すすきのゼロ番地飲食店街

再発見!中央区南6条西4丁目に昭和レトロな雰囲気を漂わせる建物
1階が市場、その地下にすすきのゼロ番地飲食店街がある

すすきのぶらりみて歩き(6)

2013-08-04 | Weblog

 ※  すすきの交差点

ススキノといえば、すぐイメージするのが「ススキノ交差点」の光景だ。

札幌に電車が走った大正7年

(1918)年からススキノ交差点には路線が通り、豊平と山鼻方面の分岐点であった。

昭和30年代の市電の全盛期には、ススキノ十字街の空に張られたトロリー線は

まるで蜘蛛の巣のように混んでいた。朝夕は乗り換えの乗降客で活気があったが、

行き交う電車の隆盛も今は昔だ。

ススキノの顔「交差点」が大きく変わりはじめたのは昭和43年ころからである。

 

   かつてはススキノを代表する通りだった都通り

ススキノノの北東角。写真の左端に都通りがある。明治、大正、昭和初期はこの

一角に官氏や大商人相手の割烹料理店が多くあり、

その仲小路(都通り)は一等小路と呼ばれていた。

昭和35年にススキノを調査をし、詳細な手書き地図を残した更科源蔵氏は

この通りをこう書き記している。

「物静かで上品な通りである。得体の知れない風体の人間なんて見当たらない。

と私は見て通った。

めったにわれわれ庶民が気安く通れない、そんな気品がどことなくただよっている

ような通りである。

・・・・・・・とにかく都通りとあるようにここの町並みの構えも、歩いている人も

どことなく階級が上だという感じがする。ごみごみしていないで、

おおらかでどっしりした姿である」

この都通りを象徴していたのが花柳界に君臨し、

数々の政治ドラマの舞台となった「いく代」であった。

                                           都通り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ススキノノの北東角。写真の左端に都通りがある

  交差点の北東側、36号腺と都通り方向。

ススキノが歓楽街として大いなる変貌を遂げていた昭和35年当時のススキノは、

中心部を除けばまだ木造屋敷がひしめく懐かしの光景を醸し出していた。

景気の波も徐々に北の繁華街にも届き始め、飲食店ビルの高層化に

拍車がかかろうとしていた時期でもあった。

遊びの王道は芸者で、当時は数も300人を超え、33年に刊行された札幌芸者名鑑には

47軒もの割烹旅館並ぶほどの隆盛を極めた。

また、一方で新旧交代の足音がひたひたと忍び寄る時期でもあった。

振興勢力・キャバレーの台頭で社交の主役が料亭からキャバレーへと

移り変わりつつあった。

30年代には大企業の支店が札幌に進出してくるようになり、キャバレーやクラブが

接待や娯楽に使われ始めた。単身赴任のビジネスマンが「札幌チョンガー」、

つまり「サッチョン」と呼ばれるようになったのはこの頃からだ。

 

 

一等小路、二等小路、三等小路、小路にもランクがあった「あの頃」

※   業態の栄枯盛衰とともに、小路の勢いは移り変わっていった

大正時代は、南4条から南6条3,4丁目、今のススキノ市場の裏まで2丁四面にわたって

遊郭地帯で、一等から、三等までランクがつけられ、その等級に

よって小路が分かれていた。

場代金は、一等で5円、ニ等店で3円、三等店で1円50銭だったという。

十字街をはさんで北側の「都通り」は、その名残で一等小路と呼ばれていた。

大きな料亭や置屋、見番が並び、夕暮れともなると芸妓や上客の役人、商店の社長が

人力車で行き交うにぎやかな通りだったが、戦後は花街が次第に勢いを失い、

凋落していった。

昭和20年代の半ばに入って活気づいたのが二等小路と呼ばれ、勤め人相手の

飲食街になっていた。

「銀座街」(現ラフィラの南側小路)だ。人気のキャバレーが綺羅星のごとく並び、

通りを挟んでしのぎを削ったものだ。

今でこそ、にぎわいのある人気の通りになったが、最も遅くまで「三等小路」とか

「ションベン小路」という不名誉な蔑称で呼ばれていたのが南5,6条の間にある

「新宿通り」。

遊郭としてつくられたススキノの歴史から推すと、最もススキノたる場所だった

のかもしれない。

          新宿通り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿通り向3丁目

 

薄野じゃあなる・2013Vo1.1 創刊号より


  おかげさまで54年

古き良き時代の温もりが、ここにある。

「あの頃」が楽しめるすすきのゼロ番地

※ まるで時間が止まったかのような不思議な安堵感が漂う飲食店街

すすきのゼロ番地は2階以上が公団アパートという、いわゆるゲタばき住宅の地階にある。

1階は大正11年、市の第二公設市場としてできた「すすきの市場」。市場の建物の老朽化に伴つて、

昭和33年、市の第三セクター札幌振興公社と日本住宅公団がタイアップし、ビル化した。

地下には当初、洋品店や食堂など入店していたが、まだ地下商店になじみがなく不振が続き撤退が相次いだ。

困った公社がもちかけたのが、家業の海運業から撤退したばかりの北海道振興社長、久末鐡男(故人)

さんだった。久末さんは、東京・新宿あたりのガード下の姿を思い浮かべながら飲食店団地する案を出し、公団から一切の委託・管理をまかされた。地上が1番地だから、地下は0番地と命名し、東西1丁にわたる空間に、廊下を挟んで両側に3~4坪の間仕切りをして、35軒の店にした。各店に電話をひき、

給排水を良くしたのが人気を呼んで、保証金15万円、家賃日払いの条件でたちまち満杯になった。

その後、経営者たちで昭和46年に「札幌薄野ゼロ番地飲食店協同組合」を結成し、振興公社から買い受け、区分所有となった。