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音曲日誌「一日一曲」#404 サニーボーイ・ウィリアムスンII「Don’t Start Me Talkin’」(Checker)

2024-05-14 08:18:00 | Weblog
2024年5月14日(火)

#404 サニーボーイ・ウィリアムスンII「Don’t Start Me Talkin’」(Checker)





サニーボーイ・ウィリアムスンII、1955年6月リリースのシングル・ヒット曲。ウィリアムスン自身の作品。レナード・チェス、フィル・チェス、ウィリー・ディクスンによるプロデュース。アルバム「Down And Out Blues」(1959年リリース)に収録。

米国のブルースマン、サニーボーイ・ウィリアムスンIIは1912年12月(推定)、ミシシッピ州グリーンウッド(またはグレンドーラ)生まれ。出世名はアレックス(アレックとも)・フォード。後に継父のミラー姓に変わる。

20代初めに小作農の親元を離れて、プロミュージシャンとして旅する日々を送るようになり、ビッグ・ジョー・ウィリアムズ、エルモア・ジェイムズ、ロバート・ロックウッド・ジュニアらと知り合う。

放浪芸人のような生活に転機が訪れたのは、1941年。アーカンソー州ヘレナのラジオ局、KFFAの番組「キング・ビスケット・タイム」にロックウッドと共にレギュラー出演するようになったのだ。そして、その頃から有名シカゴ・ブルースマンのサニーボーイ・ウィリアムスンにあやかって同じステージネームを使い始める。

49年には同州西メンフィスに移り、ハウリン・ウルフと行動を共にするようになる(ウルフの異母妹と結婚)。当地のラジオ局、KWEMでもレギュラー番組を持ち、ヘレナで共演したミュージシャン達も呼ぶ。

51年、同州ジャクスンのトランペットレーベルで初レコーディング。55年同レーベルの破産に伴い、チェスに移籍。以後、傘下のチェッカーレーベルで約70曲をレコーディングした。

その第一弾にあたるシングルが、本日取り上げた「Don’t Start Me Talkin’」である。

レコーディングメンバーは、ボーカル&ハープのウィリアムスンのほか、ギターのマディ・ウォーターズとジミー・ロジャーズ、ピアノのオーティス・スパン、ベースのウィリー・ディクスン、ドラムスのフレッド・ビロウ。

いわばチェス黄金期のベスト・ミュージシャンが勢ぞろいである。これで駄作になりようがない。

実際、この曲の仕上がりは見事だ。ハープとロジャーズのギターでのイントロに始まり、ブレイクからの2コーラス、ハープソロ、そして1コーラス、再びハープソロで締めるという、隙のない構成。

そのしゃがれ声、ノンアンプリファイドのよく伸びるハープ・トーン、全てがイカしている。

6人のトップ・ミュージシャンが一体となってフルパワーで爆進する2分半。これがウケないわけがない。

「Don’t Start Me Talkin’」はチェッカーでは初のリリースながら、R&Bチャートで3位のスマッシュ・ヒットとなり、ウィリアムスンを同レーベルの看板スターのひとりに押し上げた。

翌56年から亡くなる65年に至るまで、ウィリアムスンは年に数枚のシングルを出し続け、59年以降はアルバムもリリースした。また、先日書いたように60年代に渡英して、ヤードバーズ、アニマルズらとも共演している。

推定52歳で亡くなったので、ウィリアムスンはその人生最後、40代から50代の約10年間で全盛期を迎えたということになる。

その後は、ウィリアムスンが育てたハーピスト、ジェイムズ・コットンが彼を継いで、ブルースハープをさらに進化させていくことになる。もちろん、コットンもこの「Don’t Start Me Talkin’」を67年のアルバム「The James Cotton Blues Band」でレコーディング、亡き師をトリビュートしている。

チャンピオン・ジャック・デュプリー、フェントン・ロビンスン、ヤードバーズ、ドゥービー・ブラザーズ、ゲイリー・ムーアなど、黒人ブルースマン、白人ロックミュージシャンを問わず、多くのミュージシャンにカバーされた本曲は、サニーボーイ・ウィリアムスンらしさ、その魅力が全て詰め込まれた作品だ。

その知名度はいまいちでも、隠れたブルース・スタンダードだと言える。これからも数多くのハーピスト達のレパートリーとして、残り続けるに違いない。

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