新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

波乗り雑記帳31ー湘南海岸のスーパースターたちー

2019-06-30 08:20:41 | 日記
●まず、本文と無関係だが、明日(7/1)から、31年ぶりに商業捕鯨が再開される。
僕は、これには断固反対である。
なぜなら、僕はサーフィン中に、クジラの仲間であるスナメリに至近距離で遭遇する事が度々ある。
足が着かない深い海では、我々人間などは貧弱な存在に過ぎない。彼らスナメリたちがその気になれば、我々人間など、赤子の手をひねるほど簡単に襲えるはずだ。
しかし、彼らは、決して僕ら人間を襲わない。
なのに、人間は、彼ら鯨類を商業目的で襲おうと言うのだ。
まったく酷い話しである。
だから僕は、捕鯨には断固反対である!
なので僕は、捕鯨に反対している某団体に、金銭的に協力もしている。
とにかく、鯨類の身の安全を強く願う!
合掌

以下は本文。


さて、湘南の鵠沼海岸でサーフィンライフを送る当時20歳の僕と、僕のサーフィン仲間たちではあるが、当時の僕らのサーフィンレベルはどうか?と言うと、ザックリと簡単に言えば、中級者レベルだったと思う。

サーフィンブームだったその頃、海は毎日のように多くのサーファーで賑わっていた。その大半が、まだまだ〝サーファー〟とも呼べないような初心者だったので、それに比べると、中級者レベルの僕らは、そこそこサーフィンが上手いほうだったとも言える。

実際、東京都内から来ていた初心者サーファーと、海の中の混雑が原因で、少々モメた事があった。その時、彼らは僕に対して次のように言った。
「ちょっとぐらいサーフィンが上手いからってイイ気になるなよな」と。
その言葉からは、彼らから見て僕は、「ちょっとサーフィンが上手いサーファー」なのだという評価である事がわかる。

しかし、上には上がいる。
当然の事ながら、その海には、プロ並みにサーフィンが上手い上級者や、日本のトッププロサーファーだっていた。
彼らのサーフィンテクニックは、中級者の僕らなど遠く及ばないハイレベルなものだった。

そこで今回は、20歳の頃の僕が、当時、鵠沼海岸(一部それ以外の海も含む)で見かけた上級者サーファー及びプロサーファーたちを、思い出せる範囲で紹介してみたい。

尚これは、あくまでも、彼らへの尊敬と憧れと親しみの気持ちを込めて紹介させて頂くものである。
また、かなり昔の事なので、彼らをお見かけした年は1~2年前後している可能性もある。

さて、まずは、勝又正彦さん。
彼は、たぶん僕より1つか2つ年下だから、当時は18~19歳位。
僕は、当時、波さえあれば毎日のように鵠沼海岸辺りの海に入ってサーフィンをしていたのだが、勝又さんも同様で、いつも海に入っていた。
だから毎日のように彼とは海の中で会っていた。
お互いに、軽く挨拶を交わす程度で、特に親しく話した事はないが、とにかく、彼のサーフィンは僕よりずっと上手かった。
それから、当時の勝又さんの彼女もサーファーだったが、その彼女が凄く綺麗な女性だったのを覚えている。

そして、当時、日本のトッププロサーファーであった善家誠さん。
僕より9~10歳ほど年上なので、当時は29~30歳だったのだと思う。
鵠沼海岸でサーフィン中に何度かお見かけしたが、いつもリーシュコード(パワーコード)無しでサーフィンなさっていて、ミスの無い安定したサーフィンと言うか、とにかく全く危なげ無く、安心して観ていられる洗練されたトップレベルのサーフィンだったように記憶している。
尚、後には、その善家誠さんの息子さんもプロサーファーになったと聞いている。

さて、その善家誠さんと、海の中で親しくおしゃべりなさっていた女性サーファーもサーフィンが上手かった。
彼女は、確か、平野さえこさんという名前で、当時、日本の女子プロサーファーのトップだったように記憶している。
彼女とも、僕は、海の中で何度も会ったし、海以外の場所で偶然お会いした時には、少しだけお話しさせて頂いた事もあった。
因みにこの当時から数年後、今では当たり前に存在する「波情報」のサービスが開始されるのだが、当時は電話で、録音された音声を聞くパターンだった。
で、平野さえこさんが、この音声を担当なさっていたのを記憶している。

それから、セッションの方々。
当時、鵠沼海岸にも近い辻堂に、パイプラインという老舗のサーフショップがあり、そのパイプラインの中で、取り分けサーフィンが上手い人 僅か数人のみが、ウェットスーツの背中に、「session」という文字を入れる事が許されていたようである。
従って、パイプラインのサーフボードに乗っていて、ウェットスーツの背中に「session」という文字が入っているサーファーは、みんなサーフィン上級者だった。
僕は、このセッションの方々を海でサーフィン中によく見かけたが、特に話した事は無い。
セッションのメンバー1人1人の名前も知らない。
が、矢口さん?だったか?「矢」が付く名前の人がいたような気がする。
それから、佐藤さん?という名前の人もいたような気がするが、記憶としてあまり自信がない。

次に、河村正美さん。
彼は、僕より2歳年上らしいので当時22歳。
僕は彼とは話した事も無いが、彼は、海では上級者サーファーの1人として目立っていた。
後にロングボードのプロとして有名になられたようだが、当時はツインフィンのショートボードに乗っていて、マークリチャーズのようなライディングをなさっていた。多分、意識的にマークリチャーズのライディングを真似ていたのではないだろうか?しかし、単なる真似ではなく、凄くサーフィンが上手かった。
尚、後に彼の息子さんもプロサーファーになったらしい。

それから、名前については記憶が不確かだが、四国かどこかの出身の松尾さん?(または松井さん?)というサーファーがいた。
1度だけ、お話しさせて頂いた事があったが、この人がまた物凄くサーフィンが上手かった。
テイクオフの瞬間から、もうハイスピードでボードが走っていると言うか、とにかく、「ああ、あの人のサーフィンは、テイクオフの瞬間から、もう俺なんかとは次元が違うんだなあ」と思い知らされたのを覚えている。

次は、伊豆の金指さん。
鵠沼海岸にオーバーヘッド位の波が立っていた日に、鵠沼海岸で彼のサーフィンを見たが、この人も とにかく上手かった。

そして、当時、日本の若手プロサーファーの中で、トップクラスの実力と人気を兼ね備えていたのが、千葉の久我孝男さんと、湘南の関野聡さん。
お2人とも、僕より2~3歳年下らしいので、当時は17~18歳の高校生。
いや、高校生とはいえ、既にサーフィン誌などに大きく取り上げられていたお2人なのである。
因みに、久我孝男さんは湘南・鵠沼海岸ではなく、千葉の部原、夷隅、志田下等の海でサーフィン中にお見かけした。
特に夷隅では、その日、久我孝男さんだけではなく、糟谷修自さんも海に入っていて、久我さんも糟谷さんも物凄くサーフィンが上手かった。
印象としては、久我さんはややガニ股というか、ワイルドな乗り方で、糟谷さんは、スタイリッシュな乗り方だった。
尚、糟谷さんは、僕と同じ年なので当時20歳。
さて、一方の関野聡さんは、鵠沼海岸でサーフィン中に何度かお見かけした。
なんと言うか、とても攻撃的な乗り方に見えた。

とにかく皆さん本当にサーフィンが上手かった。

けど、当時の僕が見た上級者及びプロサーファーたちの中で、一番サーフィンが上手く見えた日本人サーファーと言うと、鵠沼海岸や千葉の海ではなく、伊豆の宇佐美海岸で見た鈴木さんというサーファーだった。

いや、上に紹介させて頂いたサーファー全員が上手いのは言うまでもないが、宇佐美の鈴木さんを見た時、特別に波が良かったのか、或いは、鈴木さんご自身が特別に調子が良かったのかわからないが、僕の目には、度肝を抜くほど一番サーフィンが上手く見えた。
そのサーフィンは、スピーディーでクイックで軽やかで、とにかくカッコいいサーフィンに見えた。

尚、この年の翌年だっただろうか。
日本人サーファーのみならず、世界のトッププロサーファーたちのサーフィン大会を、千葉の部原で観戦した。
その日は台風の接近で、恐ろしいほどの大波だったのだが、その件は、また別の機会に書こうと思う。



【写真:本文とは無関係。
先日、サーフィンした某海。】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~

禅ネタ本13ー卒哭忌・1周忌・3回忌ー

2019-06-23 09:21:37 | 日記
序章5

供養にみえる折衷2・「卒哭忌・1周忌・3回忌」

前回、儒教で貴ばれる五種の経典「五経」のひとつ『礼記(らいき)』には、喪葬(そうそう)に関する言及が散見できる事に触れた。
今回はその続き。

「なんだ、儒教の礼記には興味は無いよ」と言う方もいらっしゃるかも知れないが、「この礼記が仏教式供養の源泉だ」と言ったらどうだろうか?
「仏教は好きだが礼記は無視する」というわけにはいかないはずである。

さて、『礼記』より、次は卒哭(そっこく)についての記述を見よう。

【以下引用文】
②卒哭(1)すれば乃(すなわ)ち諱む(2)。
(参考:『礼記』(上) 新釈漢文大系 竹内照夫著 明治書院 昭和46年、47頁。『礼記』曲礼上篇)

〔(1)卒哭=身近な人の死を悲しみ声をあげて哭(な)くのを卒(お)えるの意。
(2)諱む―はばかり避けるの意。〕
(参考:『全訳 漢字海』第3版 机上版 戸川芳郎監修 佐藤進・濱口富士雄編 三省堂 2011年。)
【以上引用文おわる】

要するに、卒哭の時期が来たら死者の名を呼び声をあげて泣くことを避けるを述べている。
ではその卒哭の時期とはいつか。
同書の次の箇所を挙げよう。
 
【以下引用文】
③士は三月で葬(ほうむ)り、是(こ)の月に卒哭す。大夫(たいふ)は三月で葬り、五月で卒哭す。諸候は五月で葬り、七月で卒哭す。
(参考:『礼記』(中) 新釈漢文大系 竹内照夫著 明治書院 昭和52年、646頁~647頁。『礼記』雑記下篇)
【以上引用文おわる】

位の高い順に示せば、諸候は人民を支配する階級。
大夫は大名クラス。
士は大夫の下位に位置する階層である。
(参考:『広辞苑』第6版 電子辞書版)

つまり、士であれば3ヶ月で葬ると同時に卒哭の時期とする。
大夫も同様に3ヶ月で葬るが卒哭の時期は5ヶ月目とする。
諸候ともなれば5ヶ月目でやっと葬り、7ヶ月目まで哭くことを卒えないと述べている。

一方、仏式供養に於いても「卒哭忌」というのがある。

その時期は、亡くなって百ケ日とされる。
これは、『礼記』が示す士の卒哭の時期「3ヶ月」を参考にしたものであろう。
「卒哭」という表現や、その凡その時期も、仏式供養以前に、『礼記』に確認出来た。

そればかりではない。

仏式に於いて卒哭忌を過ぎると、1周忌にあたる小祥忌(しょうしょうき)、3回忌にあたる大祥忌(だいしょうき)と続くのだが、『礼記』は、その小祥・大祥にも触れている。

【以下引用文】
④孔子曰く、之(これ)を聞く、小祥(1)は、主人練(れん)(2)して祭し旅(りょ)(3)せずして、酬(しゅ)(4)を賓(ひん)(5)に奠(お)く、賓擧(あ)げず、禮(れい)なり。昔は、魯(ろ)の昭公、練して酬を擧げ旅を行(おこな)う、禮にあらざるなり。孝公、大祥(しょう)(6)に酬を奠き擧げず、また禮にあらざるなりと。
(参考:『礼記』(上) 新釈漢文大系 竹内照夫著 明治書院 昭和46年、278~279頁。『礼記』曾子問篇)

〔(1)小祥=人が亡くなって1年目の命日=1周忌。
(2)練=1周忌に着用する喪服。
(3)旅=ここでは、衆(おお)いの意。転じて盛大にするという意味だろう。
(4)酬=酒を勧めるの意。
(5)賓=大切な客。
(6)大祥=3回忌。亡くなったときの葬儀供養を1回目と数え、1周年目の1周忌が2 回目、2年目の命日にして3回目がこの3回忌。2周忌や2回忌とは言わない。〕
(参考:『増補 字源』簡野道明著 角川書店 昭和30年)
【以上引用文おわる】

上の如く、小祥・大祥のマナーについて、孔子に述べさせている。

つまりこうだ。
1周忌では、喪に服す主人は、きちんと喪服を着用して亡くなった故人を祭る。しかし、祭壇等々をあまり盛大にはしない。主人は弔問客に酒を勧めて杯を置くが、弔問客はこの杯を挙げないのが礼儀である。むかし魯の昭公は、喪服着用で酒を酌み交わして盛大に行なったが、これは礼儀に反することだ。一方、孝公は、3回忌の折りに酒を勧められたが、その杯を挙げることはなかった。これもまた礼儀に反する、という。

現代日本の仏式の年回法要の場合、1周忌では飲んではいけない、3回忌では勧められたら飲むべきだ、などという決まりが特にあるわけではない。飲む飲まないは個人の自由であろうと思う。

ここでは、その作法内容が問題なのではなく、小祥・大祥という供養の節目が、仏式供養以前に、『礼記』に記載されていることが確認出来れば十分である。
そしてこれらの事から、日本に於ける仏式の死者供養は、位牌も、回忌名とその時期も、実は仏教ではなく、儒教に準ずる側面があるといえる。
そうであるならば、仏式供養は、インド発祥の仏を立てつつも、その一方では、中国の儒教のやり方を取り入れたひとつのシンクレティズムの形といってよいであろう。

そしてそのシンクレティズムには理由があった。

仏教開祖釈尊が、親や妻子から離れて出家修行に向かったことからもわかる通り、仏教では出家を重視する。
一方、仏教伝来以前から、自国中国に浸透していた儒家の教えでは、父母に仕える孝の精神を重んじていた。
この相反する双方の矛盾を解決することは、中国に於いて仏教を隆盛されるためには不可欠なテーマであったと思われる。
『仏教史概説 中国篇』「唐の仏教Ⅰ」は、次のよう論じる。

【以下引用文】
中国人の出家が家族制度の秩序や社会倫理をみださないばかりか、進んでこれを支持する宗教として祖先の祭祀と二親の追善の仏事儀礼が中国仏教における孝養の道として大いに強調されて、これが重要な地位をしめるのである。唐代に盂蘭盆経・浄土盂蘭盆経・父母恩重経・大報父母恩重経・閻羅王授記生七斎往生浄土経(十王経)などがひろく民間にまで流行するのは、その証拠である。これは宋代以後の近世仏教史における庶民の仏教信仰につらなるものである。
(参考:『仏教史概説 中国篇』野上俊静・小川貫弌・牧田諦亮・野村耀昌・佐藤達玄 共著 平楽書店 1968年、66頁。)
【以上引用文おわる】

なるほど。
換言すれば、出家をした仏教僧侶に先祖供養等を行わせることで、親を敬う孝の精神を仏事儀礼に反映させ、これを強調することで人々の仏教への理解を得たようである。
そして、その具体的な供養の手法に於いて、儒教の『礼記』を参考にした側面があると見て間違いないであろう。


(以下は次回に続く)


【写真:本文とは無関係。
先日、夜明けと共に海に入りサーフィンをした某海。
誰もいない夜明けの海で、僕1人だけのサーフィンは、狭くて薄暗い部屋で行う坐禅の何百倍も、僕の五感を研ぎ澄まし、同時に僕を深く癒し、精神的にも僕を豊かな気持ちにさせてくれる。
だからこそ気づく。
素晴らしいのは坐禅だけではないと。そして、多分サーフィンだけでもない。
各人が、自らの好きな事に親しむ事が、各々にとって素晴らしいのだと。】
『禅ネタ本』
からっぽ禅蔵記す
◆新・からっぽ禅蔵◆

CT

2019-06-21 10:55:20 | 日記
先日、本ブログ記事「波乗り雑記帳29ー伝説の男ー」(5/26UP)の冒頭で、以下の件に触れた。

「プロサーフィンの世界最高峰CT(チャンピオンシップツアー)の第3戦が、先日、インドネシアのバリ島の海で行われた。
そこで、日本人の五十嵐カノア選手(21歳)が優勝した。
世界最高峰のCTで日本人が優勝するのは初めての快挙。
五十嵐選手の総合ランキングも、一気に世界第2位に浮上したそうだ。
五十嵐選手、おめでとうございます」と。

さて、上記の、CT第3戦バリ島の模様が、明日、6月22日(土)NHKのBS1、15:00~16:50の時間帯で放映されるそうだ。

興味がある方は、録画してでも観てみては いかがだろうか。

僕は、絶対に観ます!

◆新・からっぽ禅蔵◆

波乗り雑記帳30ー大きな変化ー

2019-06-16 07:22:47 | 日記
ところで、当時、サーファーの間で幾つかの大きな変化が起きた。

まず、トライフィンの出現である。

それまでのサーフボードは、シングルフィンとツインフィンしか無かった。
そもそも、サーフボードのフィンの基本はシングルフィンだと言ってよいと思う。
そして、当時、4年連続でプロサーフィンのワールドチャンピオンになったオーストラリアのプロサーファー マークリチャーズが、ツインフィンサーフボードを流行させていた。

まず、シングルフィンとツインフィンの違いを、僕の個人的な意見で述べたい。
はじめに、シングルフィンの場合、ボトムターンの時に深い角度でボードを寝かせ過ぎると、フィンが水面上に出てしまってワイプアウトしてしまう事があった。
一方、ツインフィンは、ボードのセンターにフィンが無いためにシングルフィンよりも不安定。だが不安定だからこそターンがしやすい。ただ、シングルフィンほどのパンチの効いたターンには成り難く、加速感もシングルフィンよりも劣るように感じた。

そして、新たに出現したトライフィンサーフボードは、それまでのシングルフィンとツインフィンの欠点を補い、双方の長所を兼ね備えた理想的なサーフボードであった。

僕の記憶に誤りがなければ、確か、オーストラリアのプロサーファー サイモンアンダーソンという人が、このトライフィンサーフボードを世に広めた。

因みに、このトライフィンサーフボード出現の成功に便乗するように、一時期、4フィンや6フィンなどのサーフボードも現れたが、あまり流行らずに消えていった。
ただ、4フィンは、後にクワッドフィンとして復活する。4フィンもクワッドフィンも、フィンの枚数は同じ4枚だが、フィンの配置や角度が若干違うようで、乗り味も少々異なるようだ。

いずれにせよ、トライフィンサーフボードは、その後のサーフボードの定番になる。

ところで、鵠沼海岸のアパートでルームシェアしていたMとHから離れて、僕は、K子と本鵠沼のアパートに住むようになったが、MとHらとの付き合いはその後も続き、波がある日には、彼らと一緒にサーフィンを楽しんだ。

そのHだが、ある日、突然とんでもない髪型にして周囲を驚かせた。
刈り上げのヘアスタイルである。
いや、現在では珍しくもないが、当時のサーファーはロン毛が基本的なスタイルだった。

〝サーフィンの神様〟とも称される事もあったハワイのジェリーロペスというサーファーが、当時ロン毛でオカッパのような髪型をしていて、口ひげを蓄えていた。
多くのサーファーは、このジェリーロペスを真似て、ロン毛に口ひげのサーファーが実に大勢いた。

そんな時代に、Hは、突然 刈り上げヘアにしたのだ。
しかも、彼はそれまでのショートボードをやめて、ロングボードでサーフィンするようになった。これも大きな驚きだった。
なぜなら、その当時は、サーフィンと言えばショートボードが全盛期で、ロングボードなんていうクラシックなものでサーフィンをするサーファーはほとんどいなかったからだ。
尚、Hが購入したロングボードも、フィンはトライフィンだった。

この後、徐々に刈り上げヘアが流行するようになり、また、サーフボードも、ショートボードだけにとどまらず、ロングボードでサーフィンを楽しむ人が、徐々に増えていった。
その意味で、Hの刈り上げヘアとロングボードは、かなり早い時期からの流行の先取りだったと断言できる。
さすがはH、芸術高校卒でオシャレで、しかもHの彼女は芸能人(歌手)。彼は、人よりも流行の一歩先を歩んでいるような所があった。

それはともかく、変化はまだまだ続く。

ある日、いつものように僕は、MやHらと鵠沼海岸でサーフィンを楽しんでいた。
そこに、見た事も無いものが出現し、僕らは、「なっ!なんだ ありぁ~⁉」と言って驚いたのを覚えている。

それは、ロングボードのように長いボードの上に、ヨットのような帆が付いた見た事の無いヘンテコリンなものだった。
そう、それは、サーフィンと同様、後に大流行するウインドサーフィンであった。
因みにこの時に見たウインドサーフィンは、おそらく、どこかのサーフショップが、いち早く仕入れて試験的にライドしていたのだと思う。
この新マリンスポーツであるウインドサーフィンの出現に便乗するように、当時、ウェーブカヌーというのだろうか、カヌーのようなものに座って乗って、パドルブレードで漕いで波に乗るようなものも出現したが、これはあまり流行らなかったようだ。

更に、この頃から、夏の海では水上バイクをよく見かけるようになった。
水上バイクは、当時〝ジェットスキー〟と呼んでいたように記憶している。
これは、日本のヤマハが開発したが、当初日本では全く流行せず、ハワイで流行し、ハワイからの逆輸入的に日本でも流行するようになった、と聞いている。
但し、これは一時の流行で、やがては、海で水上バイクを見る事は少なくなっていったように思う。

また、ブギーボード(ボディボード)は以前から存在していたが、このブギボーで波乗りする女の子も当時は多かった。
だが、現在では、ブギボーの女の子も減ったように思う。
それに、〝ブギーボード〟と言えば、今ではボディボードの事ではなく、電子メモパッドの事だとか?

まだある。
冬のスキー場に〝スノーボード〟という新スポーツが出現するのも、ザックリと言えばこの当時からである。

いずれにせよ、水上バイクは違うが、ウインドサーフィンもスノーボードも、それからスケートボードも、その原型はサーフィンにあり、サーフィンから発展したスポーツだと言ってよいと思う。

さて、変化はこれで一段落したわけではなく、日々刻々と変化が継続していく。

例えば、デッキパッドの出現も間もなくであったと記憶している。
そう、それまでは、サーフボードのデッキ全面に、滑り止めのワックスを塗っていたのだが、部分的に、滑り止めのデッキパッドを貼るようになっていく。

そして、ある意味、当時のサーフィン界で最大の変化が、間もなく起きる。

電車内への、サーフボードの持ち込み解禁である。

つまり、それまでは、サーフボードを電車やバス等の公共交通機関に乗せる事は出来なかった。
従って、それまでは、海の近くに住むか、車を所有しなければサーフィンは出来なかったのである。
ところが、当時の伊豆方面で、減りつつあった観光客を呼び戻す目的で、「電車内のサーフボードの持ち込み解禁」を宣言。
これが一気に全国に広がり、全国的に、電車内にサーフボードを持ち込めるようになった。
但し、電車内にサーフボードを持ち込むには、裸のままのボードではダメで、袋など何らかの入れ物にボードを入れる事、という条件があった。

当時、サーフィンブームだったが、車が無いのでサーフィンが出来なかった高校生たちを中心に、いわゆる「電車サーファー」が爆発的に増えた。
で、サーフボード用の袋などはまだ無かったので、彼らは、彼女や母親らに作ってもらった手作りのボードケースに自らのボードを入れた。
そして、新宿方面から小田急線などに乗って、鵠沼海岸などに彼ら電車サーファーたちが押し寄せた。
この直後、あわてて各メーカーがボードケースを製作して、まったく新しい新商品として販売するようになる。
そう、今では当たり前のボードケースが、それまでは無かったのだ。

同じ頃、鵠沼海岸を含む湘南では、素肌につけると「スーっ」として気持ちがいい液体が試験的に無料で配布されていた。
その品名は、「シーブリーズ」と言った。
おそらく、当時のオシャレな若者たちの最先端とも言えそうな湘南サーファーたちに、この品物を認知してもらった上で、全国販売に踏みきろうと考えていたのではあるまいか。
とにかくこのシーブリーズは、後にスキンケア商品として全国的に販売され、現在でも、テレビCM等で知名度も高い。

いずれせよ、このシーブリーズのように爽やかな?(笑)、湘南での僕らのサーフィンライフは、まだまだ続く。



【写真:本文とは無関係。サーフィンの行き帰りによく利用する某高速道路。】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~

禅ネタ本12ー戒名や葬儀作法も純粋仏教にあらずー

2019-06-09 07:46:06 | 日記
序章5

供養にみえる折衷1・「戒名や葬儀作法も純粋仏教にあらず」

さて、シンクレティズムは、決して特殊なケースではないことを示すため、ほかにも幾つか関連する例を、思いつくままに挙げておきたい。

例えば、一般的に仏教式で死者の霊を祀るとき、戒名(かいみょう)または俗名(ぞくみょう)を特定の板に記す。この板を位牌(いはい)と呼ぶ。

先ず、戒名であるが、これは、仏弟子として入信・受戒したときに僧侶より与えられるものである。つまり生前に与えられるものなのだが、現在では、死後に仏式葬儀を行う折りに、僧侶より与えられる名として周知されている。
ところが、そもそも仏教発祥のインドでは、戒名のようなものは無かった。
戒名もまた、中国で始まり、日本でもそれを踏襲したのである。

次に、位牌であるが、これもまた、もとは中国の儒教から借用したものであるといわれる。
儒教では、後漢のころから存命中の官位や姓名を記し、神霊に託す習慣があった。これを禅宗が取り入れて日本に伝えたというのだ。
(注意:位牌は儒教からの借用という説のほかに、神道に於ける霊代(たましろ)から影響を受けたものという説もあるという。そうだとしても位牌は、純粋なインド仏教に根ざすものではなく、折衷によって使われるようになったものだという事だ。/参考:『佛教語大辞典』縮刷版 中村元著 東京書籍 昭和56年、32頁。及び、『曹洞宗大辞典』桜井秀雄監修 ぱんたか 2002年、34頁・102頁。)

その儒教であるが、実は、葬礼と密接な側面がある。

儒教で貴ばれる五種の経典「五経」のひとつ『礼記(らいき)』には、喪葬(そうそう)に関する言及が散見できる。
この件について白川静氏は、その著書『孔子伝』で次のように述べている。

【以下引用文】
儒家の経典とされているものには、おどろくべきほど喪葬に関する記述が多い。漢初に儒家の学説を集成して作られた『礼記』四十九篇のうち、その半ば以上は喪葬に関する文献であり、他の諸篇にもやはり喪葬や祀礼に関する記述が、多くみられる。
【以上引用文おわる】

なるほど。
更に、森三樹三郎氏は、その著書『中国思想史』にて、漢初の儒者たちの生活を支えていたのは主として冠婚葬祭業であったらしいと指摘した上で、『墨子』非儒篇と『荘子』外物篇の語を引いている。
その箇所を、森氏訳で示せば次の如くである。

【以下引用文】
『墨子』非儒篇。
かれら〔儒者たち〕は、夏の間は麦などの穀物を物乞いして過ごすが、秋に五穀の収穫が終わると、葬式屋に早変わりし、一族郎党をひきつれて飲食にありつく。数軒の葬式を手がければ、何とかやっていけるという状態である。かようにかれらは、人の家を当てにして腹を満たし、人の田野を当てにして飲食をつなぐ生活をしている。だから金持ちの家に死人があると、「これで衣食のもとが出来た」と大喜びをするのである。
(〔〕内は筆者が補った)

『荘子』外物篇。
儒者は詩経の文句を歌ったり、礼の定めに従いながら、墓を掘って盗みを働くものである。
親分格の儒者が「もう東の空が白んできたぞ」とせかせると、手下の儒者どもは「まだ肌着をぬがしていないよ。それに死人の口にはまだ珠が残っているはずだ。詩経にも、〈青々とした麦が、墓の丘に一面においしげる。生前に人に施しもせず、死んで口中に珠を含むとは何ごとだ〉とあるではないか」と答え、死人の髪をつかみ、あごひげをひっぱり、両ほおをひろげて、口中の珠を取り出した。
【以上引用文おわる】

上は、いずれも儒者に対する批判的な表現であって、そのまま全てを鵜呑みには出来ないが、彼らが葬送に携わっていたことを伝えている。
この件については森氏のみならず、金谷治氏も、
「儒者は葬礼の専門家で、また実際の葬儀屋でもあった」
と述べている。
(参考:『孔子伝』白川静著 中央公論新社 1991年、74頁。/『中国思想史』森三樹三郎著 第三文明社 1978年、(上)111頁~112頁。(下)225頁。/『墨子』森三樹三郎訳 筑摩書房 2012年、170頁。/『荘子』金谷治訳注 第4冊(雑篇)1983 年、16頁。)

ではここで、『礼記』から幾つかを訓読で見てみよう。

【以下引用文】
①『礼記』曲礼上篇より。
墓に適(ゆ)けば壟(ろう=盛り上げた土)に登らず、葬を助くるには必ず紼(ふつ=棺を引く綱)を執(と)る。喪に臨みては笑わず。人に揖(いっ=胸の前方で両手のひらを重ねて行う挨拶)するには必ず其の位を違(さ)る。柩(ひつぎ)に望(のぞ)みては歌わず。入りて臨むるに翔(かけ)ず。食に當(あ)たりては歎(なげ)かず。
(参考:『礼記』(上) 新釈漢文大系 竹内照夫著 明治書院 昭和46年、43頁~44頁。尚、①の番号は筆者に拠る。)
【以上引用文おわる】

つまりこうだ。
「墓の盛り上げた土塁に登ってはいけない。埋葬を手伝うならば棺の綱を握ること。死者を送るときに笑顔を見せてはならない。ほかの弔問者らに挨拶するときは必ず自分の席をたって行うこと。棺の前で歌ったりしてはならない。葬礼の場に入るとき走らないこと。葬儀に付随する食事会では、ことさらに歎くようなことはしない」。

上の通り、ここでは葬送の場での礼儀作法を述べている。
「埋葬を手伝うならば棺の綱を握ること」というのを、現代日本の仏式葬儀に置き換えて考えてみれば、故人の棺が葬儀式場から出棺して霊柩車までの葬列の折り、棺の両側から、身内の者たちが棺に手を添えて行進する。または、皆で棺を担いで霊柩車に乗せる、などの行為に当たると言えそうだ。
(式場の構造や葬儀社のやり方によって異なる場合はある)
そのほかの作法も、基本的には、現在の仏式葬儀の作法にも通ずると言って良いであろう。
また、注目すべき点のひとつとしては、当時から葬儀に食事会が付随していたと思われることだ。
現代日本の仏式葬儀に於いても、通夜の後や、斎場で故人を火葬中などに食事の席が設けられることが少なくない。
(斎場での火葬中の食事の有無は、地域や斎場の設備、或いは喪主の意向などによって異なる)
こうした習わしの源泉は、或いは『礼記』の記述を中心とする儒者たちのやり方に準ずるものなのかも知れない。

だとすれば、現代日本の仏教式葬儀は、〝仏教式〟とは名ばかりで、その実は、古代中国の儒教的な葬礼に従って行われている側面を有する事が否定出来なくなる。

ちなみに、禅僧の修行道場に於いて、昼食を〝斎(さい)〟と言い、食堂を〝斎堂(さいどう)〟と呼ぶことがあるが、火葬場を〝斎場〟と称するのも、或いは「食事をする場」の意味を含むのかも知れない。

(以下は次回に続く)


【写真:先日、サーフィン帰りに立ち寄った某所。】
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