序章7
宗教と酒との関係1・「悪魔の水か?神の聖水か?」
さて、神仏習合の影響は、宗教と酒との関係にも少なからず及んでいると思われる。
依って、そのあたりのことにも触れておきたい。
まず、仏教に於いては、在家の仏教信者が守るべき不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の五戒の内にも挙げられている不飲酒戒、すなわち、酒を飲むことを禁ずる戒めがある。
この戒は、出家・在家を問わず守るべきルールのひとつである。
酒は、仏道修行の邪魔になるばかりではなく、人の心を狂わせるものだから禁ずるということらしい。
『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品(ぼんもうきょうるしゃなぶつせつぼさつしんじかいほん)』=『梵網経』(鳩摩羅什訳)に示される菩薩戒は、隋唐以降の中国仏教の基本的な大乗戒として認められ、日本では、日本天台宗の祖・最澄(767~822)が、250戒に及ぶ具足戒を放棄し、この梵網経を拠り所として以降、戒律観に決定的な影響力を持つようになったという。
(参考:『大正新脩大蔵経』巻24。1005頁・b段(参考:SAT大正新脩大蔵経データベース)。/『国訳一切経』律部12。/『仏典入門事典』大蔵経学術用語研究会編 2001年、184頁。)
この『梵網経』には、その戒めに関連して次の如く示している。
【以下引用文】
飲酒は、酒の過失を生ずること無量なり。若し自身の手にて酒器を人に与うるは過ちなりて、五百の世に手無きになり。
(T-24、1005頁、b段。)
【以上引用文おわる】
つまり、飲酒は計り知れないほどの過ちであり、酒を人に勧めて飲ませても、勧めた者は、その後500回生まれかわっても、罪深い手の無い者として生まれるであろう、ということである。
この件(くだり)は、吉田兼好の『徒然草』第176段にも引かれている。
また、各地の禅寺に於いては、
「不許葷酒入山門=葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」
の語が掲げられていることが多い。
葷酒とは、葱(ねぎ)や韮(にら)などのように臭いが強い野菜とアルコール飲料のことで、これらが禅寺に入ることは禁ずるというものだ。
飲酒を禁ずる宗教は仏教だけではない。
イスラームでも、アラビア語で酒を意味するハムルの摂取は、ハラ―ムすなわち禁止行為とされる。
一方、日本では、稲作文化圏ということも影響しているのであろう神事などに於いて酒は、〝御神酒(おみき)〟と呼ばれ、欠くことの出来ないものである。
御神酒は、現在でも祭りや神式結婚式等で、重要な宗教的装置としての役割を果たしている。
アイヌ文化でも、酒はカムイワッカ(神の水)と呼ばれ、平和な暮らしを神に祈る儀式に於いて酒を捧げるという。
日本だけではない。
中国でも祖霊の祭に酒を供えたというし、なによりも、『漢書』巻24下「食貨志第4下」に見える
「酒は百薬の長なり」
の語は有名。
更に、ゾロアスタ―教では、酒自体を神聖なものとみなし、それを飲むことで聖なるものとの結び付きをはかるばかりではなく、酒器までもが神体としてまつられることがあるという。
まだある。
キリスト教では、ぶどう酒とパンがキリストの血と肉にたとえられ、それらを通して神の恵みをいただく。
『旧約聖書』「詩編」104:15に、
「ぶどう酒は人の心を喜ばせる」
と見え、
『新約聖書』「ヨハネによる福音書」2には次のようなエピソードが記載されている。
「ガラリヤのカナで、イエスが婚礼に招かれたおり、ぶどう酒が足りなくなった。そこでイエスは、水がめの水をぶどう酒に変えた」
というのである。
そればかりではない。
キリスト教の修道院生活に於いて、労働は神の恵みへの協力と自己鍛錬の場とされ、一部の修道院ではアルコール飲料の製造も行われている。
ベネディクティン(Benedictine)というアルコール分約43%のフランス産リキュールも、16世紀初頭にベネディクト会修道院で造られたのが最初だという。
(参考:改訂『徒然草』付現代語訳 今泉忠義訳注 角川ソフュア文庫 昭和32年。/『佛教語大辞典』中村元著 縮刷版 東京書籍 昭和56年。/『新版 禅学大辞典』駒澤大学内 禅学大辞典編纂所編 大修館書店2005年。/『宗教学辞典』小口緯一・堀一郎監修 東京大学出版 1973年。/『アイヌ文化の基礎知識』アイヌ民族博物館監修 草風館 1993年。/『漢書』4 志〔1〕中華書局。/『岩波 イスラ―ム辞典』大塚和夫・小杉泰・小松久男・東長靖・羽田正・山内昌之編集 岩波書店 2002年。/『岩波 キリスト教辞典』大貫隆・名取四朗・宮本久雄・百瀬文晃編集 岩波書店 2002年。/『聖書』新共同訳 日本聖書協会。)
さてさて、
個人的な酒に対する好き嫌いはどうでもよいが、
宗教的には、
酒は、悪魔の水なのか?
それとも、
神の聖水なのか?
以下は次回に続く。
【写真:本文とは無関係。
過日サーフィンをした某海。
〝酒〟ではないが、サーファーを気持ち良く酔わせる波。
それは、時として人の命をも奪う悪魔のような存在であり、また時として、極上の体験をもたらす神のような存在でもある。
いずれにせよ、宇宙と大自然が縁起によって作り出すこの波からは、時として、宗教的なインスピレーションさえ感じられる。
いや、自然なる波は、人間がさかしらな知恵で考え出した悪魔や神や宗教以上のものだ、と言っても差し支えないであろう。】
からっぽ禅蔵記す
◆新・からっぽ禅蔵◆
宗教と酒との関係1・「悪魔の水か?神の聖水か?」
さて、神仏習合の影響は、宗教と酒との関係にも少なからず及んでいると思われる。
依って、そのあたりのことにも触れておきたい。
まず、仏教に於いては、在家の仏教信者が守るべき不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の五戒の内にも挙げられている不飲酒戒、すなわち、酒を飲むことを禁ずる戒めがある。
この戒は、出家・在家を問わず守るべきルールのひとつである。
酒は、仏道修行の邪魔になるばかりではなく、人の心を狂わせるものだから禁ずるということらしい。
『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品(ぼんもうきょうるしゃなぶつせつぼさつしんじかいほん)』=『梵網経』(鳩摩羅什訳)に示される菩薩戒は、隋唐以降の中国仏教の基本的な大乗戒として認められ、日本では、日本天台宗の祖・最澄(767~822)が、250戒に及ぶ具足戒を放棄し、この梵網経を拠り所として以降、戒律観に決定的な影響力を持つようになったという。
(参考:『大正新脩大蔵経』巻24。1005頁・b段(参考:SAT大正新脩大蔵経データベース)。/『国訳一切経』律部12。/『仏典入門事典』大蔵経学術用語研究会編 2001年、184頁。)
この『梵網経』には、その戒めに関連して次の如く示している。
【以下引用文】
飲酒は、酒の過失を生ずること無量なり。若し自身の手にて酒器を人に与うるは過ちなりて、五百の世に手無きになり。
(T-24、1005頁、b段。)
【以上引用文おわる】
つまり、飲酒は計り知れないほどの過ちであり、酒を人に勧めて飲ませても、勧めた者は、その後500回生まれかわっても、罪深い手の無い者として生まれるであろう、ということである。
この件(くだり)は、吉田兼好の『徒然草』第176段にも引かれている。
また、各地の禅寺に於いては、
「不許葷酒入山門=葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」
の語が掲げられていることが多い。
葷酒とは、葱(ねぎ)や韮(にら)などのように臭いが強い野菜とアルコール飲料のことで、これらが禅寺に入ることは禁ずるというものだ。
飲酒を禁ずる宗教は仏教だけではない。
イスラームでも、アラビア語で酒を意味するハムルの摂取は、ハラ―ムすなわち禁止行為とされる。
一方、日本では、稲作文化圏ということも影響しているのであろう神事などに於いて酒は、〝御神酒(おみき)〟と呼ばれ、欠くことの出来ないものである。
御神酒は、現在でも祭りや神式結婚式等で、重要な宗教的装置としての役割を果たしている。
アイヌ文化でも、酒はカムイワッカ(神の水)と呼ばれ、平和な暮らしを神に祈る儀式に於いて酒を捧げるという。
日本だけではない。
中国でも祖霊の祭に酒を供えたというし、なによりも、『漢書』巻24下「食貨志第4下」に見える
「酒は百薬の長なり」
の語は有名。
更に、ゾロアスタ―教では、酒自体を神聖なものとみなし、それを飲むことで聖なるものとの結び付きをはかるばかりではなく、酒器までもが神体としてまつられることがあるという。
まだある。
キリスト教では、ぶどう酒とパンがキリストの血と肉にたとえられ、それらを通して神の恵みをいただく。
『旧約聖書』「詩編」104:15に、
「ぶどう酒は人の心を喜ばせる」
と見え、
『新約聖書』「ヨハネによる福音書」2には次のようなエピソードが記載されている。
「ガラリヤのカナで、イエスが婚礼に招かれたおり、ぶどう酒が足りなくなった。そこでイエスは、水がめの水をぶどう酒に変えた」
というのである。
そればかりではない。
キリスト教の修道院生活に於いて、労働は神の恵みへの協力と自己鍛錬の場とされ、一部の修道院ではアルコール飲料の製造も行われている。
ベネディクティン(Benedictine)というアルコール分約43%のフランス産リキュールも、16世紀初頭にベネディクト会修道院で造られたのが最初だという。
(参考:改訂『徒然草』付現代語訳 今泉忠義訳注 角川ソフュア文庫 昭和32年。/『佛教語大辞典』中村元著 縮刷版 東京書籍 昭和56年。/『新版 禅学大辞典』駒澤大学内 禅学大辞典編纂所編 大修館書店2005年。/『宗教学辞典』小口緯一・堀一郎監修 東京大学出版 1973年。/『アイヌ文化の基礎知識』アイヌ民族博物館監修 草風館 1993年。/『漢書』4 志〔1〕中華書局。/『岩波 イスラ―ム辞典』大塚和夫・小杉泰・小松久男・東長靖・羽田正・山内昌之編集 岩波書店 2002年。/『岩波 キリスト教辞典』大貫隆・名取四朗・宮本久雄・百瀬文晃編集 岩波書店 2002年。/『聖書』新共同訳 日本聖書協会。)
さてさて、
個人的な酒に対する好き嫌いはどうでもよいが、
宗教的には、
酒は、悪魔の水なのか?
それとも、
神の聖水なのか?
以下は次回に続く。
【写真:本文とは無関係。
過日サーフィンをした某海。
〝酒〟ではないが、サーファーを気持ち良く酔わせる波。
それは、時として人の命をも奪う悪魔のような存在であり、また時として、極上の体験をもたらす神のような存在でもある。
いずれにせよ、宇宙と大自然が縁起によって作り出すこの波からは、時として、宗教的なインスピレーションさえ感じられる。
いや、自然なる波は、人間がさかしらな知恵で考え出した悪魔や神や宗教以上のものだ、と言っても差し支えないであろう。】
からっぽ禅蔵記す
◆新・からっぽ禅蔵◆