良い子、悪い子、こまりん子

幼児教育20余年。多くの子ども達を育て、ママ達の悩みに耳を傾けてきました。辛口アドバイスも含め、子育ママ達にエールを!

親が教え、大切にすべきこと

2014-05-28 19:06:48 | すてきパパママにご提案
 今年もホノルルトライアスロンの応援に行ってきました お天気にも恵まれ、すこぶる楽しい大会でした。

 さて、そのホノルルに到着し、飛行機を降りる時のこと。私は、何とも言えない情けない気分になったのでした
 それはね・・・
すでに機外に降りていった乗客達の「座席の汚さ」を見たから、です。
 枕は床に落ち、膝掛けのブランケットはくちゃくちゃ。使ったヘッドフォンは座席から落ちかかっていたり、座席前のポケットから半分飛び出してぶら下がっていたり・・・
 空っぽのペットボトルは座席に置き捨てられ、機内用のスリッパはあちこちに散らかっている・・・

 ホノルル空港到着のアナウンスで、もう気持ちはすぐに機外に向き、一刻も早くハワイの空気を吸いたかったのかもしれません。ナイトフライトで疲れた身体では、自分の座席を整える気分など微塵も生まれなかったでしょうか
 でもね・・・ほぼすべて、というほどの空っぽの座席の状態があまりにひどく、私は本当に泣きそうでした

 どうしてブランケットをたたもうと思わなかったのしょう?たたんだとしても、ほんの30秒ほどですよね。
 席を離れる時、たたんだブランケットの上に、ポンと枕を置くことは大儀ではないはず。ペットボトルだって、ちょっと持って出て、ゴミ箱に捨てればいいだけ。使ったスリッパも、座席下に揃えて置くなり、捨てるなり・・・

 私は、よく教室の生徒達に話します。
「あなたは、人から見られているのよ」と。幼い頃から「人の目を意識する」ことによって、自分の行い、言動に気遣うようになるから、です。
 わずか4歳、5歳の子どもだって、お利巧な子ども、賢い子ども、かっこいい子ども、というふうに人から見てもらいたい、という欲求はあるのですよ
 こういう意識によって「正しい行い」「きれいな言葉遣い」「美しい所作」は育っていきます。それが、ひいてはその子の「品性、品格」として育っていき、知らず知らずのうちに、恥ずかしい行為、みっともない行いに対する羞恥心や嫌悪感が生まれます

 誰が見ていなくても、誰がほめてくれなくても、自分の使った座席をきれいにして、その場を離れられる品性の高い人が、増えてくれればいいなあ、と心から思いました
 JALやANAの機内は、さすが日本人そう思ってもらえる、日本古来の高い品格、立派な文化が若い子ども達に受け継がれていくこと・・・子どもを育てる親、大人には、その責任があると思っています


善と正を教えるだけが親ではありません

2014-01-28 19:19:40 | すてきパパママにご提案
 母娘クライシス、という言葉をご存知ですか?
まだまだ子どもが幼いと、なかなかこういう「深刻な親子の問題」は遠いもの、として、真剣に考えることはないかもしれません。
 昨年末、NHKの番組、特報首都圏で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの言葉に関心を持つようになったお母様達が増えたことと思います。
 極々簡単に言ってしまうと「母と娘の関係が上手くいかず、かなり深刻で修復不可能な溝になること」をこう呼びます。
 「お母さんは・・・好きじゃないです」という程度の問題ではなく、娘が成長して大人になった時、肉親である母親と絶縁をしてしまう、というほどの深い問題、なんですね

 昔から、DVのような問題が発生しなければ、母と息子の関係は比較的良好です  中高生になった息子に「うぜー 」とか「くそばばー 」と蔑まれた時、悲しいという感情は持っても、結構、母親は息子の暴言は受け止められ、いつまでも息子はかわいいと思う こういうことはよく耳にします。私の息子の中高時代、まわりには、このタイプのママ達が大勢いましたよ

 しかしその一方で、幼稚園児である娘との関係に悩む母親・・・は、決して少なくはありません。娘が真剣に「ママが嫌いだから、おばあちゃまのところで暮らしたい」と言う、とか、母親への嫌がらせとも受け取られる娘の悪行、愚行に振り回され、平常心を保てなくなった母親とか・・・私のところに、こういう悩みを持ってご相談にいらっしゃる方は、毎年、2件や3件ではありません。
 とにかく、娘達がティーンエイジャーになってくると、幼児期には平穏だった家庭でも、どんどん母と娘の関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが、ここでは敢えて触れません)

 母親は、娘がどんなに幼くても、同性であるがゆえに「こんな時、私なら〇〇するのに」とか「こんな場合には、私は絶対に△△しない 」と自分に重ね合わせ、心の中で娘の言動、行動を批判します。
 なぜか「批判や避難」なのですよねえ・・・不思議と愛情に満ちた「アドバイス」ではないのです。そして大抵の場合、母親は表情も硬く、気づけば「非難」や「忠告」「文句や愚痴の類」として、母の口から娘に発せられます 当然、娘はムッとして・・・母親を無視するか、暴言を吐くか、睨むか・・・

 息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことは結局はわからなくて当然ね」と、あっさりギブアップをしたり、はたまた、涙を流して懇願したり・・・と、母親は息子相手には攻撃的にはならない場合が多いですねえ。
 でも、相手が娘の場合には、最後の最後まで重箱の隅をつつくようなバトルになってしまう・・・

 相手が誰であっても、こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいものです。
親子の関係の場合、本当の意味で「こじれた関係」というものは幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということがほとんどです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません
 こういう意味では、「母娘クライシス」の問題も、子どが幼いから遠い話題、として、ほおっておくことはできないのです。
 2歳、3歳、4歳の毎日が、点となってつながり、それが線となって10歳、15歳、20歳・・・へと繋がっていくのですから

 せっかくの機会です。
是非ぜひ、この話題を機に、一度ご自分のこととして考えてみてください
 話題としては「母娘クライシス」を提供しましたが、ここでは、相手が娘ではなく、息子の場合でも同じように考えてみましょう。
  あなたは「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、息子や娘に多くを求めすぎていませんか?
  自分が若い頃に間違ったことは、我が子には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いていませんか?
  無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に我が子に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?

 そして、知らず知らずのうちに、目の前の我が子の姿を落ち着いて真剣に見ることをせず、今自分に向かって話している子どもの声を聞くことなく、「母親」や「愛情」という錦の御旗をかざして、子どもに接していないでしょうか?

 子どもの心に寄り添うこと・・・美しい言葉、ですね
でも、決して簡単なことではありません。そして多くの親達は、「善」や「正」をシュプレヒコールのように繰り返し、子どもに覆いかぶさり、子どもを威嚇し、子どもに要求するのです。
 確かに、「善」や「正」は大切です。教えなければなりません けれど、果たして「母として善」「父として善」でしょうか?

 相手が幼児であっても、小学生であっても、真剣に子どもの言葉を聞こうとしているでしょうか?
 頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていないでしょうか?

 子どもは、幼い頃からずっと、本当は両親、特に母親とは時間を共有し、同じものを見て、同じように美しいきれいだと共感しあい、優しい時間を過ごしたいと思っているのです
 それなのに、そんな子どもが発信しているサインをスルーして、「善」や「正」を諭すだけの鬼ババアになってしまうのは、とってもとっても悲しいです

 「私は善である」「母親は善であるべき」と勝手に自分を追い込み、そして自滅しそうになって子ども相手に怒鳴りまくる親・・・そんな親になるのは止めましょう。

 優しい心で我が子を見る目・・・せっかく2つも目があるのですもの。耳だって2つ。せめてその1個ずつは、目の前の子どもを見る目、子どもの言葉を聞く耳にしてみませんか?




子どもの素顔を愛していますか?

2011-08-04 08:44:07 | すてきパパママにご提案
当然のことながら、「大人と同じように」子どもにはいろんなタイプの子どもがいるものです。

 たとえば。
  初対面から打ち解け、人懐っこくどんどんと話してくるタイプ・・・
  ニコニコはしていても、少し遠くから眺め、まわりの様子を観察し、自分がどのように接していこうか?と考えるようなタイプ・・・
  まったく無関心を装い、実際には全身を神経のようにして、何とかうまくその場に入っていく方法を考えているタイプ・・・
  完全に自分のまわりにバリアを張りめぐらし、まるで自分がそこにはいないがごとくしようとするタイプ・・・

 どの子が「良い子」なのか?なんて、まったくの愚問であることはご理解いただけるでしょう
 ただ、そこにあるのは「親として、我が子がどんなタイプの子どもであって欲しいか?」と考えているか?どのように振る舞う子を「親として良い子と定義づけているか?」ということだけ、です。
 もちろん、子どもながらもその場がどういう場であるかを理解し、最低限「~~な振る舞いはダメだろうなあ・・・」ということは理解してほしいとは思います

 いずれにしても子どもは、短いながらも2年、3年、4年と、両親の家庭教育のもと、それまでの人生を送り、その子の「人柄」が形成されているわけです。
 そして同時に、よほど特別な事情がない限り、父親と母親のDNAを受け継きこの世に誕生し、そのDNAが子どもの思考や行動の柱となっているのですね

 でも・・・
ついつい親は、子育てに一生懸命になればなるほど、そんな基本中の基本である「自分達のDNA」のことも忘れ、「自分達が毎日育ててきたこと」も忘れ、「どうしてあなたはどんな子なの?」と嘆いたり 悲しんだり 腹を立てたり するものなんですねえ・・・何て子どもってお気の毒なんでしょう・・・

 子どもが家庭内にとどまらず、保育園や幼稚園のように、親とは離れたところで過ごす時間が出来てくると、必ず、子どもには「親の知らない顔」が生まれます
 概ね、うちの子は良い子に育ったわと安心して過ごしていたら、ある時、先生に呼び止められ、ちょっぴりご注意、お小言を聞く・・・すると時々「え?・・・それって、うちのAですか?・・・まあ・・・我が家では、そんな乱暴な、粗野なことはしない(言わない)んですけれど・・・」と困惑されるようなことがあった・・・こんな話はよく聞くものです。
 それは、まさに「親の知らない顔」が、確かに子どもにはあるという実証例、ですね。決して、先生が人違いをしているわけでも、意図的にAちゃんママに意地悪をなさろうとしているわけではないでしょう

 もちろん、プラスの例もありますね。同じように先生に呼び止められ、おー、きたぞー、きっとうちのBは何かをしでかしたんだ・・・と覚悟を決めて先生のほうを振り返り、深々とお辞儀をすると・・・
「え?・・・それって、うちのBですか?・・・あれ、本当にBのこと、ですか?・・・我が家では、そんなにお利口なことしない(言わない)んですけれど・・・」と、狐につままれたような気分になる。それも「親の知らない顔」があった、ということに他なりません。

 まずは、親は「自分の知らない顔もある」という事実を、しっかりと認識をしなければなりません
 
 そして、大事なことは、「自分の知らない顔があった」「自分が気づかない顔を持っていた」という現実にショックを受け、悲しがったり、自分を責めたりせず、「ああ、うちの子も成長したんだなあ・・・なんてすばらしい・・・この子は、しっかりと育ってくれているんだわ」と思うこと、です

 幼い子どもを持つご両親、特にお母様は、「我が子を一番理解しているのは私だ!」と信じて疑いません。
 そういう強い思いが良いほうに働けば良いのですが、「私の知らない我が子の顔があるんだ」と知ったとたん、何となく、我が子に裏切られたような気がしてしまう・・・ そういうお母様は少なくはないものです。

 でも、そうじゃないんです
 そんなふうに思ってはいけません

 そして、私は我が子のことをすべてを知っていないといけない 我が子のことは、完璧に知っていることが母親の役目であり愛情だなどと誤解してはいけません。
 そんなことは不可能だし、我が子とは言えど、生まれたその瞬間から、やっぱり「違う時間」を持って生きているんですからね

 むしろ、子どもが「聞いて欲しい」と思っていることを、しっかり聞いてあげてください!
 「ねえ、ママ!あのね!」と話しかけた時、
 「ああ、もう今、ちょっと忙しいのよ、あとでね、あとで!」
などと一蹴してしまい、決して「あと」はやってこない・・・ それではあまりに子どもがかわいそうです。心当たりはありませんか?

 子どもの「素顔」を知り、子どもの「素顔」を認め、愛してあげましょうよ 隣の芝生は青い・・・ダメダメ ご自分の家の芝生だって、ステキな味のある色のはず、ですよ

記事のタイトルを入力してください(必須)

2011-03-18 17:59:15 | すてきパパママにご提案

ここ数日、スーパーやコンビニに行くと、愕然とします。
ほとんど商品のなくなった棚が並んでいるのです。今週のはじめは、カップ麺やレトルト食品。でも、そのうち乾電池、パン、お水、お米、牛乳、卵、納豆、トイレットペーパー・・・となり、今では、ある意味で「手当たり次第、買えるものは買っておこう」のような買い物の仕方になったようで・・・今日、午前中に立ち寄ってみると、おせんべいやポテトチップスまで、姿を消しました

 昨日、震災の報道をする特別番組の中で、この「買いしめ、買いあさり」についての話題があり、心理学者がこの状況について、学術的に解説をしていました。
  「最初は、家族のため、自分のために備蓄をしよう、という真っ当な思いだったのに、いつのまにか『あった!買える!』ということが満足感になり、目の前にあるものを買うだけで安心してしまう、という気持ちになっていくのですねえ・・・」
 なるほどなあ、と思いました。

 乾電池や懐中電灯が必要なのは、よくわかります パンも、調理をしなくても食べられますから、何かおおごとがあってライフラインがストップした場合にも「買っておいて良かったね。」と思えるものでしょう。牛乳も、小さな子どものいるご家庭では、絶対に必要でしょうね。
 でも・・・
ほぼ毎日のように、開店と同時にスーパーに駆けつけて「入荷しました」の張り紙のあるものの棚を走り回り、複数個買っていく・・・万が一のための備蓄用だったり、停電の時のためだったり、正当な理由はたくさんあるでしょうが、果たして、全員、このようにしている人達にとって、カゴの中のものは、本当に必要なものなのでしょうか?

 自分を守る 家族を守る そうですね。
 自分(達)の身は、自分(達)で守る いらぬお世話を他人にかけない すばらしいです。

 でも、自分(達)以外の人のことを考える、自分(達)さえ安心になるのではなく「みなが安心でいられるように考える」という思いも、あって良いのではないでしょうか。

 私は、どちらの思いも正しいと思います。
私は地震のあった日、横浜のビルの9階にいました。揺れが一旦おさまった時、階段で1階まで下りて外に出ると、地震発生後わずか10分弱でしたが、横浜駅西口は大混雑で、誰もが通じない携帯を握りしめていました
 私はすぐに「家まえ歩こう 7,8キロだから」と決断し、歩き始めました
 帰宅困難者となった夫と娘は、会社や友人のお宅に泊まりました。
 
 私は地震発生から、まる一日一人で自宅で過ごし、家族や親戚、友人の無事を知ったあと、本当にとてもたくさんのことを考えました。一番考えたのは、「小さなお子様のいるご家庭のこと」でした
 
 私が「7,8キロだから歩こう!」と決めたのは、確かに、日頃からよく横浜―菊名間を歩くからでもあり、一応は健脚であることから、「長い距離を歩くこと」に抵抗がなかったからです
 でも、私ではなく、すごいアスリートで、歩くことにも走ることにも抵抗のない人であったとしても・・・
  小さな子どもが一緒だったとしたら?

 抱っこや、昔のように「おんぶ」をしていれば、歩くことは可能です。百歩譲って、ベビーカーを押していてもOKでしょう。
 しかし・・・
  2,3歳の子どもの手を引いていたとしたら?
  幼稚園や保育園帰りで、疲れた子どもが一緒だったとしたら?
 私のように、即決で「歩く」とは決められなかったでしょう。
上手く早めにタクシーを拾えば私よりも早く、帰宅できたでしょうが、いろいろと考えてタクシーを待っていたとしたら?帰宅はずっとずっと遅れ、子どもはむずかり、ミルクや食事、お手洗いの心配もでてきていたことでしょう。(何と、同じ時間に横浜にいたご近所の方に後日お聞きしたことですが、横浜駅のタクシー乗り場で待って、来ないタクシーを待っていたら、帰宅したのは夜の10時だったそうです

 地震の夜、何度も来る大きな余震にドキドキしながらも、テレビを観ながら何とか気丈にいられたのは、私が一人だったからです。
 もし、夫は帰宅できず、母一人で怖がる子どもを守らなければならなかったら?どんなに不安で、泣きたい思いになったことでしょう

 また、商品のなくなっていく棚を携帯のカメラで撮り、遠方にいる友人に「日本じゃないみたいです。昔の共産国の商店のようです」などと書いて、写真を添付して送っている私です。そんな私が、必死に備蓄を考えず、「まあ、あるものを、少しずつ、工夫して食べましょう!」と思えるのは、間違いなく、すでに大人になった娘と、夫との暮らしだからなんですよね。
 まだまだ小さなお子様(たとえ高校生であったとしても)と一緒の暮らしであれば、三度の食事のことは、真剣に考えなければなりません

  自分のことを守る、我が子を守る、家族を守る!そのために「買う」こと。
  少しでも人のことを思い、買いしめ、買いあさりをしないこと。
 
 これは、どちらが正しい、正しくないではなく、親として、どちらに近い行動をするか?ということでしょう・・・

 ただ、ひとつ、私が多感な子どもを持ったお父様、お母様に絶対に申しあげたいこと それは・・・
  空っぽの棚を見せて、それが「なぜ起こっているのか?」を教えてあげてください。
  そういう現象を「パパ(ママ)は、どう思っているのか?」を話してあげてください。
  商品がなくなっていくお店を見て、「パパやママは、どうしようとしているのか?」を伝えてあげてください。

 そして、地震を含めた今の状況を、子どもにわかる言葉で伝え、被災者、被災地に思いを馳せることだけではなく、「今の自分達が置かれている立場」について、子どもと一緒に考えて欲しい、ということです

 幸い、ご遠方にご実家やお親しい縁者がおいでになる方は、春休みになったこの時期、きっと期間を決めずに帰省をなさることと思います。
 おじいちゃま、おばあちゃまは、どんなに離れたところでご心配をされていることでしょう 「そんな怖い首都圏にいるよりも、こっちに帰っていらっしゃい」親とすれば、当然の思いですね。
 53歳になった娘に対しても、やっぱり「今日は大丈夫?何か送ってあげる?」と、私の母はメールや電話をよこします。もし、私が「今日、すぐに10キロのお米を、うちと、T(私の息子です)のところに送ってくれる?」などと言ったとしたら、母はどう対処できるというのでしょう?それでも、日頃はメールで済ます用も、今はひっきりなしに電話をして、あれこれと気遣ってくれます。

 ただ、それでも、「ああ、これで安心 もう大丈夫。良かった良かった」「これで、いつも通りの生活ができるのよ」というのではなく、自分達が暮らす東京や横浜で(今は、全国各地で買いしめが始まっていると聞きますが)何が起こっているのか?を教えてあげ、そして、幼いながらも、子ども達がそれに対して、「どういうことを言うのか?」「どんなふうに考えるか?」を聞いてあげてください

 子どもは、未熟で未経験な存在です
でも、未熟なりに、考えさせるチャンスを与えると、しっかりと考える能力を持っていますし、また、その能力を育ててあげなければなりません
 いつも「守ってあげる」ばかりで、子どもに考えさせるチャンスを与えていないと、「考えられない子ども」にしか育ちません

 空っぽの商品棚。きっと、子どもにもインパクトはあるはずです
こんなマイナスの時期だからこそ、元気な私達は、縮こまらず、子ども達をも縮こまらせず、頭をしっかりと働かせてあげましょう
 この復興を支えていくのは、これからを生きていく「子ども達」なのですから

私達の役割 - 巨大地震の報道に思うこと

2011-03-14 10:12:54 | すてきパパママにご提案

 テレビでは、地震の夜はひたすら首都圏のターミナル駅の映像が映し出され、「帰宅困難者」向けと思われる情報が流されました。自宅でそれを見る家族も、頻繁にやってくる余震に恐ろしさを感じながら、状況に応じて迎えに出たり、自宅待機をしたりしながら、夫が、妻が、子どもが無事で帰宅すること、所在を確認することに必死になりました。

 一夜明けると・・・映像は一変。
今まで、一度も見たことのない、想像を絶する光景が画面には映されていました。
 「津波」「TSUNAMI」4年前のスマトラ沖の地震で、大人である私達は、その脅威を知ったはず、でした。しかし、「知っている」という思いは、何と薄っぺらなものだったことでしょう。

 あの日以来、何度も何度も流される映像。
レゴで作った家のように、水の中で流され、浮かぶ家々。何にもなくなった海岸線の町の様子。時間が経つにつれて、一般人から投稿される生々しい映像も増え、私達は今回の地震がもた
した(もたらしている)未曾有の惨事を、じわじわと実感することになりました。
 繰り返し、繰り返し見る映像。あの映像の中には、きっと多くの人達の命があるはずです。心ない(と感じてしまう)被災者へのインタビュー。泣き崩れる人達、真っ暗な中で冷たい食事を採る人達を映すカメラ、などなど。私は、「もうやめて!」と叫びたくなりました。
 首都圏からさまざまな手段で現地に入ったテレビ局の人間は、暖かい暖房の効いた家も、家族もいるんでしょう?!こんなふうに、人の不幸を報道することって、いったい何??
 これは、阪神淡路大震災の時にも感じたことでした。きっと、同じ思いをもって、テレビのスイッチを消す方も少なくはないのではないでしょうか。

 でも、私は考えてみたのです。
幸か不幸か、そういう生々しい映像が流れる今の時代・・・その惨状の実態を、知ることのできる時代・・・そんな時代に生きている私達には、きっとその惨状を見ることによって、あらためて考え、実行する「その役割」がある・・・
 我が家のある東横線の菊名は、陸の孤島になりました。東横線は、午後5時半までは、渋谷-武藏小杉間しか運行されません。JR横浜線は運休。少なくとも、電車利用では都心に出かけることは叶いません。 グループ3のこの地域は、12時20分から約3時間、停電になります。
 生々しい報道を見て、悲惨な現場を映すな!と憤り、もう見ないようにしよう、と思うだけではなく、深い祈りの思いを持ってその現状を直視し、遠く離れた私達に「できること」を、一生懸命にやっていくこと。それが、私達の役目なのではないか?

  一生懸命に節電に取り組むこと。
  停電に備えること。
  品薄になったスーパーに行き、食べることにも事欠く被災者達を思うこと。
  交通機関の不便さに甘んじること。
  そして、被災者、亡くなった1万人を超えるであろう方々のために祈ること。

 多くの私学は、今日はお休みになったと聞きました。これから、学校が再開されても、通学にはさまざまな不便があることでしょう。お父様、お母様のご心配やご不便は、幼稚園から同じように電車通学をさせた母親として、十分に理解できます。
けれど、子ども達はその経験から、きっと多くを学んでくれるに違いありません。また、学べるような働きかけ、言葉かけは大事だと思います。私達の日常は、決して「当たり前のものではなく」ということも実感できるでしょう。
 携帯電話に大きく依存し、通じなくなると、たちまちパニックになってしまう自分達のことも、あらためて実感しましたね。私達は「いつでも携帯電話で、つながることができる」と過信し、それがなかった時代のように、非常時にはどうするか?を、十分に考えていなかったことにも思い至りました。

 ご卒業生の中には、今回の被災地にご実家、ご親戚がおいでになるご家庭もあります。

 私達にできること。幸い、こうして生きて、家族とともに暮らせている私達にできること。是非、考え、実行してみませんか?