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京都生活手帖

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永田野菜づくりに活路を見いだせるか

2006-04-03 19:01:08 | 生活デ哲学スル
先日、「京の食文化展(京都文化博物館)」へ行ってきました。絵画や文献、再現模型、民具、映像などを通して、京都の食文化の歴史を知ることができます。長い時間をかけて育まれてきた豊かな食文化。それを今も享受できる幸せを感じずにはいられません。というのも・・・

「supersize me(スーパーサイズミー)」という映画をご存知ですか?アメリカの映画監督が、30日間に渡って毎日マクドナルド製品を食べ続けるという実験をした、ドキュメンタリー映画です。一日三食全てマクドナルド製品を食べ続けた結果、被験者である映画監督の健康状態は危機に瀕しました。血中のコレステロールの値がぐんと上がることくらいは簡単に予想が出来ますが、─看護師の方々、驚かないでください─、肝機能を示すトランス(アミラーゼ)のデータが正常値から一気に100を超えてしまったのです。つまり、たった30日マクドナルド製品を食べ続けただけで、肝臓の組織がどんどんと壊されていってしまったことが分かります。もちろんそれだけではなく、7キロを越す体重増加や、胸痛、気分が落ち込むなどの精神症状まで出てきていました。
「恐ろしい」この一言に尽きますが、「もう私はマクドナルド製品を食べない」という結論に至るだけでは終わらない問題です。私が暗澹たる気持ちになるのは、現在の食産業が健康被害を生み出しているというだけでなく、「健康格差」を広げていく方向にあるというところにあります。
「マクドナルドを選ばなければいいんだ」「自己責任だ」というのは、あらゆる面で強者の論理です。高くても安全なものを選ぶことのできる経済的に豊かな人、健康に対する意識が高く健康によいものを判断できる教養のある人、食材を調理することのできる生活能力のある人。こういった人々は、マクドナルドの害から逃れることができます。ですが経済的に貧しい人、健康に対する意識の低い人(教養レベルと相関があると思います)、調理をするという能力が低い人、などは安くて便利なマクドナルドなどのファーストフードに頼って生活せざるを得ないのです。そういった人たちに安くて便利な食を提供できるという点においてはファーストフードが果たしてきた役割は大きいのですが、それによって健康被害を出すというのはもってのほかです。ですがこの先、ファーストフードは弱者の消費に支えられて経営されていくでしょうし、食の質を見直すことがなければ弱者の健康被害を拡大させていくことでしょう。

私は今職場で健康管理を任されていますが、若い人たちの中に「生活習慣病予備軍」の多いことといったら・・・ですが病気や障害で経済力も、調理の能力もない人たちに「高くても安全なものを」とも「自分で作れ」とも言えません。安く、健康によい食生活の実践のために、何ができるか考えているところです。その活路が「永田野菜づくり」にならないかなぁ、と私の妄想が膨らんでいます。
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えほん

2006-03-17 22:06:19 | 生活デ哲学スル
今日は、児童書専門店「きりん館」へ行ってきました。
かわいかったり、楽しかったりする絵本をあれもこれもと立ち読みしてニコニコでした。
なかでも佐々木マキさんの「ぶたのたね」は傑作だったなぁ・・・

ところで、認知症の高齢者を対象に読み聞かせをする絵本がテレビ番組で紹介されていました。対象となる高齢者の方が「大好きなもの」を思い出せるよう、「大好きなもの」をテーマに、隣に座って膝と膝を触れ合わせ読み聞かせをするのだと、紹介していた方は嬉しそうに話されていました。趣旨は理解できますし、その方の優しさは微笑ましかったのですが・・・なんとなく私は首をかしげてしまいました。それは、高齢者を子ども扱いしている!などという批判からではなくて、ただ今まで私が出逢った患者さんで、この絵本の適応になりそうな方が一人として思い浮かばなかったからです。絵本の読み聞かせをしている場面を想像したとき、物語に熱心に耳を傾けてくださる様子よりも、物語とは全然関係のない、自分のこだわっている事がらについて話されている様子が目に浮かびました。

私:『ソファーで、テレビを観ることが大好き。』
おばあさん:「それで、ご飯はいつ食べるの?」
私:『天気のいい日に、お散歩することが大好き。』
おばあさん:「ご飯がきたら、エプロンつけてね。」

ディスコミュニケーションが明白になって、余計に切なくなったりイライラしたりしてしまいそうです。やはり認知症の高齢者が子どもと違うところは、こちらの提示する物語の中に入ってきにくい、というところだと思います。好奇心旺盛な子どもは物語の中にすっと入ってきますが、高齢者は自分の世界を固持してそこにこだわることが多いようです。ですからこちらの物語が展開していっても、それを聞いている高齢者の方はそれまでと同じ自分の世界に居続けます。そうすると働きかけているこちらとしてはがっかりするわけです。

だけどおそらくその方がこだわって固持している世界にこそ、その方の「大好きなもの」があるはずです。大切なことは、双方の物語を共有することではなく、「大好きなもの」を含んだその世界と、私たちがいかに折り合いをつけて生活していくか、ということだと思います。
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村上春樹再考

2006-03-15 22:21:12 | 生活デ哲学スル
何を隠そう、村上春樹さんの大ファン。
つい最近刊行された「これだけは、村上さんに言っておこう」も、わくわくしながら手にとりました。けれども不思議・・・以前のようには心躍らないのです。何でだろう?思いを巡らせてみました。結婚をして、私は別のフェーズに入ったのでしょうか。

そんな折り、糸井重里さんが対談で「クールということを全部やめた、と思っている」とおっしゃっているのを聞いて、「あ、これだ」と腑に落ちました。私も様々なことを経て、クールであることから降りつつある自分を感じています。クールであり続ける、もしくはクールでありたいと願い続ける村上春樹さんとの間に段差が出来てしまったように感じるのはこのためなのかもしれません。

クールでいることの前提には、「自分で何でもできる、コントロールできる」と思っている、あるいはそう願っているということがあると思います。それは「自立」ということを考えるときに必要不可欠な要素なのですが、自分で何でもできなくなったり、コントロール不能になったりする可能性というのは、実は自分の身の回りにゴロゴロしていることに気づかされます。もしそういう状況になって人の手助けが必要になったとき、それを「しがらみ」と思うか「つながり」と思うかで世界の様相はだいぶ違うと思います。

私はクールにしがらみを回避していくことから降りて、つながりの中に飛び込みつつあるのかもしれません。
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希望を持つ

2006-03-14 22:49:23 | 生活デ哲学スル
「あの子は、損をしとるなぁ。」
患者さんが周りを困らせることを言ったり、したりするとき、私の同僚がよく口にする言葉です。患者さんの言動を批判したり、裁いたりするのではなく、「損をしている」と残念がる。私はその暖かな姿勢がとても好きで、その言葉を耳にするたび、そんな人と一緒に働けることが嬉しくて、「私は間違ったところにいないなぁ」と思います。大切にしていることは、きっと同じ。そう思えるのです。
しかしチームワークで働く以上、どれだけ多くのことを共有したり共感できても、微妙に見解や判断にずれが生じることがあります。そこを調整しながら働くことがチームワークの醍醐味なのですが、ずれている状態の渦中にあるときは正直なところしんどいですね。そんなときには、「大切にしているものは同じはずなのだから、悪いことになるはずがない」と希望を持つ。そんな希望が持てることが大事なのだなぁと思います。
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からだをきく

2006-03-13 21:34:44 | 生活デ哲学スル
「おなかが痛い」「息が苦しい」
なんでだろう?原因が知りたくて、からだの中身を調べてみるけれど、どこにもおかしなところはない。それでもおなかが痛いし、息は苦しい。そんな場合たいていは、「精神的なものでしょう」と言われます。苦しい原因が、からだの異常からくるものであれ、精神的なものからくるものであれ、本人が体験している苦しさに何の違いもないのですが、それでもやっぱり後者は軽視される傾向にあると言えます。職業上両者を平等に扱っているつもりでも、自分の中にもそういう傾向がある、とはっきりと自覚させられた苦い出来事がありました。

その人はよく日頃から「息が苦しい」と言っていました。話をする機会のあるときは、たいていいつでも「息が苦しい」という話をします。精神科の患者さんの中には、不安や不満、寂しさを言語化できずに不定愁訴のような形でからだの不調を訴える(身体化と言います)方も少なくなく、私はその人の訴え方から、息苦しさは機能的な問題ではないだろうと思いました。実際その人は内科で診てもらっており、重大な疾患を指摘されていたわけではなかったのです。
ところが後日、その人の身体の中に重大な異変が見つかったのでした。私はそれを聞いて、「ほんとうだったんだ。」とショックを受けている自分にさらにショックを受けました。息苦しさの原因が精神的なものではなく、からだの器質的な問題であったこと。つまり自分の見立てが間違っていた、それが一番はじめのショックです。そのあとのショックは、からだの器質的な問題を「ほんとう」だと思っている自分に気づかされたこと。精神的なものにしろ身体的なものにしろ、本人の苦しさにどちらが「ほんとう」も何もないと(自分は)思っていたのに、結局私も身体的なものを「ほんとう」だと思っているのだなぁというショックでした。
それから思ったことは、「私はその人の苦しさを聞けていただろうか」ということでした。「精神的なもの」と決めてしまって、自分のセンサーを下げてしまっていたのではないかと悔やまれるのです。「苦しさ」の表現は言葉だけではありません。表情、顔色、声、心臓の音、呼吸の音・・・そういったからだからのメッセージを、センサーを下げて遮断してしまっていたように思います。言葉から成る訴えを聞くだけでなく、「からだをきく」こと。それは「ほんとう」かどうかなど決めつけるよりもずっと前に、注意深くしなければならないことなのです。

どんな場合でも「からだをきく」ことのできる人になりたいと願ってやみません。
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