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新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

世界をかき乱す狂人トランプ

2017-01-30 12:14:37 | 日記
僕は、基本的には、他国のリーダーに対して軽々しくモノを言うべきではないと思っている。
だから今までずっと沈黙してきた。

しかし、もう我慢の限界だ。

そう、アメリカの新大統領トランプ氏の事だ。

アメリカ国民が選んだ彼が、アメリカ国内で何をしようと知った事ではない。

だが、大国アメリカのリーダーたる立場で、公然と、他の国々に及ぶ特定の宗教や民族・国民に対して、批判的で差別的な言動を繰り返す態度はもう看過できない。

同じ地球人として、僕は、狂人トランプ氏にNO!と言いたい。

同時に、そんな狂人トランプ氏に対しても、尾っぽをふって従おうとする安倍政権にもNO!





◆新・からっぽ禅蔵◆

禅話98ー石霜の弟子ー

2017-01-24 17:09:05 | 日記
少し前から度々書いている通り、僕は最近、時間があれば水辺にいる。
今回は、東京湾を離れて、某県の富士山が見える某湖に出かけた。
写真はその時のヒトコマ。

「冬場に水辺は寒いじゃん」と思う人が少なくないだろうが、昔、四季を通して海に入ってサーフィンしていた僕にとっては、好きな場所に行くのに夏も冬も無い。

それはともかく、以下は本題。


◆雲蓋和尚〔源禅〕


○原文

師在石霜時、因一日作礼而問、「万戸倶開則不問、万戸倶閉時如何?」
霜云、「当中事作摩生?」
師曰、「無位。」
霜曰、「憑何?」
師当時無対。直得半年、方始云、「無人接得渠。」
(以下省略)


○試訳

師(雲蓋源禅)が石霜に在りしとき、一日(いちじつ)礼(らい)を作(な)して因(ちな)みに問う、「万戸(ばんこ=全ての家)が開を倶(とも)にするは則(すなわ)ち問わず。万戸が閉を倶するときは如何(いか)ん?」
霜(石霜)云(いわ)く、「当中の事は作摩生(そもさん=いかに)?」
師曰く、「無位(くらいなし)。」
霜曰く、「何に憑(よ)りてか?」
師、ときに当たりて無対(むたい=答えられず)。
直に半年を得て、方始(はじめて)云く、「渠(かれ=ここでの“かれ”は真の自己か?)を接得(せっとく=受け入れて もてなす)する人無し。」
(以下省略)


※尚、今回の雲蓋和尚の師である石霜慶諸は、「枯木禅」や、「遍界不曽蔵」で有名。また、我が曹洞宗の祖である洞山良价と同年の807年生まれだ。

ちなみに「枯木禅(こぼくぜん)」とは、「石霜慶諸は20年間坐禅に徹して、横になる事がなかった。その姿は、枯木の切り株のようであった」という伝説による。

一方「遍界不曽蔵(へんかいふぞうぞう)」とは、「あまねく世界は かつて蔵(かく)さず」つまり、世界は一度たりとも隠された事などない。全てはありのままに露呈している、という石霜の語。





◆新・からっぽ禅蔵◆

禅話97ー禅僧の気息ー

2017-01-18 12:21:28 | 日記
小田原市の職員が、生活保護支援の部所で、不適切な表現を記載したジャンパーを作成した問題。

その内容は、確かに不適切であり、見ていて不愉快である。

だが、それ以上に悪いのは、生活保護費を、実際に不正受給している輩どもである事はブレようのない事実である。

それからもう1つ。

視覚障害者さんによる駅ホームから線路への転落死亡事故が頻繁に起きている。

これについて、視覚障害者団体の代表者は、メディアのインタビューを受けて、「健常者による、視覚障害者への声かけをお願いしたい」と繰り返し述べている。

だが僕は、申し訳ないが、この代表者の言葉には首をかしげてしまう。

と言うのも、僕は、これまでに何度も、視覚障害者さんに声かけをしている。

駅周辺で、「何かお手伝いする事はありませんか?」と声をかけているのだ。

しかし、視覚障害者さんの答えは、いつも決まって「大丈夫です」の一言だけだ。

勿論、そうではない視覚障害者さんもいらっしゃるのだろうけど、少なくとも僕がこれまでに声かけしてきた視覚障害者さんたちは、全員が「大丈夫です。結構です」と言うだけだった。

だから最近はもう声かけをしていない。
いや、「大丈夫です」って言うんだから、声かけをしたら迷惑であろうと思うしかないのだ。

しかし、視覚障害者さんたちも よく考えてみてほしい。

他人から、「何かお手伝いする事はありませんか?」と声をかけられた時には、実際には大丈夫であっても、「大丈夫です」の一言だけではなくて、「ありがとう。でも大丈夫です」というように、「ありがとう」という感謝の言葉を添えるべきではないかな?

そうでなければ、今後さらに視覚障害者さんに声かけをする人は減っていくと思うのだが?

健常者であっても、障害者であっても、他人からの親切な言動には、感謝の言葉を添えるのが常識であるべきだと僕は思うのだが?

とはいえ、最近、視覚障害者さんの駅ホームの転落事故が続いている。
だから僕は再び、視覚障害者さんたちに声かけをするつもりではいるが。
そのとき、視覚障害者さん側の反応はどうであろうか……。

いずれにせよ、駅ホームからの転落事故で亡くなった方々の、ご冥福をお祈り申し上げる。

合掌


以下は本題。


◆南際和尚〔僧一〕


○原文

問、「如何是納僧気息?」
師曰、「還曽薫著你也無?」


○試訳

問う、「如何なるか是れ納僧(衲僧=袈裟を着た僧侶、特に禅僧)の気息?」
師曰く、「還(は)た、曽(かつ)て薫著(くんじゃく=薫を表)せしは你(なんじ)なからんや?」





◆新・からっぽ禅蔵◆

神と女神と天使たち

2017-01-13 14:42:18 | 日記
今から2年前に、僕は、0歳の赤ちゃんのご葬儀をお勤めさせて頂いた。
亡くなった赤ちゃんのご両親は、かなりイケメンのパパと、美しいママだった。

このご夫婦には、亡くなった赤ちゃん以外に、既に5人ものお子さんがいた。

お子さんたちは、全員がまだ幼い女の子たちだった。

美形のご両親から生まれた彼女たちは、そのご両親をも上回るほど超かわいい女の子たちだった。

将来、この子たちは、かなり高い確率で、アイドルや女優さんになるだろう、と僕は思っている。

その後、四十九日、新盆、1周忌、そして、つい先日、3回忌のご供養をお勤めさせて頂いた。

その度に、5人の少女たちは どんどん成長していて、どんどん美しくなっている。

彼女たちと、そのご両親の、今後ますますのご多幸を祈る。
そして、0歳で亡くなった赤ちゃんのご冥福を、強く祈る。

合掌


ところで、世間では、実の親が我が子を虐待して殺してしまうという事件が跡を絶たない。

たった1人の赤ちゃんでさえ、「泣き止まないから」などと言って殺してしまう鬼のような親が少なくない。

では、上に紹介したご家族はどうか?

5人もの子供たちを育てていて、子供たちに対して、怒鳴ったり叩いたりなんて全くしていない。
子供たちも、いつも明るくて のびのびと育っている。

この家族を見習ってほしいものだ。

そう、出来る事なら、この家族のイケメンパパと美しいママが、子育てに悩んでいる親たちへ向けて、講演会とかやったら良いのではなかろうか? と思ってしまう。

まあ、子育てで忙しくて、現実には講演会などやっているヒマはないだろうけど。

それにしても、鬼のような親たちが少なくない中で、あのご家族は、まるで、神と女神と5人の天使たちのようだ。





【写真:東京都内の某海辺の公園】
◆新・からっぽ禅蔵◆

禅話96ー如何なるか是れ氷中の水?ー

2017-01-06 20:41:19 | 日記
都内の某御寺院様に於いて、正月三が日の混雑時に、「ベビーカー自粛」の看板が立てられた。
これがネット上で論争になったそうだ。
なかには、単純に、「差別だ」などと思う人もいらっしゃったようで、まったく呆れてしまう。

差別というのは、例えば、「外国人の立ち入り禁止」とか、「車椅子利用者の立ち入り禁止」などを指す。
つまり、特定の “人” に対して差別する場合に、初めて「差別」と言える。

で、車椅子利用者にとっての車椅子は無くてはならない必需品であるのに対して、幼児を乗せるベビーカーは、必ずしも必需品ではなく、言わば、単なる便利グッズに過ぎない。
ましてや、ベビーカーそれ自体は人ではない。
従って、「ベビーカー自粛」は、「幼児の立ち入り禁止」には当たらないので、全く、差別か差別でないかの論争対象にさえならない。

いずれにせよ、混雑した場所でのベビーカーは、それに乗せる幼児にも、周囲の人達にも、危険だから自粛してほしい、という当たり前の話しであろう。

それに、「ベビーカー自粛」という看板など無くても、常識的な親なら、混雑している場所(大人でもよろける可能性がある電車やバス車内を除く)では、自主的にベビーカーの使用を控えるものだ。

さて、話しは変わるが、

上の写真は、東京都内の某河川が、海と交わる河口付近である。
僕は、少しばかりカモメたちに遊んでもらった。

そもそも、僕が住む東京は、江戸時代には水路が張り巡らされた水の都であったという。

それはともかく、

天と地と、海と川と、そして、様々な命の美しさに感謝、合掌

さて、以下は本題。


◆涌泉和尚〔景析〕


○原文

問、「如何是氷中水?」
師云、「凌霜結不成。」
「如何是水中氷?」
師云、「六月不曽融。」
僧曰、「与摩則千日銷不得也。」
師云、「ニ鼠往来不関他。」


○訳文

問う、「如何なるか是れ氷中の水?」
師云わく、「霜(しも)を凌(しの)ぎて結ぶこと成らず。」
「如何なるか是れ水中の氷?」
師云く、「六月には曽(すなわ)ち融(と)けず。」
僧曰く、「与摩(よも)に則(すなわ)ち千日銷(と)けなくば得せず。」
師云く、「ニ鼠(にーねずみ)往来せしも、他(かれ)関(かん)さず。」


※悟りの境地へ至るまでの「迷と悟」或いは「凡と聖」などの違いを、「水と氷」で例えた文章は、本文献(10世紀の中国で成立)にとどまらない。

この文献成立年から、はるか数百年後、江戸時代中期の臨済宗の僧、白隠慧鶴禅師による『坐禅和讚』(17~18世紀頃の日本で成立)も、「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにして……」で始まる。

これは もう、一般の参禅者さんであっても、臨済宗寺院で坐禅をした事がある人なら、誰もが知っているであろう。

知らないなら、是非とも『白隠禅師 坐禅和讚』をじっくりと読んで参究してみてはいかがだろうか。

ちなみに僕は曹洞宗の末席を汚す僧侶だが、同じ禅宗として、臨済宗から学ぶところも多い。





◆新・からっぽ禅蔵◆