高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

意識の塵と、純粋ということ

2020-10-26 16:14:35 | 日記

裕美ちゃん、お元気ですか。金木犀も本(房)咲きして、なんともいえない甘い香りで楽しませてくれています。この香り、記憶できそうで、なかなか記憶できない。嗅覚は、随意筋運動では再現できない、最も受動的な感覚器官のものだからであるようです。だからこそ、季節の到来が毎年楽しみなのですよね。裕美ちゃんは、嗅覚と記憶は深く結びついていることを経験できるひとなので(きみのブログに書いているように)、この記憶の内容は、身体の自由運動で再現できる程度の記憶とは別次元の、深い内容のもの、魂の記憶とよべるものであることを、きっと感じているのでしょうね。
 まだ暑い暑いと思っていたら、一晩で季節が、裏と表をひっくり返したように、がらりと変わってしまいました。しっかり冬用の掛布団で寝始めました。暑かったのが急にからっ風が吹くようになる初めというのは、侘びしいものです。今年は春も夏も解放感がなく、季節を味わった記憶がないまま、去年の秋の連続のような感じしかしないのは、正常なことではありません。アブノーマルな生活様式が、一日も早く無くなりますように。




・”マルセル形而上日記 内的共有と意志” 「幸福」の厳密な定義

高田博厚の「幸福」観と寸毫も違わない。
原書280頁から拙訳:

「 幸福とは、自己が自己自身に現前する或る仕方のことではないのか? そして、私が私自身に現前するほど、他者も私にとって実存するのである。これが、私が意志というものに関連して話してきた内的共有というものであって、内的共有が意志を可能にするのである。意志すること、それは、行動以前に分割されないことに成功することである。もし、私が行動以前に自分を或る仕方で眺めるならば、私の意志は万事休すなのである。その場合、せいぜい私は自分からひとつの仕草を引き出すだけであり、私の最も深いものは、この仕草を容認しないだろう。」 

こういう文章にぼくは出会いたかった! 
(きみのための付記: 何かをほんとうに欲し、行為することは、自分自身が自分にとってありありと自覚されている充実した瞬間に起る、身も心も一体となったものだ、ということです。そこでは、思った瞬間に既に行為しているのであって、行為する自分を心つまり意識が眺めているような分裂した状態ではけっしてない。マルセルは、この身心一体となった純一な魂の動きを、意志、ととらえたようです。そういうとき、ぼくたちは、自分と他者が相互に心の通い合った状態にいることも経験します。これがほんとうの「幸福」ということですよね。音楽をしていらっしゃるきみは、このことを深く経験してきているのではないでしょうか。)



・一元的信仰 ”ダグ・ハマーショルド 「道しるべ」 より”

まさに「道しるべ」だ。
高田の言う、一元性をめざす人間とは、まさにこれである。

ダグ・ハマーショルドの言葉 (1953-1961 国連事務総長):

「知性を自慢するよりも許しがたくかつ危険なものに、信仰への自慢がある。自慢するからには、人格が分裂していて、自我のいっぽうが信仰を《観察》しまた評価しているのは明らかである。これは、信仰の本質をなす、自我の滅却から生まれる統一を否認している者のすることである。」
105頁

「信仰によらずしては、なんぴとも謙虚ではありえない。なんとなれば、弱さやパリサイ主義がかぶる仮面は謙虚の素顔ではないからである。
 信仰によらずしては、なんぴとも誇り高くはありえない。なんとなれば霊的に未熟な人に見られる多種多様の形をした虚栄は誇り高さではないからである。
 信仰によって、謙虚でしかも誇り高くあること。すなわち、神のうちにあっては私はなにものでもないが、しかも神が私のうちに居たもうと確信しつつ生きる、という意味である。」
93頁
(みすず書房)


表紙帯にこうある:
〈誰でも良い行いをすることはできる。けれども、良い思いを持つことは、ごく僅かの者にしか許されない〉(チェザーレ・パヴェゼ)


嘗て読んだときにも印をつけた個所がすばらしいので、ここに書き記した。
(信仰も、内的な行為であり、意志なのではないでしょうか。それが分裂しているのが、傲慢であり、偽善なのです。人間は、信仰においても、芸術行為においても、純一で、一元的でなければならない。他者の前で謙遜するのは、自分の内で自分の神にたいして謙虚であることの反映としてのみ、真実でしょう。謙虚かつ誇り高くあるのが一元的生です。)


___   

・意識の塵

昨夜、きみの演奏をCDで聴いていて、ぼくの意識の塵の厚さが嫌になりました。きみの演奏をまだまだ通り一遍にしか聴けていないように感じ、発見すべきものは無尽蔵であることに気づきました。きみの演奏は、ほんとうによく観れば、無限に細部が観えてくる自然のようなものです。その観照を、ぼくの意識が妨げている。きみの演奏がよく観えた気になるのは、普段の疲れから うとうとと微睡んでしまって、きみの演奏のなかで再び目覚めたようなとき、つまり、ぼくの意識が取れているときです。そういうとき、きみは何て深い演奏をしているのだろう、と、驚いてしまいます。意識とは何だろう、何の役に立つのだろう、意識すなわち知というものは。意識とは、知恵の木の実を食べたゆえに天の楽園を追われた原罪の意味するものだと、つくづく思います。きみの演奏がこれだけ深いから、ぼくもそれに気づくのです。きみには、感謝いじょうの感情を捧げたいとぼくは思う。

きみの演奏は、純粋そのものです。そしてぼくにおいて純粋とは、弁明すべき事実や状態ではなく、きみのような世界に沈潜する決断であり、そういう行為そのものであるようです。


ぼくの尊敬と愛を捧げる裕美ちゃんへ 


正樹 


 2020年10月25日 日曜日 




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