赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌸 【藤原摂関家長者 藤原頼長】の庄園【越中吉岡庄】⇒富山県高岡市福岡町赤丸の【延喜式内社赤丸浅井神社】!!

2021-04-14 | 富山県高岡市福岡町

●【藤原摂関家に伝領した越中の庄園文化】
【越中吉岡庄】「藤原摂関家庄園」、「上皇・天皇家庄園」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」に伝わる「熊野信仰」










◎[藤原道長の系図]  
【道長---頼道---師実---師道---忠実---頼長】 
 越中吉岡庄の領主だった「藤原頼長」の先祖は「藤原道長」になる事から、道長時代から吉岡庄は摂政藤原道長の庄園だったのかも知れない。ちなみに「藤原頼長」は先祖の名前の「御堂(藤原道長)・宇治殿(藤原頼通)の御名字の一字」を貰って命名されたと云う。













■「延喜式内社赤丸浅井神社」には、昭和期迄【勅使桜】と称する大木の桜が二本植えられていた。
この桜は、奈良時代に「一条天皇」が「勅使川原左京」を勅使として、「赤丸浅井神社」に「蝗害」を防ぐ為に遣わされ、その時のお手植えの桜と云われ、「一条天皇」の時代の「左京職」は、一条天皇の叔父の「藤原道長」が任命されていた。










■この桜は、「勅使桜」の他に、「遅桜」とも呼ばれ、越中の農作業の始まりを報せる桜の木で在り、この桜木は御神木として白山信仰の神の「木花咲夜姫」の象徴とされた。その為に、赤丸浅井神社へは多くの「白山修験道」の山伏が拝礼に訪れる。
嘗て、高岡市関町の「総持寺」は赤丸村に在って「本山派修験道聖護院派川人山鞍馬寺」の後継の「赤丸浅井神社」の信仰とも密接で、「当山派修験道」は真言宗の流れを汲む修験道で在る事から、真言宗の「総持寺」にも白山山伏の拝礼が在ったと云う。

【※本山派は三井寺系の修験道で、当山派は金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした。修験道の開祖とされる役行者エンノギョウジャ(役小角エンノオヅヌ)を信仰する。明治維新で「修験道廃止令」が出ると、各々の寺院は天台宗、真言宗への改宗を強制された。】
▼「本山派修験道聖護院派川人山鞍馬寺」は明治維新の動乱期に、還俗して「神官」に成り「川人他治馬」と名乗っている。
⇒現在は「白川神道三乃神社」の神官が兼務している。
【※「白川神道」は伊勢神宮の神官「度合氏ワタライ」が主唱したもので、両部神道の色彩も遺す。江戸時代の「度合延経」は「神名帳考証」の中で「浅井神社の浅井とは浅井の神在れば成り」として、「赤丸浅井神社」の祭神が浅井氏が信仰した琵琶湖の神の「八河江比売神」で在る神社で在る事を指摘している。
一方、「伊勢神道」は「花山天皇の子孫」が提唱されたもので伊勢神宮の信仰を伝える。】

■赤丸村は嘗て「後白河上皇」の庄園の「越中吉岡庄」で在ったが、「後白河上皇」は原因不明の頭痛に悩まされていた。 ある時に夢枕に熊野修験道の僧が夢枕に立ち、この僧は「熊野の川に生える柳の根が頭の中に入って苦しい!」と訴えた。上皇は早速、熊野の川を調べると、遺骸の頭蓋骨に柳の根が入り込んだものが発見された。そこで、上皇はその遺骸を供養して、その柳の大木を伐って自らの住まいに「蓮華王院三十三間堂」を創建して、その中に一千一体の「千手観音像」を祭られ、熊野には三十四回の参詣を繰返したと云う。「後白河上皇」は自らが出家された「三井寺」に「熊野三山検校」の地位を与えて熊野三山の保護を命じられた。
その為に、その後の歴代天皇は熊野参詣を繰返したと云う。又、「熊野信仰」を伝えた賀茂氏が信仰する京都の「賀茂御祖神社」を保護された。そもそも、この「賀茂氏」は神武天皇が大和宇陀郡に入られる時に「金色の鳶」に変身して神武天皇を道案内したと伝えられて、大和国宇陀郡には賀茂氏の象徴の三本足の「ヤタカラス」を祭る「ヤタカラス神社」が在り、歴代天皇が崇敬されたと云う。
「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として続いた「越中吉岡庄」の「延喜式内社赤丸浅井神社」の背後には「総持寺の持ち宮」と伝わる「熊野社」の跡地が在り、この神社は現在、「赤丸浅井神社」に合祀されている。










【※越中に伝わる「熊野信仰」は皇室庄園に伝わった信仰で在り、皇室の「伊勢神道」、「白川神道」に対抗した「吉田神道」の「高岡関野神社」が「熊野信仰」を伝える筈も無い。「吉田神道」は元々、「鹿島神宮」、「春日大社」の流れを汲み、ある時に突然、「伊勢豊受神」が飛来したとして「神祇管領長上」を名乗り、「神祇官」の伊勢神道を排除して徳川幕府と手を組み、「神社祢宜諸法度」を幕府に出させて神道を独占しようと企んだという。(※「大鏡」)
古来、熊野は修験道の修行の聖地とされ、「延喜式神名帳」に「熊野坐神社(熊野本宮大社)」と「熊野速玉大社」と在り、「熊野那智大社」は那智の滝を中心とする自然の修行場そのものと見なされていた。3社が興ると3社の神が3社共通の祭神とされ、「神仏習合」によって「熊野本宮大社」の主祭神の「家都御子神(ケツミコノカミ」)《※「家都美御子神(ケツミコノカミ)》は「阿弥陀如来」、新宮の「熊野速玉大社」の「熊野速玉男神(クマノハヤタマノカミ)《※速玉神(ハヤタマノカミ)》は「薬師如来」、「熊野那智大社」の「熊野牟須美神(クマノムスミノカミ)」《※夫須美神(フスミノカミ)》は「千手観音」の垂迹神とされた。熊野の3神は「熊野三所権現」と呼ばれて主祭神以外も含めて熊野十二所権現と云う。
又、「那智山青岸渡寺」は、一千日(3年間)の滝籠りをされた「花山法皇」が、永延2年(988に)に行幸されて「西国三十三ヶ所第一番札所」として定められた霊場で在る。本尊の「如意輪観世音像」は、仁徳天皇の時代の4世紀頃に、インドから那智に渡来した裸形上人が那智滝の滝壺で見つけて本尊として安置されたと言われる。
「熊野信仰」は熊野の自然そのものと「熊野三山」、「那智山青岸渡寺」を信仰する「両部神道」、「修験道」の信仰で在り、「唯一神道」を唱えて「廃仏毀釈」の先頭に立った「高岡関野神社」が「熊野社」を祭り、高岡市の「御車山祭り」で熊野社の鳥居を飾った「二番町の山車」を引き廻す等して、之が「高岡関野神社の祭礼」と銘打つ等、は誠に笑止な事だ。明らかに、神社簒奪の企みが現在にも平然と行われて、市民もこの嘘に熱狂している。】



■越中には南北朝時代の後醍醐天皇の皇子「宗良親王」が「吉岡庄極楽谷」に「越中宮極楽寺」を創建され、合わせて「熊野社」を祭られたと伝わる。現在、高岡市熊野町には、「宗良親王」が創建されたと伝わる「先宮熊野社」が在り、「前田利家」はこの神社に「先宮」の称号を与えたと伝わる。(※「越中宮極楽寺由緒」)














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