goo blog サービス終了のお知らせ 

京都生活手帖

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

責任を引き受ける身体

2006-07-08 14:51:12 | 生活デ哲学スル
密かにはまっている「チャングムの誓い」。
でも今日は残念ながら放送がないようです。

ずいぶん前になりますが、医女を目指すチャングムはよくこう言っていましたね。
「人のするミスのうち、医者のするミスだけが、人の命を奪うことになるのです。」
チャングムの生きた時代はそうだったのでしょう。しかし現代においては、色々な職種の人が多くの人命を預かっていると言えます。例えば、旅客機のパイロット、電車の運転士など・・・何か重大なミスや事故が起こったとき、個人がとることができる以上の責任を負いながら仕事をしなければならない人が、世の中にたくさんいるということです。それは職業上の責任として引き受けなければならないことだと充分分かっていても、それがストレスにならないわけはない。私はそう思っています。

先日同僚の看護師が、「(今から病棟に戻って)抗がん剤つめたり、KCL触れる?・・・いやぁ、もう触りたない。」と言っていました。抗がん剤もKCLも、投与量、投与方法、投与速度いずれも少しでもミスをすれば、ただちに人命にかかわる薬剤です。つまり彼女は、「もうそういう責任を負いたくない。(自分のミスで人が死ぬかもしれないような場所にはいたくない。)」ということを言っているのですね。彼女は今でも救急の現場で勉強を続ける、熱心でプロ意識の高い看護師さん。それでも「もうそういう責任は負いたくない。」というのが本音である。そのことを考えると、医療の現場における個人の責任の拡大とそれに伴うストレスというのは重大な問題であると改めて思います。

病棟勤務をしていた頃の私について言えば、その重い責任に「身体が」耐えられませんでした。3交代勤務という不規則な生活にも原因はあったかもしれませんが、身体のあちこちが悲鳴をあげていたのは、主に責任の重さからくるストレスであったように思います。頭の中には、「看護師としてのキャリア」だとか「職業人としての自立」だとか様々な大義名分がひしめいていましたが、それを一掃するほどに「こんなことには耐えられない。」と身体が拒否をしていた。眠れなくなったり、蕁麻疹が出たり、胃が痛んだり・・・そんな身体からの警告を受けて、私はたった2年で病棟を去りました。その選択に関して、私自身は「間違っていなかった」と思っています。それは、私の身体の生存戦略であった、と。

ですが、どんな責任も引き受けたくないかというと、おそらくそういうわけではないんですよね。人によって引き受けられる責任の度合いというのは異なってくるでしょうし、「どういう環境で責任を引き受けるか」ということも重要だと思います。同じ抗がん剤を投与するにしても、信頼できる医師のもとで、よく知っているお隣のおばあちゃんに投与するのと、慌ただしい中ほとんど会話したこともない医師からの指示で、初めてであった患者さんに投与するのとでは、ずいぶん違います。このことが意味するのは、関係性ができている中での責任と、関係性が全くできていない中での責任では、引き受けるほうが感じる「重さ」が違うということです。

今でも私の身体は、関係性ができていない中での責任を「引き受けたくない」と拒むでしょう。おそらく私に課せられているのは、自分が責任を引き受けられる環境を作っていくことー共に働く人たちと信頼関係を築くことや、人と人とのつながりを基盤としたコミュニティを作る、あるいはそこに身をおくことーなのだと思います。きっとそこには、「管理」や「義務」から生じる責任よりも、「気遣い」を中心とした責任があるのではないでしょうか。そのような責任を、身体は拒むことがないだろうと思うのです。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自立とは

2006-04-23 22:50:17 | 生活デ哲学スル
この4月から、障害者自立支援法が施行されています。自立支援法に関して様々な悪い評判がありますが、私もこの新しい制度の根底にあるものの考え方に賛同できません。それは「自立=就労」、それ以外の形で地域社会で暮らしていくことは支援しないというスタンスです。病気や障害で一般就労は出来なくても、様々な人や制度の力を借りてその人らしく生活している方はたくさんいらっしゃいますが、そういった人を支援する方向にはありません。結局は、就労という形で生産的な活動に参加しろということなのではないでしょうか。自立というものを、(経済的な)生産性の有無ではかるその考え方は納得できません。

とは言うものの、資本主義社会に生きていると知らず知らずにそういった考え方に毒されていることがあります。ずいぶん前にある専業主婦の患者さんが、「働いているときは給料をもらっていたからやりがいがあったけれども、今は家のことをどれだけやっても誰も認めてくれない。」と嘆かれていて、経済的に生産性がないと自分の価値を(自分で)積極的に認められないというのは嫌だなぁと思いました。ですが、いざ自分が結婚をして同じ立場になってみると、社会に出て働いてお給料をもらっていないと後ろめかったり、相手と対等ではないような気持ちになったのです。生産性という尺度にこんなにも自分が縛られていたんだ、と気づいて愕然としました。病気や障害で人の手助けや支えを必要としている人たちに対して、「doing(何かをする、できる)ではなくて、being(いること、存在すること)に意味があるんだ」と伝えたい、伝えてきたつもりだったのに、自分がそれを信じていなかったのか、とも思って気持ちが塞いだものです。

ですが生産性という尺度に意識的にも無意識的にも縛られている可能性がある自分を認めつつ、結婚をして生活をする単位が一人から二人になって1年たった今思うことは、一人で出来ないことは二人で出来たらいい。二人で出来ないことは、みんなで出来たらいい。それぞれが、できることをできる形でして、最終的に全体で調和がとれたらそれでいいじゃない。そういうことです。もし自立が、就労を含めて自分で自分のことを何でもできるというところを目指すのであれば、人は人を必要としなくなりますよね。そんな社会を誰が望むのでしょうか。

ただ生産性という尺度に縛られるのは、やっぱりその背景には「人の役にたちたい」という思い、願いがあるのだと思うのです。その思いや願いは大切にしたい、そう思っています。「人の役にたちたい」という思い、願いが生産性ではなく、人と人とのつながりや調和を指向したとき、今の社会はずいぶんと変わっていくのではないか、そんな希望を持っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健康私観

2006-04-21 23:50:50 | 生活デ哲学スル
突然、デジカメが壊れました・・・
白花豆のパンを焼いたのでアップしようと思ったら、写真を撮ることができませんでした。
うーん、ものって壊れるんですねぇ。

話は変わって、今日一日考えていたこと。それは・・・

健康とはなにか?

看護学生の課題みたいですね。学生の頃は「もう、そんなの人によって違うんだから、一致させなくったっていいじゃん」なんて思っていたものですが、いざ自分が「健康づくり」を担う立場にたってみると、何はさておき「そこ」を協動して働くスタッフと共有しなければ、目指すべきところが定まらないことに気付かされます。何を目指すか、というところを一致させること。それはすなわち、チームの理念にメンバー(スタッフ)ひとりひとりがコミットできるということですよね。

そこで健康とはなにか?少しばかり考えてみました。私が思う健康は、「調和のとれた状態」です。それは心身の調和だけではなく、周囲や社会との調和というのも含まれると思うのです。つまり健康ってね、あるべき理想の状態でもなければ、自分だけのものでもないんです。

というようなことをもっと色々と考えたのですが、タイムリミットが近づいてきたので今日はここまで。みなさんが思う「健康」とは何でしょうか??
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

看護師の方法

2006-04-19 23:52:08 | 生活デ哲学スル
先日ミーティングで、「狭義の精神療法」と「広義の精神療法」という話題が出ました。前者は行動療法、認知療法、カウンセリングなど枠組を設定し、体系的な技法に則って行う精神療法。一方後者は、出逢ったその瞬間から始まり、枠組みやある特定の技法は持たないけれども、自分の言動を治療的に使う関わりの全てを指します。この分類によれば、看護師の行う精神療法は「広義の精神療法」になるでしょう。なぜなら看護師の行う精神療法に原則はあっても、体系的な技法や決められた枠組みというものは無いからです。そこを看護の「ウィークポイント」であるとか、「根拠がない」などと批判されたりあるいは内省したりすることもあるでしょうが、逆に私はそれこそが看護の武器、強みになるのではないかと思っているのです。つまり枠組みや技法に縛られない、どんな場面、どんな手段も治療的意味のあるものに(瞬時に)することが出来る、そんな可能性に満ちているとも言えます。

例えば看護師は職業上、患者さんの身体に触れることを特権的に認められています。「しんどい」と言う患者さんの背をさすることも出来れば、ただ隣に腰掛けることも可能です。はたまた、しんどいという訴えそのものを聞くのではなく、「ちょっと血圧測ってみましょうか」と言って血圧を測ったりするなど、身体を診ることも出来ます。一方心理士さんやカウンセラーの方々は「しんどい」という訴えを中心に、どんなしんどさなのかを表現してもらったり、しんどさの原因を考えたり、しんどさをどうしていくかということを話し合ったりということを言葉だけでしていかなくてはなりません。しんどいと言われて、「うん、まぁちょっと血圧でも測りましょうか」なんていう逃げ道はどこにもなく、すべて言葉だけで勝負しなければならないっていうのは大変なような気がします。

もちろん背をさすったり、隣に腰掛けたり、血圧を測ることで問題が解決するわけではありません。言ってみれば、そうすることは一時問題を棚上げにしているに過ぎないこともあります。ですが、そんな「まぁそれはそれで置いておいて」ということーしんどさをやり過ごすことーも時には大切だと思うのです。差し出された手の暖かさにほっとしたり、誰かが側にいてくれることで安心したり、あるいはしんどいのは「血圧が低いから」と身体のせいにしてみたり・・・そんなことも必要なとき、というのがあるのではないでしょうか。ひとは、常に問題に直面していられるわけもないのです。そして、解決できる問題ばかりでもありません。

背をさする、隣に腰掛ける、血圧を測る、どれもこれも問題解決型の方法ではありません。では何なのか?私はそれらを、「しんどい人の傍らにいる方法」であると言いたい。看護師はその方法を無限に持っていて、どんな状況においても、あの手この手のあらゆる手段で、しんどい人の傍らにいようとする人たちなのです。

というわけで今日も私は、「家に帰りたい~!おなか痛い~!家に帰りたいんや~!」とべそをかき続ける人の横に座って、お腹をさすりさすりしていたのでした。そうするしかなかったんですけどね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謙虚さ(可能性への想像力)

2006-04-11 21:59:58 | 生活デ哲学スル
今日朝のミーティングで、医療スタッフが持つべき「謙虚さ」について議論されました。治療関係においてしばしば「医療者が、患者を治す」という図式に陥ってしまうことがありますが、そんなことは実際できません。私たち医療スタッフに出来ることは、患者さんが治る/回復していくための環境を整え、本来患者さん自身が持っている治る/回復する力を引き出すことだけです。そんな話をしながら、私は思わずうちのはつかだいこんに想いを馳せたのでした。(不謹慎!?)

それはさておき、この「謙虚さ」について私が常々感じていることがあります。

「私が患者を治す」などとおごらない「謙虚さ」と同時に、それとはもうひとつ別の意味合いの「謙虚さ」も医療スタッフには必要であると思います。それは患者さんである「あなた」が「私」であったかもしれないという「可能性への想像力」です。たまたま病気や障害はいま「あなた」のところへ来た、でもそれは「私」であったかもしれない可能性を想像できる力。そんな力を持っていれば、病気や障害が自分とは関係のないものになるわけもなく、自然と手をさしのべることができるでしょう。おそらく「私が患者を治す」などというおごりも、この「可能性への想像力」があれば生まれることはないのかもしれません。そして「可能性への想像力」は、病いや障害を持つ人と持たない人との共生の社会を築く力になるのだと思います。

時々職業を聞かれて「看護師です」と答えると、「看護婦さんて大変ですね。下の世話とか・・・」とおっしゃる方が少なくないのですが、その度に私は「可能性への想像力が貧困だ!」と憤ります。「人の下の世話をするのは大変」と簡単に言うのは、「自分が下の世話をされる可能性」について全く考慮していない、想像できないということだと思うのです。こういう人がいざ下の世話をされる側にまわると、それこそ大変です。「下の世話をしてもらうなんて、情けない、みじめだ・・・」「嫌なことをさせて申し訳ない、ごめんなさい」とおっしゃるでしょう。そうなるとケアする側もしんどいのです。

私はもし自分で排泄する力を失ってしまって誰かの手助けを必要とするときがきたら、手助けをしてくれる人に対して「ごめんなさい」ではなく、心から「ありがとう」と言える人になりたいと願います。それには、今から「可能性への想像力」を鍛えないといけません。(どんな決意だ・・・)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする