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新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

宗教と献金

2022-07-27 12:18:24 | 日記
旧統一教会の現会長が、次のように言っていた。
「献金は、宗教に於いて大切な行為です 」と。

それは、金儲けをしたい団体の立場からすればその通りなのかも知れない。

だが、一般の人達の立場からしたら違うはずだ。
大切なのは、教会への献金なんかではない。
大切なのは、あなた自身と、あなたの家族であろう。
少なくとも、あなた自身やあなたの家族の生活をメチャクチャにまでして、団体にお金を貢ぎ続けるのはバカげた事だと気づくべきだ。

そもそも、宗教は、自らの人生を豊かに過ごすためのヒントとして利用するものでしかない。
それなのに、その真逆に、自らを苦しめてまでして、宗教にのめり込む人がいるようだが、これは、まさに本末転倒である。
少なくとも、順序として、人が先に存在して、後から宗教という考え方が発生した。その宗教に人が振り回されてどうするのだ?

さて、一宗教者である僕はどうか。

僕は、僧侶としてご法要やご葬儀をお勤めさせて頂き、その折りに、お布施を頂いている。
それ以外には収入は無い。
だからお布施は大切なのだが、誤解を恐れずに言えば、ある意味、ご法要やご葬儀のお勤めの対価としてお布施を頂いている。
それ以上には、献金を求めるような事は一切していない。
更に、頂いたお布施は、全額自らの生活費に当てるわけではなく、その内のいくらかは、世界の貧しい子供たちや、環境保護団体へ送金している。

そんな僕が最初に出家し僧侶になったのは、日本ではなく、タイであった。
タイでは、ご法要やご葬儀などはお勤めしない。
自らの修行に徹するのみだ。
それでも信者さんたちからはお布施を頂いていた。
これは、ご法要やご葬儀などの対価ではない。
まさに、信仰に裏付けられた清き施しだと僕は思う。

そのタイの信者さんたちからの施しは、現金よりも食べ物が多かった。
タイ僧侶は、オレンジ色の布だけを身体にまとって、それ以外には私物を持たない。下着のパンツさえ履いてはいない。
施された食べ物は、朝と昼(正午まで)の1日2食のみ。
昼を過ぎてからは、食事はしない。
とにかく、人様から有り難い施しを受けているのだから、タイ僧侶の修行生活は質素だ。
日本の一部の僧侶みたいに、ベンツなどの高級車を乗り回したりはしない。

いずれにせよタイ僧侶は、高額な献金を求めて私腹を肥やす宗教団体とは異なる。

ところで、上に、タイ僧侶は夕飯を食べない事を書いたが、実は、僕も僕の妻も、数年ほど前から、今も夕飯は食べない生活をしている。

あとは寝るだけなので夕飯を食べる必要は無い、というのが僕と妻の考えだ。
いや、別に苦行をしているつもりは無い。慣れれば、夕飯無しでも全く苦ではない。
それに、夕飯無し生活を他人にお勧めするつもりも無い。

あくまで僕ら夫婦の考えとして、食べ物は、朝と日中の活動時のエネルギーとして摂取すれば、こと足りる。
お金も、普通に生活が出来る程度にあれば、こと足りる。
必要以上に求め過ぎるのは、逆に苦痛ではなかろうか?と、思っている。

「銀を愛する者は銀に満足することがなく
財産を愛する者は利益に満足しない」

これは、以前にも紹介した『旧約聖書』「コヘレトの言葉」(5-9)の言葉だ。

旧統一教会さんは、この聖書の言葉を知っているのだろうか?

僕は、利益に満足しない貪欲な人間には成り下がりたくはない。




【写真︰先日サーフィンをした某海。写っている人は他人(釣り人)
サーフィンは、僕にとって唯一の趣味・ささやかな楽しみだと思っている。】
◆新・からっぽ禅蔵◆

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