を要請した。その為に越後の太守の上杉が来襲して「浅井城」を攻めたと云う。「浅井城」には一時期、一向一揆の首領の「下間和泉」が入ったと云う。又、この時に一向一揆側の「下間頼龍」は赤丸村の信徒から「志納金」を集めており、その領収証が富山県立公文書館の「善徳寺文書」に遺されている。「浅井城」から東十里ばかりの「立野」の地には、上杉軍の旗が連なって立ち、坂井谷、広谷、鳥越坂から兵が道を開いて攻めて来た。その後、一旦は上杉勢は越後に引き揚げたが、再び来襲した。「上杉謙信」は遂に「浅井城」を落城させたが、この戦は三年間も続いた。その為に、「赤丸浅井神社」の七坊は悉く焼き尽くされて、天皇の綸旨等の全ての文書や記録が焼き尽くされた。

《この天皇の「綸旨」は、「赤丸浅井神社に五位庄53ケ村から各戸当たり米一升を集める事を認めた」もので、【薄墨の書】と呼ばれていたと云う。「前田利家」が西山に連なる「石動山」等を焼き尽くし、殺戮の限りをした後に越中を統治した。「石動山」には、福井県から高岡城の地鎮祭を行い「高岡」と名付けたとされる「波着寺法印」を寺主に据えて、「石動山」の復興を命じた。この時に、「前田利家」は「赤丸浅井神社」に対して「米一升を集める権利」を改めて安堵したと云う。》

■その後は、七坊が散り散りと成って、一人「東坊」だけが残って「西宝院」と称して「天台宗門跡寺院聖護院」の末寺として幕末迄続いたが、明治二年、「両部神道廃止令」が出されて「廃仏毀釈運動」が高まる中で、赤丸村の「西宝院」も還俗して「川人他治馬」と名乗って神官に成っている。




🔴 (富山県)福岡町赤丸村に在った「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺 の「川人山鞍馬寺」の宝物・建物の遍歴!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸










「川人山鞍馬寺」の変遷と三社権現についての著作





















■赤丸村の浅井神社前には「鞍馬寺 アンバイジ」と云う集落が在る。ここには、京都の鞍馬寺を勘請した「川人山鞍馬寺」が在り、その一画には源平の時代から続いたとされる「池田市エ門家」が在った。現在、高岡市関町に在る「総持寺」が赤丸を去って「川人山鞍馬寺」は守護畠山氏の庇護で隆盛を迎えた様だ。記録には「赤丸在住の藤原直家が川人山の仏と浅井神社の神の前で父の法要を営んだ」事が「富山県史」に記録されている。この時に法要を営んだのは足利義満の近臣で在った「越中蜷川氏」の菩提寺の富山市の最勝寺の住持の「亀阜豊寿」で在った。
(※室町時代に「越中五位庄」は「相国寺」に寄進され、越中蜷川氏が統治したとされる。)

■しかし、聖護院派山伏鞍馬寺が浄土真宗に改宗して「鞍馬山法莚寺」と改名すると、一向一揆に手を焼いていた守護畠山氏の披官の浅井城の中山氏は度々、焼き討ちをかけたと云う。「法莚寺」は後醍醐天皇の皇子宗良親王の侍医も勤めたとされ、「薬王」と云う薬の処方でも有名で、昭和初期迄、この薬を販売していた。この寺には代々、寺侍を勤めた「浜木氏」がいたが、度々の迫害を避けて遂には浜木氏の所領の一歩二歩に移転した。
その後、昭和初期に入り、住職が亡くなり、その妻の鞍馬数子氏が得度して住職を継いだが、この時期に、女性の権利を拡大する風潮から、鞍馬数子氏は「富山県知事戦」に立候補され、次点で惜敗した。その後も県議戦に立候補する等されたが、寺の財政は逼迫して、浜木総代に拠ると、寺の御宝をも処分せざるを得なかった様だ。この時に、川人山鞍馬寺の本尊「阿弥陀如来立像」は城端の専徳寺に秘かに長持に入れて運ばれたと云う。小矢部市のシイタケ栽培農家の山口氏は、この長持の中のバラバラの仏像を惜しみ、自費で修理して自宅に祀っていたと云う。その子息のお話に拠ると、ある時に井波別院の住職から「この仏は後小松天皇所縁の仏で有り、在家に祀る様な仏像では無い」と告げられた為に父は、かつて、火災で仏像が焼けてしまった井波別院に寄進する事にしたと云う。「福岡町史」にはこの仏像の足の裏には「赤丸鞍馬寺什」と墨書されていたと記されている。しかし、井波別院の高橋師にお話を聞くと「この仏像は泰澄所縁の仏像と聞いており、間違いなく赤丸鞍馬寺の本尊だったと思うが、現在は足裏の墨書は消えて無い様だ」との事。井波別院ではこの仏像の寄贈を受けて、新たに六角堂を建てて、この仏像を中心に祀っている。井波別院の古老は五位庄赤丸村が元、後小松天皇の子の一休さんと親交が有った蜷川新右衛門一族が統治していた事を知っていたものか、或いは五位庄が足利義満の直轄地だった事を知っていたものか、兎に角、鞍馬寺が後小松天皇が関係された寺で在ったと認識されていたのは驚いた事だ。「法莚寺」は鞍馬数子氏が亡くなると長男も亡くなり、その子二人は砺波と新潟に健在だが、お寺自体は無住と成り、もう一体の鎌倉時代の阿弥陀如来座像は福岡小学校隣りの「林照寺」に預けられて、門徒もこの寺に移った。
一方、残された「鞍馬寺七坊」も度々の戦乱でチリジリと成り、赤丸村には「西宝院」だけが残り、その後継を勤めた。明治二年、廃仏毀釈で山伏の両部神道が廃止された為、鞍馬寺の仏像は宝蔵の奥深くに納められて、「西宝院」は還俗して「川人他治馬」と名乗って神官と成り、名字帯刀を許されたと云う。現在の「赤丸浅井神社」の拝殿はこの時に「西宝院」の建物の一部を移設して、元の拝殿は高岡市和田に移されて「和田諏訪社」の建物となった。現在も諏訪社の社には「赤丸浅井神社」の「菊花紋」が着いたままになっている。(※「富山県神社誌」富山県神社庁)






■「延喜式内社赤丸浅井神社」の建物にも各所に皇室の「菊花紋」・「桐紋」が付けられている。



★赤丸浅井神社は先年、第48代の川人貞現氏が亡くなり、その子息は東京大学大学院教授(学士院賞授賞)となられた為、現在は縁者の三乃神社の佐伯神官が奉仕されている。

■「川人山鞍馬寺」は浄土真宗に改宗して福岡町一歩二歩に動き、その跡は聖護院派両部神道の鞍馬寺の塔頭寺院で在った「西宝院」が後継となって、「延喜式内社赤丸浅井神社」も含む三社権現の形を継いだ。

■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「第五代孝昭天皇」の時代に創建され、「元正天皇」「聖武天皇」の時代に「行基」が庵を開き、白山を開いた「泰澄大師」が寺院を構えて元正天皇の御健康と国家の繁栄を祈願したと伝わっている。その後、「越中吉岡庄」の領主の「後白河上皇」の皇子が本山派聖護院の門跡となられて、「赤丸浅井神社」は両部神道「聖護院派」となった様だ。その時には京都から鞍馬寺を勘請して、北陸道古代道の「川人の駅」(※川合駅とも)から「川人山鞍馬寺」と称し、「赤丸浅井神社」「石堤浅井神社」「舞谷村八幡宮」を統括する三社権現形式を取ったが、「鞍馬寺」自体が浄土真宗に改宗して一歩二歩に移転して「鞍馬山法莚寺」と改名し、その後継として「西宝院」が「川人山鞍馬寺」を継いだ。しかし、明治維新の後の廃仏毀釈により「西宝院」は「川人他治馬」と改名して神官となった。

■「川人山鞍馬寺」の仏像等の宝物類















🔴 📖 「越中吉岡庄」→「越中五位庄」。富山県西部の「53ケ村総社・郷社 延喜式内社赤丸浅井神社」の由緒!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●奈良時代、富山県西部の「小矢部川沿い、西山沿いの広大な庄園」で在った上皇の庄園「越中吉岡庄」は、南北朝末期から「五位庄」と呼ばれて、「足利将軍家菩提寺」の「相国寺」→「等持院」・「等持寺」の庄園と成った。











■小矢部市「宮島峡」⇒「鎌倉幕府摂家将軍藤原頼経」の父「藤原道家」の庄園!!







■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄53ケ村総社」と言われ、その範囲には「宮島郷2ケ村、国吉郷26ケ村、五位庄25ケ村を含む53ケ村」とされる。この範囲は五十嵐小豊次の「郷庄考」では、加賀藩時代には「56ケ村」で在ったと云う。「藤原道家」がこの庄園を国庫に寄進した経過が鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記載されている。
「赤丸浅井神社」はこの範囲の地域から「毎年、各戸、米一升の初穂米」を徴収する権利が勅書(※薄墨の書)で認められていたと云う。
(※「赤丸浅井神社由緒」富山県立公文書館)
同じく石川県と富山県に跨がる天皇家勅願所「石動山天平寺」には「米五升」を集める強大な権限が認められており、「高岡二上射水神社」にも同様の初穂米徴収の権限が与えられていたと言う。
これ等の修験僧達は強制的な取立を行った為に「カーン・マン・ボロ」と呼ばれて恐れられたとも云う。

■「浅井神社由緒」
【富山県立公文書館「皆月家文書」】

越中国
礪波郡赤丸村字古屋五千三百二十四番
      
延喜式内 浅 井 神 社 
一 祭神 高皇産靈命
一 由緒 本社ハ元正帝ノ御宇養老元年皇子二ノ宮 元正帝ハ女帝ニシテ御子在サス 先帝ノ御子ナルカ
又計 當國ヘ御下向淺井ニ御在城 城址ハ神社ノ巽位ニアリ古人古ヨリ北辺ノ山地ヲ總称シテ淺井谷ト云フ
三州志古墟考ニ曰ク淺井トハ淺井神社アレハナリト
之砌郡村へ令シテ材石ヲ募リ宏壯ノ社殿ヲ創建シ玉ヒ越ノ大社トナシ又清水加茂山王等ノ數社ヲ欇祀シ 此數社現今本村及隣村ニアリ 
別當數十僧ヲ置キ祭祀ヲ司トラシメ玉フ 當時數十坊ヲ総偁シテ川人山鞍馬寺ト云フ内大坊ナリ
 寺跡城址ノ梵字寺谷内ニ存ス 即チ延喜式神名牒等ニ越中国利波郡鎮座淺井神社トアルハ是ナリ而シテ上古世々ノ帝ヨリ神位ヲ授ケラレ時々奉幣使ヲ立玉ヘキ文徳實録等ニ見ユ
 中古武門強盛神事随テ衰フト雖モ而モ國主地頭ノ尊崇厚ク許多ノ社領ヲモ寄附ナリタリ然ルニ天正中上杉謙信淺井城攻ノ時 淺井城ハ二宮ノ在セラレシ城址ニシテ當時中山治部佐衛門尉國松居城セシナリ
 及豊臣秀吉佐々成政征討ノ際両度放火ヲ蒙リ社殿堂宇記録縁起等悉皆焼失社僧各処ニ散逸シ本社ノ衰頽實ニ此ニ至リテ極レリ
 然ルニ數十坊ノ中唯一坊ノ存セルアリ 是即チ現今社家ノ先祖ナリ 再ヒ社殿ヲ造営シ僅カニ祭式ヲ執行シ來リシカ尚往昔ノ社格全廃ニ至ラス
領主前田氏累世崇奉不残時々幣帛ヲ捧ケラレシ砺波北郡ノ総社ト尊崇アラセラル特ニ大納言利長卿ノ時神社維持ノ為メ近郷五十三箇村 旧五位庄廿五ケ村國吉郷廿六ケ村宮島郷二ケ村 各戸ヨリ毎年玄米壱升宛取立ヘリ㫖(※旨)裁許アリ
社人永続仕來シモ明治元年之ヲ被廃候ニ付氏子并信徒等協議ノ末金七百余圓ヲ積シ以テ該社維持金ニ充テタリ然ル處尚々今明治二十年三月金四百圓余リ積シ益々神社維持ノ方法ヲ鞏固ニセリ
・明治六年全國神社改変ノ際旧新川県ヨリ村社格ヘ列ス
・明治十四年六月旧石川県ヨリ郷社ニ列セラル
・明治二十年七月縣社加列之義出願

一 本社間數 前口九尺 奥行七尺五寸
一 幣殿間數 前口四間中央ヨリ二間 奥行三間
一 拝殿間數 前口三間半 奥行三間
一 社務所  前口三間 奥行三間
一 境内坪數 九百七十五坪 地種官有地第壱種 
一 氏子戸數 弐百四十八戸
一 信徒人數 壱万五千八百廿八人  
一 富山懸廰迄 距離程八里    以上 

  礪波郡赤丸村郷社浅井神社祠掌 訓導 川人久良麿
明治廿年七月
(祠掌 = 明治時代神祇省郷社三等、訓導=教諭)


■「元正帝ノ御宇養老元年皇子二ノ宮とは?
;文武天皇の第二皇子で聖武天皇の弟の「石川朝臣広成」の事









🔴 📃 越中での「源氏の系譜」=》「清和源氏」と「宇多源氏」。 ⇒「越中吉岡庄(赤丸村)の総持寺」へ「河内国天谷山金剛寺」から「黄金の千手観音像」が伝えられた!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●上皇庄園「後院領 越中吉岡庄」に伝わった河内国、大和国の文化と「源氏」の系譜

■「河内金剛寺」は南北朝時代に「南朝の御所」に成った稀有な寺院で在り、一時期には「南朝、北朝両統」の天皇が住まいしていた。周辺は「南朝の楠正成」等が戦闘を行い、金剛寺自体も数回の攻撃を受けたとされる。「女人高野山」とも呼ばれ、高野山下に在って皇室、貴族、武将が多く結縁し、特に「高野山」に登れなかった女性達の信仰を集めた。







■「後白河上皇」が創建され、「三善(源)貞弘」が庄園を寄進した河内国「天谷山金剛寺」から、南北朝時代に「越中吉岡庄(※赤丸村)」の総持寺へ「千手観音像」(昭和12年国宝指定、現在は国重要文化財)が伝えられた。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」以来「後鳥羽上皇」等の庄園を経て南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室の「後院領」として伝領した。



・「衆徳山総持寺」(※高岡市関町)の「国指定重要文化財 木造千手観音座像」
(※この秘仏は例年、11月15日に一日だけ御開帳される。)
















■「河内金剛寺」は創建後、財政的に苦しく成った時に、金剛寺周辺の土地を「三善貞弘」が寄進したが、貞弘は「越中砺波山」で源氏と平家が激突した「倶利伽羅谷の戦い」で討死した。周辺の河内石川庄は「清和源氏」の発祥の地とされるが「三善貞弘」は源氏で有りながら平清盛に従った。
「河内金剛寺」の過去帳には平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」が記載されている。「廊の御方」は「宇多源氏」の「五辻家」に嫁ぎ、その子孫は「後醍醐天皇」に連なる。

・源平の激戦が展開された「越中倶利伽羅谷」とそこに立つ「倶利伽羅不動寺」




・平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」と子孫に当たる「越中吉岡庄」の領主「後醍醐天皇」








■南北朝時代には「後醍醐天皇」が信仰された「ヤタガラス神社」が在り、南朝勢力の伊勢国司「北畠親房」の支配地の大和国宇陀郡から「宇多源氏五辻家」に連なる「宇多源氏佐々木氏流」の「宇多刀工」が後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄」に移り住んだと云う。
この刀工達は江戸時代迄の長きに亘って続いたと云われる。











■「河内金剛寺」は「宇多天皇」が創建された「仁和寺」の末寺で、歴代の住職は興福寺から出ていた。この時期に越中から能登にかけて広がっていた「石動山」も「仁和寺末」で皇室勅願寺であり、周辺は後鳥羽上皇庄園から八条女院領に成っていたと云う。
この時期に仁和寺系の寺院が越中西部に展開していた事は越中西部に「宇多源氏」が移り住んだ一ツの要因だろうか?

■南北朝~室町、戦国時代の足利氏、能登畠山氏は「清和源氏」で、その後越中を領した「佐々成政」は「宇多源氏佐々木氏流」とも云われる。
「宇多源氏」は後々、源氏の棟梁で「征夷大将軍」と成った「清和源氏」に従う事が多かったと云う。

■「佐々成政」は宇多源氏の紋「四ツ目結紋」を使用している。

【宇多源氏佐々木氏流佐々系図】




■【重修真書太閤記】に拠れば、「太閤 豊臣秀吉」は【先祖の「木下氏」は近江を発祥とする「宇多源氏佐々木氏流高島氏」】とされる。




■赤丸村舞谷に、元々、播磨国の守護で清和源氏の「赤松氏」の末裔が「天景寺」(※現在は高岡市関町)を開いた。その紋は清和源氏の代表的な「笹竜胆紋」を使用している。



🔷🔹 天皇家庄園【越中吉岡庄】と二つの【方広寺】⇒【京都方広寺】、【浜松市方広寺】!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「保元の乱」で「藤原氏長者左大臣藤原頼長」から没収されて「後白河上皇」の庄園に成った【越中吉岡庄】は、南北朝時代の「後醍醐天皇」の時代迄、皇室庄園として続いた。






■「門跡寺院 聖護院」


■「聖護院派寺院」の「川人山鞍馬寺」(※赤丸村)








■天皇家庄園「吉岡庄」の旧跡




■【越中吉岡庄と二つの方広寺】
京都府と浜松市に在る二つの「方広寺」は、各々、南北朝時代の南朝の「後醍醐天皇」との因縁が深い。
「後醍醐天皇」の庄園で在った「越中吉岡庄」(※室町時代からは「五位庄」。高岡市福岡町赤丸周辺。)には、この後醍醐天皇所縁の二つの「方広寺」の系列寺院が在った。
その一ツは、「吉岡庄」の中心神社「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺院で「門跡寺院聖護院派」の「天台宗 川人山鞍馬寺」が在った。聖護院には「吉岡庄」の領主「後白河上皇」の皇子や「後醍醐天皇」の皇子が「聖護院門跡」となられている。
豊臣政権の時には、京都の「方広寺」へ皇室から「聖護院宮道勝」が入寺されている。
又、もう一ツの寺院は「浜松市」の「方広寺」で、元々「臨済宗」で、後に曹洞宗に成った「曹洞宗 天冠山三光寺」で、この寺院は「後醍醐天皇」、「後村上天皇」から「国済国師」・「三光国師」の称号を賜った「孤峯覚明」が開山と成った。
この「三光国師」の名前を冠する【臨済宗三光寺】(※現在は曹洞宗)が「越中吉岡庄」(高岡市十日市村)に在る。
《南北朝を統一した「足利義満」の時代に「越中吉岡庄」は「越中五位庄」と成り、義満は室の日野業子の菩提を弔う為に「五位庄」を自らが創建した「臨済宗相国寺(舎利殿金閣)」に寄進した。その時には「真言宗総持寺」等の赤丸浅井神社48坊と呼ばれた寺院は「越中守護畠山持国」等が居城とした「赤丸浅井城」周辺から追われたと「三光寺」では伝えている。》

舎利殿金閣









■①豊臣秀吉が再興した【京都 天台宗 方広寺】
京都市東山区にある天台宗の寺で、天正14年(1586年) に豊臣秀吉が創建して木造の大仏(京都大仏)を造営した。慶長元年の大地震で倒壊して慶長7年には炎上した。慶長14年には「聖護院宮 道勝」を「方広寺大仏殿寺務職」に任命した。
慶長17年には豊臣秀頼が再興し、慶長19年に落慶法要が行われたがその鐘の銘に「国家安康・君臣豊楽」と記されていた事から、徳川家康は【「家」と「康」の字が分断されているのは徳川家康を呪ったものである】とクレームをつけて「大坂の陣」で豊臣家を攻撃した。寛文2年 (1662年) には地震で大仏殿が倒壊し、寛政10年(1798年) には焼失した。天保年間 (1830~44年) には仮殿を再建し,半身の木造大仏を安置し、1880年にはその遺跡に豊国神社を建立し,1884年には鐘楼を建てこの鐘を吊るした。通称は「大仏」と云われた。
🔽加賀藩祖「前田利家」は京都「方広寺」の大仏造営の時に「人足一万人」の費用を寄進している。
▼【聖護院宮道勝】;
「興意法親王 コウイホウシンノウ」(1576年生〜1620年没)は陽光院誠仁親王の第5王子で後陽成天皇の実弟。母は新上東門院晴子(勧修寺晴右の娘)。天正4年生。幼称は五宮、初名は邦慶。法諱は初め道勝、のち興意。法親王は出家したのちに親王宣下を受けた。
慶長19年豊臣家が再建していた方広寺大仏殿がほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、駿府の徳川家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告等を逐次行ったが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立を生じていた。7月26日、家康は片桐且元に宛て、開眼・大仏殿供養日が同日である事、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわない事に加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。梵鐘の銘文は、南禅寺の文英清韓によって選定され、有名な「国家安康」・「君臣豊楽」が含まれていた。
興意法親王の書き下ろした棟札銘文に、棟札の形式や大工頭(棟梁)の名を入れていない事や天台・真言の座論も不審がある事等で江戸幕府の嫌疑を受け、六角東洞勝仙院に蟄居し、元和2年(1616年)には聖護院寺務および三井寺長吏を退いた。
三井寺の記録・『園城寺再興畧記』によると、幕府の嫌疑が晴れ、北白川の地に照高院を再建した時に徳川秀忠より旧伏見城二の丸御殿の寄付等を受け、洛東白川に新坊を建立し、そこに照光院を移した。元和6年9月、お礼言上の為に江戸へ下向し、滞在中の10月7日急死した。45歳。薨去の前日に将軍家から見舞いの使者として、水野忠元が宿舎の廣岳院に赴いたが、伺候の最中に突如頓死するという事件も起きたち為にこれは徳川家の豊臣圧迫の一環としての暗殺だったとも云われる。(※「コトバンク」等参照)
🔽「越中吉岡庄(赤丸村)」の【川人山鞍馬寺】は、「三井寺」の系統の「本山派修験道 門跡寺院聖護院」の末寺で在った。「川人山鞍馬寺」は「赤丸浅井神社」、「石堤浅井神社」、「舞谷八幡宮」を擁する「」三社権現形式を取り、「延喜式内社赤丸浅井神社」は「五位庄五十三ヶ村惣社」として五位庄を代表する神社で在った。



(祭祀日程は変更が在る)



②【浜松市 臨済宗 深奥山方広寺】
臨済宗方広寺派の大本山で静岡県引佐郡引佐町奥山に在る。
至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、「後醍醐天皇」の皇子「無文元選禅師」によって開かれた。当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、「無文元選禅師」を招いた。末寺170カ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。
▼【無文元選禅師】
方広寺を開山した。元亨3年(1323)「後醍醐天皇」の皇子として京都に生まれる。「後醍醐天皇」が崩御された翌年の暦応3年(1340、南朝興国元年)、京都建仁寺で出家し、可翁宗然禅師、雪村友梅禅師について修行する。康永2年(1343、南朝興国4年)には、元代の中国に渡って禅の修行をする。中国漸江省の温州に着き、福建省の建寧府にある大覚明智寺に古梅正友禅師を訪ねて参禅修行し、後に諸方を行脚して「天台山方広寺」に行く。観応元年(1350、南朝正平5年)に帰国し、京都岩倉に帰休庵を結び、やがて美濃(岐阜県)に了義寺、三河(愛知県)に広沢庵を結ぶ。この広沢庵に遠江(静岡県)奥山の豪族奥山六郎次郎朝藤が参禅し、無文元選禅師の父の「後醍醐天皇」の追善供養と、禅師の師恩に酬いるために、所有する山林の中から50町余りを寄進して、堂宇を建立して禅師を招く。その辺りの光景が中国の「天台山方広寺」に似ている事から、この寺を「方広寺」と名付けたと云う。
・応安六年七月に【三光国師 孤峯覚明】の法嗣の「無言叟智訥」(古剣智訥)が「無文元選」の像(方広寺蔵)に「托開千聖宅 把定仏祖関 看面目也無 背面高居方 広絶塵寰」と賛を加えている。

◆浜松市の「井伊家菩提寺」の「龍潭寺」の開山となる「黙宗瑞淵」も初めは「智淵」の名で当寺に属していた。
(※「開山黙宗大和尚行実」龍潭寺蔵)
《※「龍潭寺」;静岡県浜松市北区にある臨済宗妙心寺派の寺院》
⇒永禄11年(1568年)12月、「徳川家康」は遠江への進攻の際に「龍潭寺」で休息した(武徳編年集成)。天正8年(1580年)、徳川家康から寺法が下され、祈願所としての勤行の励行や祠堂物の徳政免許、無縁所としての勧進許可などが規定された。
(※「徳川家康判物」方広寺文書)
天正15年、後陽成天皇は「当寺住持は天皇の許可によって就任する事」と定められたと言う。
(※「後陽成天皇綸旨」・「近衛前久書状」同文書)

◆【三光国師】(※「孤峰覚明」)
富山県高岡市柴野に「三光国師」を開山とする【三光寺】が在り、この寺は南北朝時代に、後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄」に大和国宇陀郡から移り住んだと云われる「宇多源氏」の刀工の【宇多派刀工】の菩提寺で、前田利長の妻に成った「織田信長」の四女「永姫」が再建した寺院である。
その後、元臨済宗で在ったこの寺に前田家菩提寺の「曹洞宗繁久寺」の住職が隠居し、この時に三光寺も曹洞宗に改宗し、繁久寺の末寺と成った。
(※「繁久寺」は元々、能登総持寺の前身とされる曹洞宗永光寺に近い越中国氷見郡に在ったと云われる。)









▼「孤峰覚明」《文永8年(1271年)~康安元年/正平16年5月24日(1361年6月27日)》は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。俗姓は平氏。諱は覚明。道号は孤明。
陸奥国会津の出身で、比叡山延暦寺で受戒し、天台教学を学んだ。紀伊国「興国寺」において入宋僧である心地覚心に参禅し、更に出羽国の了然法明、那須雲岩寺の高峰顕日、博多崇福寺の南浦紹明に師事し本格的な禅宗を学ぶ。1311年(応長元年)中国(元)に渡り、天目山の中峰明本・古林清茂などに参禅したのち帰国した。鎌倉建長寺の南浦紹明・【能登国永光寺】の瑩山紹瑾に師事したのち、出雲国に雲樹寺を開いた。
《※「能登国永光寺」は能登国に在る「曹洞宗総持寺」の元寺。》
鎌倉幕府に対して挙兵し、伯耆国船上山にいた「後醍醐天皇」に招かれて天皇からの諮問に答え、「国済国師」の号と「天長雲樹興聖禅寺」の額を賜った。その後、京都南禅寺に招かれたがこれを辞退し、紀伊国興国寺に住した。再び上洛して妙光寺に住し、一方で大和国吉野で後村上天皇に衣鉢を与え「三光国師」の号を賜った。
・大阪府堺市西区と高石市には「浜寺」と呼ばれる地域があるが、この地に「三光国師」が建立した「大雄寺」が吉野山日雄寺に対して「浜寺」と呼ばれたことに由来する。

(※Wikipedia,コトバンク等参照)

🔴🔨 【宇多刀匠 展】が開催された⇒高岡市福岡歴史民俗資料館(2017年9月23日~12月3日 ) →南北朝時代に吉岡庄に移り住んだ「宇多刀工」!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●南北朝時代に大和国宇陀郡から越中吉岡庄(赤丸村領三日市)(※高岡市福岡町赤丸村領城ケ平山麓 鍛冶屋町島地内)に移住したとされる「宇多刀匠」の作品展が開かれた。
⇒多数の「宇多刀」や参考出品として「郷義弘」・「佐伯則重」も展示された。

■初めて、地域に残る南北朝~室町時代に作刀された「宇多刀」を集めた展示会が開かれた。
(※富山県内には多くの文化財の名刀がこの他にも遺されている。)






















■【出展】
・高岡市文化財「宇多 槍」(※福岡歴史民俗資料館所蔵)
・宇多刀匠初代「宇多国光 小太刀」(※個人所蔵)
・高岡市立博物館所蔵「宇多 刀剣」他
・小矢部市個人所蔵「宇多 鎧通し」(※佐々成政の子孫とされる家系に伝わり、嫁入りの際に持参したもの。)
・刀剣協会会員所蔵「重要刀剣 宇多」他 多数
・同 「宇多 槍」
・同 「金銘 郷 義弘 太刀」富山県魚津市
・同 「佐伯則重 太刀」富山県富山市五福
・同 「日本刀 押型」作品
・「越中吉岡庄鍛冶屋町絵図」高岡市福岡町赤丸舞谷に伝わる「鍛冶屋町絵図」(※舞谷村自治会)
・江戸初期の「刀剣鑑定書」、「日本刀 押型」

■「小山家由緒」⇒鎌倉時代に関東の「結城の乱」で越中吉岡庄土屋に落ち延びた「小山朝政」の子孫の由緒で富山県立公文書館所蔵の原本を展示。代々「医師」を勤めて「小山どん」、「おやっさま」と呼ばれた福岡町土屋村の郷士の系図等を記載している。
(※「小山家文書」)(※「土屋村史」所載原本)


■ 学芸員説明会 10月21日 14;00~、11月1 9日 14;00~
■刀剣講座 (※資料館2階)10月14日 13;30~ 学生対象(※申込 終了)



(※注 ; 鍛冶屋町現地等には案内看板が立てられていますが、現地の山林は全て個人所有の山林です。勝手に立ち入ると処罰される可能性が在りますから御注意下さい。)

🔴🌄「加賀藩江戸下屋敷」の「赤丸山」、「大岩不動尊」!! ⇒加賀藩第十三代前田斉泰公の『赤丸浅井神社』の信仰。

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



(※天保年間に使用された【加賀藩参勤交代道中懐中絵図】、江戸から金沢迄の道中のルート、宿舎、費用、時間等と共に街道沿いの名勝等も記された長尺の絵図。)

■『加賀藩下屋敷』
(※出典「中山道板橋宿と加賀藩下屋敷」板橋区、金沢市友好都市協定締結記念誌)
◆「絵図」には「越中五位庄 赤丸浅井神社」の鎮座する「清水山」を模した築山を【赤丸山】として、又、加賀藩主が崇敬した「越中国 大岩不動尊」を祀る築山を【大岩】として、二ッの「築山」が江戸下屋敷に設けられていた。
【大岩】には「大岩不動尊」の実際の岩を切り取って不動尊の写しを彫らせ戸室石の祠に祀って在った。(※この「不動尊像」は、昭和期に富山県上市上市町の「大岩不動尊」に遷仏され、本堂脇に安置されている。)










■東京の板橋に在った「加賀藩下屋敷」は幕末期には兵器工場と成り、大砲や鉄砲の生産を行っていた。







■「越中五位庄惣社 延喜式内社赤丸浅井神社」
(※富山県高岡市福岡町赤丸)

「赤丸村」には『清水山』や『城ケ平山』等の山並が在り、山々には延喜式内社として信仰が篤かった「赤丸浅井神社」や「別当 門跡寺院聖護院派 山伏 川人山鞍馬寺 」、「清水観音堂」、「愛宕社」、「熊野社」等が在り、京都の「清水寺」に在る「音羽の滝」の名をつけた大滝が浅井神社背後に在り、当時は観光地、景勝地として富山県内では著名だった。又、加賀藩第十三代藩主の『前田斉泰』が『赤丸浅井神社』の社名を書いた掛軸を寄進している。この掛軸の文字を写して現在の『浅井神社』と言う額が作製されている。
(※「門跡寺院聖護院」;歴代の天皇の皇子が門跡に成られた京都の寺院。初代門跡は、「越中吉岡庄」の領主「後白河上皇」の皇子「浄恵法親王」。川人山鞍馬寺宝物として今も献上札が赤丸浅井神社に残る。)
(※「延喜式内社赤丸浅井神社」;「皇室」が祀る八神の内の「高皇産霊神」と出雲の「大国主」系の神「八河江比売」を主祭神とし、「五位庄域内の神々」を併せて祀る地域を代表する惣社)





























■「大岩不動尊」(※富山県上市町)

【大 岩 山 三 門】
(※正式には「空門」・「無相門」・「無願門」の三境地を経て仏国土に至る門、「三解脱門」の意味から『三門』と云う。)





■『越中国 大岩山』の『大岩不動尊』の写しが加賀藩の下屋敷に祀られていた。その石材は、実際の富山県上市村の磨崖仏『大岩不動尊』の右肩の石を削って使用されていた。現在も『大岩不動尊』の右肩上部には、この石材を切り出した跡の大きな穴が空いている。
この大岩不動尊の写しは、昭和時代に加賀藩下屋敷が某生保に売却された時に、この生保と施設施工会社の寄進により上市町の大岩不動尊に遷仏され、盛大に「遷仏会」が行われ、現在は本堂隣の「愛染堂」に祀られている。



■「加賀藩板橋下屋敷」には「赤丸山」と云う小山や「大岩不動尊の写し」を祀った「大岩」と呼ばれた「築山」が在った。

広大な「加賀藩下屋敷」(中山道板橋宿)には、「赤丸山」、「大岩」等の富山県の地名がつけられた山があり、「大岩」には大岩不動尊の岩で造った大岩不動尊の写しが、高さ1M近くの金沢の「戸室石」で造られた「祠」に祀ってあった。加賀藩は前田利常が大岩不動尊に祈願して子宝を授かった事から、歴代の奥方は嫁いだ時に数ヵ月間「大岩不動尊」に参籠された。

■加賀藩下屋敷は参勤交代の時にも使用された様だが、平時にはこの広大な下屋敷では亥狩りや鴨等の狩りが行われて将軍に献上されたと云う。この下屋敷には山や川、湖、山林、農地等が有り、幕末の時には兵器製造工場となり、大砲が鋳造された。加賀藩には上屋敷、中屋敷、下屋敷が有り、上屋敷跡は東京大学のキャンパスになっている。現在、板橋区と金沢市は姉妹都市になっている。


■「大岩不動尊」※富山県上市町
本尊大岩不動尊

愛 染 堂

観 音 堂

六 本 滝


(※資料は大岩不動尊の許可済み)

🔴🔹赤丸浅井城城主末裔の中山家と徳川・前田家家臣の中山家とは !?

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「中山直治由緒」(※中山正弥家文書ー敦賀市)


■「中山正弥系図」※敦賀市


■「中山孫左衛門清直系図」※高岡市


◎敦賀市の「中山直治」と、高岡市の「中山孫左衛門清直」は「直」の字が通字となっており、兄弟とも思われる。→中山孫左衛門系統はこの後には全て「清」を通字として使用している。


■「中山家範系図」※徳川家臣名簿



■赤丸浅井城城主の末裔とする敦賀市の「中山正弥家系図」に拠ると、この系統は越中石黒氏が北条氏と対立して浅井城から去り、その後に浅井城に入ったとされる。この系統は「藤原氏であった」と系図に残している。
しかし、「徳川諸家系図」(※静岡県立図書館)に拠ると、徳川家臣となった中山氏の「中山家範」は元々「北条氏照」に仕えたが、後に天正十八年の八王子城戦の時に裏切り、「前田利家」に与して戦死したとされる。この点では現在高岡市に残る「中山孫左衛門清直家」(三百五十石)は前田家に仕官したとされ、共通している。
高岡市在住の中山家初代の中山孫左衛門は上杉謙信の能登攻めでは神保氏張に加勢し、上杉、織田の能登平定の後は赤丸鞍馬寺に居住、二代清道も鞍馬寺居住、三代清方は前田家臣の本多政重に仕えて大阪夏の陣に参戦して二百五十石、四代清茂は前田利次の富山城入城に際して百五十石で仕えた。五代知清は加賀で浪人となり、六代清知は本多政長に仕えて子孫は幕末迄、本多家に仕えたとされる。
しかし、徳川家臣の「中山家範家」は系図に拠ると「丹治姓、家紋は升形に月出之形」としている。「丹治氏」は宣化天皇の曾孫の多治比彦王の後裔で河内国丹比郡を本拠とする。旧説では武蔵七党の丹党は丹治氏の後裔とされていたが、実は紀国造家族の大丹生氏後裔である。一族には「多治比氏」がおり、旧説で武蔵七党の丹治氏末裔とされていた事から、関東の秩父平家の系統とする主張が出たものか、浅井城中山氏末裔とする赤丸村の「中山赤圓家」は「先祖を秩父平氏の中山次郎重実」としている。
(※秩父平氏;畠山重忠・ 河越重頼・江戸重長等)
※河越重頼の娘は源義経の正妻だったが、義経と共に奥州に逃れてその娘と共に義経に従って亡くなった。河越重頼は源頼朝の重臣として仕え、頼朝の世話で娘を義経に嫁したものの、義経追討の時に頼朝により殺害された。畠山重忠は頼朝の旗揚げに協力して頼朝に従ったが、その力を恐れた北条氏の陰謀で討ち取られ、妻の北条氏の娘は源氏の足利氏に再嫁して、畠山の名跡を継いだ。この後の畠山氏は源氏系畠山氏になっている。畠山重忠は義経の妾の静御前が頼朝の前で踊らされた時には、自ら鼓を打ったと云う武勇と情に厚い人物として伝わっている。
【武蔵七党 】
小山氏等(横山党、猪俣党)、有道氏等(児玉党)、平氏等(桓武平氏ー村山党、野与党)、丹治比氏中山(丹党)、日奉氏等(西党)

■ここで、末森の戦いの後に敦賀市に移った「中山直治家」、高岡市の「中山孫左衛門家」、赤丸村「性宗寺中山家」は近江をルーツとして、近江の今井氏との関係を匂わせ、本姓を藤原氏、源氏としている。一方、赤丸村の「中山赤圓家」、徳川家臣の「中山家範家」は、其々、秩父平氏、秩父丹党としている。徳川家臣の「中山家範家」と高岡市の「中山孫左衛門家」は前田利家に従ったとしているが、敦賀市の「中山直治家」は前田利家への仕官を断り、敦賀に流浪したとする。子孫が分岐する事は当然起り得るが、そのルーツは二つに別れている。敦賀市の「中山直治家」(※中山正弥家)は赤丸浅井城の城主末裔として多くの赤丸周辺の住民への米の貸付証文を保管していたが、中山直治以前の系統は明らかではなく、その点、高岡市の「中山孫左衛門家」は「本姓は源氏、近江の出身、家紋は下がり藤に丸」として近江から出た事も明らかにしている。敦賀市の「中山直治家」が、今井氏の後継となった事は、今井氏との元々の縁を感じるし、高岡徹氏の調査では近江長浜の八幡中山村(古くは中山村)には中山氏所縁の伊吹神社・天満神社が在り、中山直治が養子に入った敦賀市の「今井氏」の系図を調べると、元々は地元の国侍で神社を祀った経過が記されている。ここでは神社に関わっていたという共通性が見られる。敦賀市の今井氏は朝倉氏からの証文も残しており、朝倉家中であったと見られる。(※「中世城舘調査報告書」)
この近江の今井氏は一端、長子が亡くなって本家は滅亡したが、諸家が後継として存続したと云う。徳川家臣名簿の旗本に今井氏が見られる。近江今井氏を調べると、源氏の佐々木氏と縁組みした近江の藤原秀郷(藤原氏で近江の田原に住んだ事からこの武将は俵藤太と呼ばれる。)系統の蒲生氏の系統の様だ。従って、本姓は源氏と云い、或いは藤原氏を名乗った可能性が在り、近江の中山、今井氏はそのルーツが推定されるものの、秩父平氏系統とする「中山赤圓家」の主張は、秩父平家の畠山重忠から推定した系図ではないかと思われる。
(※越中、能登、河内、紀州を領有した菅領畠山氏は、元畠山重忠の妻の北条氏の娘と再婚した源氏の足利系統であり、この時には源氏系畠山氏になっていたから、平家とするのは誤りと思われる。)

🌸🌸『赤丸浅井神社』と高岡市関町の『総持寺』との密接な関係を示す古記録!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸






■高岡市福岡町赤丸村舞谷に在った高岡市関町の「総持寺」には、「赤丸浅井神社」の神官を勤めた「西宝院」(記録中には西法院)の一族の法名が遺されていると言う。(※「越中古文抄」飛見丈繁 著)
「総持寺」の墓所は寺院が高岡市関町に動いた後も赤丸村舞谷に在り、総持寺の持宮である「熊野社」と墓所に毎年、総持寺住職が参詣された後、赤丸浅井神社にも拝礼されたと「赤丸浅井神社」の記録に遺されている。
これ等の記録によると、「赤丸浅井神社」と「総持寺」が如何に密接な関係で在ったかが理解できる。






🔴【越中の二つの吉岡】 後白河上皇庄園『越中吉岡庄』(※後の「五位庄」)の位置確定➡越中新川郡『吉岡村』と蜷川新右衛門の故地の「蜷川村」の検討!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
学会では、『越中吉岡庄』は近年迄、「富山市吉岡村」の事だとされていた。しかし、「国立歴史民俗博物館」では、『越中吉岡庄』と「新川郡吉岡村」の位置は全く違う事を認定した!!




■「富山県富山市蜷川村」








■最近迄、「越中吉岡庄」は「新川郡」に在ったとされて、東京大学資料編纂所の資料にも「新川郡」と注記がして有る。しかし、この富山市吉岡村には「吉岡谷」も無く、吉岡村には「加茂社」が在った記録が無い。記録では「越中吉岡庄」は白河天皇の時に「上賀茂神社」の庄園と成り、後に南北朝後期から「下鴨神社」の庄園になった経過が在るとされる。これに対して富山県高岡市福岡町赤丸の浅井神社を鎮守とした「越中吉岡庄」には「上加茂社」、「下加茂社」、「熊野社ち」、等の「七ヵ所の神社」が有り、現在も「吉岡館」が在ったと言う「吉岡谷」の隣接地には、「下加茂社」の跡地の「加茂宮」と言う地域も在る。これ等は何れも「都の雅を写して……」と伝承されて、「鞍馬寺」や「清水山観音寺」等、多くの史跡が残っている。



■平成26年に国立歴史民俗博物館は、これ等と様々な古文書を調査した上で「越中吉岡庄」は『後に五位庄になった高岡市福岡町周辺』と決定して『庄園データーベース』を統一している。
歴博では、【「越中吉岡庄」は歴史的に「上賀茂神社」・「下鴨神社」の庄園に成った歴史が在り、「高岡市福岡町(赤丸村~加茂村)」には、嘗て、「上加茂神社」・「下加茂神社」が在ったが、富山市吉岡村には「加茂神社」の痕跡が無い】等を挙げ、又、「富山県史」・「福岡町史」でも「吉岡庄は赤丸村周辺であろう」としている事等や、【『東寺百合文書』に記載されている「おいの庄」は「五位庄」の事】と判断して「高岡市福岡町赤丸~加茂周辺」と確定している。

■「富山県史」には室町時代に「赤丸在住の藤原真家が、父の法要を赤丸浅井神社、川人山鞍馬寺で、最勝寺の開基の亀阜豊寿が導師となって営んだ」との記録が掲載されている。
最勝寺は当初、臨済宗で後に曹洞宗となったが、当時は「越中吉岡庄」は「五位庄」となっており、室町幕府将軍足利義満が「相国寺」に寄進して以来、足利義持の時に「守護畠山満家」が守護をしていたとされ、時期的には不明だが「蜷川村郷土史」には、この時期には「蜷川氏が越中砺波郡・射水郡の二郡を統治した」とされる。従って、砺波郡の「五位庄」は蜷川氏が守護代として統治した事になる。


「室町時代」には、「越中国利波郡五位庄赤丸村」と既に記載されている。

■富山県富山市蜷川村は『蜷川の郷土史』によると、物語「一休さん」に登場する「蜷川新右衛門親当」の「蜷川氏」が統治した地域で在る。
「蜷川村」には「吉岡村」が在り、系図では蜷川氏の一部が後に「吉岡氏」を名乗った事も有り、「新川郡吉岡村」が「越中吉岡庄」と推定されたと思われる。しかし、権威在る機関や学者が発表した「歴史」はなかなか覆す事が出来ない。「越中吉岡庄」「越中五位庄」の庄園データーベースを訂正して頂く迄、約5年の時間が必要だった。それでも、現在も一部の学者はこの事を知らずに「新川郡吉岡庄」と認識しているケースがある。
それにしても、「越中吉岡庄」と「新川郡吉岡村」が、先に揚げた蜷川氏が統治したと云う事だけで無く、あの有名な「後い庄の戦い」(「花営三代記」群書類縦)以後、行方不明となった『桃井直常』の墓が在る『興国寺』がこの蜷川村に在ったと言う事も混同された原因の1つだろう。更に、上杉謙信の家臣と成り「五位庄」を安堵されていた越中五位庄の柴野城(現在の高岡市国吉)城主の「寺島牛介の弟の小島甚助が出家した常福寺」迄がこの蜷川村に在った事等も誤解された原因だろう。

■「赤丸浅井神社」を地域の鎮守とした「越中吉岡庄」は、「保元の乱」で藤原頼長の庄園から後白河上皇の「後院領」と成り、後醍醐天皇迄伝領した事は、古文書の「蓮華王院の記事」 や「兵範記」等にも掲載され、「東寺百合」文書には「五位庄」と記載されており、地元の伝承や地域の古文書にも記載されているが、中央の学者は地域の事情や地理に疎い為に短絡的に判断するケースがある様だ。

「延喜式内社赤丸浅井神社」






🔽「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」(※「律令制度の延喜式掲載の神社」)には、かつて、この赤丸村は「吉岡庄」、「五位庄」と呼ばれた事が記載されている。赤丸浅井神社は「五位庄53ヶ村惣社」(惣社=代表する神社)とされる。




■今回、「国立歴史民俗博物館」が「庄園データーベース」の「越中吉岡庄」「越中五位庄」を確認・訂正した事は、富山県の郷土史研究の新しい糸口を切り開いてもらった事になる。
地域の歴史が抹殺される事は恐ろしい事で、その時代の民衆の動きや活動が歴史から消え去り、地域の文化の根幹を抹殺する事になる。
漸く、「越中吉岡庄」と「越中五位庄」の歴史研究は本当のスタート地点に立ったと云える。



📚📖 京都の「東寺百合文書」に見られる室町時代の越中国『五位庄』と「都波(利波)郡」・「射水郡」!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■富山県西部の皇室庄園『吉岡庄』は南北朝時代末期に後醍醐天皇第八皇子宗良親王が『五位庄』に改名されたと伝わる。(※「宝永誌」)


▼「宝永誌」(※加賀藩の奉行が記した藩内の地誌の記録)



■加賀藩第四代「前田綱紀」が京都の「東寺」(※教王護国寺)に寄進した百函の桐函に整備された『東寺百合文書』には、越中の室町時代の様々な記録が遺される。






■「東寺百合文書」の【やなた某書状案】等に「五位庄」は「御位庄(おいのしょう)」と見られ、過渡期には上皇の庄園の「後院領」から、「御位庄」⇒「おいの庄」⇒「五位庄」と変化した様子が見られ、この庄園は上皇の為の『位田』で在ったと見られる。
その後、室町幕府第三代将軍「足利義満」が「五位庄」を「相国寺」の庄園として寄進した頃には、「五位庄」と明確に記載されている。(※「相国考記」相国寺史料)






■室町時代には「五位庄」の範囲が、「福野町の野尻」から、伏木港迄の広範囲なもので在った。
(※「越中統治絵図」羽曳野叢書)
又、室町時代は「五位庄」が、庄川沿線の「五位庄の東庄」と小矢部川沿線の「五位庄の西庄」に分かれており、その内の「五位庄の東庄」は「射水郡の内」で「般若野庄の地頭方」が預かる公卿の「徳大寺家」の庄園で在った。










■「東寺百合文書」には「越中守護 畠山満家」や「都波郡守護代遊佐河内入道」、「守護斯波義将」、尾張斯波家の家老「二宮信濃入道」等の当時の支配者の記録が遺されている。






■室町時代の「越中国」の「都波(利波)郡」、「射水郡」には、多くの「鋳物師」が活躍しており、室町幕府守護の斯波家から鋳物師に宛てた文書も遺されている。




🔴【西大寺末寺の 越中国分寺】と高岡市の【光釜山西大寺】⇒「福岡県みやま市」と「越中国砺波郡赤丸村舞谷」・「越前国朝日町」に伝えられた織田信長が愛した「幸若舞」の文化!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



赤丸村舞谷麻畠地内に「越中国司桃井直常の三男」が創建した【光釡山西大寺】(富山県高岡市木町)












■高岡市福岡町赤丸村舞谷、石堤村、福光町に伝わったと云う「幸若舞」!!
足利一族で南朝の武将の「桃井直常」の三男が赤丸村舞谷の麻畑島に「西大寺」を建て、この寺は現在も高岡市木町に「光釜山西大寺」として存続し、住職は「桃井」を名乗る。「幸若舞」は「五位庄の戦い」で破れた「桃井直常」の孫の「幸若丸」が越前朝日町に逃れて、その地で考案し、戦国武将に愛好された。朝日町の隣地の織田町の剣神社の神官の末裔の「織田信長」は【幸若舞】を愛唱して、事ある度に歌い、踊ったと云う。特に「敦盛」を好み、本能寺での最期にも「人間五十年------」と踊ったと云う。高岡市の二上山の一画に在った「守山城神保氏張」の妻は「織田信長の妹」で在った。
「越中志微」には「赤丸村の喜田氏、信長に通ず」とあり、赤丸村には織田信長の配下が住んでいた様だ。

■「舞谷村」の発祥は、加茂宮地区に在った「下加茂社」の舞殿が現在の赤丸村舞谷に在った事から、「舞屋」から変化して「舞谷村」に成った云う。舞谷村には明治初め迄、「幸若舞い」の踊り手の「舞々人」が住んでいた。この「幸若舞」は毎年、神社に奉納されたと云う。舞谷村の多くがこの西大寺門徒で、舞谷の清水山の中腹には、今も「西大寺山 一万坪」が残っている。
「幸若舞い」は、現在は福岡県の「みやま市」と越前「朝日町」にのみ伝承される。
時代劇等で「織田信長」が舞う舞いは、「能」の「仕舞い」と言う躍りを踊っているが、之は誤りで、実際には「幸若舞い」にも「敦盛」と言う曲目が在り、織田信長の舞った躍りは「甲冑」を着けて足を踏み鳴らして踊った雄壮な「幸若舞い」である。
(※現在は大阪市立大学がDVD化して販売もしており、YouTubeでも見られる。)

■【丹後、尾張、加賀、越中、因幡、伯耆、周防、長門、讃岐、伊予、奥州の各国分寺が室町時代には西大寺末寺と成っている。】
(※「西大寺末寺帳」、「羽曳野市史第一巻本文編」に見られる様に、南北朝時代には至近距離の高岡市伏木に在った「越中国分寺」が、西大寺末寺と成っていた事も在って、室町時代には「利波郡」に属した二上山に在った「越中国分寺」の末寺として赤丸村の舞谷村に現在の「光釜山西大寺」(※現在は高岡市木町に在り桃井直常の三男が創建した。寺紋は「丸に三羽雁金紋」。住職は桃井氏。)が創建されたと見られる。
「光釡山西大寺」の説明に拠ると、「五位庄の戦い」で敗れた南朝方の武将の「桃井直常」は、戦後、行方不明に成り、幼かった直常の三男は、「西大寺」の本山へ逃れ、そこで成人して、出家して、「西大寺」の寺号の使用をを赦されて、越中池にへ帰り、初めは福光辺りに庵を開いたが、後に、五位庄赤丸村舞谷に「西大寺」を開いたと言う。西大寺はその後、高岡市佐野の光釡地区へ動き、高岡開町時に高岡市木町に寺敷地を加賀藩から与えられて動いたと言う。
(※「高岡市佐野の光釡」は、その地に大きな池が在り、そこで釡を洗っていた娘が釡を拾おうとして池に落ちて行方不明になった。その後、その池の底に大きな龍がその落ちた釡をしっかり抱いているのが発見された。その為、この地域は「光釡」と呼ばれた。)









🔴📃 【延喜式内社赤丸浅井神社】と【頭槌カブツチの太刀】のルーツ⇒「神道名目類聚抄」!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
🔻富山県高岡市福岡町赤丸の「城ヶ平山古墳」から「神々が帯びた」と伝わる【頭槌の太刀】が発掘されている。

■「神武天皇の東征」に見られる「頭槌の太刀」


■「古事記」では【頭槌太刀】は神世に天尊降臨の時に帯びられたとされる。






■「赤丸浅井神社」に伝わった古書の「神道名目類聚抄」には神道の奥義や皇室の三種の神器、神道の建物、祭具、祭式等についての細部が記されている。
その中には皇室の「神剣」とされる刀剣にも、往古は幾つかの神剣が伝えられたと云う。
龍神が造ったと言う「御剣」は「御太刀」とも言い、「八握剣 ヤツカノツルギ」、「九握剣 ココノツカノツルギ」、「十握剣 トツカノツルギ」等が在ったと言い、「十握剣」は「四指を以て十を計ふ」とされる。

▼『神剣』
・「蛇麁正剣 オロチノアラマサノツルギ」;蛇を殺した剣を「蛇の麁正 アラマサ」と言い、今は石上イソノカミに在り。
・「蛇韓鋤 オロチノカラサヒ」;スサノオノミコトは計りて毒酒を醸して以て飲ましむ大蛇は酔って眠る。スサノオノミコトは「蛇韓鋤之剣 オロチカラサヒノツルギ」を以て頭を斬り腹を斬りその尾を斬り玉う 蛇を斬り玉へる剣は今吉備神部キビノカンベの許に在り。
・「天蝿斬之剣 アメノハエキリノツルギ」;スサノオノミコトは即ち天蝿斬之剣を以て彼大蛇を斬り玉う。
・「羽々斬剣 ハハキリノツルギ」;古語拾遺に云う。スサノオノミコト天よりして出雲国簸之川上に降到 天十握剣を以て八岐の大蛇を斬 その名は 天羽々斬 今石上の神宮に在り 古語に大蛇をこれを羽々 ハハと云う 言ば大蛇を斬也
・「大葉刈 オオハカリ」;神戸剣 カンドノツルギ 神代巻に云う 味耜高彦根神アジスキタカヒコネミコト 天に登りて喪を弔う 此神の容貌まさに天稚彦アメノワカヒコの平生イケル時のよそおいに類たり 故 天稚彦親屬妻子アメノワカヒコチチハハウカツヤカラメコ 皆思わく 吾君アガシナギは猶ましけりと云う 衣帯に攀牽ヨジカカリ 且つよろこび且つまどう時に味耜高彦根神いかりおもほてりして曰 朋友トモガラの道理宜ミチコトワリウベハヒ とぶらう故 汚らわしきを憚らず遠より起哀オキカナシむ 何為ナンスレぞ我を亡者にあやまつと云て 則其帯剣大葉刈ソノハカセルオオハカリ を以て喪屋を斬り仆す 亦名は神戸剣カンドノツルギ 云々
⇒葉は刃の義 刈りは斬りの義なり 神戸は喪屋を斬り倒すより云り


■「大伴氏」の祖先神「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」を祀る「延喜式内社赤丸浅井神社」と「大伴連」が使用した「頭槌の太刀」⇒大伴一族佐伯氏発祥の「真言宗開祖空海」と赤丸村の真言宗寺院「総持寺」のルーツ!!



■「頭槌剣」は赤丸村城ケ平山古墳群から発掘されて、現在は「国立東京博物館」に展示されている。















■「頭槌剣」は「大伴連の遠祖の天忍日命アメノオシホノミコトが来目部(久米部)の遠祖の天串津大来目を率いて、背中には弓矢を背負って地上に降り立たれた」事が記載され、軍事部族の大伴連が武人の久米部を率いて戦われたとされる。
又、後には九州に繁栄していた「隼人族が朝廷の大甞会の時に腰に帯びた」と記されている。
これは古事記の記載を引用したものだが、この「頭槌の太刀」が大和朝廷の軍事を司った「大伴氏」「久米氏」の所縁の剣と云えるだろう。「越国」は大和朝廷が東北の「蝦夷」を攻めた時には軍事の最前線基地で在ったと伝わり、「大伴氏」の一族「佐伯氏」が駐在して、やがて、降伏した「蝦夷」を朝廷から賜り「佐伯部」と云う軍隊を構成して「佐伯氏」に従ったと言う。

★この「佐伯氏」の一族が四国に渡り、後に真言宗の開祖「空海」を産み出した。赤丸村に古くから在った寺院は「真言宗」や「天台宗」が多く、明治維新の廃仏毀釈の時に「本山派修験道」は「天台宗」、「当山派修験道」は「真言宗」に組する様に明治政府は改編した。(※赤丸村の「川人山鞍馬寺」は三井寺系の「本山派」で在り、衣裳には白い房を着ける。真言宗系当山派の醍醐寺派と天台宗系本山派の聖護院派が在った。)



■延喜式内社赤丸浅井神社には一条天皇が勅使を遣わされた時に勅使お手植えの二本の桜の大木が昭和初期迄在ったが、この大木は「木花咲夜比売」の御神体として長く進行され、その為に同じく「木花咲夜比売」を祭神 とする真言宗の白山信仰も深く関係した。「川人山鞍馬寺」の前には白山を開いた「泰澄」が境内に庵を開いたとされて元々、白山修験道とは密接で在ったが、「越中吉岡庄」の領主の「後白河上皇」の皇子が「聖護院」の門跡になられた事から「聖護院派」に組み込まれた様だ。この習慣は現在も続き、白山修験道の山伏が「延喜式内社赤丸浅井神社」や高岡市関町の「総持寺」に拝礼すると言う。
「空海」が高野山を開いた時には地主神の導きと了解の上に高野山を開いたと言われ、真言宗「空海」や天台宗「最澄」の教えの中に神道を敬う「両部神道」の教えが在った事から、「川人山鞍馬寺」にもこの二つの修験道が持ち込まれたものと見られる。「浅井神社48坊」と呼ばれた寺院は「真言宗」や「天台宗」の寺院が含まれていた様だが、浄土真宗が入った頃から改宗が進んだ。

🔻【赤丸浅井神社の勅使桜】
「一条天皇」の時に「赤丸浅井神社」へ勅使「川原左京」(※河原町の左京職藤原道長の事か? 一条天皇は藤原道長の甥。)を遣わされ、その時に赤丸浅井神社の敷地内に二本の桜木を植えられた。これが「勅使桜」、「遅桜」と呼ばれ、この地域の田植の目安になったと云う。この二本の桜木は昭和初期迄生存して、この桜木を使用した額にこの桜の写真を納めて赤丸浅井神社の拝殿に現在も掲げられている。





🔴📃 「延喜式内社赤丸浅井神社」の掲額を揮毫した「加賀藩第十三代前田齋泰」の書【朝】と「加賀藩士」達の実録「加賀藩史稿」!!

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「前田齋泰」は天保年間から明治維新迄の激動期を乗りきった豪傑とされ、ある時には粛清の中で恐れられた藩主。江戸下屋敷には、大砲等の武器製造所を設け、幕末の動乱期の軍備を整えた。



■【加賀藩史稿】は明治42年に金沢市役所が編纂したもので、「歴代藩主」や「家臣」の事績を記載している。
この度、偶然にも、この「加賀藩史稿」を編纂した「戸水信義」の自筆原稿、「前田利長事績」・「前田齋泰事績」を入手した。
この原稿には他の歴史書には見られない「実録」が記載されている。














■「前田齋泰」は越中五位庄 とは密接な藩主で在り、「江戸下屋敷」の庭園には「赤丸山」・「大岩山」の築山を築き、「延喜式内社赤丸浅井神社」を尊崇して 、「浅井神社」の自筆書を神社に贈っている。
加賀藩では、父の斉広の時代に「十村断獄事件」と云う各地の農村の責任者を島送りにした有名な疑獄事件を起こしているが、先祖を「柴野城城主寺嶋牛介」とする「寺嶋蔵人」はこの弾圧政策に反対して勢力を拡大した為に、齋泰は蔵人を能登島に流罪にした。(高岡市東五位の十村役「五十嵐篤好」も断獄事件に連座している。)
「前田齋泰」の時代は、良きにつけ、悪しきにつけ加賀藩と赤丸村は激動の時代を過ごしている。

📚📃平成28年度「東大寺」お水取り特別展(2/6~)⇒「利波臣志留志」と「上院修中過去帳」 ❗❗

2021-04-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■【越中石黒氏の祖の利波臣志留志は大仏造営の為に、米五千石を寄進した。】と「東大寺上院修中過去帳」に記載される。平成28年度の「東大寺お水取り展」ではこの古文書が公開された。




















■聖武天皇はうち続く天災地変を鎮める為に東大寺の大仏造営を発願され、全国民に石のひとつ、草木の一本を持ち寄り、全国民ができるだけの寄進をせよと命じられ、天皇自らが袖に土を入れて運ばれたと伝わる。武内宿禰の末裔の利波臣志留志は大仏造営の為に、米五千石を寄進した。利波臣は「臣」が付く事から、皇族の末裔と言う事が判るが、「宇治拾遺物語」と「今昔物語」に拠れば、インドの古い経典「留志長者経」というお経があり、これを解釈すると「留志長者を目指す仏教徒(留志⇒志留)」と云う事からこの名前が来ている事が推測される。「留志長者」は欲張りで、家族にも食べさせない位で在ったが、留志長者が出掛けたある時、仏様が留志長者に変身して、蔵の財物や食物を家族や周辺の人達に分け与えてしまった。帰ってきた留志長者は途方にくれて、仏様の教えを受けて改心した。これが「留志長者経」の説くところであり、仏教の「布施」を教える経典である。「利波臣志留志」は聖武天皇の国家鎮護の祈りを受けて寄進を推進した「行基」の活動に賛同して、全国的にも突出した巨額の寄付をしている。米五千石(※東大寺要禄)は奈良文化財研究所の試算では現在の3億円以上になると云う。因みに越中吉岡庄の延喜式内社赤丸浅井神社は「行基の創建」と伝わり、隣地の浅井城は聖武天皇の弟の石川朝臣広成が居城とされ、以後、「利波臣志留志の末裔の石黒氏が累代居城とした。」と伝わる。又、高岡市高田島の「五位庄神社」は聖武天皇の祈願社としての由緒を伝えている。

■(参考→古代の役職)
【東大寺】では、「利波臣志留志」は「志 サクヮン」と言う当時の役職で在ったとされる。当時の「四部官制」では、「カミ、スケ、ジョウ、サカン(サクワン)」と言う役職で在り、「神祗官」では【伯・副・佑・史】、「省」では【鄕・輔・丞・録】、「職」では【大夫・亮・進・属】、「寮」では【頭・助・ 允・属】、「国」では【守・介・掾・目】とすべて『かみ』『すけ』『じょう』『 さかん』と読み、【兵衛府、衛門府、検非遣使】では【「督」、「佐」名、「尉」、「志」】を使用している。「東大寺」では「利波臣志留」は武人として「志 サクワン」を当てた官職だったとされる。



■【利波臣志留志の東大寺への寄進】
石黒氏の祖と言われている「利波臣志留志」は東大寺大仏造営の時、「米五千石」(東大寺過去帳)を寄進し、《米五千石とは、続日本紀記載の米三千石と荘園100町歩(井山村:砺波市頼成)を加えていると見られる》を東大寺大仏造営の為に寄進し、現在も「東大寺お水取り行事」で大仏建立の貢献者として「利波臣志留志」の名前が読み挙げられている。

(「肯構泉達録」の赤丸浅井城に関する記載)



(「越中勤王史」に見られる石黒氏と赤丸浅井城の石黒氏)

■毎年、新年には東大寺で「お水取り」の行事があり、法相宗の根本経典の華厳経他の膨大な経典が転読され、東大寺の大仏造営の時に貢献した信徒の名前が毎年、読み上げられる。
平成28年には、2月6日~3月14日の間、奈良国立博物館の東新館で、お水取り行事と合わせて「特別展」が開催され、東大寺の宝物、資料等が展示された。
(※毎年、3月1日~3月14日は二月堂のお松明行事が行われ、3月12日は二月堂の籠松明が行われる。)


■平成28年度の「東大寺お水取り特別展」では、毎年、読み上げられる大仏造営の貢献者を記載した「過去帳」(毎年、三月五日と十二日の夜には、「東大寺上院修中過去帳」が読み上げられる。 )が展示され、その内容は要録の冊子にも掲載された。その中には、「東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進した利波臣志留志」と記載されていた。滅多にお目にかかれない貴重な「利波臣志留志」に関する資料であり、東大寺や志留志の後裔の越中石黒氏の研究者にとっては貴重な機会で在った。