こうして札幌の開発は急速に進んでいきますが、岩村はさらに
事業を起こすんですね。
それは、土木作業者のために北海道で初めての官庁公認の遊郭を、
設けることでした。
男の数が多かったため、毎日のように暴力沙汰が起こり、
札幌の治安は手のつけられない状態になっていました。
やはり女性がいないと殺伐とするものなんですね。
岩村はこのような状態を見て、労働者に娯楽の場を与えることを
思いつきます。
岩村は開拓監事である薄井龍之を呼び、計画を話しました。
札幌に歓楽地をつくり、労働者をはじめ、人々が楽しめる
場所をつくろう、そして、
単身赴任の男たちにも安らぎを与えられるような町をつくろうと。
これをうけた薄井は、道庁からやや離れたところに、
200メートル四方で町割りをしました。
そこに歓楽地を作らせ、薄井の名を一字とって、「薄野遊郭」と
名づけました。
南北に走る駅前通りと東西に走る南5条通り(すすきのメイプル通り)の
交点を中心として四区画をその範囲としました。
薄井は東京から芸者数十名をススキノに呼び寄せます。それだけで、
男ばかりで殺風景だった
札幌の町並みが一気に華やかになりました。
==つづく==
薄野ゼロ番地=40年の足跡
ススキノでも珍しい管理組合が運営する「薄野ゼロ番地」は店主がゼロからの出発との事で名づけられたとされている。
31店舗のスナック・居酒屋・ショットバーなど店主1人で営む店舗が多く、40年以上営業している老舗と新しい店が混在する不思議な空間だ。
札幌市薄野ゼロ番地飲食業協同組合・理事長を務めるのは太田正師さん。
「昔は廊下に出ると人とぶつかりながら歩いていたけど、ここ数年ススキノで遊ぶ人少なくなってゼロ番地も客足が減りました。しかし昨年頃から5~7件の店舗が新規オープン、若い客が足を運んでくれるようになって、少しずつ客足が戻ってきたので嬉しいですね」。
建物の老朽化や構造上の問題で冷たい風が吹き抜けるため、寒さ対策として東側出入り口に自動ドアが'‘06年12月に設置され、トイレに行く時に酔いが醒めたり、店内なのに厚着をすることもなくなり快適な空間になった。
スナックで飲んでいてトイレに行く途中のバーに立ち寄り一杯だけ飲んだり、隣店に席がありながら小腹が空いたからと居酒屋でたべるなど、一つの建物内で雨風関係なく自由に行き来できるのが、すすきのゼロ番地の魅力なのかもしれない。
その魅力を自分なりに見つけてみるのも実に面白い。
1922年
札幌市2ヵ所目の公設市場として設置したのが前身
1958年
現在の建物が完成し地下と1階部分は、札幌振興公社が札幌市の要請により店舗として、2~5階部分は住宅として日本住宅整備公団が所有。
地下には雑貨店や歯科医院などが入居
1961年
土地が札幌市から札幌振興公社に売却
1971年~現在
地下部分を札幌市薄野ゼロ番地飲食業協同組合に売却し、飲食店街「すすきのゼロ番地」の名称になり、ここからがゼロ番地のはじまり。
その後何度も修繕、改築され32ある物件が全て埋まる時期も長く続き、現在でも
31店舗の飲食店が営業している。