NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#385 マッド・モーガンフィールド「Trouble No More」(Severn)

2024-04-25 08:24:00 | Weblog
2024年4月25日(木)

#385 マッド・モーガンフィールド「Trouble No More」(Severn)





マッド・モーガンフィールド、2014年リリースのアルバム「For Pops|A Tribute To Muddy Waters」からの一曲。マッキンリー・モーガンフィールド(マディ・ウォーターズの本名)の作品。デイヴィッド・アール、スティーヴ・ゴメスによるプロデュース。

黒人ブルース・シンガー、マッド・モーガンフィールドは、その名前からも分かるように、ブルースの頂点に君臨したマディ・ウォーターズの息子。長男である。

本名はラリー・ウィリアムズ。1954年、マディと彼の最初の妻、ミルドレッド・ウィリアムズとの間にシカゴで生まれている。幼少期に父母が離婚したため、父親の顔を知らず、ずっと疎遠で暮らしていたという。

音楽の道に進むこともなく、地味にトラックの運転手で生計を立てていたウィリアムズだったが、1983年4月、28歳の時に人生の一大転機を迎える。父、マディ・ウォーターズの死である。

それを機に、彼の中で父親のように歌ってみたいという気持ちが高まり(夢にまで出てきたという)、ミュージシャンに転身する道を選んだ。そして、マッド・モーガンフィールドという父にちなんだステージ・ネームを名乗ったのである。

歌ってみると、モーガンフィールドの歌声は、なんと亡き父にそっくりであった。顔も親子だけによく似ているのだが、それ以上に声が瓜二つ。こんなことは、滅多にあるものではない。

シカゴ南部のブルースクラブを拠点として活動を始めたモーガンフィールドは、父親の曲をそのままカバーするだけでなく、雰囲気の近いオリジナル曲も自ら作り、歌っていた。

それを自主制作盤というかたちでまとめたのが、2008年リリースのアルバム「Fall Waters Fall」である。1曲、ウィリー・ディクスン作、マディが歌った「The Same Thing」の改題曲「Same Old Thing」以外は、マディ風味のオリジナルである。

このアルバムリリース以降、マッド・モーガンフィールドは、ゆっくりとしたペースでレコーディングしていく。

2012年リリースの「Sons Of The Seventh Son」に続いて2014年に出したのが、本日取り上げた「Trouble No More」が収録された「For Pops|A Tribute To Muddy Waters」である。Popsとはむろん、マディのことを指している。

このアルバムでは、ファビュラス・サンダーバーズのフロントマン、キム・ウィルスンがハープで全面的にバックアップしている。かつてのマディ&リトル・ウォルターを彷彿とさせるコンビネーションである。

曲はアルバムタイトルが示すように、全曲、マディのカバー。ファーストとセカンドアルバムでは、マディのカバーは一曲ずつであったが、ここでは全面解禁したかのようにマディ一色となっている。

このアルバム、モーガンフィールドの30年にわたる音楽人生の総決算であり、そして父への諸々の想いをひとつにまとめて集大成したとも言える。

「Trouble No More」のオリジナルは1955年にレコーディングされ、シングルリリースされた、マディ自作のナンバー。とはいえ、カントリーブルースのベテラン、スリーピー・ジョン・エスティスの「Someday Baby Blues」(1935年)が下敷きになっている。

ロックファンの皆さんには、マディ版よりもそれをカバーしたオールマン・ブラザーズ・バンドのバージョンの方がより有名かもしれない(スタジオ版、フィルモア・ライブ版共にあり)。また、「Someday Baby」というタイトルのボブ・ディラン版(2006年)を思い出す人もいるかも。

要はエスティスのまとめたカントリーブルースをマディが都会風にアレンジして広め、それが白人ロックミュージシャンたちにも強い影響を与えたのである。

このモーガンフィールド・バージョンを聴いていただくと、単に父親の声に似ているだけでなく、その唱法や微妙なニュアンス、つまり芸風までほぼ完璧に再現していることが分かると思う。

まさに二代目マディ・ウォーターズ。モーガンフィールドが「マディ・ウォーターズ・ジュニア」の別名でも呼ばれている所以である。

偉大なる父の存在無くしては、自分というミュージシャンも存在しなかった。そして、父のフォロワーである限り、本当のトップには立てない。それはモーガンフィールド自身が一番強く感じていることだろう。

でも、父親のことを一番尊敬し、愛しているから、それでも構わないのだ。

そんな父親であり、先達であるマディ・ウォーターズへの想いが滲み出た、モーガンフィールドの熱唱。ぜひ聴いてみてほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#384 ロリー・ギャラガー「Messin’ With The Kid」(Polydor)

2024-04-24 08:41:00 | Weblog
2024年4月24日(水)

#384 ロリー・ギャラガー「Messin’ With The Kid」(Polydor)





ロリー・ギャラガー、72年リリースのライブ・アルバム「Live! In Europe」からのオープニング・ナンバー。メル・ロンドンの作品。ギャラガー自身によるプロデュース。

アイルランド出身のギタリスト/シンガー、ロリー・ギャラガーについては、テイスト時代を主に取り上げて、71年にソロになってからのライブアルバムを1枚しかピックアップしていなかったので、今回はソロ時代の彼にスポットを当ててみたい。

テイストを70年いっぱいで解散させたギャラガーは、翌年5月、アルバム「Rory Gallagher」をリリースして、ソロ活動のスタートを切る。

新たなバンドメンバーとして、オーディションにより選ばれたベースのジェリー・マカヴォイ、ドラムスのウィルガー・キャンベルを迎えレコーディングされたこのアルバムは、全英32位のセールスとなり、まずまずのスタートとなった。

同年11月、早くもセカンド・アルバム「Deuce」をリリース、トップ20に1週チャートイン。

そして翌72年5月に、同年2〜3月に行ったヨーロッパ・ツアー(英語・イタリア・ドイツ)の模様を収録したこの「Live! In Europe」をリリースしたのである。

これが過去の記録を塗り替えるヒットとなった。全英9位と初めてトップ10に入り、全米でも101位、初のゴールド・ディスクとなったのだ。

テイスト時代から、ロリー・ギャラガーはそのライブの内容には定評があった。スタジオ・アルバムを大きく上回るダイナミックな生演奏は、彼の最大の魅力であり、その評判がファンを増やしていく原動力でもあった。ライブ・アルバムが強く待たれていたゆえんである。

ヨーロッパでの演奏は、ファンの期待をさらに上回る熱い出来であった。オープニングの「Messin’ With The Kid」からパワー全開、フルスロットルなロリーが聴けたのだから。

この「Messin’ With The Kid」のオリジナルは、ジュニア・ウェルズ1960年リリースのシングル。ウェルズが珍しくハープを吹かずにボーカルのみのバージョン。66年にはバディ・ガイと共に再録音しており、こちらではハープも吹いている。作曲者はチーフレーベルのオーナーにしてプロデューサーのメル・ロンドン。

ギャラガーはこのひと昔前のブルース・ナンバーをロックに大胆にアレンジして、1972年に鮮やかに甦らせた。

彼のひたすらアグレッシブなギター・プレイ、そしてラフではあるがエネルギッシュなボーカルを前面に押し出した本バージョンには、ギャラガーの魅力がすべて詰まっていると言っていい。

このアルバムにより、ファンのみならず音楽ジャーナリズムも、改めて彼のギター・プレイに注目するようになった。それは同年、メロディ・メイカー誌によってギャラガーが1972年の「ギタリスト・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたことでもよく分かるだろう。

翌73年には「Blueprint」「Tattoo」の2枚のアルバムをリリース、日本でも人気上昇の兆しが見えるようになる。「ミュージック・ライフ」あたりのロック誌でも、毎月のように記事になり始める。

そんな気運の中、「Tattoo」のプロモーションも兼ねて74年1月、ギャラガーはついに初来日公演を果たしたのだった。

実は筆者も、1月25日の中野サンプラザ公演に、観客のひとりとして参加していた。

音楽仲間の友人の伝手があり、入手したチケットはなんと真正面のかぶりつきというプラチナ席!

登場したロリー・ギャラガーはチェックのシャツにジーンズ、スニーカーという、至って飾りっ気のないスタイル。ロックスター的な華やかさとはまるで無縁の、素朴な25歳の青年だった。

だが、いったんギターを手にするや、にこやかな表情は一変し、真剣なアーティストのそれに変わった。

一曲目は…そう、筆者の、そしておおかたの観客の予想通り、「Messin’ With The Kid」だった。

激しいリズム隊のビートをさらに上回る、火を吹きそうなギター・プレイ。特にピッキング・ハーモニクスのカッコよさといったら!

緊張感に満ち、オープニングから観客席も超ヒートアップした、最高のパフォーマンスだった。

ジュニア・ウェルズ、そしてブルース・ブラザーズでよく知られているナンバーではあるが、筆者にとっての「Messin’ With The Kid」は、何よりもまず、ロリー・ギャラガーなのである。その理由は、上記のライブ体験であることは、いうまでもない。

1995年、わずか47歳の若さで亡くなるまで、全力で駆け抜けるようにギターを弾き続けた男、ロリー・ギャラガー。

筆者にも74年の「あの日」の熱演を思い起こさせる、彼の本気のライブを堪能してくれ。

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音曲日誌「一日一曲」#383 エラ・フィッツジェラルド「Sunshine Of Your Love」(MPS)

2024-04-23 08:20:00 | Weblog
2024年4月23日(火)

#383 エラ・フィッツジェラルド「Sunshine Of Your Love」(MPS)





エラ・フィッツジェラルド、1969年リリースのライブ・アルバム「Sunshine Of Your Love」からのタイトル・チューン。エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ピート・ブラウンの作品。ノーマン・グランツによるプロデュース。

米国の女性ジャズシンガー、エラ・フィッツジェラルドは1917年バージニア州ニューポート・ニューズ生まれ。幼少期ニューヨーク州に移住。1934年、17歳でハーレムのアポロシアターでデビュー、翌年チック・ウェブ楽団の専属シンガーとなり、デッカレーベルよりレコードデビュー。38年、シングル「A-Tisket, A-Tasket」が大ヒット。

39年、ウェブの死後、エラがバンドリーダーとなり、ライブ、ラジオ、レコードで全国的人気を獲得していく。

42年にはバンドと袂を分かち、ノーマン・グランツ率いるジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)に参加、ビ・バップに対応した、アドリブ・スキャットを多用する新しいボーカル・スタイルを編み出す。

その後は、56年にグランツが設立したヴァーヴレーベルより意欲的にアルバムをリリース、中でも58年に出した「At The Opera House」はジャズボーカルのライブ盤の最高峰との評価を得る。

40代のエラはシングル曲をヒットさせる人気歌手から、アルバムでじっくり聴かせるアーティストへと成長したのである。その頃には「歌のファースト・レディ」「ジャズの女王」「レディ・エラ」といった称号が定着し、エラは国民的なシンガーとなった。

さて、本日取り上げた「Sunshine Of Your Love」は、みなさんご存知のように、英国のロック・バンド、クリーム(1966-1968)がオリジナル。

67年11月リリースのセカンド・アルバム「Disraeli Gears」に収録されたが、米国では同年12月シングルとしてリリースされ全米3位の大ヒット、クリームの名を一気に高めた。英国では68年9月にリリース、全英25位となっている。

米国で特に人気を得た曲ということもあってか、エラはこれに注目して、さっそく自らのレパートリーとしたのだろう。68年10月カリフォルニア州サンフランシスコのホテル、ザ・フェアモント・サンフランシスコでのライブで、ビートルズの「Hey Jude」、パート・バカラックの「This Guy’s in Love With You」といった当時の最新流行曲と共に、披露したのである。

バック・ミュージシャンは歌伴の名手と呼ばれるピアノのトミー・フラナガン、ベースのフランク・デラロ、ドラムスのエド・シグペン(オスカー・ピータースン・トリオでお馴染み)、そしてトランペットのアレン・スミスをはじめとするアーニー・ヘクシャー楽団だ。

エリック・クラプトンが弾いたリフをホーンのハイテンションなサウンドに代えて(編曲は名バンドリーダー、マーティ・ペイチ)、オリジナルのブルース・ロックを見事なジャズ・サウンドにお色直ししている。

エラは当時51歳。彼女のシャープでよく通る歌声が、自由自在なアドリブで、この曲の持つ魅力を縦横に引き出していく様子は、驚きのひとことである。

クリーム、ビートルズといった、自分のジャンルとはまったく違う若者向けのポップ・ソングであっても、どこかピンと来るところがあれば積極的に取り入れ、大家ぶることなく貪欲に新曲に挑んでいく姿勢が、文句なしに素晴らしい。

まさに米国の誇る国民的歌手。当時の人気ナンバーワン女性シンガーは20代半ばのアレサ・フランクリンであったが、50代のエラもまだまだ負けちゃいない。

その圧倒的な声量とドライブ感、豊かなブルース・フィーリングにおいて、女王の名にふさわしいことを証明してみせたライブ。ぜひ、聴いてみて。




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音曲日誌「一日一曲」#382 ジョニー・ウィンター「I’ll Drown In My Tears」(Columbia)

2024-04-22 08:36:00 | Weblog
2024年4月22日(月)

#382 ジョニー・ウィンター「I’ll Drown In My Tears」(Columbia)





ジョニー・ウィンターの1969年リリース、コロムビアレーベルでのファースト・アルバム「Johnny Winter」からの一曲。ヘンリー・グローヴァーの作品。ウィンター自身によるプロデュース。

この「I’ll Drown In My Tears」という曲、レイ・チャールズ56年の「Drown in My Own Tears」というタイトルでのヒットで最もよく知られているが、実はそれがオリジナル・バージョンではない。

もともとヘンリー・グローヴァー(1921年生まれ)というソングライター兼トランペット奏者が51年に書き、女性シンガー、ルーラ・リード(1926年生まれ)によりレコーディングされたバラード・ナンバー。

ブルースピアニスト、ソニー・トンプスンのインスト曲「Chag, Chang, Chang」をA面とするスプリット・シングルのB面だったが、R&Bチャート5位のヒットとなっている。

このB面曲に目をつけたレイ・チャールズが56年にアトランティックレーベルでレコーディング、R&Bチャートで1位の大ヒットとなった(チャールズとしては3曲目の首位)。

以来、彼の影響で白人黒人、英米を問わずさまざまなジャンルのアーティストがこの曲をカバーするようになる。

ざっと挙げるだけでも、ジョー・コッカー、ボビー・ダーリン、アレサ・フランクリン、リッチー・ヘブンス、エタ・ジェイムズ、ノラ・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ビリー・プレストン、パーシー・スレッジ、スペンサー・デイヴィス・グループ、ジョニー・テイラー、スティーヴィ・ワンダーetc…と、枚挙にいとまがない。

しかし、あまたあるカバーの中で、筆者が一番先に思い浮かぶのは、本日取り上げたジョニー・ウィンターのバージョンなのである。

ジョニー・ウィンター(1944-2014)の70歳の生涯で名盤は数々あれど、やはりメジャー・デビュー・アルバムの「Johnny Winter」は格別の存在だと言える。

ここには、ウィンターの原点と言える音楽が、すべて詰まっているからだ。

「I’ll Drown In My Tears」と、オリジナル・タイトルの方でクレジットされた本曲は、レギュラーバンドのトニー・シャノン(b)、アンクル・ジョー・ターナー(ds)に加えて、ピアノでウィンターの弟エドガー、そしてA・ウィン・バトラー(ts)、カール・ゲイリン(tp)をはじめとする4管のホーンセクション、3人の女声コーラスが加わっている。見事なまでのフルコンボ体制である。

他の曲ではスピーディに暴れまわるギターを聴かせるウィンターもここではあえて弾かずに、完全にボーカルに集中している。

新奇さではなく、あくまでも伝統的な、まっとうなスタイルでR&Bを追求しようという真摯な姿勢がうかがえる。

このウィンターの歌が、実に心に沁みるのだ。失恋の悲しみに負けそうな想いが、ストレートに聴く者に伝わってて来る歌声。それ以上の説明は不要というものだろう。

レイ・チャールズに決して引けを取らない、シンガー、ジョニー・ウィンター畢生の熱唱。

いいものは、いつ聴いてもいい、そう思う。




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音曲日誌「一日一曲」#381 ジョン・ハイアット「Riding With The King」(Geffen)

2024-04-21 07:40:00 | Weblog
2024年4月21日(日)

#381 ジョン・ハイアット「Riding With The King」(Geffen)





ジョン・ハイアット、1983年リリースのアルバム「Riding With The King」のタイトル・チューン。ハイアット自身の作品。スコット・マシューズ、ロン・ネーグル、ニック・ロウによるプロデュース。ロンドン録音。

米国のシンガーソングライター、ジョン・ロバート・ハイアットは1952年インディアナ州インディアナポリス生まれ。幼少期はエルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、黒人ブルースを愛聴して育つ。11歳からギターを弾き出し、地元でバンド活動を開始する。

18歳でナッシュビルに移住、ソングライターの仕事を始める。楽譜を書けなかった彼は、すべての曲をレコーディングすることでしのぐ。20歳でバンド、ホワイト・ダックに加入。その活動と並行して、ソロでも活動を行う。

73年にエピックレーベルと契約、ファースト・シングル「We Make Spirit」をリリース。一方、彼の作品「Shure As Sitting Here」が人気バンド、スリー・ドッグ・ナイトに採用され、全米16位のヒット。ハイアットは一躍、注目のソングライターとなる。

74年、デビュー・アルバム「Hangin’ Around the Observatory」をリリースするも、セールスは振るわず、75年のセカンドも同様だったため、契約は終了。4年間、レコードを出せない状態が続く。

当初は典型的カントリー・ロックだった彼のサウンドも、70年代後半には当時台頭してきたニューウェーブのアーティスト、エルヴィス・コステロ、ニック・ロウ、グレアム・パーカーらの影響を受けて変化していく。

79年、MCAレーベルと契約、2枚のアルバムをリリース。82年にはライ・クーダー、ジム・ディキンソンとの共作「Across the Borderline」をフレディ・フェンダーが歌い映画「The Border」の主題曲となる。

同年、ゲフィンレーベルと契約。同レーベルでの2枚目、83年リリースのアルバムに、本日取り上げた「Riding With The King」がタイトル・チューンとして収められた。

このアルバムについてハイアット本人が「ようやく自分が何なのかを理解して、すべてを一枚にまとめた初めてのアルバムだ」という主旨の発言をしている。

それまでのさまざまな試行錯誤がついにひとつにまとまった、ミュージシャン、ハイアットとしての到達点ということだろう。

ロック、フォーク、カントリー、ブルース、R&Bといった彼に影響を与えてきた各種の音楽が、ハイアット・ワールドとして結実したのが、「Riding With The King」という曲なのだ。

シングルリリースこそされなかったが、この曲は他のミュージシャンの心にも強く響いたようで、17年後に有名なカバー・バージョンが登場する。

ご存知、2000年にリリースされたエリック・クラプトンとB・B・キングの共演アルバム「Riding With The King」におけるタイトル・チューンである。ハイアットは、そのレコーディングのために歌詞を書き直している。

そしてさらにもうひとつ、印象的なカバーが16年後に登場する。ギタリスト/シンガーのジョー・ボナマッサが2016年にリリースしたライブ盤「Live At The Greek Theatre」にスタジオ録音で収録されたバージョンである。こちらは女性シンガー、マへリア・バーンズが共演している。

いずれのカバーも、ハイアットのソウルフルな曲調を生かした、ドライブ感のあるサウンドに仕上がっている。4人の歌い手の、張りのあるボーカルも実にいい。

これらのおかげで、「Riding With The King」という曲は再度リスナーに注目され、80年代アメリカン・ロックのスタンダードとなった。

オリジナル・バージョンは、ガッツのあるギターとオルガンのサウンド、そしてハイアットの塩っ辛い個性的な歌声が一度聴いたら耳を離れない。

50年の長きにわたって、20枚以上のアルバムの曲を自ら作り、歌い続ける。これは並大抵の才能で出来ることではない。

ハイアットの作品にはこの曲以外にも、バディ・ガイがカバーした「Feels Like Rain」など、メロディアスで心に残るナンバーがいくつもある。ぜひ聴いてみてほしい。

ジョン・ハイアット、71歳。これからもまだまだ、良曲を数多く作ってくれそうだ。








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音曲日誌「一日一曲」#380 ザ・タイガース「Heartbreaker」(Polydor)

2024-04-20 09:54:00 | Weblog
2024年4月20日(土)

#380 ザ・タイガース「Heartbreaker」(Polydor)



ザ・タイガース、1970年8月のコンサート「リサイタル・サウンドinコロシアム」からの一曲。マーク・ファーナーの作品。東京大田区の田園コロシアムにおけるライブ。

ここのところ64日連続で洋楽ばかり取り上げて来たので、たまには邦楽アーティストもピックアップしてみたいと思う。

ザ・タイガースについては、くだくだしい説明は不要だろう。日本の60年代後半に起こったグループサウンズ・ブームで、最高最大の人気を誇ったバンドである。

結成は65年6月、京都市。「サリーとプレイボーイズ」を4人でスタート。同年末、他バンドにいた沢田研二を誘い、翌年より5人で「ファニーズ」と改名して再スタート。

大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演して大人気となり、これに注目した内田裕也の仲介により、東京の渡辺プロダクションと契約。67年2月にザ・タイガースと再度改名してレコードデビュー。

以後、71年2月の解散コンサートに至るまでの正味4年間、グループサウンズブームを牽引し続け、解散後もメンバーの大半は、日本のミュージック・シーンで大活躍した、そんなビッグ・グループである。

彼らはいわゆる「アイドル」の括りで語られがちの存在であった。確かにそれは間違いではなかったが、実は多くのリスナーが思うよりはずっと「プロ」のミュージシャンであった。

そのことが、本日取り上げたライブレコーディングを聴くと、よく分かると思う。

ザ・タイガースは、先に人気の出ていた年長世代のブルーコメッツ、スパイダーズの後を追うようにしてデビュー、平均年齢19.4歳という圧倒的な若さで女性リスナーの人気をあっという間にさらい、GSの王座に躍り出た。

その時点では確かに、若さ、ルックスといった切り札に頼ったという感は否めなかった。

しかし、4年という年月は、彼らの音楽性や人間性に大きな成長をもたらした。レコーディングでロンドンを訪れたり、テレビ出演ばかりでなく武道館のような大規模ホールや野外でライブ演奏をするなど、現場でもみっちりと鍛えられた。

また、マネジメントサイド、プロデュースサイドとの衝突により、メンバー脱退、交代といった危機的状況もいろいろと経験している。

その結果、アイドルバンドとバカに出来ないレベルのバンド、海外のアーティストとも肩を並べうる存在へと次第に変化、成長していったのである。

田園コロシアムでのライブは、その場にいたオーディエンスだけでなく、近隣に住む人々、東急東横線の列車に乗った客にも十分聴こえる。

筆者も、このライブではないが、翌71年にPYGに再編成された時期の彼らのコロシアムライブを、多摩川園駅(現・多摩川駅)で偶然聴いたことがある。もう、完全に野外ライブと同じだった。

不特定多数の人に、生音を聴かれるパブリック・ライブ。しかも、当時人気絶頂のバンドである。絶対、下手くそな演奏をするわけにはいかない。

そんなプレッシャーに負けじと、彼らは海外ロック・バンドのカバー、そして自分たちのオリジナル曲や大ヒットナンバーを、ホーンやオーケストラといった外部ミュージシャンの力を借りずに、やり抜いたのだ。恐るべき、プロ根性である。

グループサウンズは、決して海外ロック・バンドのパチモンではなかったのである。明らかに、世界でも通用出来るバンドを目指していたことが分かる。

コンサートの中盤に演奏されたこの「Heartbreaker」は同題異曲がいくつもあるが、米国のバンド、グランド・ファンク・レイルロードのヒットナンバーのほう。

69年リリースのファースト・アルバムからシングルカットされ、翌年末に出たライブ・アルバムにも収められた。日本でも、アマチュアバンドの定番レパートリーとなったナンバーだ。

GFRは71年夏に来日して人気爆発しているが、それに先立つ1年前の70年、タイガースはこの曲をすでにライブレパートリーとして消化していたのだから、ものスゴい早取りである。若さゆえの吸収力がハンパない。 

その曲調は、循環コードの繰り返しによるマイナー・バラード。これがジュリーの、艶と陰影のある声質に見事にマッチしていて、実にいい感じだ。

バックの演奏も、われわれがGSに期待するレベルを大きく超える出来映えだ。特に、ベースのサリー、ドラムスのピーのリズム隊の安定感は素晴らしい。GSといって侮るべからず、である。

実際、のちにレッド・ツェッペリンが来日した時に、ジョン・ポール・ジョーンズが当時PYGにいたサリーのベース演奏を聴いて、「日本にもベースのうまいヤツがいる」と賞賛したほど、サリーの技術は国際級だったのである。

ギターのタローも頑張って、マーク・フアーナーのソロをしっかりとコピーしており、ちょっと残念なのはバックコーラスくらいで、このままレコード化しても大丈夫なくらい、いい出来だ。

コロシアムライブでは他に、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)のカバー(Susie Q、I Put a Spell On You、Travelin’ Band)を演っているが、そちらもなかなかの仕上がりだ。彼らが超多忙な中、海外アーティストの研究にも余念がなかった様子が察せられる。

それにしてもこの曲で感じるのは、ジュリーの圧倒的な存在感である。

まだ歌唱力が安定していない時期だが、その声の持つ華やぎは、唯一無二、空前絶後のものだ。

彼の華麗な容姿も相まって「天性のスター」としか呼びようがない。後のソロでの大ブレイクぶりも、当然だと思う。

ヒットを何十年も出さずとも、沢田研二というシンガーが、極東ニッポンの最大級スターであることは間違いあるまい。

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音曲日誌「一日一曲」#379 ベイビーフェイス・リロイ「Rollin’ And Tumblin’(Part 1&2)(Parkway)

2024-04-19 08:25:00 | Weblog
2024年4月19日(金)

#379 ベイビーフェイス・リロイ「Rollin’ And Tumblin’(Part 1&2)(Parkway)





ベイビーフェイス・リロイ、1950年リリースのシングル曲。マディ・ウォーターズの作品。

黒人ブルースマン、ベイビーフェイス・リロイことリロイ・フォスターは1923年ミシシッピ州アルゴマの生まれ。ギターやドラムスを演奏するようになり、10代後半、1940年代半ばにシカゴに移住する。

シカゴでピアニストのサニーランド・スリム(1906年生まれ)やハーピストのサニーボーイ・ウィリアムスン一世(1914年生まれ)といった年長のミュージシャンたちと知り合い、共に演奏するようになる。

46年に、当時はまだ駆け出しのギタリストであったマディ・ウォーターズ(1913年生まれ)を知人に紹介される。フォスターはギタリストのジミー・ロジャーズ(1924年生まれ)と共にマディのバンドに参加して、ギターとドラムスを担当する。

彼らトリオは「ヘッドハンターズ」と自ら名乗って、クラブからクラブへ渡り歩き、道場破りのような演奏勝負を繰り広げていたという。

後にこれにハープのリトル・ウォルター(1930年生まれ)が加わり、マディのバンドの基礎が出来上がるのである。

フォスターの最初のレコーディングは45年、サイドマンとしてであった。自己名義の初レコーディングは48年、アリストクラットレーベルからリリースしたシングル「Locked Out Boogie」。これにはマディがギター、ビッグ・クロフォードがベースで参加している。

翌49年にはシングル「My Head Can’t Rest Anymore」をJOBレーベルよりリリース。この曲からウォルターのハープが加わる。

50年、マディたちはパークウェイレーベルで後世に残るレコーディング・セッションを行う。このセッションからは4枚のシングルが生まれた。うち2枚がフォスター・トリオ、2枚がウォルター・トリオの名義でのリリースとなった。

フォスターの2枚とは「Boll Weevil(オオゾウムシの英語名)」、そして本日取り上げた「Rollin’ And Tumblin’(Part 1&2)」である。パーソネルはドラムスがフォスター、ギターがマディ、ハープがウォルター。ボーカルはフォスターがメインだが、3人がとっている。

「Rollin’ And Tumblin’」はマディ・ウォーターズの代表曲としてあまりに有名なナンバーだが、彼は同年に自らのボーカルでこの曲をアリストクラットレーベルでレコーディング、シングルリリースしている。後にチェスのコンピレーション・アルバムに収録された。

もともとこの曲は、ハンボーン・ウィリー・ニューバーンにより29年に初めてレコーディングされている。原題は「Roll And Tumble Blues」。ニューバーンの作品とクレジットされているが、実際には作者不明のトラディショナルといったところである。

これを改題してカバーしたのが、ロバート・ジョンスン。それが1936年録音の「If I Had Possession Over Judgement Day」である。また、彼の「Travelling Riverside Blues』にも、本曲の強い影響が見られる。

フォスター、マディらのカバーバージョンは、オリジナルから実に20年以上を経ての復活ということになる。

この音源を聴いてまず感じるのは、カオスな熱狂だ。3人がそれぞれのパワーをぶつけ合って作り出す、異様なまでの興奮状態。

マディはすでに30代後半だったが、フォスターはまだ20代後半。ウォルターに至っては、20歳になったばかりの頃。エネルギーがあり余っているという感じだ。

それは、マディが歌ったバージョンと聴き比べてみるとよく分かる。ウォルターのハープをフィーチャーしたフォスター版に対して、マディのスライドギターをフィーチャーしたバージョンは、音楽的には洗練されているものの、パワー不足の感は否めない。

後に英国のバンド、クリームがこの曲をファースト・アルバムやフィルモア・ライブ盤で取り上げているが、参考にしているのはマディ版よりもむしろフォスター版という気がするね。

リロイ・フォスターはそのニックネーム「ベイビーフェイス」通り童顔だったが、その歌声はわりと低めで渋めだ。サニーボーイ一斉直伝という巻き舌唱法で、鄙びた味わいが濃い。いわゆるダウンホームってヤツだ。

実生活では、大酒飲みで知られていた。ロバジョン、リトル・ウォルターあたりとも共通するものがあり、破滅派ブルースマンの代表格ともいえる。

このパークウェイ盤リリース後も、52年までにJOB、リーガルなどのレーベルで数枚シングルをリリースしたものの、58年に35歳の若さで心臓発作によりこの世を去っている。おそらく、深酒が祟ったのだろう。

アルバム一枚分のみと、一生涯で残した作品はあまりに少ないものの、一曲一曲が強烈な持ち味を持つ個性派。マディやウォルター愛好者のみならず、ブルースを愛好する人なら誰しも、彼のことを忘れちゃいけない。ぜひ、その数少ないレコードに耳を傾けてほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#378 ホップ・ウィルスン「My Woman Has a Black Cat Bone」(Ivory)

2024-04-18 07:27:00 | Weblog
2024年4月18日(木)

#378 ホップ・ウィルスン「My Woman Has a Black Cat Bone」(Ivory)



ホップ・ウィルスン、1960年リリースのシングル曲。ウィルスン自身の作品。

米国の黒人ブルースマン、ホップ・ウィルスンことハーディング・ウィルスンは1921年テキサス州グレープランド生まれ。幼少期よりギターとハーモニカを演奏し、10代でスティールギターを入手、こちらをメインで弾くようになる。

郷里に近いヒューストンのクラブで演奏した後、兵役に就く。除隊後、本格的に音楽の道を目指す。

芸名のホップは、子供の頃ずっとハープ(ハーモニカ)を吹いていたため、その発音が変化した「ホップ」がニックネームとなったことによる。

パパ・ホップ(Poppa Hop)という芸名もあり、本日取り上げた一曲「My Woman Has a Black Cat Bone」も、当初はその芸名でリリースされている。

ウィルスンはプロとしては少し遅咲きで、50年代にベースのアイス・ウォーター・ジョーンズ、ドラムスのアイボリー・リー・セミエンとのトリオを組み、57年にようやくルイジアナ州レイク・チャールズのゴールドバンドレーベルで初レコーディング。ホップ・ウィルスンとチキンズという名義でインスト・シングル「Chicken Stuff」を翌年リリースした。

60年にはヒューストンのアイボリーレーベルと契約、何枚ものシングルをリリースしていくが、ツアーを嫌い、地元でのライブにこだわり続けたため、全国的な知名度を獲得するには至らなかった。75年に54歳の若さでヒューストンで亡くなっている。

テキサス・ブルースマンとして知る人ぞ知る存在といえるウィルスンの、後世に唯一ポピュラーとなったナンバーが、60年リリースの「My Woman Has a Black Cat Bone」だが、読者のみなさんは一聴しただけではピンと来ないかもしれない。

しかし、1985年にリリースされたアルバート・コリンズ、ジョニー・コープランド、ロバート・クレイによるアルバム「Showdown!」でのカバーバージョン「Black Cat Bone」(ボーカルはコリンズ)を合わせて聴けば、「あ、この曲のオリジナルはホップ・ウィルスンだったんだ!」となるはず。

二者は、まったくアレンジが異なっている。ウィルスン版はアップテンポのシャッフル、コリンズらのバージョンは、少しスローなファンク・ビート。またリズム同様、メロディラインも大幅に変更されている。まるで違う曲に聴こえても無理はない。

このニュー・アレンジが、時の流れとともにほとんど忘れ去られていた本曲を甦らせたと言っていいだろう。現在でも「Black Cat Bone」はセッションの定番曲としてはよく演奏される。その場合、アレンジは100パーセント、Showdownバージョンである。

白人ブルースギタリスト、マット・スコフィールドも、「Black Cat Bone」をレパートリーとしているが、そちらも明らかにShowdownバージョンを下敷きとしている。本曲の生みの親であるウィルスンに対して、コリンズは、「育ての親」と言っても過言ではあるまい。

実はジョニー・ウインターもコロムビアからメジャーする前の69年のアルバムで、アップテンポのシャッフルで本曲をカバーしているのだが、リスナーの記憶にはほとんど残らなかった。完全にコリンズの勝利である。

ウィルスン同様テキサス出身のコリンズ(32年生まれ)は、先輩ブルースマンへのトリビュートとして、この曲を、それこそこの歌詞にも登場するブードゥー教のまじないを使って、甦らせたのだ。

ホップ・ウィルスンはブルース界では極めて少ない、スティールギターの弾き手である。通常のギターとも、ボトルネックのスライド・ギターとも違う独特のニュアンスで、唯一無二のサウンドを創造したパイオニアだ。

そのサウンドはカントリー・ミュージックの軽さ、明るさも織り込んでいるものの、根底にあるのは、重たいブルース。その歌声は陰影に富み、底知れないものを感じさせる。

コリンズ、ウィンターらのほか、英国のミュージシャン、例えばロニー・ウッド、ピーター・グリーンといった人たちも、実はウィルスンのレコード(おそらくエースレーベル盤)を愛聴していたという。

明るい曲調とは裏腹の、恐妻家のボヤきというのだろうか、ブラックユーモアに満ちた歌詞がなかなか面白い「My Woman Has a Black Cat Bone」。

終生我が道を行ったブルースマン、ホップ・ウィルスンの極めて豊かなオリジナリティを、この一曲に感じとってくれ。




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音曲日誌「一日一曲」#377 カーク・フレッチャー「I Smell Trouble」(JSP)

2024-04-17 09:04:00 | Weblog
2024年4月17日(水)

#377 カーク・フレッチャー「I Smell Trouble」(JSP)





カーク・フレッチャー、1999年リリースのデビュー・アルバム「I’m Here & I’m Gone」の10周年記念再発盤(2009年リリース)からの一曲。ディアドリック・マローン(ドン・ロビーの本名)の作品。ジミー・モレロによるプロデュース。

米国の黒人ギタリスト/シンガー、カーク・フレッチャーは、1975年カリフォルニア州ベルフラワーの生まれ。父親は牧師だったこともあり、幼少期より教会で音楽に親しみ、ギターを覚える。

高校時代はジャズバンドに参加、ツアー活動も行い、アル・ブレイク、ロベン・フォードらプロミュージシャンとの交流も深める。

99年、23歳にしてレコーディングの機会を得て、JSPレーベルより初のアルバムをリリース、ギターのみならず歌でもデビューする。

ブレイクより紹介されて、しばらくキム・ウィルスンのバックでギターを弾くことになる。続いて、チャーリー・マッセルホワイトとも共演する。

2003年のセカンド・アルバム「Shades of Blue」のリリース後、2005年から09年までは、ウィルスンの率いるファビュラス・サンダーバーズにも加わり、アルバムレコーディングにも参加する。

そして、デビュー10周年の2009年には、「I’m Here & I’m Gone」に未発表曲を加えて、再発売する。本日取り上げた「I Smell Trouble」はその追加分にあたる一曲である。

この曲のオリジナルは、ボビー・ブルー・ブランド。曲はデュークレーベルのプロデューサー、ドン・ロビーが書いている(もっとも、ロビーはアーティスト自身が書いた曲も、ちゃっかり自分名義にしているケースが多いと言われていて、クレジットは鵜呑みにできないが)。

1957年に「I Don’t Want No Woman」のB面としてシングルリリース、チャートインはしなかったものの、ブランドの定番曲として幾つものアルバムに収録されている。

タイトルの意味は「面倒なことになりそうだ」といったところか。歌詞から察するに、近隣の人々との人間関係のこじれと思われるが、実にヤバいムードがプンプンと漂ってくるね。

この曲を後にカバーして好評を得たのが、アイク&ティナ・ターナー。69年にアルバム「The Hunter」に収録したほか、ライブ盤でも2度取り上げている。また、バディ・ガイ版も有名である。

オリジナルにせよ、カバーバージョンにせよ、どれもスリリングでエモーショナルなボーカルが印象的だ。かなりキャリアがあり、歌に長けたシンガーでなくては到底歌いこなせない、そんなイメージが専らの曲である。

若き日のフレッチャーは、果敢にもこの難曲に、がっぷりと四つに組んでいる。

若干暴走気味ではあるが、あふれるパッションをしぼり出して歌にぶつけている様子が、手に取るように分かる熱唱である。

ギターも流麗なテクニックを見せびらかすような感じではなく、多少もつれ気味でも、とにかく高まるエモーションをそのまま表現しており、そこがまた聴く者の心を揺さぶってやまない。これぞ、ブルースである。

テクニックは十分綺麗に弾くだけのものを持っているが、そういうものには頼りきらず、自らのフィーリングを頼りにブルースを歌い、弾く。

この姿勢こそが、フレッチャーが「巧い」だけのミュージシャンではない証明だと思う。

その後のフレッチャーは、ジョー・ボナマッサ、イタリアのエロス・ラマゾッティをはじめとしたビッグネームとの共演が多く、どちらかといえばバッキングに長けた裏方ミュージシャン、あるいはYoutubeで見られるようなギター・インストラクターといったイメージが強くなってしまったが、本来はソロ・シンガーとしても十分やっていける実力の持ち主なのである。

「I Smell Trouble」は、その見事な証明の一例。彼のシンガーというもうひとつの顔を、ぜひ知ってほしい。

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音曲日誌「一日一曲」#376 クリス・ファーロウ「Stormy Monday Blues」(Island,Sue)

2024-04-16 09:03:00 | Weblog
2024年4月16日(火)

#376 クリス・ファーロウ「Stormy Monday Blues」(Island,Sue)





クリス・ファーロウ、1966年リリースのシングル・ヒット曲。アーロン・ウォーカー(T-ボーン・ウォーカー)の作品。クリス・ブラックウェルによるプロデュース。

英国のロック・シンガー、クリス・ファーロウ(本名ジョン・ヘンリー・デイトン)は1940年、ノースロンドンのイズリントン生まれの83歳。今も健在である。

50年代半ば、英国ではスキッフルというポピュラー音楽の一大ブームが起こり、無数のスキッフル・バンドが生まれた。

それに触発されてファーロウも、シンガーとして57年にジョン・ヘンリー率いるグループに参加後、翌年にはジョニー・バーンズのカルテット、59年にはさらにギタリストのボブ・テイラーと共にサンダーバーズを結成と、幾つものバンドを渡り歩く。

1962年に初のレコーディング。デッカを皮切りに、コロムビア、イミィディエイト、アイランドやその傘下のスーで数多くのシングル、アルバムをリリースしていく。

中でもローリング・ストーンズの曲のカバーで、ミック・ジャガーが自らプロデュースした66年6月リリースのシングル「Out Of Time」が大ヒット、全英1位を獲得する。これにより、ファーロウは人気シンガーとしての地位を固めたのである。

本日取り上げた「Stormy Monday Blues」は、それに先立って66年1月にスーレーベルよりリリースされたシングル曲だ。これはいうまでもなく、米国のブルースマン、T-ボーン・ウォーカーの代表曲にして、永遠のブルース・スタンダードである「あの」ストマンである。

ウォーカーのオリジナルは1947年リリース。R&Bチャート5位というスマッシュ・ヒットとなり、彼の名を大いに高めた。以降、さまざまなブルース・アーティストによりカバーされたが、白人シンガーによるめぼしいカバーはないまま20年近くが経過したが、異国人のファーロウによりそれがついに実現したのである。

ファーロウの「Stormy Monday Blues」は当初リトル・ジョー・クックという変名で、スーレーベルよりリリースされた。この名前は、いかにもアメリカ人っぽいということで付けられたらしい。アイランドレーベルからは、クリス・ファーロウという本来の芸名でリリースされている。

ヒットとしてはかなり地味ではあったが、大西洋を越えて、この曲の存在は米国にも届く。ラジオでクリス・ファーロウという聞き慣れない名前のシンガーが、お馴染みのブルースナンバーを歌っている、ということでファーロウを黒人シンガーだと思った米国人も少なからずいたようである。

そのことは、ファーロウ自身もインタビューで出演している、マーティン・スコセッシ監督制作のドキュメンタリー映画「Red, White & Blues」で彼の口から語られている。

「私はクリス・ファーロウというシンガーだ」と名乗ったら、初対面の米国人が「それは奇遇だ。私はクリス・ファーロウという黒人シンガーの歌う『ストーミー・マンデー・ブルース』を聴いたことがある」「いや、それは私だ」というような、笑えるやり取りがあったというのだ。

写真を見たことのない米国人が、歌声だけでファーロウのことを黒人と勘違いするぐらい、ファーロウの持つフィーリングは黒人そのものだったということだ。エルヴィス・プレスリーのことを、当初黒人だと思っていたリスナーが多かったというエピソードを思い出させる。

このファーロウのカバー版リリースに大いに触発されたのか、同じく英国人のジョン・メイオールは自身のバンド、ブルースブレイカーズでも、この曲を歌うようになる。エリック・クラプトンのバッキングによるライブ盤をはじめとして、いくつかのレコーディングが残っている。

そしてさらには、メイオールの影響下、米国のオールマン・ブラザーズ・バンドにもカバーされ、フィルモア・ライブでの演奏は名演と呼ばれるようになる。

英米の白人ロック・ミュージシャンたちに、この古いブルース・ナンバーの魅力を知らしめたという意味でも、パイオニア、ファーロウの果たした役割は大きいと言えるだろう。

ファーロウ版「Stormy Monday Blues」は、オルガンをバックに配しており、当時のジャズの流行スタイルを感じさせるアレンジだ。ギターもブルースというより、ややジャズ寄りのスタイル。

対してハスキーな声で力強くシャウトするファーロウには、もろにブルースの肌触りが感じられる。

結局、人種による違いなどなく、ブルースの心さえあれば、白人、異国人にもブルースは歌えるのである。これは、極東のアジア人にとっても、非常に心強い材料である。

クリス・ファーロウはその後、60年近くにわたって第一線で活躍している。コロシアムやアトミック・ルースターといったバンドで優れた作品を数多く残しているが、ごく初期のレコーディングからして、すでに堂々たる世界を持っていたことが、この一曲からもよく分かる。ぜひ、聴いてみてほしい。

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音曲日誌「一日一曲」#375 ガイ・キング「It’s About the Dollar Bill」(Delmark)

2024-04-15 08:44:00 | Weblog
2024年4月15日(月)

#375 ガイ・キング「It’s About the Dollar Bill」(Delmark)




ガイ・キング、2016年リリースのアルバム「Truth」からの一曲。ジョニー・ギター・ワトスンの作品。キング自身によるプロデュース。

米国で活躍する白人ブルースギタリスト/シンガー、ガイ・キングは、1977年イスラエル生まれ。今年47歳になる。ブルース界において、今後が期待される気鋭のアーティストのひとりだ。

7歳でクラリネットを始め、クラシックを演奏していたが、13歳でギターに興味を持ち弾き始める。そしてこちらが彼のメイン楽器となる。

16歳でイスラエルのシンガーのバッキングで渡米する。祖国の3年間の兵役を経て、米国のメンフィスへ移住。その後、ニューオリンズを経て、シカゴと移り住み活動の拠点とする。

シカゴのブルースシンガー、ウィリー・ケント(1936年生まれ)のバックを6年間つとめる。2006年にケントが亡くなった後、ソロ活動に入る。

2009年以降、アルバムを3枚リリースした後、2015年デルマークレーベルと契約、世間にも注目されるようになる。

同レーベルで現在までに出したアルバムは2枚。2016年の「Truth」、21年の「Joy Is Coming」だ。

本日取り上げた一曲は、「Truth」中では数少ない、他のアーティストのカバー・ナンバー。1935年生まれで1996年にこの世を去っているジョニー・ギター・ワトスンの作品である。

ワトスンについては「一枚」「一曲」の両方で2回ずつ取り上げたので、詳しい紹介はあえてしないが、1950年代以降、ブルースに限らずファンク、ヒップホップ(の原型)などさまざまなスタイルの音楽を生み出し続けた天才である。ホーン以外のほとんどの楽器をこなした、マルチミュージシャンのはしりでもある。

そのワトスンが70年代、DJMレーベルからリリースした一連のアルバムのひとつに77年リリースの「Funk Beyond the Call of Duty」という、ひときわヒップな一枚がある。

白スーツでサファリ帽を被り、ギブソン・エクスプローラーを携えて、黒人のハイレグ美女と並んで撮ったジャケ写がまことに印象的なアルバム。筆者が大学に入ったばかりの頃にこれを見て、「うわ、なにこのヤバカッコいい(筆者の造語)ロイクのおっちゃん」と感嘆したのを覚えている。

イキでヤクザなワトスンの作る音楽は、その容姿同様、ひたすらヒップでクールだった。

言ってみれば、ワンアンドオンリー。誰にも真似の出来るものではなく、実際ワトスンの死後も、彼のスタイル(ルックスと音楽、両方の意味で)をフォローした(出来た)黒人ミュージシャンはいなかった。

そんな彼を、42歳も年下、しかも白人のミュージシャンが21世紀にカバーするとは、誰も想像出来なかったと思う。事実、筆者が初めてキングのカバー・バージョンを聴いた時は、一瞬耳を疑ったものだ。

オリジナルはブルースとはおよそいいがたい、歌詞の皮肉がなかなか効いている、ファンク・チューン。これを、原曲にほぼ忠実なアレンジで再現しているのには、二度たまげた。中間のギター・ソロも、ワトスンのあの少しジャズ・ギターっぽい「ペナペナ感」をうまく出している。

これは、他人のスタイルを自分流に変えてしまうことなく、きちんと元のスタイルで再現出来るぐらいテクニックがないと出来ないワザである。

キングのライブ映像をいろいろ観ていると、アルバート・キング、レイ・チャールズ、ジュニア・パーカーといった、わりと正統派のブルース、R&B路線のカバーが多いが、そのギターもわりあい元のスタイルを崩さずに弾いていることが多い。要するに、キングはとても器用な人なのだ。

裏を返せば、そのミュージシャン本人にしか出せない、強い臭みみたいなものは希薄とも言える。特にボーカルには、そのことが言えそうだ。軽めで、いかにも白人っぽい歌い方なのだ。

ワトスンの歌声の持つ「いかがわしくもカッコいい」雰囲気は6割くらいしか出せていないのが、このカバーの限界である。

でも、演奏に絞って言えば、なかなかヒップでいい感じだ。こちらは90点差し上げてもいい。

オリジナルも合わせて聴いて、それぞれの魅力の違いを確かめて欲しい。

ブルース界の「王=キング」といえば、BB、アルバート、フレディの三大キングを初めてとして、大勢いるが、すべて黒人である。白人として、初めて王位を取れる可能性があるとすれば、実力派のこのガイ・キングだろう。

ギターの実力はすでに十分。後は、歌のこれからの成長ぶりにかかっている。

ブルースマンにおいては、40代まではリハーサル、50代からが本番だとよく言われる。今年47歳になるガイ・キングにとって、今後が正念場なのは間違いない。




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音曲日誌「一日一曲」#374 ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ 「Shotgun」(Tamla Motown)

2024-04-14 07:47:00 | Weblog
2024年4月14日(日)

#374 ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ 「Shotgun」(Tamla Motown)




ジュニア・ウォーカー&ザ・オールスターズ、1965年リリースのシングル・ヒット曲。オートリー・デウォルト(ウォーカーの本名)の作品。ベリー・ゴーディ、ローレンス・ホーンによるプロデュース。アルバム「Shotgun」に収録。

サックス奏者にしてシンガー、ジュニア・ウォーカーことオートリー・デウォルト・ミクスン・ジュニアは、1931年アーカンソー州プライスヴィル生まれ。

インディアナ州サウスベンドで育ち、高校生の頃からサックス(おもにテナー)を吹き始め、50年代半ばに自身のバンド、ジャンピング・ジャックスを結成する。そして、リズム・ロッカーズというバンドにも掛け持ちで参加する。

リズム・ロッカーズはサウスベンドのローカルTV局での仕事を得て、シンガー、ウィリー・ウッズの歌伴奏をつとめる。その頃、同バンドはザ・オールスターズと改名する。

モータウンのプロデューサー、ジョニー・ブリストルが彼らに才能を見出し、61年自身のレーベルを持つプロデューサー、ハーベイ・フークアに推薦する。

ウォーカーらはハーベイレーベルでレコーディングを行い、この時に「ジュニア・ウォーカー・オールスターズ」となる。

その後、ハーベイレーベルはモータウンのプロデューサー、ベリー・ゴーディに引き継がれ、彼らはモータウン傘下に入る。

メンバーも一部交代して64年にレコーディングされ、最初のヒットとなったのが、本日取り上げた「Shotgun」だ。

オープニングから銃の爆発音、「Shotgun」というタイトル・ワードをシャウトするキャッチーなソウル・ナンバー。シンガーとしてのウォーカーの、デビュー・レコーディングでもある。R&Bチャートでは連続4週1位、全米チャートでも4位という、堂々たる記録を残した。

実はこの曲、レコーディング・セッション時に雇われたシンガーが現れなかったので、ウォーカーがひとまず代役をつとめたのだが、ゴーディはこのテイクにOKを出し、ウォーカーの歌声が世に出ることになった。これにはウォーカー自身も驚いたという。

ウォーカーのハイトーンの歌声、そして力強いブローが気分をアゲアゲにしてくれるこのナンバー、実は筆者がオリジナルを聴いたのはかなり後で、80年代以降である。

一番最初にこの曲を聴いたのは、ロックバンド、ベック・ボガート&アピスの、日本武道館ライブのアルバムでだった(1973年リリース)。

ティム・ボガートとカーマイン・アピスのふたりがハモるソウルフルなコーラスを、筆者は心踊らせて聴いたものだ。「なんてカッコいい曲なんだ!」と。

その後まもなく、彼らがかつて所属していた米国のバンド、ヴァニラ・ファッジの4thアルバム「Near the Beginning」(69年リリース)で既にこの曲をやっていたことを知ることになる。

だが、その作曲者がジュニア・ウォーカーであることは知っても、当時彼のレコードはほとんど流通しておらず、聴くこともなかった。

むしろ、ウォーカーの音にじかに触れたのは、BB&A同様英米混成のバンド、フォリナーの81年リリースのシングル曲「Urgent」での演奏においてだったかもしれない。ゲストプレイヤーとして、ウォーカーが参加していたのである。その事実も、恥ずかしながらだいぶん後になって知ったのだが。

つまり、ジュニア・ウォーカーというサックス奏者が作り出したサウンドは、単にR&B、ソウルといったレイス・ミュージックの枠を越えて、英米の白人たちのロックにも大きな影響を与えて来たということだ。

世間に名前はあまり知られていなくても、その作った楽曲や演奏により、広範囲のミュージシャンに、多大な影響を与えたミュージシャンが、実は結構な数でいるものだ。

ジュニア・ウォーカー、そして彼の代表曲「Shotgun」は、まさにその典型例である。

この曲を皮切りに、彼の「(I’m a) Road Runner」、「How Sweet It Is(To Be Loved by You」「What Does It Take(To Win Your Love)」といった一連の曲を聴いてみれば、そのことは十分納得していただけるはずだ。ぜひ、ご一聴を!




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音曲日誌「一日一曲」#373 リトル・ジュニア・パーカー「Next Time You See Me」(Duke)

2024-04-13 07:50:00 | Weblog
2024年4月13日(土)

#373 リトル・ジュニア・パーカー「Next Time You See Me」(Duke)



リトル・ジュニア・パーカー、1957年リリースのシングル・ヒット曲。アール・フォレスト、ビル・ハーヴェイの作品。

リトル・ジュニア・パーカー(のちにジュニア・パーカーに改名)はハーマン・ハーバート・パーカーとして、1932年ミシシッピ州コアホマ郡ボボ近郊に生まれる。

10代になった頃、母親と共にアーカンソー州西メンフィスに移住。ゴスペルグループで歌うことから、彼の音楽キャリアが始まる。またハープも吹くようになる。

10代の末にメンフィスのR&Bグループ、ビール・ストリーターズ(ボビー・ブランド、B・B・キングら)の一員となる。51年には自らのバンド、ブルー・フレームズを結成(ギターはパット・ヘア)。

52年、アイク・ターナーにスカウトされ、彼の所属するモダンレーベルで初レコーディング。シングル「You’re My Angel」である。ピアノはターナー、ギターはマット・マーフィ。

これがサンレーベルのオーナー、サム・フィリップスの目にとまり、53年にサンと契約。同年、ここでリトル・ジュニアズ・ブルー・フレームズ名義でスマッシュ・ヒットを出す。

それがパーカーの自作曲「Mystery Train」である。のちに55年、エルヴィス・プレスリーにカバーされて、スタンダードとなり、またパーカーの代名詞ともなった。

55年後半、パーカーはデュークレーベルと契約、ここでも一連のヒットを出していくのだが、最初のヒット曲が本日取り上げた57年リリースの「Next Time You See Me」である。R&Bチャートで7位を獲得。

レコーディングは56年7月、テキサス州ヒューストンにて行われた。バックでは、作曲者のひとりでもあるビル・ハーヴェイがテナー・サックスを担当したホーン・セクションのほか、ギターはブルーフレームズ以来のパット・ヘア、ピアノのコニー・マクブッカー、ベースのハンプ・シモンズ、ドラムスのサニー・フリーマンらが演奏。

ホーンを前面に押し出しており、全体的にブルース・バンドというよりはジャズ・バンド的なサウンドだ。

その曲調もまた、一般的なブルースよりずっとメロディックであり、有名な箴言を取り入れた歌詞もお洒落だ。そしてパーカーの歌唱も、非常に甘くスムーズである。

ブルースというものが本来持っている泥臭さ、素朴さというものを昇華して、見事に洗練させた世界が、この歌にはある。

そのあたりは、同じビールストリートの仲間であり、デュークのレーベルメイトでもあるボビー・ブランドにも共通して言えることだろう。

ブルースを田舎の音楽から、都会的なそれに変えた(モダン化とも言える)立役者のひとりがジュニア・パーカー。

パーカーはこの「Next Time You See Me」以後も、「Sweet Home Chicago」「Five Long Years」「Driving Wheel」など数々のヒットを出して行くのだが、一番の代表曲は、やはりこの曲ということになるだろう。

誕生して70年近くの歳月を経てもなお、いまだに多くのブルース・セッションで、この曲が歌い継がれているのだから。

筆者個人的には、サンズ・オブ・ブルースでのビリー・ブランチの歌唱が好みではあるが、ご本家ももちろん素晴らしい。

読者のみなさんにも、聴くだけでなく、ぜひ一度歌ってその良さを感じ取っていただきたい。

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音曲日誌「一日一曲」#372 テイスト「Catfish」(Polydor)

2024-04-12 07:43:00 | Weblog
2024年4月12日(金)

#372 テイスト「Catfish」(Polydor)






テイスト、1969年リリースのデビュー・アルバムからの一曲。トラディショナル・ナンバー。トニー・コルトンによるプロデュース。

アイルランドのロック・バンド、テイストは66年に同国コークで結成され、北アイルランドのベルファストを拠点として活動していたが、いったん解散。

68年、ボーカル/ギターのロリー・ギャラガー以外のメンバーを変え、ベースのリチャード・マクラッケン、ドラムスのジョン・ウィルスンのラインナップで英国ロンドンに移住、ボリドールレーベルと契約して再スタートを切った。

デビュー・アルバムは英国のバンド、ヘッド・ハンズ・アンド・フィートのリーダー、トニー・コルトンをプロデューサーとして迎えて制作、69年4月にリリースされている。

収録された曲の大半は、リーダー的存在であるギャラガーの作詞作曲であったが、4曲ほど米国のトラディショナル・ブルースやカントリー、ブルースのシンガーの作品を含んでおり、テイストというバンドが目指した音楽の方向性を伺うことが出来る。

本日取り上げた「Catfish」は、昨日取り上げた「Sugar Mama」とともに、本アルバムに収録されたトラディショナル・ブルース・ナンバーだ。

もともとは「Catfish Blues」というタイトルだったこの曲は、1920年代にミシシッピ州のデルタ地帯で生まれたようだ。

1928年に黒人ブルースマン、ジム・ジャクスンが録音した「Kansas City Blues Part 3 & 4」には、キャットフィッシュ(ナマズ)をモチーフにした歌詞が含まれており、同工異曲のバリエーションがいくつかあったという。

これを黒人ブルースマン、ロバート・ペットウェイ(1903年ミシシッピ州生まれ)が一曲にまとめ、1941年にシングルをRCA傘下のブルーバードレーベルよりリリースしたことで、世間によく知られるようになった。

彼は生涯にわずか16曲しか録音しなかったが、この「Catfish Blues」がのちにブルース・スタンダードとなったことで、ブルース史に名を刻むこととなった。

本欄で以前取り上げたことのあるトミー・マクレナンとは音楽仲間で、一緒にツアーをしており、先にシカゴへ移住したマクレナンの後を折ってペットウェイも移住したという。

ペットウェイ版の「Catfish Blues」を聴いていただこう。アコースティック・ギターをラフにコード弾きしながら、塩辛い声で歌うペットウェイ。いわゆる上手い歌ではないが、独自のシブい味わいがある。

このいかにも素朴な歌声と演奏が、後続のブルースマンたちに大きな影響を与えることになる。その代表が、ブルース史上有数のビッグスター、マディ・ウォーターズである。

マディは1950年に「Rollin’ Stone」というタイトルでこの曲をシングルリリースした(皆様ご存じ、ローリング・ストーンズのバンド名の由来である)。

また、同じメロディを持つ改作「Still a Fool」も翌51年リリース、こちらはR&Bチャートで9位のヒットとなり、マディの代表曲のひとつとなった(後者は「Two Trains Running」の別タイトルでも知られている)。

その後、おもにマディ版をカバーするかたちで、多くのブルース・アーティストがこの「Catfish Blues」発祥のナンバーを歌うようになった。例えば、ジョン・リー・フッカー、ハニーボーイ・エドワーズらである。

いや、ブルースマンに限らず、ロック・ミュージシャンにもこの曲を取り上げるものが60年代には出てくる。ジミ・ヘンドリックスである。

彼が結成したジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスによるトリオ演奏の「Catfish Blues」は、後の年代にCDがリリースされた「BBC Sessions」(67年録音)をはじめとするいくつかのライブ音源で聴くことが出来る。サウンドこそジミヘン流であるものの、それらの進行形式は、基本的にマディ版に準拠したブルースである。

しかし、その1、2年後にレコーディングされたテイスト版「Catfish」は、あえてタイトルからBluesを外している。ここに、過去のブルース・スタイルから脱却して、自分なりのロックへと昇華させようという、ギャラガーの強い意気込みを感じ取れる。ヘンドリックスへの対抗意識も、十分あっただろう。

スタジオ録音にもかかわらず、8分あまりにおよぶ長尺で、その音もライブ感を出したラウドなものであり、のちにリリースした2枚のライブレコーディングと比べても決して引けを取らない迫力がある。

テンポをぐっと落とし、ハードでヘヴィーなビートを強調したサウンド。もちろん、主役はギャラガーの切れ味鋭いギター・プレイと、それに見事シンクロした、唸りにも似た荒っぽい歌声だ。

ブルースを超えたブルース。聴くものが皆、そう感じたであろう衝撃のロック。ほぼ同時期デビューのレッド・ツェッペリンにも対抗しうる、究極のブルース・ロックの誕生である。

セールス的にはZEPのファーストには遠く及ばなかったものの、ライブ演奏の凄さから、口コミで次第に人気が高まり、70年のワイト島フェスティバルでは一番人気のアーティストとなったテイスト。

ギャラガーが70年後半に脱退したことで解散、その活躍は極めて短かったが、彼がソロで再デビューすることで、テイストの革新的なブルースは引き継がれた。

彼らの、長さを微塵も感じさせない、最後まで緊張感にあふれた演奏を、スタジオとライブ、両方のテイクでフルに味わって欲しい。




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音曲日誌「一日一曲」#371 レッド・ツェッペリン「Sugar Mama」(Swan Song)

2024-04-11 08:57:00 | Weblog
2024年4月11日(木)

#371 レッド・ツェッペリン「Sugar Mama」(Swan Song)





レッド・ツェッペリン、2015年リリースの「Coda」デラックス・エディションからの一曲。ジミー・ペイジ、ロバート・プラントの作品(実際はトラディショナル・ナンバー)。ジミー・ペイジによるプロデュース。1968年10月録音。

英国のロック・バンド、レッド・ツェッペリンは68年結成、69年のレコード・デビュー以来、世界的人気を博して70年代の覇者となったが、そのZEPがファースト・アルバムのためにレコーディングしたものの、長期間お蔵入りになっていた作品。

デビュー46年後の2015年にしてようやく、実質的なラスト・アルバム「Coda」(1982年リリース)に追加(デラックス・エディションのコンパニオン・ディスク)で収録された。

この記事をご覧になっている皆さまの大多数は、まだ本曲を聴かれたことがないと思うので、さっそく音源を聴いていただこう。

聴いてまず感じるのは「プラントの声、若っ!」だろう。とにかくカン高く、エッジィな歌声。後々悩まされることになる喉の不調など、微塵も感じさせない、史上最強のハイトーン・ボイスである。

ビートはけっこうファンキー。「Coda」で先に収録された、初期ZEPライブのオープニング・ナンバー「We’re Gonna Groove」にも似通った雰囲気の曲調だ。

共に、ファースト・アルバム用にレコーディングされながら、最終的に音盤から外されてしまい、長い日々を経て復活したという点でも似た運命を持っていると言える。

さて、この曲は特定の作曲者を持たない、いわゆるトラッドなのだが、もともとは、どのような形で世に出たのであろうか。

音源として残っている最古のものは、カントリー・ブルースの黒人シンガー、ヤンク・レイチェル(1910年テネシー州生まれ)が1934年にレコーディングした「Sugar Mama Blues」である。

とはいえ曲を有名にしたのは、引き続いて1934年にレコーディングしたブルースマン、タンパ・レッド(1903年ジョージア州生まれ)であろう。

彼はこの曲をシカゴのヴォカリオンレーベルで録音、やはり「Sugar Mama Blues」のタイトルでシングル・リリースしている。この曲にはNo.1と2、ふたつのバージョンがある。

いずれも淡々とギターを弾いて、ゆったりと語るように歌っているが、このレッドの演奏スタイルが、本曲の原初的なかたちであると言えるだろう。激しいZEP版とはえらく対照的で、一聴して同じ曲とは思えない。

その後、サニーボーイ・ウィリアムスン一世(1914年テネシー州生まれ)も、タンパ版No.1の歌詞に基づいて、1937年にレコーディングしている。こちらは彼のハープをフィーチャーして、もう少しリズミカルな仕上がりになっている。ZEP版はこちらに近い。

レッドとサニーボーイ、このふたりに取り上げられたことにより、この曲はブルース・スタンダードになった。

以降、トミー・マクレナン、ハウリン・ウルフ、ジョン・リー・フッカーといった黒人ブルースマンのみならず、60年代以降は白人ロック・ミュージシャンたちにもカバーされるようになった。

その代表例が、フリートウッド・マック、そしてロリー・ギャラガー率いるテイストによる「Sugar Mama」だろう。筆者も10代の頃、これらを聴いて曲の存在を知り、それがもともと黒人ブルースであることを知ったのである。

ZEPも黒人ブルースマンだけでなく、音楽仲間である彼らの演奏も聴いて触発され、この曲をレコーディング用に選んだものと思われるね。

この曲を聴くたびに思うことは、「Sugarとは何を意味するのか?」という疑問だ。元の意味の「砂糖」ではないとしたら、何なのだろう。

よく「No Sugar Tonight」という歌詞をロックの曲では見聞きするが、この場合Sugarとはお金の意味である。Sugar Daddyという表現だと、裕福で若い女性を金で釣る中年男性という意味になる。

またローリング・ストーンズの「Brown Sugar」では黒人女性の秘部だとか、生成前の薬物だとか、ちょっとヤバい意味で使われている。

だが「Sugar Mama」の場合、どうやら、このどれでもなさそうである。とすると?

実は Sugarの他の用法として、Love、Kiss、Hugの代わりに使われるというのがある。愛、もしくは愛の行為といったところか。

そう考えれば、この曲の意味深な歌詞も、おおよそ腑に落ちるだろう。ちなみに、Mamaとは母親とは限らず、妻や恋人など愛する女性のことを呼ぶ際に使うので、そのつもりで聴いてほしい。Sugar Daddyから連想される、援助交際をする中年女性のことではないと思う、たぶん(笑)。

愛する女への狂おしい想いを吐露する、ヒップなナンバー。サウンドのスタイルはブルースとはもはや言い難いが、その本質はまさに、男女間のあれやこれやを歌うブルースそのものだ。幸運にも復活したレア音源を、とことん楽しんでくれ。






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