安楽死 その瞬間への立ち会い:←クリック
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考えなければならないこと、調べなければならないこと、行動しなければならないこと、山積みなのに、こんな記事に先ほどお目にかかって、ちょっと脱線したくなった。今思考が停滞しているから、こういう記事に逃げたくなるのかもしれない。
今月号のSAPIO,宮下洋一氏の記事である。
昔々オランダに安楽死幇助で有名な医者がいて、死神のように扱われていた時代を思うと、隔世の感がある。こういう形はとらないが、随分前から日本でも実際に行われていることだと思う。いずれ表立ってシステムとして法制化されるだろう。
「今までの人生は充分楽しかった。人生を肯定した上で、その人生をさらに肯定するがゆえに、自分の意思として死を選ぶのだ」とこのひとは宣誓しているが、今までの人生は肯定しているが、現在や未来の自分の人生を、このひとはきっぱりと否定しているのだ。その点を見逃してはならない。病気の現状、自分の年齢を考えた上で、何の希望も見出せなくなったのだろう。
しかし意識もしっかりしているし、苦しみや苦痛でよれよれになっているわけでもない。安楽死というより、やはり自殺幇助にしか見えない。たくさんの管や生命維持装置に囲まれて、意思に反した延命を無理やり強いられているわけではないことは明らかだ。
さて、SAPIOの読者からはどんな反響がよせられるのだろうか?
せまりくる超高齢化社会は国家にとってのマイナスだと認識されている現状を鑑みると、この方向が加速されることは間違いないだろう。「年よりはお国のため死にましょう」という有名な川柳がある。川柳の間はまだ楽しめる。が、「お国のため」だけが独り歩きして、これが一気に国是となる日も、すぐそこの角まで近づいているような気がする。incentiveとして報奨金が出るかもしれない。讃えて賞賛すれば、この先に楽しみを見出せなくなった老人は一気に「安楽死」に走るだろう。それが権利となった暁には、経済不況で苦しむ、未来を見失った(自分の価値を見失った)若者達も、老人達に負けてはいまい。
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こんな古い記事を思い出した。10年以上も前の記事だ。
参照:再会 2005年1月21日:
今回のSAPIOの記事のこの老婦人の自死願望の理由説明は以下の通りだ。
「昨年、がんが見つかりました。私は、この先、検査と薬漬けの生活を望んでいないからです」
たったこれだけのことで、自死や自殺幇助が制度として認められるなら、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、と最初から言われ続けているわたしは、一体どうなるのだろう。確かに身近に迫った死は確定されている。げんに今も抗がん剤治療をしないのなら(仮にしたいといっても優先権はない、とした上で)、マーカー検査をしても意味がないから、もうしてやらない、と断られている。しかもこの前まで約束されていたホスピスの紹介まで、一方的に反故にされている。理由は私が「抗がん剤漬けの治療を望んでいない」からだ。糞生意気な患者と思われているというより、抗がん剤を拒否するなら、もう病院にマーカー検査に来る必要(権利)はないということなのだろう。(医者がそこまで嫌がるほどマーカー値が酷くなっていることも事実なのだが。)
SAPIOの記事の女性も「再会」の女性も、「身近にせまった死が確定している」からこそ、それぞれそういう選択になったのだろう。では誰がそこまで、彼女達を追い込んだのかと言うことだ。しかもふたりとも、病院にかかっているにもかかわらずである。
私のような状態を癌難民と言う。しかし、抗がん剤治療を続けたとしても、末期癌の場合、手を変え品を変えてもいずれは、打つ手が切れてしまう。最終的には「もうこの病院で出来る治療はこれ以上ありません」といって、癌難民にされてしまう。ふたりの女性はその先を見てしまった結果、それぞれ未来に希望がないとして現在を自ら断ち切ったのだろう。治らないとしても、なぜ他の道を探そうとしなかったのだろう。ひとつに、それだけの恐怖心を植えつけられている、と言う事実もある。その恐怖心を乗り越えられる選択肢もない、というのもまた事実だ。
先に「今思考が停滞している」と書いたが、恐怖心を克服しても、その選択肢がないから思考は「足踏み」せざるを得ない。抗がん剤を断る、ということは、そういうことなのだ。今は日常生活をなんとか送れるが、この先どんどん悪化するのは医師にも患者にも目に見えている。じわじわと衰弱する衰弱死なら、覚悟は出来ている。それが最良の選択である。しかし、出血したり、腹水が溜まって動けなくなったり、全機能不全になったりした場合、どこか受け入れ病院を探し出し「治療を再開しなければならない」。抗がん剤は嫌ですとか、どうのこうの言っている場合ではなくなる。または臓器に転移してそこが腫れ上がってきたり、痛み出してきたり、機能不全に陥ったりした場合、「もういちど病院で手術をする必要がどうしても生じてしまう」。そのときどこの病院が引き受けてくれるだろうか、と言うことだ。抗がん剤を拒絶しても抗がん剤をやり続けても、結局恐怖心は同じなのだ。死以外の見通しがない。これといった選択肢もない。だからふたりの女性患者は、熟考のうえ、自死の結論を出したと言うことなのだろう。現在自殺幇助を認める国家が出現しているのもそのためだ。
何故こんな歪な事が現実になっていくのか。末期癌を克服する医学的手段が確立されてはいない、からだ。抗がん剤等の治療で昔よりも若干延命は可能になったが、その延命のための抗がん剤により、より苦しい闘病やより早い死を招く場合もある。その上ホスピスも満杯なのだそうだ。どんな患者が優先的に紹介してもらえるか、もう書かなくても分かるだろう。癌難民になって初めて見えてきた大きな壁、現実である。安楽死の記事に目を止めたのも、そのせいかもしれない。
2016年5月23日 追記
安楽死ツーリズム:
良く出来た記事だと思う。
◎「あるいは難病患者や老人などが、介護に辟易している家族や周りの人々に圧力をかけられた結果、あるいは本人が迷惑をかけまいとして、安楽死を選択してしまう危険性もある。」
迷惑をかけまいとして、より寧ろ、迷惑がられた結果、安楽死を選択する危険性(もではなくが)が最も懸念される。
◎「自殺することを奨励するような医療政策をとっている国家は、難病や死に至る病を患った人達に対する、物心両面のケアが不足しているのではないかと懐疑する必要があるかもしれない。」必要は多いにあると思うが、医療政策というより、国民的倫理観そのものが反映されるのだと思う。
◎「彼女は生前、CBSテレビのインタビューで、「私は死にたくないのです。もし誰かが魔法の治療法で私の命を救ってくれるなら、私はそれを選びます。」誰が安楽死を選んだとしても、これ以上の本心はない。これが本心である。
◎「訳者の稲松三千野氏は、ロラン氏の心のどこかに「誰か死ぬのを手伝って」のタイトルとは相反する「生きるのを手伝って」という気持ちがなかったのか、と記している。」これ以上の真実はない。生きるのを手伝って、という思いが完全に拒絶された場合のみ「死ぬのを手伝って」という気持ちが湧くのだ。