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京都生活手帖

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三位一体モデルを読んで毒づく

2006-12-01 13:11:58 | 生活デ哲学スル
ずいぶんと話題になっている、中沢新一先生の「三位一体モデル」を読みました。様々な事象が三位一体モデルという思考モデルに置き換えられ、「実践的に役に立つ」というふれこみで売られていますが、私が読んだ感想は・・・

「これってちっともnewなideaじゃないと思うんだけど・・」
というものでした。

そういって中沢新一先生を批判しているわけではないんです。先生の論理展開は(講義録をまとめたものなので、説明不足な点は否めないものの)「そうだよねぇ」と納得のいくものですし、共感もできます。高校時代中沢先生に心酔して某大学に進学したくらいですから、基本的には「好き」ですし、先生のものの考え方に親和性がある方だと思います。では何に対して腑に落ちない気持ちを抱いているのかというと・・・

「これを読んで、今更新しいと感じている人たち」
に対してです。

ここで「三位一体モデル」についてごく簡単に説明すると、三位一体モデルとは、人間社会(様々な現象を含めて)を「父=社会的な法」「子=幻想力」「聖霊=増殖力」の3つの原理で組み合わせて考える思考モデルです。このモデルに照らし合わせて現代資本主義経済を考えると、「父(倫理や社会的規範、企業理念など)不在のまま、子(ビジネスや情報に携わる人たち)の手によって、異常なまでに増殖し続けている聖霊(欲望や価値)」という図式が見えてきます。でもこれって、今更気づくことですか?どう考えても「もうこれ以上要らないよ」というものを生産し続け、消費者の欲望を煽ってコントロールし、消費を拡大させていく、そこに倫理や社会的規範や使命がないことくらい、分かりそうなものですが・・・ビジネスや情報、広告に携わる人たちが「なるほど!」と今更膝を打ち、「父親探し」をしていることに対して驚き、かつそのようなゆがみに加担している人たちがそのことに無自覚であった、ということに憤りすら感じるのです。そういう人たちで構成される社会だから、福祉も切り捨てられていくんだなと妙に納得してしまいました。でもよく考えてみてください。この人たちが大量に患い、死んで行く時代というのはもうすぐ「そこ」なんです。自分の意思やコントロールの外で患ってから、「自分には父がいない」なんて言われても正直なところ困りますよね。・・・こういう言い方がフェアではないのは百も承知ですが、先が思いやられるというのが本音です。中沢先生が青山という場所でこの講義をされたのは、価値増殖に関わる人たちに「早く気づいてほしい」という危機感からじゃないかなぁと思うのは私だけでしょうか。

と、いつになく(いつにも増して?)毒舌の、妊婦☆初々さんでした。胎教によろしくない???
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オウム真理教について考えた

2006-09-16 23:06:56 | 生活デ哲学スル
先日「クローズアップ現代」で、(今は名称が違うようですが)オウム真理教信者へのインタビューの様子が放映されていました。それをなんとはなしに観ていたら、「この人たちは、統合失調症的世界に住んではるんだなぁ」と妙に切なくなったのです。善も悪もごちゃ混ぜに存在している混沌としたこの世界、あらゆるメタファーに満ちた複雑なこの世界ではどうしようもない生きづらさを抱えてしまう人たち。私たちがこの世界を生き抜くために、いつのまにか身につけた「ずるさ」や「うそ」を使うことのできない純粋さと真面目さも、決して嘘をつくことのできない統合失調症の人たちに共通しているような気がしたものです。彼らには、世界は説明可能でなければなりませんし、コンパクトにきゅっとまとまった真理の世界がどうしても必要なのだと思います。それが、たまたま「オウム真理教」であった、ということなのでしょう。

だからといってオウム真理教が行った行為が正当化されるべきではありませんが、この世界にオウム真理教のかわりになるような受け皿はあるのでしょうか?そういった受け皿がないままにオウム真理教を排除してしまったら、彼らの居場所はどこに?統合失調症がいつの時代においても100人に1人発症する病気である、ということを考えると、この世界の理屈で生きづらい人たちというのは、いつの時代にも同じような割合で必ずいるはずなのです。そういった人たちの居場所を作るということは、おそらく「たまたまこの世界の理屈に適応できた」私たちの義務でもあると思います。と、いうような主張は、確か村上春樹氏も「約束された場所で」という著書で展開していたようにうっすら記憶しています。

そこで思い出されるのが、精神障害者の作業所「べてるの家」のケースワーカーさんの言葉です。
「私たちが普段の暮らしのなかで忘れてきた、見ないようにしてきた大事なものを、精神障害という病気を通して、教えてくれている人たちなんだね。あの人たちは嘘を言ったりとか無理をしたりとか、人と競ったりとか、自分以外のものになろうとしたときに、病気というスイッチがちゃんとはいる人たちだよね。私たちの隣に、そういう、脆さを持った人たちが居てくれることの大切さを考えたときに、とっても大事な存在だよね。社会にとっても大事なことだよね。」

もちろんオウム真理教信者と精神障害の人たちを一緒くたにするわけではありません。でもこのケースワーカーさんが精神障害者の人たちを「私たちが忘れてきた、見ないようにしてきた大事なものを教えてくれる人たち」と言っていますが、同様に私たちはオウム真理教信者の方たちの中に、見たくないもの、目を背けたいもの、それでも大切な何か、というものを感じているような気がするのです。そういう意味においても、彼らは排除される対象ではなく、「隣にいる人たち」として共に社会で暮らしていかなければならないような気がしています。そう、理解しあうことは難しいかもしれない。それでも隣にいることは出来るはずで、こらからの社会にはそういった成熟さが求められるのです。

そして最後に話は少しそれますが・・・
精神障害者の方たちと接していると、本当にその純粋さや真面目さに心うたれるものです。ただその純粋さや真面目さが、どうしようもなく被害的な感情に転じていく、そしてそれが攻撃性として表れる・・・ということもあります。オウム真理教の信者の人たちの純粋さや真面目さが、殺戮という攻撃性に転じてしまった、それを違う形で出すような力が働かなかった、ということが残念でなりません。
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最悪の選択肢を選択する権利について

2006-09-10 21:08:21 | 生活デ哲学スル
今週また健康講座があるので、今日は資料づくりや準備をしていました。今回のテーマは「採血データのみかた」。より専門的な内容になってきています。こういった内容を分かりやすく、平易な言葉で説明するのは案外と難しく、頭の中で説明方法を様々にシュミレーション。そうするうちに、自分でも分かっているようで分かってなかったこともたくさん出てきて、慌てて資料をあたったりして・・・「人に説明をする」という作業は、「自分の理解を確認する」という作業でもあるわけですね。

少し話は変わりますが、採血ひとつとっても、地域医療の現場では医療者がリードすることは出来ません。入院患者さんであれば、医師の指示でいつでも採血することができますが、地域医療では患者さんが種々の事情で検査を拒むことがよくあります。それは経済的な事情であったり、個人的なこだわりであったり・・・いずれにしてもよっぽどのことがない限り、検査を強要することは出来ません。もちろん入院患者さんだって同じことが言えますが、入院という形によって治療行為の主導権はどうしても医療者側がもつことになるので、治療に必要なことをすすめやすい環境にあります。

緊急性のない採血であれば、患者さんが「したくない」と言えばそれ以上すすめる必要もありません。ですが、どうみても身体合併症がみられる患者さんが他科受診(ほかの専門病院を受診すること)を拒否された場合、やはり医療者として困ってしまいます。受診を拒否する理由が、「一人で受診ができない」という患者さんの場合は、同伴受診(看護師が一緒に受診をする)をすることもあります。そうではなく「とにかく嫌だ」という患者さんの場合、受診の必要性を根気強く説明し、何故受診が嫌なのかを丁寧に聞いてあげることから始まります。理由は本当に様々で、「病気が見つかるのが怖い」「病院が遠いから嫌だ」「あの医者は嫌だ」など・・・またこうして言葉に出来る方はいいのですが、認知的に障害があり言語化できない方の場合には、もっと多くの時間がかかります。バーバル、ノンバーバルコミュニケーションを駆使して、「まぁこの人がこんなに言うんだから、受診してもいいかな」「この人がついていれば、大丈夫かな」と思ってもらえるまでねばるよりほかありません。なかなか時間はかかるし、結果も得られないことがしばしばですが、でもこういうところに精神科看護の醍醐味があるように思います。

それと同時に、ーつまりねばり強く関わりつつもー患者さんは「最悪の選択肢を選択する権利がある」ということを覚悟しておかなければならないと思っています。医療者として最善を尽くしながら、それでも患者さんがその最善を選択しないこともあり、それは患者さんの権利(あるいは自由)なのだということ。もしそのことを覚悟していないと、よかれと思ってしていることが結果に結びつかない場合、医療者が一方的に落胆して終わってしまい、関係が断絶してしまうことがあります。患者さんがどんな選択をしても、見守る。その選択の中からまた最善を探す。そういう関係を続けていかなければならないような気がしています。

大好きな先輩ナースに、ぽそっと言われた一言を今思い出します。
「患者さんを、信用しないと。」
つまり、そういうことなんです。
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介護と構造的不幸

2006-07-23 21:23:12 | 生活デ哲学スル
よしもとばななさんのエッセイを読んでいたら・・・
「妊娠と介護と死は誰にでもやってくるものだと思っていたほうがいい。」
というようなことが書かれていました。この文章だけを読むと、「妊娠しない(できない)女性もいる」等の反論(批判)がやってきそうですが、そのような意味ではなく、「人の誕生、老いて病むこと、死ぬこと」は人間の営みとして自然なのだという心構えでいたほうがよい、という意味に私は解釈をしました。その上で「そうだよなぁ」と思ったのですが、それは今自分が直面している「妊娠」に関してではなく、「介護」に関してでした。

私は「介護というものが、嫌なものとして面前にせまらない私の人生は得だよなぁ」とことあるごとによく思います。もちろん、親が老いて病むこと、その事実自体は悲しいし、残念に思うでしょう。でも介護が「自分の人生を妨害する、避けて通りたい嫌なもの」というふうには思いません。介護をする/されることは誰にでもおこる可能性のあることですから、それを嫌なものとして認識していれば、それ(介護)が実際に自分のところへやってくれば不幸ですよね。でもそれを嫌なものとして認識していなければ、不幸にはなりません。またしても構造的幸福とはこのことです。逆に誰にでも起こりえることを不幸なことだと認識することは、構造的不幸とも言えると思います。だけれども世の中を眺めていると、構造的不幸な人があまりにもたくさんいる気がしてなりません。

私はそれを批判するつもりはありません。ただ、社会全体が構造的不幸に陥ることによって、多くの人が不利益を被っているのは事実です。介護を「自分の人生を妨害する、避けて通りたい嫌なもの」という認識から、「誰にでもおこりえること」という認識へ。皆がそこを共有できれば、介護制度やシステムが今よりもよりよい方向へずいぶん変わってくるのではないかと思います。
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しつこいけれど、昨日の続き

2006-07-09 19:12:08 | 生活デ哲学スル
ここのところ体調不良のため、活動性が思いきり低下しています。
そのため生活にまつわるあれこれについて更新ができないので、考えごとをつぶやかせてもらうことが多くなるかもしれません。
どうぞご了承ください。

そして昨日の話のつづき。
(しつこい???)

昨日は、責任という面から抗がん剤やKCLを扱うことの意味について論じましたが、今日は違う角度からお話したいと思います。

みなさんはどれだけご存知か分からないのですが、抗がん剤というのは薬でもあるのですが、がん以外の細胞も破壊してしまう力のある「毒」でもあります。実際看護師が抗がん剤を扱う場合、薬が飛び散って皮膚についたり眼にうっかり入らないよう、顔の前には大きなゴーグルをして、白衣の上から保護服をかぶり、さらに手には手袋をはめるという完全防備体制をとります。それだけ、身体への侵襲が大きい、言ってみれば危険なお薬なんですね。そんな薬を扱うことの責任の重さについて昨日はお話しましたが、おそらく身体がそれを拒否するのは責任という面からだけではなく、それが自分の身体にとって「危険である」からとも考えられるのではないかとふと思いました。もちろんそれを取り扱っている、まさにその瞬間に身体が反応するわけではありません。むしろ、その薬を安全に投与することに全神経が集中しています。つまりそうやって(自分にとって)危険なものに対する身体感受性を下げることで、業務を遂行することができていると言えます。

そのことを、いい、とか、悪い、とか論じるつもりはありません。そういったお薬を必要とする患者さんがおり、それを取り扱う職業の人がいなければならないというのが現実。それを取り扱わなければならない人にとって、より安全な環境が作られていくことを願ってやみません。
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