●上皇庄園「後院領 越中吉岡庄」に伝わった河内国、大和国の文化と「源氏」の系譜
■「河内金剛寺」は南北朝時代に「南朝の御所」に成った稀有な寺院で在り、一時期には「南朝、北朝両統」の天皇が住まいしていた。周辺は「南朝の楠正成」等が戦闘を行い、金剛寺自体も数回の攻撃を受けたとされる。「女人高野山」とも呼ばれ、高野山下に在って皇室、貴族、武将が多く結縁し、特に「高野山」に登れなかった女性達の信仰を集めた。
■「後白河上皇」が創建され、「三善(源)貞弘」が庄園を寄進した河内国「天谷山金剛寺」から、南北朝時代に「越中吉岡庄(※赤丸村)」の総持寺へ「千手観音像」(昭和12年国宝指定、現在は国重要文化財)が伝えられた。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」以来「後鳥羽上皇」等の庄園を経て南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室の「後院領」として伝領した。
・「衆徳山総持寺」(※高岡市関町)の「国指定重要文化財 木造千手観音座像」
(※この秘仏は例年、11月15日に一日だけ御開帳される。)
■「河内金剛寺」は創建後、財政的に苦しく成った時に、金剛寺周辺の土地を「三善貞弘」が寄進したが、貞弘は「越中砺波山」で源氏と平家が激突した「倶利伽羅谷の戦い」で討死した。周辺の河内石川庄は「清和源氏」の発祥の地とされるが「三善貞弘」は源氏で有りながら平清盛に従った。
「河内金剛寺」の過去帳には平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」が記載されている。「廊の御方」は「宇多源氏」の「五辻家」に嫁ぎ、その子孫は「後醍醐天皇」に連なる。
・源平の激戦が展開された「越中倶利伽羅谷」とそこに立つ「倶利伽羅不動寺」
・平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」と子孫に当たる「越中吉岡庄」の領主「後醍醐天皇」
■南北朝時代には「後醍醐天皇」が信仰された「ヤタガラス神社」が在り、南朝勢力の伊勢国司「北畠親房」の支配地の大和国宇陀郡から「宇多源氏五辻家」に連なる「宇多源氏佐々木氏流」の「宇多刀工」が後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄」に移り住んだと云う。
この刀工達は江戸時代迄の長きに亘って続いたと云われる。
■「河内金剛寺」は「宇多天皇」が創建された「仁和寺」の末寺で、歴代の住職は興福寺から出ていた。この時期に越中から能登にかけて広がっていた「石動山」も「仁和寺末」で皇室勅願寺であり、周辺は後鳥羽上皇庄園から八条女院領に成っていたと云う。
この時期に仁和寺系の寺院が越中西部に展開していた事は越中西部に「宇多源氏」が移り住んだ一ツの要因だろうか?
■南北朝~室町、戦国時代の足利氏、能登畠山氏は「清和源氏」で、その後越中を領した「佐々成政」は「宇多源氏佐々木氏流」とも云われる。
「宇多源氏」は後々、源氏の棟梁で「征夷大将軍」と成った「清和源氏」に従う事が多かったと云う。
■「佐々成政」は宇多源氏の紋「四ツ目結紋」を使用している。
【宇多源氏佐々木氏流佐々系図】
■【重修真書太閤記】に拠れば、「太閤 豊臣秀吉」は【先祖の「木下氏」は近江を発祥とする「宇多源氏佐々木氏流高島氏」】とされる。
■赤丸村舞谷に、元々、播磨国の守護で清和源氏の「赤松氏」の末裔が「天景寺」(※現在は高岡市関町)を開いた。その紋は清和源氏の代表的な「笹竜胆紋」を使用している。
■「河内金剛寺」は南北朝時代に「南朝の御所」に成った稀有な寺院で在り、一時期には「南朝、北朝両統」の天皇が住まいしていた。周辺は「南朝の楠正成」等が戦闘を行い、金剛寺自体も数回の攻撃を受けたとされる。「女人高野山」とも呼ばれ、高野山下に在って皇室、貴族、武将が多く結縁し、特に「高野山」に登れなかった女性達の信仰を集めた。
■「後白河上皇」が創建され、「三善(源)貞弘」が庄園を寄進した河内国「天谷山金剛寺」から、南北朝時代に「越中吉岡庄(※赤丸村)」の総持寺へ「千手観音像」(昭和12年国宝指定、現在は国重要文化財)が伝えられた。「越中吉岡庄」は「後白河上皇」以来「後鳥羽上皇」等の庄園を経て南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室の「後院領」として伝領した。
・「衆徳山総持寺」(※高岡市関町)の「国指定重要文化財 木造千手観音座像」
(※この秘仏は例年、11月15日に一日だけ御開帳される。)
■「河内金剛寺」は創建後、財政的に苦しく成った時に、金剛寺周辺の土地を「三善貞弘」が寄進したが、貞弘は「越中砺波山」で源氏と平家が激突した「倶利伽羅谷の戦い」で討死した。周辺の河内石川庄は「清和源氏」の発祥の地とされるが「三善貞弘」は源氏で有りながら平清盛に従った。
「河内金剛寺」の過去帳には平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」が記載されている。「廊の御方」は「宇多源氏」の「五辻家」に嫁ぎ、その子孫は「後醍醐天皇」に連なる。
・源平の激戦が展開された「越中倶利伽羅谷」とそこに立つ「倶利伽羅不動寺」
・平清盛と常磐御前の間に生まれた娘「廊の御方」と子孫に当たる「越中吉岡庄」の領主「後醍醐天皇」
■南北朝時代には「後醍醐天皇」が信仰された「ヤタガラス神社」が在り、南朝勢力の伊勢国司「北畠親房」の支配地の大和国宇陀郡から「宇多源氏五辻家」に連なる「宇多源氏佐々木氏流」の「宇多刀工」が後醍醐天皇の庄園の「越中吉岡庄」に移り住んだと云う。
この刀工達は江戸時代迄の長きに亘って続いたと云われる。
■「河内金剛寺」は「宇多天皇」が創建された「仁和寺」の末寺で、歴代の住職は興福寺から出ていた。この時期に越中から能登にかけて広がっていた「石動山」も「仁和寺末」で皇室勅願寺であり、周辺は後鳥羽上皇庄園から八条女院領に成っていたと云う。
この時期に仁和寺系の寺院が越中西部に展開していた事は越中西部に「宇多源氏」が移り住んだ一ツの要因だろうか?
■南北朝~室町、戦国時代の足利氏、能登畠山氏は「清和源氏」で、その後越中を領した「佐々成政」は「宇多源氏佐々木氏流」とも云われる。
「宇多源氏」は後々、源氏の棟梁で「征夷大将軍」と成った「清和源氏」に従う事が多かったと云う。
■「佐々成政」は宇多源氏の紋「四ツ目結紋」を使用している。
【宇多源氏佐々木氏流佐々系図】
■【重修真書太閤記】に拠れば、「太閤 豊臣秀吉」は【先祖の「木下氏」は近江を発祥とする「宇多源氏佐々木氏流高島氏」】とされる。
■赤丸村舞谷に、元々、播磨国の守護で清和源氏の「赤松氏」の末裔が「天景寺」(※現在は高岡市関町)を開いた。その紋は清和源氏の代表的な「笹竜胆紋」を使用している。