●まず、本文と無関係だが、明日(7/1)から、31年ぶりに商業捕鯨が再開される。
僕は、これには断固反対である。
なぜなら、僕はサーフィン中に、クジラの仲間であるスナメリに至近距離で遭遇する事が度々ある。
足が着かない深い海では、我々人間などは貧弱な存在に過ぎない。彼らスナメリたちがその気になれば、我々人間など、赤子の手をひねるほど簡単に襲えるはずだ。
しかし、彼らは、決して僕ら人間を襲わない。
なのに、人間は、彼ら鯨類を商業目的で襲おうと言うのだ。
まったく酷い話しである。
だから僕は、捕鯨には断固反対である!
なので僕は、捕鯨に反対している某団体に、金銭的に協力もしている。
とにかく、鯨類の身の安全を強く願う!
合掌
以下は本文。
さて、湘南の鵠沼海岸でサーフィンライフを送る当時20歳の僕と、僕のサーフィン仲間たちではあるが、当時の僕らのサーフィンレベルはどうか?と言うと、ザックリと簡単に言えば、中級者レベルだったと思う。
サーフィンブームだったその頃、海は毎日のように多くのサーファーで賑わっていた。その大半が、まだまだ〝サーファー〟とも呼べないような初心者だったので、それに比べると、中級者レベルの僕らは、そこそこサーフィンが上手いほうだったとも言える。
実際、東京都内から来ていた初心者サーファーと、海の中の混雑が原因で、少々モメた事があった。その時、彼らは僕に対して次のように言った。
「ちょっとぐらいサーフィンが上手いからってイイ気になるなよな」と。
その言葉からは、彼らから見て僕は、「ちょっとサーフィンが上手いサーファー」なのだという評価である事がわかる。
しかし、上には上がいる。
当然の事ながら、その海には、プロ並みにサーフィンが上手い上級者や、日本のトッププロサーファーだっていた。
彼らのサーフィンテクニックは、中級者の僕らなど遠く及ばないハイレベルなものだった。
そこで今回は、20歳の頃の僕が、当時、鵠沼海岸(一部それ以外の海も含む)で見かけた上級者サーファー及びプロサーファーたちを、思い出せる範囲で紹介してみたい。
尚これは、あくまでも、彼らへの尊敬と憧れと親しみの気持ちを込めて紹介させて頂くものである。
また、かなり昔の事なので、彼らをお見かけした年は1~2年前後している可能性もある。
さて、まずは、勝又正彦さん。
彼は、たぶん僕より1つか2つ年下だから、当時は18~19歳位。
僕は、当時、波さえあれば毎日のように鵠沼海岸辺りの海に入ってサーフィンをしていたのだが、勝又さんも同様で、いつも海に入っていた。
だから毎日のように彼とは海の中で会っていた。
お互いに、軽く挨拶を交わす程度で、特に親しく話した事はないが、とにかく、彼のサーフィンは僕よりずっと上手かった。
それから、当時の勝又さんの彼女もサーファーだったが、その彼女が凄く綺麗な女性だったのを覚えている。
そして、当時、日本のトッププロサーファーであった善家誠さん。
僕より9~10歳ほど年上なので、当時は29~30歳だったのだと思う。
鵠沼海岸でサーフィン中に何度かお見かけしたが、いつもリーシュコード(パワーコード)無しでサーフィンなさっていて、ミスの無い安定したサーフィンと言うか、とにかく全く危なげ無く、安心して観ていられる洗練されたトップレベルのサーフィンだったように記憶している。
尚、後には、その善家誠さんの息子さんもプロサーファーになったと聞いている。
さて、その善家誠さんと、海の中で親しくおしゃべりなさっていた女性サーファーもサーフィンが上手かった。
彼女は、確か、平野さえこさんという名前で、当時、日本の女子プロサーファーのトップだったように記憶している。
彼女とも、僕は、海の中で何度も会ったし、海以外の場所で偶然お会いした時には、少しだけお話しさせて頂いた事もあった。
因みにこの当時から数年後、今では当たり前に存在する「波情報」のサービスが開始されるのだが、当時は電話で、録音された音声を聞くパターンだった。
で、平野さえこさんが、この音声を担当なさっていたのを記憶している。
それから、セッションの方々。
当時、鵠沼海岸にも近い辻堂に、パイプラインという老舗のサーフショップがあり、そのパイプラインの中で、取り分けサーフィンが上手い人 僅か数人のみが、ウェットスーツの背中に、「session」という文字を入れる事が許されていたようである。
従って、パイプラインのサーフボードに乗っていて、ウェットスーツの背中に「session」という文字が入っているサーファーは、みんなサーフィン上級者だった。
僕は、このセッションの方々を海でサーフィン中によく見かけたが、特に話した事は無い。
セッションのメンバー1人1人の名前も知らない。
が、矢口さん?だったか?「矢」が付く名前の人がいたような気がする。
それから、佐藤さん?という名前の人もいたような気がするが、記憶としてあまり自信がない。
次に、河村正美さん。
彼は、僕より2歳年上らしいので当時22歳。
僕は彼とは話した事も無いが、彼は、海では上級者サーファーの1人として目立っていた。
後にロングボードのプロとして有名になられたようだが、当時はツインフィンのショートボードに乗っていて、マークリチャーズのようなライディングをなさっていた。多分、意識的にマークリチャーズのライディングを真似ていたのではないだろうか?しかし、単なる真似ではなく、凄くサーフィンが上手かった。
尚、後に彼の息子さんもプロサーファーになったらしい。
それから、名前については記憶が不確かだが、四国かどこかの出身の松尾さん?(または松井さん?)というサーファーがいた。
1度だけ、お話しさせて頂いた事があったが、この人がまた物凄くサーフィンが上手かった。
テイクオフの瞬間から、もうハイスピードでボードが走っていると言うか、とにかく、「ああ、あの人のサーフィンは、テイクオフの瞬間から、もう俺なんかとは次元が違うんだなあ」と思い知らされたのを覚えている。
次は、伊豆の金指さん。
鵠沼海岸にオーバーヘッド位の波が立っていた日に、鵠沼海岸で彼のサーフィンを見たが、この人も とにかく上手かった。
そして、当時、日本の若手プロサーファーの中で、トップクラスの実力と人気を兼ね備えていたのが、千葉の久我孝男さんと、湘南の関野聡さん。
お2人とも、僕より2~3歳年下らしいので、当時は17~18歳の高校生。
いや、高校生とはいえ、既にサーフィン誌などに大きく取り上げられていたお2人なのである。
因みに、久我孝男さんは湘南・鵠沼海岸ではなく、千葉の部原、夷隅、志田下等の海でサーフィン中にお見かけした。
特に夷隅では、その日、久我孝男さんだけではなく、糟谷修自さんも海に入っていて、久我さんも糟谷さんも物凄くサーフィンが上手かった。
印象としては、久我さんはややガニ股というか、ワイルドな乗り方で、糟谷さんは、スタイリッシュな乗り方だった。
尚、糟谷さんは、僕と同じ年なので当時20歳。
さて、一方の関野聡さんは、鵠沼海岸でサーフィン中に何度かお見かけした。
なんと言うか、とても攻撃的な乗り方に見えた。
とにかく皆さん本当にサーフィンが上手かった。
けど、当時の僕が見た上級者及びプロサーファーたちの中で、一番サーフィンが上手く見えた日本人サーファーと言うと、鵠沼海岸や千葉の海ではなく、伊豆の宇佐美海岸で見た鈴木さんというサーファーだった。
いや、上に紹介させて頂いたサーファー全員が上手いのは言うまでもないが、宇佐美の鈴木さんを見た時、特別に波が良かったのか、或いは、鈴木さんご自身が特別に調子が良かったのかわからないが、僕の目には、度肝を抜くほど一番サーフィンが上手く見えた。
そのサーフィンは、スピーディーでクイックで軽やかで、とにかくカッコいいサーフィンに見えた。
尚、この年の翌年だっただろうか。
日本人サーファーのみならず、世界のトッププロサーファーたちのサーフィン大会を、千葉の部原で観戦した。
その日は台風の接近で、恐ろしいほどの大波だったのだが、その件は、また別の機会に書こうと思う。
【写真:本文とは無関係。
先日、サーフィンした某海。】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~
僕は、これには断固反対である。
なぜなら、僕はサーフィン中に、クジラの仲間であるスナメリに至近距離で遭遇する事が度々ある。
足が着かない深い海では、我々人間などは貧弱な存在に過ぎない。彼らスナメリたちがその気になれば、我々人間など、赤子の手をひねるほど簡単に襲えるはずだ。
しかし、彼らは、決して僕ら人間を襲わない。
なのに、人間は、彼ら鯨類を商業目的で襲おうと言うのだ。
まったく酷い話しである。
だから僕は、捕鯨には断固反対である!
なので僕は、捕鯨に反対している某団体に、金銭的に協力もしている。
とにかく、鯨類の身の安全を強く願う!
合掌
以下は本文。
さて、湘南の鵠沼海岸でサーフィンライフを送る当時20歳の僕と、僕のサーフィン仲間たちではあるが、当時の僕らのサーフィンレベルはどうか?と言うと、ザックリと簡単に言えば、中級者レベルだったと思う。
サーフィンブームだったその頃、海は毎日のように多くのサーファーで賑わっていた。その大半が、まだまだ〝サーファー〟とも呼べないような初心者だったので、それに比べると、中級者レベルの僕らは、そこそこサーフィンが上手いほうだったとも言える。
実際、東京都内から来ていた初心者サーファーと、海の中の混雑が原因で、少々モメた事があった。その時、彼らは僕に対して次のように言った。
「ちょっとぐらいサーフィンが上手いからってイイ気になるなよな」と。
その言葉からは、彼らから見て僕は、「ちょっとサーフィンが上手いサーファー」なのだという評価である事がわかる。
しかし、上には上がいる。
当然の事ながら、その海には、プロ並みにサーフィンが上手い上級者や、日本のトッププロサーファーだっていた。
彼らのサーフィンテクニックは、中級者の僕らなど遠く及ばないハイレベルなものだった。
そこで今回は、20歳の頃の僕が、当時、鵠沼海岸(一部それ以外の海も含む)で見かけた上級者サーファー及びプロサーファーたちを、思い出せる範囲で紹介してみたい。
尚これは、あくまでも、彼らへの尊敬と憧れと親しみの気持ちを込めて紹介させて頂くものである。
また、かなり昔の事なので、彼らをお見かけした年は1~2年前後している可能性もある。
さて、まずは、勝又正彦さん。
彼は、たぶん僕より1つか2つ年下だから、当時は18~19歳位。
僕は、当時、波さえあれば毎日のように鵠沼海岸辺りの海に入ってサーフィンをしていたのだが、勝又さんも同様で、いつも海に入っていた。
だから毎日のように彼とは海の中で会っていた。
お互いに、軽く挨拶を交わす程度で、特に親しく話した事はないが、とにかく、彼のサーフィンは僕よりずっと上手かった。
それから、当時の勝又さんの彼女もサーファーだったが、その彼女が凄く綺麗な女性だったのを覚えている。
そして、当時、日本のトッププロサーファーであった善家誠さん。
僕より9~10歳ほど年上なので、当時は29~30歳だったのだと思う。
鵠沼海岸でサーフィン中に何度かお見かけしたが、いつもリーシュコード(パワーコード)無しでサーフィンなさっていて、ミスの無い安定したサーフィンと言うか、とにかく全く危なげ無く、安心して観ていられる洗練されたトップレベルのサーフィンだったように記憶している。
尚、後には、その善家誠さんの息子さんもプロサーファーになったと聞いている。
さて、その善家誠さんと、海の中で親しくおしゃべりなさっていた女性サーファーもサーフィンが上手かった。
彼女は、確か、平野さえこさんという名前で、当時、日本の女子プロサーファーのトップだったように記憶している。
彼女とも、僕は、海の中で何度も会ったし、海以外の場所で偶然お会いした時には、少しだけお話しさせて頂いた事もあった。
因みにこの当時から数年後、今では当たり前に存在する「波情報」のサービスが開始されるのだが、当時は電話で、録音された音声を聞くパターンだった。
で、平野さえこさんが、この音声を担当なさっていたのを記憶している。
それから、セッションの方々。
当時、鵠沼海岸にも近い辻堂に、パイプラインという老舗のサーフショップがあり、そのパイプラインの中で、取り分けサーフィンが上手い人 僅か数人のみが、ウェットスーツの背中に、「session」という文字を入れる事が許されていたようである。
従って、パイプラインのサーフボードに乗っていて、ウェットスーツの背中に「session」という文字が入っているサーファーは、みんなサーフィン上級者だった。
僕は、このセッションの方々を海でサーフィン中によく見かけたが、特に話した事は無い。
セッションのメンバー1人1人の名前も知らない。
が、矢口さん?だったか?「矢」が付く名前の人がいたような気がする。
それから、佐藤さん?という名前の人もいたような気がするが、記憶としてあまり自信がない。
次に、河村正美さん。
彼は、僕より2歳年上らしいので当時22歳。
僕は彼とは話した事も無いが、彼は、海では上級者サーファーの1人として目立っていた。
後にロングボードのプロとして有名になられたようだが、当時はツインフィンのショートボードに乗っていて、マークリチャーズのようなライディングをなさっていた。多分、意識的にマークリチャーズのライディングを真似ていたのではないだろうか?しかし、単なる真似ではなく、凄くサーフィンが上手かった。
尚、後に彼の息子さんもプロサーファーになったらしい。
それから、名前については記憶が不確かだが、四国かどこかの出身の松尾さん?(または松井さん?)というサーファーがいた。
1度だけ、お話しさせて頂いた事があったが、この人がまた物凄くサーフィンが上手かった。
テイクオフの瞬間から、もうハイスピードでボードが走っていると言うか、とにかく、「ああ、あの人のサーフィンは、テイクオフの瞬間から、もう俺なんかとは次元が違うんだなあ」と思い知らされたのを覚えている。
次は、伊豆の金指さん。
鵠沼海岸にオーバーヘッド位の波が立っていた日に、鵠沼海岸で彼のサーフィンを見たが、この人も とにかく上手かった。
そして、当時、日本の若手プロサーファーの中で、トップクラスの実力と人気を兼ね備えていたのが、千葉の久我孝男さんと、湘南の関野聡さん。
お2人とも、僕より2~3歳年下らしいので、当時は17~18歳の高校生。
いや、高校生とはいえ、既にサーフィン誌などに大きく取り上げられていたお2人なのである。
因みに、久我孝男さんは湘南・鵠沼海岸ではなく、千葉の部原、夷隅、志田下等の海でサーフィン中にお見かけした。
特に夷隅では、その日、久我孝男さんだけではなく、糟谷修自さんも海に入っていて、久我さんも糟谷さんも物凄くサーフィンが上手かった。
印象としては、久我さんはややガニ股というか、ワイルドな乗り方で、糟谷さんは、スタイリッシュな乗り方だった。
尚、糟谷さんは、僕と同じ年なので当時20歳。
さて、一方の関野聡さんは、鵠沼海岸でサーフィン中に何度かお見かけした。
なんと言うか、とても攻撃的な乗り方に見えた。
とにかく皆さん本当にサーフィンが上手かった。
けど、当時の僕が見た上級者及びプロサーファーたちの中で、一番サーフィンが上手く見えた日本人サーファーと言うと、鵠沼海岸や千葉の海ではなく、伊豆の宇佐美海岸で見た鈴木さんというサーファーだった。
いや、上に紹介させて頂いたサーファー全員が上手いのは言うまでもないが、宇佐美の鈴木さんを見た時、特別に波が良かったのか、或いは、鈴木さんご自身が特別に調子が良かったのかわからないが、僕の目には、度肝を抜くほど一番サーフィンが上手く見えた。
そのサーフィンは、スピーディーでクイックで軽やかで、とにかくカッコいいサーフィンに見えた。
尚、この年の翌年だっただろうか。
日本人サーファーのみならず、世界のトッププロサーファーたちのサーフィン大会を、千葉の部原で観戦した。
その日は台風の接近で、恐ろしいほどの大波だったのだが、その件は、また別の機会に書こうと思う。
【写真:本文とは無関係。
先日、サーフィンした某海。】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~