密かにはまっている「チャングムの誓い」。
でも今日は残念ながら放送がないようです。
ずいぶん前になりますが、医女を目指すチャングムはよくこう言っていましたね。
「人のするミスのうち、医者のするミスだけが、人の命を奪うことになるのです。」
チャングムの生きた時代はそうだったのでしょう。しかし現代においては、色々な職種の人が多くの人命を預かっていると言えます。例えば、旅客機のパイロット、電車の運転士など・・・何か重大なミスや事故が起こったとき、個人がとることができる以上の責任を負いながら仕事をしなければならない人が、世の中にたくさんいるということです。それは職業上の責任として引き受けなければならないことだと充分分かっていても、それがストレスにならないわけはない。私はそう思っています。
先日同僚の看護師が、「(今から病棟に戻って)抗がん剤つめたり、KCL触れる?・・・いやぁ、もう触りたない。」と言っていました。抗がん剤もKCLも、投与量、投与方法、投与速度いずれも少しでもミスをすれば、ただちに人命にかかわる薬剤です。つまり彼女は、「もうそういう責任を負いたくない。(自分のミスで人が死ぬかもしれないような場所にはいたくない。)」ということを言っているのですね。彼女は今でも救急の現場で勉強を続ける、熱心でプロ意識の高い看護師さん。それでも「もうそういう責任は負いたくない。」というのが本音である。そのことを考えると、医療の現場における個人の責任の拡大とそれに伴うストレスというのは重大な問題であると改めて思います。
病棟勤務をしていた頃の私について言えば、その重い責任に「身体が」耐えられませんでした。3交代勤務という不規則な生活にも原因はあったかもしれませんが、身体のあちこちが悲鳴をあげていたのは、主に責任の重さからくるストレスであったように思います。頭の中には、「看護師としてのキャリア」だとか「職業人としての自立」だとか様々な大義名分がひしめいていましたが、それを一掃するほどに「こんなことには耐えられない。」と身体が拒否をしていた。眠れなくなったり、蕁麻疹が出たり、胃が痛んだり・・・そんな身体からの警告を受けて、私はたった2年で病棟を去りました。その選択に関して、私自身は「間違っていなかった」と思っています。それは、私の身体の生存戦略であった、と。
ですが、どんな責任も引き受けたくないかというと、おそらくそういうわけではないんですよね。人によって引き受けられる責任の度合いというのは異なってくるでしょうし、「どういう環境で責任を引き受けるか」ということも重要だと思います。同じ抗がん剤を投与するにしても、信頼できる医師のもとで、よく知っているお隣のおばあちゃんに投与するのと、慌ただしい中ほとんど会話したこともない医師からの指示で、初めてであった患者さんに投与するのとでは、ずいぶん違います。このことが意味するのは、関係性ができている中での責任と、関係性が全くできていない中での責任では、引き受けるほうが感じる「重さ」が違うということです。
今でも私の身体は、関係性ができていない中での責任を「引き受けたくない」と拒むでしょう。おそらく私に課せられているのは、自分が責任を引き受けられる環境を作っていくことー共に働く人たちと信頼関係を築くことや、人と人とのつながりを基盤としたコミュニティを作る、あるいはそこに身をおくことーなのだと思います。きっとそこには、「管理」や「義務」から生じる責任よりも、「気遣い」を中心とした責任があるのではないでしょうか。そのような責任を、身体は拒むことがないだろうと思うのです。
でも今日は残念ながら放送がないようです。
ずいぶん前になりますが、医女を目指すチャングムはよくこう言っていましたね。
「人のするミスのうち、医者のするミスだけが、人の命を奪うことになるのです。」
チャングムの生きた時代はそうだったのでしょう。しかし現代においては、色々な職種の人が多くの人命を預かっていると言えます。例えば、旅客機のパイロット、電車の運転士など・・・何か重大なミスや事故が起こったとき、個人がとることができる以上の責任を負いながら仕事をしなければならない人が、世の中にたくさんいるということです。それは職業上の責任として引き受けなければならないことだと充分分かっていても、それがストレスにならないわけはない。私はそう思っています。
先日同僚の看護師が、「(今から病棟に戻って)抗がん剤つめたり、KCL触れる?・・・いやぁ、もう触りたない。」と言っていました。抗がん剤もKCLも、投与量、投与方法、投与速度いずれも少しでもミスをすれば、ただちに人命にかかわる薬剤です。つまり彼女は、「もうそういう責任を負いたくない。(自分のミスで人が死ぬかもしれないような場所にはいたくない。)」ということを言っているのですね。彼女は今でも救急の現場で勉強を続ける、熱心でプロ意識の高い看護師さん。それでも「もうそういう責任は負いたくない。」というのが本音である。そのことを考えると、医療の現場における個人の責任の拡大とそれに伴うストレスというのは重大な問題であると改めて思います。
病棟勤務をしていた頃の私について言えば、その重い責任に「身体が」耐えられませんでした。3交代勤務という不規則な生活にも原因はあったかもしれませんが、身体のあちこちが悲鳴をあげていたのは、主に責任の重さからくるストレスであったように思います。頭の中には、「看護師としてのキャリア」だとか「職業人としての自立」だとか様々な大義名分がひしめいていましたが、それを一掃するほどに「こんなことには耐えられない。」と身体が拒否をしていた。眠れなくなったり、蕁麻疹が出たり、胃が痛んだり・・・そんな身体からの警告を受けて、私はたった2年で病棟を去りました。その選択に関して、私自身は「間違っていなかった」と思っています。それは、私の身体の生存戦略であった、と。
ですが、どんな責任も引き受けたくないかというと、おそらくそういうわけではないんですよね。人によって引き受けられる責任の度合いというのは異なってくるでしょうし、「どういう環境で責任を引き受けるか」ということも重要だと思います。同じ抗がん剤を投与するにしても、信頼できる医師のもとで、よく知っているお隣のおばあちゃんに投与するのと、慌ただしい中ほとんど会話したこともない医師からの指示で、初めてであった患者さんに投与するのとでは、ずいぶん違います。このことが意味するのは、関係性ができている中での責任と、関係性が全くできていない中での責任では、引き受けるほうが感じる「重さ」が違うということです。
今でも私の身体は、関係性ができていない中での責任を「引き受けたくない」と拒むでしょう。おそらく私に課せられているのは、自分が責任を引き受けられる環境を作っていくことー共に働く人たちと信頼関係を築くことや、人と人とのつながりを基盤としたコミュニティを作る、あるいはそこに身をおくことーなのだと思います。きっとそこには、「管理」や「義務」から生じる責任よりも、「気遣い」を中心とした責任があるのではないでしょうか。そのような責任を、身体は拒むことがないだろうと思うのです。