新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

仏祖の教え―禅の系譜から辿る―

2011-12-29 19:03:22 | 日記
釈迦牟尼仏
【師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。」(『ブッダのことば―スッタニパータ―』中村元訳)P17】
◆つまり釈尊は「執着を捨てろ」と示されている。悟りやら何やらを求める事に執着するべきではないと見ていい。

―[27代省略]―

菩提達磨(西天28祖、東土初祖)*西天とはインド、東土とは中国の事。
【心に、もし住(とどまる事、執着する事)が有れば即ち縄索(牛や馬が縄で引かれる様子)を免れず。心に所作の処有れば、即ち是れ繋縛(煩悩に束縛されて不自由な様子)なり。(達摩の『二入四行論』より)】
◆要するに“心”と認識した途端に、もうとどまっている。
「心がどうのこうの」というのは、既に不自由な“迷い”にとどまっている事に他ならないのだ。
「坐禅をして“心”が安らいだ」「坐禅をして“心”を高めよう」等々というのは、本来の坐禅とは全く違う事を、達磨が明言してくれている。

―[4代省略]―

大鑑慧能(東土6祖・六祖慧能)
【坐禅は元より心を看ミず、また浄を看ず、また不動を言わず。[中略]心を起こして浄を看れば、かえって“浄”という妄想を生ず。(『六祖壇経』より)】
◆慧能もこのようにハッキリと言っている。作為的にどうこうするのではない。あるがままに手をつけず、ほっとく事である。
また次のようにも言っている。
【一行三昧とは、一切の時中に於いて、行住坐臥(歩く、とどまる、座る、寝る)、常に直心を行ずる、是れなり。(『六祖壇経』より)】
◆つまり、坐禅だけでなく、日常の生活活動の全てに於いて、目的のための手段ではなく、今行なっている事に、全身全霊ぴったりと一致させておく事が肝心だと、慧能も言っているのである。
これは、現在の我が曹洞宗の教義とも一致している。

―[1代省略]―

石頭希遷
【諸聖(諸仏)の解脱(さとり)など求めない。(『景徳伝灯録』より)】

―[2代省略]―

洞山良价(曹洞宗の祖)
【仏向上(つまり仏のさとりに、とどまるべきではないと言っている)(『景徳伝灯録』より)】

そして、更に13代後に、我が永平道元禅師が出現する。
「眼横鼻直」この事実以外に「一毫も仏法なし」なのである。

尚、臨済宗さんの祖、臨済義玄禅師も次のように言っている。
「若モし人、仏を求むれば、是の人は仏を失す。若し人、道を求むれば、是の人は道を失す。若し人、祖を求むれば、是の人は祖を失す。」(『臨済録』入矢義高訳注、岩波文庫P138)

坐禅は、「仏やら、さとりやらを求めるものではない。」という事が、これでハッキリとご理解いただけた事だろう。

合掌

◆からっぽ禅蔵◆
禅 坐禅 仏教 宗教 元タイ上座仏教僧侶、現在日本の僧侶にして大学生の独り言

パンゲアの森

万人に共通する真理としての禅―総決算―

2011-12-26 11:35:06 | 日記


これまで僕は何度となく禅・坐禅について書いてきた。
その一番の目的は、禅・坐禅に対する変な幻想はやめて、禅・坐禅を正しく知ってほしいと思ったからだ。

まず、禅・坐禅が、一般社会生活に役立たなければ意味がない。

一部の人には指示されるが、その他の人には通じないようなものではなく、万人に共通する真理でなければ意味がないのだ。

従って、日常を離れた“神秘的なもの”であってはならない。
縁起に裏付けられた万物の、刻々と諸行無常に変化し続ける物事の本質を見極める眼をもつ事が最重要なのである。

そのためには、1人で家に引き込もって、自分勝手な坐禅ごっこをするのではなく、お寺の坐禅会に参加して、禅僧の指導のもとで坐禅をするのが良い。
要するに、坐禅ほど素晴らしいものを、単なる自己満足の道具にしてほしくはないと、僕は願う。

禅僧や他の参禅者等々、他者との関わりは不可欠であり、生身の人間関係の中からでしか“人間”について正しく知る事は出来まい。

また、禅・坐禅の背景には仏教があり、仏・法・僧の三宝への帰依がある。
これは、国や宗派を超えて、世界の仏教徒共通の事だ。
この内「僧」は、僧侶や教団を指す。
僧侶や教団を無視して成り立つものではないという事は、“仏教徒ならば”忘れてはならない。

いずれにせよ僕は、我が“道元禅師”と同じく、仏教徒であり仏教僧侶であるから、このように主張する。

仏教僧侶である道元禅師を慕う方ならば、上に書いた仏・法・僧の三宝への帰依は無視出来ないはずだ。

「いや、私は“僧”には帰依しない!」と言う人は、仏教徒以外の“外道”という事になる。
僕は“外道”には何も言う事はない。

さて、僕個人としては、まずは大学を無事卒業する事。
先日の、卒論要旨発表後の質疑応答は、4年間の大学生活で最も勉強になった。

特に、禅に於いて世界のトップレベルに位置する先生からのご指摘ご質問と、我が仏教学部で、僕の同学年中トップレベルの成績であろうI君からのご指摘ご質問に、受け答えさせていただいた時間は、大幅に時間をオーバーして白熱した。それは本当に充実した時間だった。
ある意味、正統派の先生とI君VSエキセントリックな異端児、僕禅蔵といった感じだったw

さて、あとは残すところ、口頭試問と成績発表だ。

そして、あと2~3ヶ月中には、いよいよ僧堂上山だ。

そこで自己を厳しく鍛練していかねばならない。

なぜなら、それが道元禅師がお示しになった道筋であり、僕の選んだ道だからだ。

合掌

◆からっぽ禅蔵◆
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パンゲアの森

死神と天使?

2011-12-18 07:01:26 | 日記
僕は、お寺に「通い」でお勤めさせていただいている。
僕が住んでいるのは、都内某所のマンションだ。

そのマンションから最寄り駅へ往き来する途中に、総合病院と看護学校がある。

いつも沢山の看護師さんが、その周辺を歩いている。ほかにも医師や、患者さんたちも多く見かける。

そんな中を、見るからに坊さんである長身の僕が、すり抜けて歩いていく。

そんな時、僕はいつも次のように思う。

(医師や看護師さんたちが、病院で人の命を救おうと勤めている。
だが人間いつかは必ず死ぬ。
従って、彼らが力を尽くしても、救えない命も当然あろう。
その時、今度は僕らの出番だ。
僕ら僧侶が心を尽くして、亡くなられた故人様に引導をお渡しするのである。)

もしかしたら、重い病気の患者さんたちからしたら、その道を往き来する看護師さんたちは天使に見え、坊さんである僕は死神にでも見えてたりして。

でも実際は、逆だったりして。

医療ミスやらで、患者を殺してしまう医師や、ストレス発散のために、患者を虐待する看護師の話しを、よくニュースで耳にする。

まぁ、たいして具合悪くないのに、毎日病院の待ち合い室で、たむろして井戸端会議している老人たちもどーかと思うが。

合掌

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パンゲアの森

禅Q&A―あるがままと向上心―

2011-12-15 21:36:27 | 日記
Q「禅は“あるがまま”を受け入れる事だと言う人がいるけど本当か?」

A「無理に“あるがまま”を受け入れなくても、実際に“あるがまま”でしょう。」

Q「じゃあ“悟り”はないのか?」

A「“吾が心”と書いて“悟り”でしょう。あなたの心を離れて、どこか別な所には、悟りもクソもないでしょうね。」

Q「じゃあ、何でもこのままで、向上心を持つなって事か?マイナス思考でいろって事か!?」

A「ご冗談でしょ?あるがままの今のこの一瞬一瞬を、精一杯の向上心を持って、超プラス思考で現じていってくださいよ。」

Q「よくわからん!」

A「ずっと以前、あるバーで友達とビリヤードをやっていたんですよ。すると隣のプールでイケメンのお兄さんと素敵なお姉さんが本気でビリヤードやりはじめたんです。お姉さんは下手くそだけど楽しそうでした。今の一瞬一瞬を精一杯楽しんでいましたね。でもお兄さんはイチイチ怒っていました。お姉さんの下手なショットにイチイチ、イラついていました。“お前もっと上手くならなきゃ、もう二度とビリヤード連れてこねーからな!”とお兄さんは怒ってました。向上心と称して、女の子いじめちゃダメでしょう。」

向上心と、いじめは違うね。

多分、そのくらいは…

わかりますよね???

合掌

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パンゲアの森

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

2011-12-11 18:50:23 | 日記
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という ことわざがある。
意味は言葉の通りで、ある人を嫌いになると、その人の服装や持ち物や趣味や職業までイヤに思えてくる、という事だ。

逆の意味の ことわざとしては、「痘痕も笑窪(アバタモエクボ)」という事になるようだが、まぁそれは置いといて。

ずっと以前、僕はあるイギリス人と口論になった事があった。
理由は日本人の常識を無視して、そのイギリス人がイギリス式のマナーを押しつけてきたからだった。
それ以来しばらくの間は僕は“イギリス人”という理由だけで、他のイギリス人とも口をきかない時期があったw
今思えば、お恥ずかしい話しだ。当時の僕は我がままで世間知らずなガキだった。

「イギリス人なんて、周囲にそんなにいないじゃん。」と思われる方もいるかも知れないが、当時も今も、僕の周囲には外国人が少なくない。

さて、それと同様に、仮に近所のお寺の住職が、いつも葬式の事ばかり考えている“葬式仏教”の“葬式坊主”であったとしても、だからと言って、全ての僧侶が“葬式坊主”と思うのは間違いである。

僕を含めて多くの僧侶が、御葬儀をお勤めさせていただくが、それは、求めに応じて行なっているわけである。
間違っても、こちらから「葬式やりたいので、あなた死んでくださいよ」と言う坊主はいないのだ。

まぁ、結局何が言いたいのかと言うと、たいした確証もないのに、僧侶を見れば“葬式仏教”などという稚拙な偏見と差別はやめてもらいたい。
人種や職業、出身地等々での差別は、今や世界的に問題であろう。
いい加減、僧侶イジメは終わりにしてもらいたい。

つまり理由もなく坊主を憎まないでねwってことです。

(もしあなたが仏教に興味があるなら)世界の仏教徒共通の、仏・法・僧の三宝への帰依だけは、お忘れなく。(僧とは、僧侶や教団を指す)

そうそう、また御葬儀が立て続けに入った。
葬儀は1件ずつではなく、必ず数件まとめてやってくる。
なぜだろ…?

「大学の発表等で忙しいのに、こんなに御葬儀が続いてはムリかも…(汗)」

つまり、誰も人の死を喜んで待ってやしないのである。

ただ1つハッキリ言える事は、僕は大学の発表がテキトーになったとしても、各御葬儀は、誠心誠意全力でお勤めさせていただきます。

合掌

◆からっぽ禅蔵◆
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