新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

禅ネタ本18ー悪魔の水か?神の聖水か?ー

2019-08-25 06:28:31 | 日記
序章7

宗教と酒との関係1・「悪魔の水か?神の聖水か?」

さて、神仏習合の影響は、宗教と酒との関係にも少なからず及んでいると思われる。
依って、そのあたりのことにも触れておきたい。

まず、仏教に於いては、在家の仏教信者が守るべき不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の五戒の内にも挙げられている不飲酒戒、すなわち、酒を飲むことを禁ずる戒めがある。
この戒は、出家・在家を問わず守るべきルールのひとつである。
酒は、仏道修行の邪魔になるばかりではなく、人の心を狂わせるものだから禁ずるということらしい。

『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品(ぼんもうきょうるしゃなぶつせつぼさつしんじかいほん)』=『梵網経』(鳩摩羅什訳)に示される菩薩戒は、隋唐以降の中国仏教の基本的な大乗戒として認められ、日本では、日本天台宗の祖・最澄(767~822)が、250戒に及ぶ具足戒を放棄し、この梵網経を拠り所として以降、戒律観に決定的な影響力を持つようになったという。
(参考:『大正新脩大蔵経』巻24。1005頁・b段(参考:SAT大正新脩大蔵経データベース)。/『国訳一切経』律部12。/『仏典入門事典』大蔵経学術用語研究会編 2001年、184頁。)

この『梵網経』には、その戒めに関連して次の如く示している。

【以下引用文】
飲酒は、酒の過失を生ずること無量なり。若し自身の手にて酒器を人に与うるは過ちなりて、五百の世に手無きになり。
(T-24、1005頁、b段。)
【以上引用文おわる】

つまり、飲酒は計り知れないほどの過ちであり、酒を人に勧めて飲ませても、勧めた者は、その後500回生まれかわっても、罪深い手の無い者として生まれるであろう、ということである。

この件(くだり)は、吉田兼好の『徒然草』第176段にも引かれている。

また、各地の禅寺に於いては、
「不許葷酒入山門=葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」
の語が掲げられていることが多い。
葷酒とは、葱(ねぎ)や韮(にら)などのように臭いが強い野菜とアルコール飲料のことで、これらが禅寺に入ることは禁ずるというものだ。

飲酒を禁ずる宗教は仏教だけではない。

イスラームでも、アラビア語で酒を意味するハムルの摂取は、ハラ―ムすなわち禁止行為とされる。

一方、日本では、稲作文化圏ということも影響しているのであろう神事などに於いて酒は、〝御神酒(おみき)〟と呼ばれ、欠くことの出来ないものである。
御神酒は、現在でも祭りや神式結婚式等で、重要な宗教的装置としての役割を果たしている。

アイヌ文化でも、酒はカムイワッカ(神の水)と呼ばれ、平和な暮らしを神に祈る儀式に於いて酒を捧げるという。

日本だけではない。

中国でも祖霊の祭に酒を供えたというし、なによりも、『漢書』巻24下「食貨志第4下」に見える
「酒は百薬の長なり」
の語は有名。

更に、ゾロアスタ―教では、酒自体を神聖なものとみなし、それを飲むことで聖なるものとの結び付きをはかるばかりではなく、酒器までもが神体としてまつられることがあるという。

まだある。

キリスト教では、ぶどう酒とパンがキリストの血と肉にたとえられ、それらを通して神の恵みをいただく。
『旧約聖書』「詩編」104:15に、
「ぶどう酒は人の心を喜ばせる」
と見え、
『新約聖書』「ヨハネによる福音書」2には次のようなエピソードが記載されている。
「ガラリヤのカナで、イエスが婚礼に招かれたおり、ぶどう酒が足りなくなった。そこでイエスは、水がめの水をぶどう酒に変えた」
というのである。

そればかりではない。

キリスト教の修道院生活に於いて、労働は神の恵みへの協力と自己鍛錬の場とされ、一部の修道院ではアルコール飲料の製造も行われている。

ベネディクティン(Benedictine)というアルコール分約43%のフランス産リキュールも、16世紀初頭にベネディクト会修道院で造られたのが最初だという。
(参考:改訂『徒然草』付現代語訳 今泉忠義訳注 角川ソフュア文庫 昭和32年。/『佛教語大辞典』中村元著 縮刷版 東京書籍 昭和56年。/『新版 禅学大辞典』駒澤大学内 禅学大辞典編纂所編 大修館書店2005年。/『宗教学辞典』小口緯一・堀一郎監修 東京大学出版 1973年。/『アイヌ文化の基礎知識』アイヌ民族博物館監修 草風館 1993年。/『漢書』4 志〔1〕中華書局。/『岩波 イスラ―ム辞典』大塚和夫・小杉泰・小松久男・東長靖・羽田正・山内昌之編集 岩波書店 2002年。/『岩波 キリスト教辞典』大貫隆・名取四朗・宮本久雄・百瀬文晃編集 岩波書店 2002年。/『聖書』新共同訳 日本聖書協会。)

さてさて、
個人的な酒に対する好き嫌いはどうでもよいが、
宗教的には、
酒は、悪魔の水なのか?
それとも、
神の聖水なのか?

以下は次回に続く。



【写真:本文とは無関係。
過日サーフィンをした某海。
〝酒〟ではないが、サーファーを気持ち良く酔わせる波。
それは、時として人の命をも奪う悪魔のような存在であり、また時として、極上の体験をもたらす神のような存在でもある。
いずれにせよ、宇宙と大自然が縁起によって作り出すこの波からは、時として、宗教的なインスピレーションさえ感じられる。
いや、自然なる波は、人間がさかしらな知恵で考え出した悪魔や神や宗教以上のものだ、と言っても差し支えないであろう。】
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波乗り雑記帳34ーアンダーグラウンドー

2019-08-18 06:38:08 | 日記
20歳の秋、サーフィン仲間のMと一緒にダブルサイズのビッグウェーブにチャレンジした。
その事は、前回「波乗り雑記帳33」に書いた。

もう1つ、この年の夏には、鎌倉の喫茶Mをクビになった事も以前書いた。
その理由は、僕とK子が住む本鵠沼のアパートで、鎌倉のバイト先の仲間たちを誘ってパーティーを行いハメを外し過ぎたせいだった。

そして、今度は、本鵠沼のアパートを追い出されてしまう事になった。

詳しい理由は明かせないが、やはり、僕とK子がアパートでハメを外し過ぎたせいで近所迷惑になったためだった。
とにかく、大家さんから急に「出ていけ!」と言われてしまった僕とK子は、行き場を失い、一旦、新宿に戻った。
前にも書いたが、東京都新宿区はK子の地元である。

K子は、新宿にいる時も、湘南の本鵠沼にいる時も、仕事はずっと新宿周辺でホステス等の水商売を続けていた。
その関係で、K子はSAさんと出会って意気投合し仲良くなっていた。

SAさんは、吉原のソープ嬢で当時25歳。
因みに吉原という街は、江戸時代から遊廓の街として有名。
また、当時はトルコ風呂からソープランドという名称に変わる過渡期だった。
いずれにせよ、男が女から性的なサービスを受ける場所だ。
そして、SAさんは、そんな街の某ソープランド店でダントツのナンバーワン人気ソープ嬢だった。
それもそのはずで、彼女は、とてもそんな仕事をしているようには見えない清潔感のある知的で美しい女性だった。

若い頃の僕は、本当に多くの女の子たちと遊んだが、物凄く美しい女性というのは 僅か数人にとどまる。
SAさんはその物凄く美しい女性の内の1人で、大袈裟ではなく、本当に、後光がさしているというか、オーラがあってキラキラ輝いて眩しいほどの女性だった。
因みに、SAさんを現在の芸能人に例えると、吉岡里帆さんにちょっと似ているかも知れない。(特に、どん兵衛のCMのどんぎつね役の吉岡さんのイメージ。但し、吉岡里帆さんご本人に、SAさんほどのオーラが有るかどうかは僕は知らない。)
とにかくSAさんは、ダントツのナンバーワンソープ嬢なので、当然かなりの高収入だった。
東京都内の某所に、彼女が独り暮らしで住むマンションの一室があった。
そこに、僕も何度か遊びに行ったが、恐ろしく広い部屋で、家具やソファーや置時計は超高級品ばかりで揃えられていた。

特に記憶に残っているのは、ナポレオンという洋酒。
いや、ナポレオンにも幾つか種類があるらしいし、そもそもナポレオンは、そんなに驚くほど高額なものでもないとは思うが、彼女の部屋にあったナポレオンは、ボトル瓶そのものがナポレオンの形をしていた。
「こ、こんなビンのナポレオンがあるんだあ…」と思って驚いたのを覚えている。

尚、僕は、お金を払って性的なサービスを受けた事は1度も無いし、そういった店に出入りした事も全く無い。
ただ、SAさんとは個人的に仲良くさせてもらった。

さて、そんなSAさんは、実は結婚詐欺にあっていた。

SAさんは、はじめ普通の会社員だった。
その頃、自称プロゴルファーの男に結婚詐欺にあって、騙されてソープランドで働くハメになったそうだ。
SAさんは、それを警察に相談したが、警察は全く動いてくれなかった。
男女がベッドで交わした「結婚する」だの「しない」だのの話しでは、当時の警察は全く動かなかったそうだ。
そこでSAさんは、今度は弁護士に相談した。
すると弁護士は、「明らかに結婚詐欺の被害を受けた」という証拠を集める事をSAさんに提案した。
こうしてSAさんは、たった1人で、自ら証拠収集の活動を開始する。
実は結婚詐欺の加害者である自称プロゴルファーの男は、同じような手口で複数の女性を騙していた。
つまりSAさん以外にも複数の被害女性がいる。
そこでSAさんは、その被害女性たちを探し出し、「一緒に訴え出てほしい」「私も同じ手口で騙されたと証言してほしい」と頼んで回った。
ところが、同じ手口で騙された女性たちは、このSAさんの申し出を尽く断った。
なぜなら、女性たちは皆、新たな彼氏と仲良くやっているとか、もう別の男性と結婚して幸せに暮らしているなどの理由で、「だからもう過去の事は思い出したくない」「あの男に騙された事はもう忘れたい」と言うのであった。
証拠集めは難航した。

彼女の部屋で、高級なソファーに座って美味しいブルーマウンテンのストレートコーヒーを頂きながら、僕はその話しを聞いた。

そこで僕は、SAさんに次のように言った。
「SAさんは、その男に騙されて辛い思いをしているのに、警察も動いてくれない。弁護士が言うように証拠を集めようとしても誰も証言してくれない。それじゃあもう どうしようもないじゃん!公的に処罰出来ないなら、俺がその男を殺してやるよ。〝必殺仕事人〟みたいに、闇夜に後ろからブスッとね」と。
まあ、当時20歳の愚かな発言だった。
尚、「必殺仕事人」というのは、当時テレビで放映されていた時代劇で、公的に裁けない悪人を仕事人が闇夜にこっそりと殺していく、というストーリー。

さて、僕より5歳年上で当時25歳のSAさんは、この僕の提案に、一瞬真剣に考える表情を浮かべたが、直ぐにいつもの優しい穏やかな顔に戻って次のように言った。
「あはは、そうね。どうしてもダメだったら禅蔵くんに頼もうかなあ。でも、まだまだ私は負けないよ!証拠集めは続けてみようと思う! だから、人を殺すなんて考えちゃダメだよ禅蔵くん」と。
そう言って彼女は、コーヒーをもう1杯入れてくれた。
そして次のように言葉を続けた。
「でも、ありがとうね禅蔵くん。私の事、そんなに考えてくれて」と。

その後、SAさんはそれまで以上に証拠集めに力を注いだ。
すると、はじめ「協力できない」と言っていた他の被害女性たちにも、SAさんの熱意が通じて証言してくれる事になり、いよいよ弁護士も動き出した。
そして、裁判が行われた。
ついに、結婚詐欺師である自称プロゴルファーの男を法的に裁く事に成功した。

この、SAさんほか何人かの女性が結婚詐欺の被害にあい、SAさんの活動によって加害者男性を裁いた一連の事案は、当時の某女性週刊誌に巻頭7頁にも及ぶ特集記事として掲載されたほどだった。

そして、その後のSAさんはソープランドを辞めて、某地方の地主さんの家に嫁入りした。

僕は、その相手の旦那さんと1度だけお会いしたが、その旦那さんは、SAさんが過去ナンバーワンソープ嬢であった事も、週刊誌に特集されるほどの記事の当事者であった事も知らない。

SAさんは、美しいだけではなく優しい人なので、その旦那さんを大切にした。
そのために、結婚後は、過去の繋がりを全て断ち切るため、僕やK子とも会わなくなった。

ただ、数年後に、SAさん夫婦には、女の赤ちゃんが誕生したとの事を風のうわさで聞いた。
おそらく今は、その娘さんは、当時のSAさんのようにオーラがあるほど美しい大人の女性に成長している事だろう。

SAさん、ご家族と一緒にいつまでもお幸せに。

「事実は小説よりも奇なり」
これは、世の中の実際の出来事は小説なんかよりも奇妙不可思議でドラマチックでさえある、というような意味の言葉だが、まさに、SAさんの人生を表しているような言葉だと思う。
いや、SAさんの人生だけではない。
誰かが机上で考えた小説と称する〝おはなし〟よりも、現実の人々の人生体験のほうが、遥かにドラマチックだ。

(以下は次回に続く)



【写真:本文とは無関係。
先日、いつものように日の出と共にサーフィンをした早朝の某海。】
◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~

禅ネタ本17ー僧形八幡神と七福神ー

2019-08-11 06:21:06 | 日記
序章6

庚申塚と神仏習合2・「僧形八幡神と七福神」

また、神仏習合は仏像にも現わされている。
僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)である。

この僧形八幡神に触れる前に、先に仏像の誕生について一言したい。

仏教は、紀元前5世紀頃に起きたとされるが、当初は仏像崇拝の習慣はなかった。
仏像は、紀元1世紀頃から、中央インドのマトゥラーと、西北インドのガンダ―ラなどで製作が開始されたようである。
20世紀初頭、フランスのアルフレッド・フーシェ(1865~1952)は、ガンダ―ラ仏はギリシャ美術の影響を受けていると唱えた。
但し、仏像が製作された1世紀頃には、ガンダ―ラに於いてギリシャ人が活発に活動した形跡がほとんど無いなどの理由で、フーシェの説に批判的意見もあるという。
(参考:『インド思想史』第2版 中村元著 岩波全書 1968年、77頁・120頁。/『ブッダ‐大いなる旅路』3 石田尚豊監修 NHK出版、1998年、30頁。/『ガンダーラ考古遊記』アルフレッド・フーシェ著 前田耕作監修 前田龍彦・前田寿彦訳 同朋舎 1988年。)

仮に、フーシェの説が正しいとした場合、ギリシャ彫刻の影響を受けて誕生したガンダ―ラの仏像は、その後、幾多の変遷を経た後、今度は日本の八幡神と融合した可能性も否定出来ないと言ったら過言であろうか。

さて、神仏習合の僧形八幡神は、剃髪した仏教僧形が表現されている。
特に、東寺、薬師寺、東大寺のものが有名。
(参考:『仏像案内』佐和隆研編 吉川弘文館 昭和38年。)

尚、江戸時代の国学者である本居宣長(もとおりのりなが 1730~1801)は、儒教や仏教を排して古道に帰すべきを説いた。
神仏習合の象徴ともいえる八幡神に「菩薩」を付した「八幡大菩薩」に対して、宣長は、「まがまがしき号」と批判したという。
(参考:『日本仏教文化史』袴谷憲昭著 大蔵出版 2005年、102頁~103頁。 /『広辞苑』第6版 電子辞書版)

しかしここでは、八幡大菩薩、或いは僧形八幡神を、シンクレティズムの実例として挙げたものである。
従って、その是非は今は問題視しない。

木村清孝氏は、僧形八幡神について次のように説明しているので引いておきたい。

【以下引用文】
八幡神は、もとは北九州の海の神、あるいは銅山の神だったらしいが、応神(おうじん)天皇の霊と重ね合わされてから有力になったようである。この神は早くから仏教との関わりを深め、平安初期には菩薩の一人に昇格して「八幡大菩薩」となっている。(中略)また、有名な東大寺の「僧形八幡」は鎌倉時代に入ってから作られたものだが、この尊容自体は、やはり平安初期には成立したといわれる。
(『仏教の思想』木村清孝 放送大学教育振興会 2005年、206頁。)
【以上引用文おわる】

なるほど。いずれにせよ日本神道の八幡神と外来仏教の菩薩との融合は、神仏習合を象徴する代表的現象のひとつであろう。
ほかに、習合、折衷した例として、例えば張宏傑(ちょうこうけつ)氏は、「敦煌の石窟院の壁画にある有名な飛天は、インドの乾達婆、ギリシャの天使、道教の羽人などの多元的な形象の混合物である」と述べている。
(『中国国民性の歴史的変遷―専制主義と名誉意識―』張宏傑著 翻訳:小林一美・多田狷介・土屋紀義・藤谷浩悦 集広舎 平成28年、98頁。)

更に、日本では、室町時代末頃から始まったという七福神信仰が興味深い。

これは、インド・中国・日本の三国から選ばれた七神が宝船に乗った形体のものである。

インド起源の大黒天は、シヴァ神の別名マハーカ―ラ(「マハー」は「大きな」、「カーラ」は「黒い」の意)を直訳したもので、日本の大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合したという。

同じくインド起源の弁才天は、もとはインドのサラスヴァティーという川の女神。

毘沙門天もインドの神で、四天王に於いては多聞天と名を変えている。

日本起源の恵比寿は、もと兵庫県西宮神社の祭神・蛭子命(ひるこのみこと)であるという説と、島根県美保神社の主神・事代主命(ことしろぬしのみこと)から成るとする2説があるという。

中国起源は、福禄寿・寿老人・布袋の3神であり、前2神は、道教に於いて重視されているようである。
一方の布袋は、『景徳傳燈録』巻27などにも見える10世紀頃に生きた明州(浙江省)出身の禅僧である。
(参考:『ヒンドゥー教‐インドの聖と俗』森本達雄著 中公新書 2003年。/『神道辞典』安津素彦・梅田義彦監修 堀書店 昭和43年。/『新版 禅学大辞典』駒澤大学内 禅学大辞典編纂所編 大修館書店 2005年。/『仏教 早わかりエッセンス事典』現代仏教を考える会著 草輝出版 1988年。/『景徳傳燈録』宋・釋道原編著 新文豊出版。/『広辞苑』第6版 電子辞書版。)

厳選された7人の神々のなかに、禅僧が含まれているのはおもしろい。
つまり布袋は、仏教の禅宗僧侶でありながら、七福神の神でもある、という事になる。

また、仏教に取り入れられた大黒天像は、食物の神として寺院の台所に安置されることがあり、弁才天や毘沙門天像なども、幾つかの仏教寺院で見られることは言うまでもないであろう。

とにかく、前にも書いたが、禅も含めて純粋なる仏教たるものは存在しない。
禅・仏教は、他の宗教や思想等々と複雑に影響し合い、様々に混ざりあっているのが実状だ。
従って、「坐禅は良いが中国古典思想はダメだ」とか、「仏教は良いが神道はダメだ」などと明確に分けて単純な優劣を付けて線引き出来るようなものではない。
もしも、そのような線引きをする者がいたなら、その者は、仏教や宗教の変遷について全くの無知だと指摘しなければならない。

まあ、物事すべてに言える事だが、「これはこうだ!」とか「あの人はこうだ! 」等々と、線引きして決めつけておくほうが楽なのは分かる。
しかし、それでは真実と向き合う事は不可能だ。


【写真:本文とは無関係。
先日サーフィンをした某海。写っているサーファーは僕ではなく、たまたま写りこんだ他人。
さて、サーフィンも、「この波はこうだ!」と線引きして決めつけていては上手く乗りこなす事は出来ない。
波は、月との引力による潮の干満や、気象等々さまざまな原因が影響して起きる。
まさに縁によって起きる〝縁起〟である。
そして、〝諸行無常〟に一瞬もとどまる事なく動き続けるその波に乗るには、「俺はこう乗りたい!」という自我から離れ、臨機応変に波の動きに合わせるしかない。そうすれば、自然との一体感を味わえる。
だが、今乗った波は一瞬で消え去り、同じ波はもう2度と来ない。
〝一期一会〟そのものなのだ。】
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◆新・からっぽ禅蔵◆

波乗り雑記帳33ードルフィンスルーー

2019-08-04 07:21:37 | 日記
台風の接近により、ダブルサイズのビッグウェーブが鵠沼海岸に押し寄せた日、僕は、この大波にトライするために海に入った。
だが、間髪おかず押し寄せる大波に押し戻されて、一旦、岸に上がった。
その波打ち際で、少し前まで一緒にルームシェアしていたMと再会した。

Mも、この大波にトライしようとしたが、僕と同じく、アウト(沖)に出れなくて一旦 岸に上がった所だった。

因みに、MのルームメイトであるHや、僕と一緒に暮らしているK子は、この日のビッグウェーブにはチャレンジしなかった。
僕とMよりも、ややサーフィンレベルが劣るHやK子には、この大波は全く無理な話しだったのだ。

いや、僕とMでさえ、アウトに出れずに一旦 岸に上がった所だったわけだ。

「どうする?」
「う~ん」などと僅かな言葉は交わしたが、あとはほとんど無言のまま、僕とMは、遥か沖から次々にやって来る大波を見ながら岸辺を歩いた。

ふと、僕らは立ち止まった。

そして、次のような会話をした。
「この辺、波が切れてない?」
「ああ、カレント(沖に向かう離岸流)があるんじゃね。」
「こっから沖に出れないかな?」
「確かに!波が途切れた時に上手くカレントに乗れば、アウトに出れるかも。」
「やるか!」
「よし!もう一度やってみよう!」と。

こうして僕とMは、大波の海に入って沖へ向かってパドリングを開始した。

途中、僕らは、ダブルの大波のセットを何度か食らった。
目の前でそのビッグウェーブが炸裂するたびに、僕らは大声で「うわあああ!怖え~よ~!」「マジ怖え~!」などと叫んだ。
それは、ふざけて叫んでいるのだが、内心本気で怖かった。
だが、大声で叫ぶ事で恐怖心が和らいだのは事実だ。
何よりも、1人ではその恐怖に打ち勝つ事は不可能だった。
2人一緒のチャレンジだったからこそ、出来た事だ。

ただ、この時の僕とMのゲティングアウト(沖へ向かってパドルアウトする事)のやり方には、大きな違いがあった。
その事は、40年近く経った今もハッキリ記憶している。

Mの場合はこうだ。
巨大な大波が目の前で炸裂するたびに、彼は、自らのサーフボードを放り出して、自分だけ水中に深く潜った。
こうすれば、本人はあまり激しく波に巻かれる事は無い。
だが、浮力の強いボードは、巨大な大波のパワーで持って行かれるので、自らの足首とボードを繋ぐリーシュコードに強い負担がかかり、自らは、自らのボードとリーシュコードにズルズルと引っ張られる事になる。
ヘタをすれば、リーシュコードは足首から外れてしまったり、切れてしまう可能性もある。

一方、僕は、どれほど巨大な大波が目の前で炸裂しても、自らのボードを放り出すような事はせず、必ずドルフィンスルーを試みた。
勿論、波がデカ過ぎて、僕のドルフィンスルーなどは全く通用せず、僕と僕のボードは、モロに大波に巻かれる。
かなり苦しいが、リーシュコードへの負担は少なくて済む。
実は、僕がリーシュコードに負担をかけないようにするのには、ハッキリとした理由があった。

以前書いた通り、この前の年、僕は茅ヶ崎の海で溺れ死にそうになった。それは、リーシュコードが切れた事が原因だった。幸い、自らの泳力のみで生還出来たから良かったものの、この日のダブルの大波の中でリーシュコードが切れて岸まで泳ぐハメにはなりたくはない。
だから僕は、どんなに巨大な大波を食らう時にも、ドルフィンスルーをするようにしているのだった。

おそらく、巨大な大波が目の前で炸裂したとき、Mのようにボードを放り出して自分は潜るか、或いは、僕のようにダメもとでドルフィンスルーを試みるか、どちらにするか迷うサーファーも少なくないのではなかろうか。

さて、それはともかく、そうこうしているうちに僕とMは沖へ出れた。

遥か沖合いから やって来るウネリは、どんどん大きくなって巨大な水の壁となり、その高さがピークに達すると、恐ろしい地鳴りのような音を立ててスープ(ホワイトウォーター)をブレイクさせる。
その水量はハンパではなく、巨大な滝か、或いは、雪山で起きる巨大な雪崩れにも似ている。
それを間近で見ると、改めてダブルの大波の恐ろしさを痛感する。

この大波に、確かMは2~3本乗ったが、上に書いた通り、リーシュコードに負担をかけすぎたためか、再度ゲティングアウトする時にリーシュコードが外れてボードが一気に岸辺まで流され、M本人は泳いで岸へ戻った。
一方、僕は、この大波に1本しか乗らなかった。

そのライディングはこうだ。

テイクオフの瞬間、ウネリのテッペンから波のボトム(海水面)を見おろすと、2階建ての建物の2階から地面を見おろすほどの高さがあった。
そこから飛び降りるような感覚でテイクオフする。
長いスロープを滑り降りながら、フロントサイドに向かうが、その大波は、進行方向のショルダーも一気に切り立ってダンパーブレイクし始めた。
その大波は、巨大な雪崩れのように崩れて僕を飲み込もうとする。
僕は、ボードのノーズを岸に向けて波を滑り降り、その波のスープに乗って岸まで戻った。
特に何も出来ず ただテイクオフしただけだったが、その波は、それまでの僕が乗った最大級のビッグウェーブとなった。

ただ、この日の大波に、僕よりも数本多く乗ったMは、間違いなく、僕以上のビッグウェーバーだと認めたい。

さすがだな、M!


(以下は次回に続く)



【写真:本文とは無関係。先日、サーフィンをした某海の小波。】
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