新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

波乗り雑記帳24ー仲間たちー

2019-02-24 09:47:03 | 日記
当時19歳の僕は、東京都内某芸術高校卒のM(18歳)と、同高校を1年ダブって卒業したH(19歳)と共に、3人でルームシェアして一緒に住み始めた。
そこは、湘南・鵠沼海岸の海の直ぐ近くのアパートK荘。湘南でサーフィンをするには、最高の場所だ。

さて、住み始めて最初の週末。
僕にとっては少々驚きの事があった。

まず、東京都内には、MとHらと同じ芸術高校卒のサーフィン仲間が沢山いるという。
彼ら彼女らの多くは、それぞれ、幾つかの有名芸術大学に進学していた。
そんな彼ら彼女らが、週末になると早朝から小田急線の電車に乗って、僕とMとHの3人が住むK荘に大勢でゾロゾロとやって来るのである。
そして、みんなでサーフィンを楽しむ。
当時はまだ、電車内にサーフボードの持ち込みは禁止されていたので、彼ら彼女らは、自分たちのサーフボードを予め僕らが住むK荘に置いていたのだ。
前にも書いた通り、リビングダイニングには多くのサーフボードやウェットスーツが置いてあるのだが、これらは、週末にやって来る彼ら彼女らのものだったのである。
つまり、アパートK荘の一室に住んでいるのは、僕とMとHの3人だけだが、週末には、10人前後で一緒にサーフィンをしたり部屋でくつろいだりして過ごすというパターンになる。
僕は初め、この賑やかさに少々驚いたのだった。

また、サーフィン中に彼ら彼女らのサーフボードが傷ついたりすると、次の週末までに、僕かMかHの誰かがそのボードのリペアをしてあげていた。
これは、当時の僕らにとって、決して苦痛ではなかった。寧ろ、やればやるほど自らのボードリペア技術が上がるので、サーファーとしては嬉しかった位だ。

ただ、僕とMとHの3人は、海の直ぐ近くK荘に住んでいて平日は毎日早朝からサーフィンをしているので、特に混雑する週末まで海に入る気にはなれない事もあった。
僕らは、土日はゆっくり寝ていた。
しかし、週末通い組の芸大生たちは、朝早くから騒がしくやって来て、「M~!H~!それにニューフェイスの禅蔵~!起きろ~!波乗り(サーフィン)しようぜ~!」と言って僕らを起こすのだった(笑)

そんな週末のある朝、僕にとって驚くべき事が起きた。

ぐっすり眠っている僕の上に、馬乗りになって僕の胸ぐらを大きく揺すって起こす奴がいた。
彼は大声で言った。
「起きろ~!起きろ~!波乗り波乗り~!」と。
彼は、週末通い組の芸大生たちの、大学からのサーフィン仲間らしく、K荘に来たのはこの日が初めてだった。
初めてなのに、初対面で寝ている僕を思いきり起こすのだった(笑)

「なんだよ、眠いよぉ」と言いながら、ふと目を開けると、その彼の顔が目の前にあった。
彼は、いたずらっ子のような笑顔で僕を揺すり続けた。
しかし、目を開けた僕と、僕を揺すり起こす彼とが、僅か数センチの至近距離で目を合わせた瞬間、僕と彼は同時に、「あっ!」と声を上げて驚いた。
お互いに、その顔に見覚えがあったのだ。
僕は、「キム(仮名)!」と彼の名を呼んだ。
彼もまた、「ぜ、禅蔵⁉」と僕の名を呼んだ。
そしてお互いに、「なっ、なんでお前ここにいるんだよ」「お前こそなんでここに?」などという言葉を交わした。

実は、彼は僕の中学生時代の同級生だった。彼の名前はキム。韓国人だ。
ただ、両親が韓国から日本に来てから彼が生まれたので、彼自身はほとんど韓国語はしゃべれない。ほぼ、日本人と同じだ。だから彼は僕と同じ普通の日本人の中学校に在学していたのだ。
だけど、中学を卒業して以来、彼とは会っていなかった。
そして、考えられないような偶然で、この日このK荘で再会したのは、凡そ4年ぶりだった。

少し前に、吉浜のレストランで、偶然K子とバッタリ会った偶然も驚きだったが、この時にキムと再会したのは更に驚きだった。
キムから見れば、初めて訪ねた場所で、いきなり馬乗りになって激しく揺すり起こしてみたら、それは中学生時代の同級生だったわけだ。
そんな偶然が、ふつう有り得るだろうか?
いや、本当に驚いた。

ただ、キムは、大学で知り合ったサーフィン仲間に誘われて、この日だけ湘南にサーフィンをしに来たそうだ。確か、この時キムは車で来ていたと思う。
そして普段は、その車で千葉の海へ行ってサーフィンをしているとの事だった。
だから、これ以後、キムがK荘に遊びに来る事は無かった。
そして、それ以来キムとは会っていない。

ただ、僕にとって最も考えられないような偶然の再会だったので、上記の通り、この出来事を紹介した。

ほかにも、週末通い組の芸大生たちの中で、取り分け思い出深いサーファーを2人ほど紹介したい。

まず、S井(18歳)。
MやHと同じ東京都内某芸術高校卒業後、某有名芸術大学に入学したサーファーだ。
そして彼の彼女もまた、同芸大生だった。
ある日、僕らはサーフィン仲間10人ほどで、某喫茶店で食事をした。その中には、S井とその彼女もいた。
S井は、その喫茶店に置いてあった週刊誌を手に取った。その週刊誌には、巻頭カラーで数ページに渡り水着姿のグラビア女性の写真が掲載されていた。
S井は、初め何げなくパラパラとそのグラビア写真を見たが、直ぐに凍りついたような衝撃を受けていた。
なんと、その水着姿のグラビア女性は、今まさにS井の隣に座っているS井の彼女だったのだw
S井は、手元の週刊誌と、隣に座っている彼女とを交互に見ながら、次のように言った。
「え~っ⁉ なんだこれ!なんでお前が巻頭カラーのグラビア写真で載ってるわけ⁉」と。
すると彼女は、ちょっと気まずそうに、「えへへ…。バレちゃったかぁw」と言った。そして次のように言葉を続けた。
「たまたまグラビア写真の話しがあって、結構いいお金になるから、ちょっとバイトとしてやってみたw」と。
S井は、「お前、何ナイショでバイトしてんだよ。一言ぐらい言っとけよ」と言った。

同じテーブルで彼らの正面に座っていた僕は、「こいつら、何かスゲーな」と思った。
その週刊誌は、全国的に有名な雑誌だ。巻頭カラーのグラビアは、通常アイドルが水着姿で載ってる。
そのスペースに、数ページに渡って写真を掲載されても、特に周囲に自慢するでもなく、単なるバイトとしてやっていたS井の彼女も凄いし、その彼氏であるS井も、「お前スゴいじゃん」ではなく、「バイトするなら一言ぐらい言えよ」と言っただけだ。
彼らにとって、雑誌に掲載される程度の事は、何ら特別な事ではないのだった。

因みに、僕のルームメイトのHの彼女は、プロのジャズシンガーで、そのマネージャーは、とにかく彼女を売れっ子の有名シンガーに仕立て上げたい。だから彼氏であるHはジャマな存在だった。一方、Hにしてみれば、彼女とのデートを尽くジャマしようとするマネージャーが嫌いだった。Hは穏やかな性格だが、彼女のマネージャーとは、いつもガチで言い争っていた(笑)

更に言えば、鵠沼海岸で、白○さん(25歳)というサーフィン仲間も出来たのだが、白○さんの学生時代からの友人の中には、当時、若者に絶大な人気があった超有名な女性歌手もいた。

そして、以前にも書いた通り、僕の過去のダンス仲間も、数人は芸能界に入っていった。

僕自身は、幾つかのドラマや映画にエキストラ出演し、中には、僕1人のアップで、簡単なセリフのあるシーンも経験させてもらった。その時の撮影現場では、主役や主要キャストの超有名俳優さんたちをその場で待たせながらの、僕1人のセリフシーン撮りだったので、多少緊張した(笑)

要するに、芸能界は、どこか遠くではなく、いつも、かなり身近に存在していた。だから僕は、芸能人を特別視する事が無くなっていったのだった。

そうそう、最近入籍した僕の彼女の親戚にも、現在、CM等で毎日テレビで見かける主役級の有名女優さんもいる。
だが、僕自身は、その女優さんと面識は無いので、テレビを観ながら「あっ、この女優さん、俺の親戚!」などと公言するような事はしない(笑)

さて、もう1人、Mらと同じ芸術高校卒業後、最も有名な某芸術大学に入学した○キ(18歳)というサーフィン仲間を紹介したい。
彼の父は画家で、彼の家は、渋谷駅の直ぐ近くのビルの高層階にあった。
そして彼の部屋は、更に高層階のワンフロア全てが彼の部屋だった。それはもう、部屋というより、恐ろしく広い空間だった。
間違いなく、かなりのお金持ちである事が理解できた。
その○キは、あるとき突然インド旅行に出かけ、帰国すると直ぐに、せっかく入った大学を休学して、今度はアメリカのニューヨークへ旅立って行った。
それ以後、○キの消息を知らない。
ニューヨークの治安の悪い地域で、何かトラブルに巻き込まれたのだろうか。
とにかく、僕は、その後○キと会っていない。

いずれにせよ、個性的な面々であった。




◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~

禅ネタ本6ー諸問題4・中国思想をマネた禅ー

2019-02-17 05:52:49 | 日記
序章 2

諸問題4・「中国思想をマネた禅」

さて、老荘思想を踏襲するような表現が見える仏教文献は、今までに紹介した井上貫道氏の論文や、僧肇の『肇論』、更には道元の「現成公案」だけにとどまらない。
中国に於ける禅宗の第三祖に位置付けられている僧璨(そうさん)(?~606)の作とされる『信心銘(しんじんめい)』には、次のような箇所がある。

【以下引用文】
①智者は無為なり。

②万法を斉しく観ずれば帰復自然なり。

③一は即一切なり、一切は即一なり。

(『景徳傳燈録』第30巻。台湾本、220頁。但し『信心銘』は、第三祖僧璨の作とされてはいるが、僧璨自身に不明な点が多い。)〔①~③の番号は筆者に拠る〕
【以上引用文おわる】

上の引用では、「無為」と「自然」は別々な箇所に見えるものの、〝無為自然(むいじねん)〟即ち、為(な)すこと無く自(おの)ずから然(しか)る、といえば、老荘思想の中心的思想といってよい。
また、「万法」とは、前にも触れたが、一切の存在のことであり、〝万物〟と同義といえる。
従って上の「万法を斉しく」は、『荘子』の万物斉同の思想を踏襲した表現に見える。
尚、「一即一切」については、華厳経との関係も指摘されている。
鎌田氏は、『大乗仏典入門』のなかで、「華厳経の世界観のなかで、一番重要なのは一即多、あるいは逆に多即一という考え方であります。」(『大乗仏典入門』勝又俊教・吉田紹欽編 大蔵出版1999年、101頁。)と述べる。
その一方で、『中国華厳思想史の研究』では、次のように示している。

【以下引用文】
「信心銘」の「一即一切」の場合もそうであるが、これは華厳思想であるとされており、華厳思想が禅のなかにとりいれられたと解釈されている。しかし私は、僧肇的な思惟と、華厳とが結びつく基盤は、荘子にあらわれた万物一体観にあると考える。荘子の斉物論にあらわれた「天地と我と同根、万物と我と一体」という思想が、僧肇において継承発展され、さらに三論宗のなかにも流れていたのではないかと思う。
(『中国華厳思想史の研究』鎌田茂雄著 東京大学出版会1965年、329頁。)
【以上引用文おわる】

尚、三論宗とは、インドの竜樹(ナーガールジュナ.150 ~250頃)の『中論』『十二門論』と、竜樹の弟子、提婆の『百論』の三論を、鳩摩羅什(クマラジーヴァ.343 ~413頃)が漢訳。三論研究は、羅什門下の道生らは江南で、僧肇らは長安で始めた。これを古三論という。その後、僧郎が長安に入り三論を学び、その門下に江南の僧詮~法朗と継承される。これを新三論という。そして、法朗の弟子吉蔵(549~623)が、中国の三論宗を大成。吉蔵は、『三論玄義』(597頃撰)などを著す。
『中論』『十二門論』『百論』の三論は、ともに般若の空思想の論書であるという。
(参考:『仏典入門事典』大蔵経学術用語研究会編 永田文昌堂 2001年。/『三論玄義』仏典講座27 三枝充悳著 大蔵出版 1971。)
その三論宗の事はともかく、上のような引用例に従えば、次のような指摘も可能であろう。

インドに始まった仏教を受け入れる際、計らずも、自国中国の思想、とりわけ老荘思想との類似点に気づき、その思想を再認識するに至った。この結果、中国人の自尊心もあと押しをして、自国の老荘思想を、仏教の場に於いても積極的に推進する結果となった。
一方で後世の禅者らは、老荘思想を内在したままの可能性がある禅の思想を、仏教の一翼を担うものとして受け入れ、受け継いだのではないか。
こうした意味に於いても、前に挙げた伊藤隆寿氏の「鳩摩羅什以後禅宗の人々に至るまで、すべて格義仏教から脱却してはいない」という見解は、「すべて」と言い切るのはやや言い過ぎとしても、基本的には妥当に思う。
加えて言えば、格義仏教のみならず、後の三教一致論が、それらの融合をより強固なものにしていったのではあるまいか。
 
三教一致とは、次のような事である。

張商英(ちょうしょうえい=無尽居士むじんこじ)(1043~1121)が、『護法論』を著し、儒教・仏教・道教の三教の一致を主張。
彼は、宋の時代の著名な居士(こじ)(在家の仏教修行者)のひとりであった。当時は、儒教を尊重するあまり外来の仏教を排斥する者もあったが、一方で、仏教の一翼を担う禅が、士大夫階級に流行していた。士大夫は、政治に携わる官僚であるから、儒教の価値も無視することは出来ない。そこで、儒教と禅の関係を調整する必要が生じた。それぞれの教義内容を極めていくうちに、やがて一教の長所は、他教の短所を補うものとして儒禅一致や三教の調和が唱えられる結果となった。
そうした主張は、張商英の『護法論』のほか、顔丙(がんへい)(如如居士)の『如如居士語録』(のち『如如居士三教大全語録』)、圭堂(けいどう)居士の『仏法大明録』、劉謐(りゅうひつ)の『三教平心論』などにも見えるという。
こうしたことから、叢林(仏教僧たちが修行をする寺院)の国家主義傾向も強まったようである。
尚、後の日本に於いては、神・儒・仏の三教一致の唱導も見られる。
(参考:『禅の思想』伊吹敦 法蔵館 2001年。/『仏教史概説 中国篇』野上俊静・小川貫弌・牧田諦亮・野村耀昌・佐藤達玄 共著 平楽寺書店 1968年。/『中国思想辞典』日原利国編 研文出版 1984年。/『禅の思想辞典』田上太秀・石井修道 編著 東京書籍 2008年。)

ところで、「老荘思想(道家)=道教」という誤解が生じないよう、「道家」と「道教」の比較説明を加えておく。
道家と道教は、同一のものではない。

道家は、春秋戦国時代(前770~前221)に出現する多くの思想学派、いわゆる諸子百家の内のひとつで、老子・荘子の説を奉ずることから老荘思想ともいわれる。
天地のはじめ万物は混沌たる〝道〟から生ずる。その意味で、すべては斉(ひと)しく一(いつ)なるものであり、人為的な作為に拠らない無為自然な営みに身を任せ、足るを知る生き方こそ安らかな理想であるとするのが基本的な立場である。
従って、授かった寿命さえ自然に任せる。

これに対して一方の道教は、寿命を自然に任せようとは考えない。
不老長寿の仙人を理想として目指す宗教なのである。
この点に於いて、道家と道教はまったく異なる。
後者の道教は、後漢の末頃、西暦200年前後に始まる五斗米道(ごとべいどう)(天師道とも称す)や太平道が、老荘思想や仏教教理などを取り入れて成長したものといわれる。
その礼拝対象は、はじめ老子を神格化した老君、或いは太上老君で、6世紀頃からは道を神格化した元始天尊、或いは太上道君、13世紀頃からは黄帝をイメージした玉皇大帝や呂祖が中心になっていったという。
(参考:『中国思想辞典』日原利国編 研文出版 1984年。/『中国思想史』(下)森三樹三郎著 第三文明社 1978年。/『広辞苑』第六版 電子辞書版。)

尚、「道家」という言葉は、『史記』(前漢の司馬遷の撰・前91年頃成立)巻130「太史公自序」の「六家之要指」に使用されたのが初出であるらしい。
また、『老子』と『荘子』を合わせて「老荘」と並称した最も早い例は『淮南子(えなんじ)』(前139年成立)要略篇であるという。
(参考:『道家思想の新研究―『莊子』を中心として』池田知久著 汲古書院 平成21年、132頁。/『史記』(10冊・傳4)〔漢〕司馬遷撰 中華書局、3289頁・3292頁。/『中国哲学史 成立篇』馮友蘭著 柿沼峻・吾妻重二共訳 冨山房 1995年、256頁(下段)/國譯漢文大成『淮南子』國民文庫刊行會 大正10年、國譯・567頁。原文・217頁。/『中国思想辞典』日原利国編 研文出版 1984年、447頁。/『広辞苑』第六版 電子辞書版。)

ただ、「老・荘」という順序で並称するもの以外に、文献によって「荘・老」という順序も見られる。

さて、いずれにせよ禅思想は、老荘などの中国思想を踏襲した側面を多分に含んでいる、という事実を、先ず直視しなければならない。
これを怠ると、真の禅思想と向き合う事は不可能と言ってよい。



『禅ネタ本』
からっぽ禅蔵記す。
◆新・からっぽ禅蔵◆

波乗り雑記帳23ー新生活の始まりー

2019-02-12 08:40:53 | 日記
N野さんを通じてサーフィン中に知り合った細目のサーファーM(18歳)。
そのMが住むアパートK荘は、鵠沼(くげぬま)の海から直ぐ近くの場所にあった。
Mの誘いでK荘にシャワーを浴びに行った僕は、Mのルームメイトと会って驚いた。
そのルームメイトは、先ほど海のなかでドロップインをめぐって僕とトラブった目の大きなサーファーだったからだ。

僕はそのルームメイトに言った。
「お前、さっきドロップインしようとした奴だよな」と。
「してないよ!なのにキミがモンクを言ってただけだ!」と彼は言った。
するとMが割って入った。
「まあまあまあ!メチャクチャ混雑している鵠沼ではよくある事でしょ。これから俺たち3人で一緒に住むんだから、仲良くね!仲良く!」と。
ルームメイトは、「はあ⁉どういう事だよM!」と驚きを隠せない様子だ。
Mは、そのルームメイトに次のように説明した。
「いや、もともと3人でルームシェアする予定だったのに1人ドタキャンしただろ? で、今のまま俺たち2人だけだと家賃の支払いがキツいじゃん。だから、この禅蔵を誘った!3人で家賃を割り勘にしたほうが楽だし、それに、1人でも多いほうが楽しいだろ?」と。
するとそのルームメイトは、「そうか、わかった。Mがそう言うならそうしよう。俺はH。よろしく。禅蔵!」と言って僕に握手を求めてきた。
僕は、内心、「こ、こいつ、切り替え早(ハヤ)!」と思った。同時に、「でも、いい奴かもな」とも思った。
僕は、笑顔で握手に応じた。

このHと名乗った彼も、Mと同様、東京都内の某芸術高校卒で、芸術大学の受験に失敗して浪人中だ。
ただ彼は、僕と同じ年の19歳。
実は彼は、その芸術高校在学中に1年留年して、1学年下のMと同級生になったという。
一方で彼の父親は、進学塾を経営し、そこで教師をしている。
進学塾教師の息子であるHが、高校在学中に留年はするは、大学受験に失敗はするはで、とても親元にいれる雰囲気ではなかったと言う(笑)
サーフィンの腕前も、僕とMは、当時 中級者レベルだったと思うが、Hは、まだ初心者のような下手なところがあった(笑)
しかし、Hは、芸術系らしく とてもオシャレでイケメン。つまらない事に対してはクヨクヨと拘る事がなく、穏やかで、爽やかな人柄だった。その上、当時の男子には珍しく、どこか上品で、料理好きで、コーヒーに至っては、わざわざ豆から挽いてサイフォンで本格的に美味しいコーヒーを入れてくれる人だった。

今思えば、僕は人として生きる上で、或いは、後に僧侶として生きる上でも、彼から多くを学んだように思う。
いや、彼だけではない。
Mからも多くを学んだし、それに、これから怒涛のように知り合う多くのサーフィン仲間たちからも沢山の事を学ばせてもらう事になる。

とにかく、この海の直ぐ近くのアパートK荘で、MとHと、そして僕の3人で、ルームシェアして一緒に住む事になった。

ただ、部屋数は2部屋しかないので、僕は、やや広いMの部屋でMと一緒に寝起きする事にし、やや狭い方の部屋はHが1人で使う事になった。

ちなみにこのアパートは、僕がそれまで住んでいた辻堂からは少し離れた距離にあるので、僕は、それまで勤めた辻堂の新聞販売店を辞めた。
新聞配達という仕事は、早朝より更に早い深夜から始まるので、離れた所から通勤するのは現実的ではないからだ。

さて、前回、「部屋のリビングダイニングには沢山サーフボードとウェットスーツが置かれている」という事を書いた。
その理由は、ここに住み始めて直ぐに知る事になる。


以下はまた次回。



【写真:本文とは無関係。昨日(2/11)、関東圏、特に千葉・茨城で雪が降った。そんな雪のなかサーフィンに行った某海。砂浜は、雪で真っ白だったw 「え~⁉雪でも海に入るの?考えられない!」と思う人には、たぶん、どれだけ説明してもサーフィンの魅力は理解できないと思う。】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~

禅話126ーだまされるな!ー

2019-02-03 07:59:09 | 日記
【ご報告】
しばらくブログの更新を休むつもりでしたが、にほんブログ村さんは、スマートフォン版とPC版の画面切り替えが出来るようになるなど、幾つかの改善が見られたようなので(閲覧履歴などは今もリニューアル中で見れないが)、ブログ記事をアップする事にしました。
但し、以後、当ブログの更新頻度は未定。

以下は本題。


◆潮山和尚〔延宗〕


○原文

問、「如何是学人自己?」
師云、「争受人謾? 」


○試訳

問う、「如何(いか)なるか是れ学人(修行僧)の自己?」
師が云う、「争(いか)でか人の謾(あざむ)きを受く? 」


○超訳

弟子が師匠に問う、「我々修行僧の本来の自己とはどのようなものですか?」
師匠である潮山和尚が云う、「どうして他人のいい加減な言葉をアテにするのだ? 」


※「誰かが考えたお決まりの問答や固定化したフレーズなどをアテにするな!」といった事か。
そうであるならば、僕も全く同感だ。

もう、いいかげん安倍晋三氏に騙され続けるのをやめませんか?
もう、いいかげん一部の人達だけが金儲けするためのオリンピックなんてやめませんか?

少なくとも、「誰かがそう言ってたから」などと言って他人の言葉を鵜呑みにし、他人の言葉に踊らされ、他人が決めた枠組みの中で偽りの安心に浸っていないで、基本的には、自分で考えて自分で行動したいものだ。

勿論、僧侶としての僕は、きちんと定められた作法に則ってご供養等々させて頂いている。
そこは、「何でも自由でいいじゃん♪」というわけにはいかない。
一方で、海での僕は、自分で考えてサーフィンを再開し、自分で行動して波に乗っている。
しかもその波は、誰かが乗った波ではなく、宇宙でただ1度きりの、一期一会の奇跡のような波だ。




◆新・からっぽ禅蔵◆