失われた金曜日とメタモルフォーゼ 1
触覚である。
頭から緑色、讃岐うどん程の細さの触覚がピョコンと生えていたのだ。目の前が真っ暗になった。私はハブラシをこれでもかと言うほど喉の奥まで入れてしまい、触覚の驚きも相まって、軽く嘔吐した。
私はもう一度自分の頭から生えた触覚を確認する。酸の臭いが洗面台から仄かに立ち上り、それは鼻の中を荒らし回る。再びやって来た気持ちの悪さ。私は蛇口をこれでもかというほど捻った。
一度洗面台から離れて、紺色のカウチに深く腰を埋めた。ロダンの『考える人』さながらの格好で、顎に手を当てて、もう片方の手で恐る恐る自分の額――触覚を触って見る。水ぶくれにでも触るみたいに、突っついては手を離すを繰り返す。
感覚は……微かにある。まるで耳たぶを触られたような心地だ。いつまでも弄っていると、思わず肩を回してしまう。触覚の天辺には小さな膨らみが出来ており、それを人差し指と親指で強く握ると、ぺちゃんこになったが直ぐに元に戻った。
私は自分の体に他の変化がないか調べるため、一度全裸になった。三十間近になって大分腹が出てきた。そろそろジムにでも通うかと考えていた矢先、触覚。
幸い、身体に変化はなかった。親指の爪が少し割れていたのが気になったが、それは言うまい。今はこのおどろくべき触覚について考えるべきだ。
こう言う時頼りになる人を私は知っている。私はマンションの自室から出ると、隣の部屋に住む五代(ごだい)と言う男を尋ねた。五代はミュージシャンである。と言っても、ミリオンをばんばん輩出するような有名なアーティストではない。彼は小さなライブハウスで細々とバンド活動をしている。
以前、漏れ聞こえるギターの音がうるさいと私が文句を言うと、それ以来一度も彼の部屋からギターが聞こえた事がなくなり、私は彼の心を傷つけてしまったのかと心配になった。後に彼の部屋を訪ねたところ、完全防音にリフォームしていた事が発覚した。私は彼の行動力に脱帽し、それ以来、五代と親しくしている。彼は非常に実直で真面目な青年なのだ。
呼び鈴を鳴らすと、五代は直ぐに部屋から出て来た。皮のジャンパーを身にまとっていて、右太ももに弧を描くようにチェーンがぶら下がっている。触覚を見せびらかして部屋から出るのは流石に躊躇われたため、私は鼠色のハンチングを被っていた。
「どうしたんですか樹流(きりゅう)さん。こんな朝早くに」
「五代君。君に折り入って相談したい事があるんだが、これから何か予定があるのかい? お洒落しているようだけど」
「ええ。ファンの子と待ち合わせしてるんですけど、……樹流さん何か顔色悪いですよ?」
しまった。五代は予定が入っていた。
考えてみれば、例え五代に相談したとしても、この触覚を治してくれる事はまずないだろう。彼は魔法使いではないのだ。以前冷蔵庫が壊れた時は一瞬で直してくれたが、それとこれとは話が全く違う。私は何を考えて彼を当てにしたのだろう。
そうだ。私はただ、この状態を誰かに吐露しなければ、頭がおかしくなりそうだったから、彼を頼ったのだ。
「……デートの件は忘れてください。ほったらかしますから」
「でも、いいのかい? 貴重なお客さんだろ?」
「大丈夫ですよ。そう言うのが好きな娘なんで」
私のただならぬ雰囲気――と言っても、原因が突然生えた触覚とはなんとも馬鹿らしいが――を感じ取ったのか、かれはそう言ってくれた。助かった。こんな訳のわからない状態では仕事に行く事もままならない。この状態を長引かせたくは無い。
五代は自らの部屋に私を招き入れた。チェッカー模様のドアマットが敷かれた玄関を通り抜け、居間のガラス戸を押し開ける。居間には、この時期には少し早いコタツが出ていた。
部屋の隅にギタースタンドに鎮座するESPのエレキギターを発見した。黒のボディーに白銀のペグ、黄土色の弦がしっかり張られている。何度かこの部屋を訪れた事があったが、大分姿を変えていた。
私の視線がESPに向いている事に気付き、五代は「ギターに興味をお持ちなんですか?」と、まるでショップの店員のように尋ねた。私はハンチングのツバを人差し指で撫でると、今はそれどころじゃないと思いなおし、「特に無いよ」と返した。
五代は小さな台所からマグカップを二個取り出した。それに市販の紅茶を入れて持って来る。甘ったるいミルクティーだった。完全に私の好みである。
「それで、相談と言うのは何ですか?」
頭頂部から緑色の触覚のような物が生えて来ている。考えれば考えるほどに恥ずかしい相談だ。良い年をした大人が、年下の青年に「触覚が生えて困ってる」なんて、大真面目な顔で言わねばならないのだ。私はハンチングを外して、とりあえず『これ』を見せる事にした。
五代は、私の頭上に垂れ下がる緑色の触覚を一瞥する。そして、真剣な眼差しで私の眼を見返して来る。私がその視線に答えるように頷くと、五代はもう一度触覚に視線を移した。
「……訳が分からない」
五代はそう言うと、コタツの卓上に肘をつき頭を抱えた。全く同じ感想を抱いた身としては、彼の反応は正常以外の何物でもなかった。
私は朝からの行動を事細かに説明した。朝起きたら突然触覚が生えていたこと、ハブラシを喉に突っ込んで嘔吐したことは恥ずかしかったが、それも隠さなかった。全てを聴き終えてから、五代は言った。
「触覚、ちょっと触らせてもらえますか?」
私は二つ返事で返した。五代は私の少し薄くなった髪の毛を掻き分け、触覚と頭皮の接続部分を覗く。これは陰部を見られるのと同じくらい恥ずかしかったが、今はメンツを守っている事態じゃない。もしメンツがそれほど大事なら、そもそもこの触覚を誰かに相談しようとは思わなかっただろう。
「……完全に生えてますね。とって付けたような感じはありません。生え際はかさぶたみたいに少し腫れています。――アクセサリーとかじゃなくて、身体の一部、ですね」
五代はまだ信じられないようだった。
「僅かだが、感覚もあるんだ」
「感覚がある、と言う事は、少なからず神経は通っているようですね。……もしかしたら、動くかもしれません。頭に力を入れて見てくれますか?」
「待ちたまえよ。この触覚が自在に動かせたとして、なんのメリットがあるんだ?」
「いえ、特には無いと思います。しかし、今は少しでもこの触覚の情報が欲しい。試しに動かしてみましょうよ」
そう言われると断りきれない。私はその場に正座すると、「うー」と低く唸った。
頭で何かが動いたような気配がする。まさか本当に。
五代は呆然とした表情で私の頭上を見上げていた。
「何か起こったのかい?」
「えっと……とても言いにくいんですけど、少し大きくなった気がします」
「……え?」
私は自分の頭を擦った。先ほどまでは小指ほどの太さしかなかったそれは、薬指ほどの、よりはっきりとした触覚になっていた。私は五代に詰め寄った。
「どうしてくれるんだ! また一歩人間から遠ざかったじゃないか!」
「そ、そんな事言っても……。あ、元に戻りましたよ」
五代は私の頭を指差した。
……本当だ。戻っている。
五代はさらさらとメモを取った。そのメモには『力を入れる→触覚が成長』と書かれている。横には私の触覚のデッサンまで取られていた。
「じゃあ次は軽く引っ張って見ましょうか」
「引っ張るって、この触覚をかい? さっきから君は随分アクティブだ。他人事だと思って半ば楽しんでやいないか?」
「そんな事はありませんよ」
五代は私の頭に生えている触覚を鷲掴みにした。そのまま触覚を引っ張る。すると、五代は目を細めた。それは微笑みではなく、困惑だった。
「伸びました」
「……伸びた!?」
五代は私の触覚を持って二メートルほど離れた。まるで噛み終えたチューイングガムのように私の触覚はグニャーンと緑の直線の軌跡を作った。五代が手を離すと、触覚は石弓にでも弾かれたみたいに、私の頭に戻ってきた。
その勢いたるや矢の如く。私は頭を弾かれ尻餅をついた。
「だ、大丈夫ですか樹流さん?」
「大丈夫な訳がないだろ五代君。ピンと張りつめた状態の物を離したらどうなるのか想像できなかったのか?」
「それがゴムの類ならば難く無いのですが、触覚となると……流石に予想できませんでした」
五代は謝るが、その視線は真っ直ぐ触覚に向いていた。私はこんな事で怒る事が馬鹿らしくなり、嘆息するとその場に座りなおした。ミルクティーを一気に飲んでやる。考えてみると朝ご飯を食べていなかった。
「樹流さん。すごい短絡的な考えだとは思うのですが……」
「ん? なんだい、もったいぶらず言ってくれ」
「その触覚、切ってみてはいかがですか?」
五代の手には台所用の大きな鋏が握られていた。意図的に私を怖がらせようとしているのか、彼はその鋏をパチンパチンと開けたり閉めたりする。
「じょ、冗談じゃない!」
「でも、これ以外に方法は無いと思うんです。感覚はあれども、痛覚はないようなので、きっと痛くないと思いますよ」
「引っ張れば伸びて、力むと成長する。じゃあ切って『分裂』したらどうしてくれるんだ。なんとありなんな話じゃないか」
「でも、このままじゃ二進も三進も行きませんよ。ここは勇気を出して切るべきです」
「どうして君はそう無鉄砲なんだ。……いいさ、好きにすると良いよ。私はもう知らん」
五代は私の触覚を汚い物でも触るように摘まんだ。
鋏を根元にあてがって「行きますよ」と呟く。固唾を飲む中、彼の持つ鋏がとうとう口を閉じた。
その日は会社を休み、私は早くに寝た。まだかさぶたのようになっているが、触覚の姿は無い。触覚は思った以上簡単に切れた。五代はピクピクと動く触覚を台所のガスコンロで焼却し、今日の――金曜日の忌まわしき記憶を私は封印した。
そうだ。今日と言う日はなかったんだ。
私はそうして『失われた金曜日』を終わらせた。
次の日、私は恐る恐る鏡を見た。
「よ、良かった……生えてない」
こんなおかしな事で歓喜する私はどうかしていると思う。今日は土曜日だ。こんな素晴らしい朝は珍しい。その時、呼び鈴が鳴った。五代だ。
私が軽快にドアを開けると、彼の表情は陰々滅滅とした物だった。頭には、ドクロのバンダナが巻かれている。
嫌な予感しかしなかった。
「五代君……それは……」
五代はバンダナを取った。
「伝染(うつ)りました……」
文化祭号に載せようかなーって思ってたショートショート
触覚である。
頭から緑色、讃岐うどん程の細さの触覚がピョコンと生えていたのだ。目の前が真っ暗になった。私はハブラシをこれでもかと言うほど喉の奥まで入れてしまい、触覚の驚きも相まって、軽く嘔吐した。
私はもう一度自分の頭から生えた触覚を確認する。酸の臭いが洗面台から仄かに立ち上り、それは鼻の中を荒らし回る。再びやって来た気持ちの悪さ。私は蛇口をこれでもかというほど捻った。
一度洗面台から離れて、紺色のカウチに深く腰を埋めた。ロダンの『考える人』さながらの格好で、顎に手を当てて、もう片方の手で恐る恐る自分の額――触覚を触って見る。水ぶくれにでも触るみたいに、突っついては手を離すを繰り返す。
感覚は……微かにある。まるで耳たぶを触られたような心地だ。いつまでも弄っていると、思わず肩を回してしまう。触覚の天辺には小さな膨らみが出来ており、それを人差し指と親指で強く握ると、ぺちゃんこになったが直ぐに元に戻った。
私は自分の体に他の変化がないか調べるため、一度全裸になった。三十間近になって大分腹が出てきた。そろそろジムにでも通うかと考えていた矢先、触覚。
幸い、身体に変化はなかった。親指の爪が少し割れていたのが気になったが、それは言うまい。今はこのおどろくべき触覚について考えるべきだ。
こう言う時頼りになる人を私は知っている。私はマンションの自室から出ると、隣の部屋に住む五代(ごだい)と言う男を尋ねた。五代はミュージシャンである。と言っても、ミリオンをばんばん輩出するような有名なアーティストではない。彼は小さなライブハウスで細々とバンド活動をしている。
以前、漏れ聞こえるギターの音がうるさいと私が文句を言うと、それ以来一度も彼の部屋からギターが聞こえた事がなくなり、私は彼の心を傷つけてしまったのかと心配になった。後に彼の部屋を訪ねたところ、完全防音にリフォームしていた事が発覚した。私は彼の行動力に脱帽し、それ以来、五代と親しくしている。彼は非常に実直で真面目な青年なのだ。
呼び鈴を鳴らすと、五代は直ぐに部屋から出て来た。皮のジャンパーを身にまとっていて、右太ももに弧を描くようにチェーンがぶら下がっている。触覚を見せびらかして部屋から出るのは流石に躊躇われたため、私は鼠色のハンチングを被っていた。
「どうしたんですか樹流(きりゅう)さん。こんな朝早くに」
「五代君。君に折り入って相談したい事があるんだが、これから何か予定があるのかい? お洒落しているようだけど」
「ええ。ファンの子と待ち合わせしてるんですけど、……樹流さん何か顔色悪いですよ?」
しまった。五代は予定が入っていた。
考えてみれば、例え五代に相談したとしても、この触覚を治してくれる事はまずないだろう。彼は魔法使いではないのだ。以前冷蔵庫が壊れた時は一瞬で直してくれたが、それとこれとは話が全く違う。私は何を考えて彼を当てにしたのだろう。
そうだ。私はただ、この状態を誰かに吐露しなければ、頭がおかしくなりそうだったから、彼を頼ったのだ。
「……デートの件は忘れてください。ほったらかしますから」
「でも、いいのかい? 貴重なお客さんだろ?」
「大丈夫ですよ。そう言うのが好きな娘なんで」
私のただならぬ雰囲気――と言っても、原因が突然生えた触覚とはなんとも馬鹿らしいが――を感じ取ったのか、かれはそう言ってくれた。助かった。こんな訳のわからない状態では仕事に行く事もままならない。この状態を長引かせたくは無い。
五代は自らの部屋に私を招き入れた。チェッカー模様のドアマットが敷かれた玄関を通り抜け、居間のガラス戸を押し開ける。居間には、この時期には少し早いコタツが出ていた。
部屋の隅にギタースタンドに鎮座するESPのエレキギターを発見した。黒のボディーに白銀のペグ、黄土色の弦がしっかり張られている。何度かこの部屋を訪れた事があったが、大分姿を変えていた。
私の視線がESPに向いている事に気付き、五代は「ギターに興味をお持ちなんですか?」と、まるでショップの店員のように尋ねた。私はハンチングのツバを人差し指で撫でると、今はそれどころじゃないと思いなおし、「特に無いよ」と返した。
五代は小さな台所からマグカップを二個取り出した。それに市販の紅茶を入れて持って来る。甘ったるいミルクティーだった。完全に私の好みである。
「それで、相談と言うのは何ですか?」
頭頂部から緑色の触覚のような物が生えて来ている。考えれば考えるほどに恥ずかしい相談だ。良い年をした大人が、年下の青年に「触覚が生えて困ってる」なんて、大真面目な顔で言わねばならないのだ。私はハンチングを外して、とりあえず『これ』を見せる事にした。
五代は、私の頭上に垂れ下がる緑色の触覚を一瞥する。そして、真剣な眼差しで私の眼を見返して来る。私がその視線に答えるように頷くと、五代はもう一度触覚に視線を移した。
「……訳が分からない」
五代はそう言うと、コタツの卓上に肘をつき頭を抱えた。全く同じ感想を抱いた身としては、彼の反応は正常以外の何物でもなかった。
私は朝からの行動を事細かに説明した。朝起きたら突然触覚が生えていたこと、ハブラシを喉に突っ込んで嘔吐したことは恥ずかしかったが、それも隠さなかった。全てを聴き終えてから、五代は言った。
「触覚、ちょっと触らせてもらえますか?」
私は二つ返事で返した。五代は私の少し薄くなった髪の毛を掻き分け、触覚と頭皮の接続部分を覗く。これは陰部を見られるのと同じくらい恥ずかしかったが、今はメンツを守っている事態じゃない。もしメンツがそれほど大事なら、そもそもこの触覚を誰かに相談しようとは思わなかっただろう。
「……完全に生えてますね。とって付けたような感じはありません。生え際はかさぶたみたいに少し腫れています。――アクセサリーとかじゃなくて、身体の一部、ですね」
五代はまだ信じられないようだった。
「僅かだが、感覚もあるんだ」
「感覚がある、と言う事は、少なからず神経は通っているようですね。……もしかしたら、動くかもしれません。頭に力を入れて見てくれますか?」
「待ちたまえよ。この触覚が自在に動かせたとして、なんのメリットがあるんだ?」
「いえ、特には無いと思います。しかし、今は少しでもこの触覚の情報が欲しい。試しに動かしてみましょうよ」
そう言われると断りきれない。私はその場に正座すると、「うー」と低く唸った。
頭で何かが動いたような気配がする。まさか本当に。
五代は呆然とした表情で私の頭上を見上げていた。
「何か起こったのかい?」
「えっと……とても言いにくいんですけど、少し大きくなった気がします」
「……え?」
私は自分の頭を擦った。先ほどまでは小指ほどの太さしかなかったそれは、薬指ほどの、よりはっきりとした触覚になっていた。私は五代に詰め寄った。
「どうしてくれるんだ! また一歩人間から遠ざかったじゃないか!」
「そ、そんな事言っても……。あ、元に戻りましたよ」
五代は私の頭を指差した。
……本当だ。戻っている。
五代はさらさらとメモを取った。そのメモには『力を入れる→触覚が成長』と書かれている。横には私の触覚のデッサンまで取られていた。
「じゃあ次は軽く引っ張って見ましょうか」
「引っ張るって、この触覚をかい? さっきから君は随分アクティブだ。他人事だと思って半ば楽しんでやいないか?」
「そんな事はありませんよ」
五代は私の頭に生えている触覚を鷲掴みにした。そのまま触覚を引っ張る。すると、五代は目を細めた。それは微笑みではなく、困惑だった。
「伸びました」
「……伸びた!?」
五代は私の触覚を持って二メートルほど離れた。まるで噛み終えたチューイングガムのように私の触覚はグニャーンと緑の直線の軌跡を作った。五代が手を離すと、触覚は石弓にでも弾かれたみたいに、私の頭に戻ってきた。
その勢いたるや矢の如く。私は頭を弾かれ尻餅をついた。
「だ、大丈夫ですか樹流さん?」
「大丈夫な訳がないだろ五代君。ピンと張りつめた状態の物を離したらどうなるのか想像できなかったのか?」
「それがゴムの類ならば難く無いのですが、触覚となると……流石に予想できませんでした」
五代は謝るが、その視線は真っ直ぐ触覚に向いていた。私はこんな事で怒る事が馬鹿らしくなり、嘆息するとその場に座りなおした。ミルクティーを一気に飲んでやる。考えてみると朝ご飯を食べていなかった。
「樹流さん。すごい短絡的な考えだとは思うのですが……」
「ん? なんだい、もったいぶらず言ってくれ」
「その触覚、切ってみてはいかがですか?」
五代の手には台所用の大きな鋏が握られていた。意図的に私を怖がらせようとしているのか、彼はその鋏をパチンパチンと開けたり閉めたりする。
「じょ、冗談じゃない!」
「でも、これ以外に方法は無いと思うんです。感覚はあれども、痛覚はないようなので、きっと痛くないと思いますよ」
「引っ張れば伸びて、力むと成長する。じゃあ切って『分裂』したらどうしてくれるんだ。なんとありなんな話じゃないか」
「でも、このままじゃ二進も三進も行きませんよ。ここは勇気を出して切るべきです」
「どうして君はそう無鉄砲なんだ。……いいさ、好きにすると良いよ。私はもう知らん」
五代は私の触覚を汚い物でも触るように摘まんだ。
鋏を根元にあてがって「行きますよ」と呟く。固唾を飲む中、彼の持つ鋏がとうとう口を閉じた。
その日は会社を休み、私は早くに寝た。まだかさぶたのようになっているが、触覚の姿は無い。触覚は思った以上簡単に切れた。五代はピクピクと動く触覚を台所のガスコンロで焼却し、今日の――金曜日の忌まわしき記憶を私は封印した。
そうだ。今日と言う日はなかったんだ。
私はそうして『失われた金曜日』を終わらせた。
次の日、私は恐る恐る鏡を見た。
「よ、良かった……生えてない」
こんなおかしな事で歓喜する私はどうかしていると思う。今日は土曜日だ。こんな素晴らしい朝は珍しい。その時、呼び鈴が鳴った。五代だ。
私が軽快にドアを開けると、彼の表情は陰々滅滅とした物だった。頭には、ドクロのバンダナが巻かれている。
嫌な予感しかしなかった。
「五代君……それは……」
五代はバンダナを取った。
「伝染(うつ)りました……」
文化祭号に載せようかなーって思ってたショートショート