釈迦牟尼仏
【師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。」(『ブッダのことば―スッタニパータ―』中村元訳)P17】
◆つまり釈尊は「執着を捨てろ」と示されている。悟りやら何やらを求める事に執着するべきではないと見ていい。
―[27代省略]―
菩提達磨(西天28祖、東土初祖)*西天とはインド、東土とは中国の事。
【心に、もし住(とどまる事、執着する事)が有れば即ち縄索(牛や馬が縄で引かれる様子)を免れず。心に所作の処有れば、即ち是れ繋縛(煩悩に束縛されて不自由な様子)なり。(達摩の『二入四行論』より)】
◆要するに“心”と認識した途端に、もうとどまっている。
「心がどうのこうの」というのは、既に不自由な“迷い”にとどまっている事に他ならないのだ。
「坐禅をして“心”が安らいだ」「坐禅をして“心”を高めよう」等々というのは、本来の坐禅とは全く違う事を、達磨が明言してくれている。
―[4代省略]―
大鑑慧能(東土6祖・六祖慧能)
【坐禅は元より心を看ミず、また浄を看ず、また不動を言わず。[中略]心を起こして浄を看れば、かえって“浄”という妄想を生ず。(『六祖壇経』より)】
◆慧能もこのようにハッキリと言っている。作為的にどうこうするのではない。あるがままに手をつけず、ほっとく事である。
また次のようにも言っている。
【一行三昧とは、一切の時中に於いて、行住坐臥(歩く、とどまる、座る、寝る)、常に直心を行ずる、是れなり。(『六祖壇経』より)】
◆つまり、坐禅だけでなく、日常の生活活動の全てに於いて、目的のための手段ではなく、今行なっている事に、全身全霊ぴったりと一致させておく事が肝心だと、慧能も言っているのである。
これは、現在の我が曹洞宗の教義とも一致している。
―[1代省略]―
石頭希遷
【諸聖(諸仏)の解脱(さとり)など求めない。(『景徳伝灯録』より)】
―[2代省略]―
洞山良价(曹洞宗の祖)
【仏向上(つまり仏のさとりに、とどまるべきではないと言っている)(『景徳伝灯録』より)】
そして、更に13代後に、我が永平道元禅師が出現する。
「眼横鼻直」この事実以外に「一毫も仏法なし」なのである。
尚、臨済宗さんの祖、臨済義玄禅師も次のように言っている。
「若モし人、仏を求むれば、是の人は仏を失す。若し人、道を求むれば、是の人は道を失す。若し人、祖を求むれば、是の人は祖を失す。」(『臨済録』入矢義高訳注、岩波文庫P138)
坐禅は、「仏やら、さとりやらを求めるものではない。」という事が、これでハッキリとご理解いただけた事だろう。
合掌
◆からっぽ禅蔵◆
禅 坐禅 仏教 宗教 元タイ上座仏教僧侶、現在日本の僧侶にして大学生の独り言
パンゲアの森
【師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。」(『ブッダのことば―スッタニパータ―』中村元訳)P17】
◆つまり釈尊は「執着を捨てろ」と示されている。悟りやら何やらを求める事に執着するべきではないと見ていい。
―[27代省略]―
菩提達磨(西天28祖、東土初祖)*西天とはインド、東土とは中国の事。
【心に、もし住(とどまる事、執着する事)が有れば即ち縄索(牛や馬が縄で引かれる様子)を免れず。心に所作の処有れば、即ち是れ繋縛(煩悩に束縛されて不自由な様子)なり。(達摩の『二入四行論』より)】
◆要するに“心”と認識した途端に、もうとどまっている。
「心がどうのこうの」というのは、既に不自由な“迷い”にとどまっている事に他ならないのだ。
「坐禅をして“心”が安らいだ」「坐禅をして“心”を高めよう」等々というのは、本来の坐禅とは全く違う事を、達磨が明言してくれている。
―[4代省略]―
大鑑慧能(東土6祖・六祖慧能)
【坐禅は元より心を看ミず、また浄を看ず、また不動を言わず。[中略]心を起こして浄を看れば、かえって“浄”という妄想を生ず。(『六祖壇経』より)】
◆慧能もこのようにハッキリと言っている。作為的にどうこうするのではない。あるがままに手をつけず、ほっとく事である。
また次のようにも言っている。
【一行三昧とは、一切の時中に於いて、行住坐臥(歩く、とどまる、座る、寝る)、常に直心を行ずる、是れなり。(『六祖壇経』より)】
◆つまり、坐禅だけでなく、日常の生活活動の全てに於いて、目的のための手段ではなく、今行なっている事に、全身全霊ぴったりと一致させておく事が肝心だと、慧能も言っているのである。
これは、現在の我が曹洞宗の教義とも一致している。
―[1代省略]―
石頭希遷
【諸聖(諸仏)の解脱(さとり)など求めない。(『景徳伝灯録』より)】
―[2代省略]―
洞山良价(曹洞宗の祖)
【仏向上(つまり仏のさとりに、とどまるべきではないと言っている)(『景徳伝灯録』より)】
そして、更に13代後に、我が永平道元禅師が出現する。
「眼横鼻直」この事実以外に「一毫も仏法なし」なのである。
尚、臨済宗さんの祖、臨済義玄禅師も次のように言っている。
「若モし人、仏を求むれば、是の人は仏を失す。若し人、道を求むれば、是の人は道を失す。若し人、祖を求むれば、是の人は祖を失す。」(『臨済録』入矢義高訳注、岩波文庫P138)
坐禅は、「仏やら、さとりやらを求めるものではない。」という事が、これでハッキリとご理解いただけた事だろう。
合掌
◆からっぽ禅蔵◆
禅 坐禅 仏教 宗教 元タイ上座仏教僧侶、現在日本の僧侶にして大学生の独り言
パンゲアの森