高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

罪と罰との存在論的解消へ至る思惟

2022-02-23 00:52:38 | 日記

2022年02月19日(土) 筆 


 
ぼくは集合容喙現象と呼んでいるシンクロ現象を多量に経験しているので、世界観も、そこから推測する独自のものを、純粋哲学と並行して思惟しつづけている。たとえば、罪と罰の問題にしても、じぶんが為した罪の報いとして罰があるという普通のかんがえ方とは別に、そうではないのではないか、罪も罰(と思われる現象)も、善悪に頓着しないのに善悪の観念だけは理解している創造主あるいはその分身であるかのような魔物が、戯れに起こしている同時(共時)現象であり、自由に行為しているつもりの我々も、この現象の駒としてそこに組み込まれている、と捉えてもいるのである。宇宙に唯一存在しているのは神のみであり、この神のみ唯一の実体であると理解するスピノザの哲学は、すべての世界現象において唯一の原因である神が、自然のみならず人間の自由においても働いており、形而上的には神の自由のみが在るのであり、我々人間の自由と感じられているものはじつは神の自由に基づく必然である、と理解させるものであり、旧約聖書に記されている、エジプト王に罪を為さしめるために王の心を頑なにさせることが出来る創造主の力を、合理的に理解させるものでもある。この場合王とエジプトへの罰も、神の力による「罪-罰」共時性現象にほかならず、人間の相互因果の次元を超越して、王とエジプトのためにも我々をして祈らしめる境位へ導くものがある。ここでは、真の責任主体は神のみであり、人間は、敵味方とも、神の自由によってその気にさせられて動かされる駒にほかならない。厳密には罪も罰も、形而上的には無いのである。 だから、ぼくには、どんな宿敵どうしでも、その因果を超越して、いわば平然とした相互承認を抱き合い得る可能性と自由が、逆説的だが、われわれのうちに生じうると思われるのである。そういう境位までわれわれが超越すれば、である。神の観想に明け暮れるスピノザのような人間には、それができたはずであろう。