新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

十二因縁・四禅・如来禅・祖師禅

2010-05-27 09:08:59 | 日記
今回は『景徳伝灯録』から離れて、以下の引用文をメモしておく。
私は、仏教思想の核心は“縁起”であり、“縁起”には、無我説や空の思想も含まれると思っている。

その意味で、「十二因縁」は重要だと考える。
それ以外は、一応知っておこうと思う程度のメモである。


◆十二因縁
無明・行・識・名色・六処・触・受・取・有・生・老死。
〔過去、二因〕
無明(無知)・行(潜在的形成力)
〔現在、五果〕
識(識別作用)、名色(名称と形態、または精神と物質、心身)、六処(心作用の成立する六つの場、眼、耳、鼻、舌、身、意)、触(感官と対象との接触)、受(感受作用)
〔現在、三因〕
愛(盲目的衝動、妄執、渇きに例えられるもの)、取(執着)、有(生存)
〔未来、二果〕
老死(無常な姿)


◆四禅
〔初禅〕以下の五つの働きのみが残る状態。
①ハッキリと認識される対象を探す働き「ヴィタルカ」
②なかなかに微細で捉えにくい「ヴィチャーラ」
③喜び「ピーティ」
④楽「スカ」
⑤心一境性「エーカンガタ」。
〔第二禅〕上記①が生じなくなった状態
〔第三禅〕上記②が生じなくなった状態
〔第四禅〕上記③も生じなくなった境地 。
上記は、色界の四禅。
この後、さらなる微細な心の働きのみが存在する境地に入っていく。そして無色界禅の四種類(釈尊が仙人の元で体験したもの)、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処。
そして最終的に いかなる心の働きも生じない状態へ。


◆如来禅
中国と日本の禅宗の禅を、他の禅と区別して、如来禅、または、祖師禅という。如来から伝わった禅を達磨が中国に伝えたから如来禅という。


◆祖師禅
達磨が正伝した禅という意味。
特に南宗系の禅をいう。宗密は禅を、外道禅、凡夫禅、小乗禅、大乗禅、如来清浄禅の五種となしたが、後生の禅者は、宗密の如来禅もなお理に走って、真の禅を示したものではないとし、真禅を伝えた南宗禅を祖師禅と名付け、これを如来禅の上に置いた。この語を最初に使用したのは仰山慧寂「師曰、汝只得如来禅、未得祖師禅。」『景徳伝灯録』巻十一より。


上記すべて某参考書数冊より引用。
参考書名:省略


合掌
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景徳伝灯録・6( 即心是仏)

2010-05-22 08:48:07 | 日記
テキスト135頁。1行飛ばして7行目から。

「一日有大徳問師曰、即心是仏又不得、非心非仏又不得、師意如何。師云、大徳且信即心是仏便了、更説什麼得與不得。只如大徳喫飯了、従東廊上、西廊下不可總問人得與不得也。」

〔一日大徳有りて師に問うて曰く、「即心是仏というも又得ず、非心非仏というも又得ず、師の意は如何に」。師云く、「大徳よ、しばらく即心是仏を信ずれば便了す。更に何の得と不得を説かん。例えば大徳の飯を喫し終わって東廊より上がり、西廊に下るに、総て人に得と不得とを問うべからず」。〕


◆解説
○一日は、ある日の事。
○大徳は、ここでは学者(修行僧)
○即心是仏、同『景徳伝灯録』巻七、南嶽第二世、馬祖嗣、大梅法常の章「問、如何是仏。大寂(馬祖)云、即心是仏。師(大梅常)即大悟。」〔問う、「如何なるか是れ仏」。馬祖云く「即心是仏」。師(大梅常)即ち大悟す。〕その後、馬祖は“即心是仏”の硬直化した理解、或いは、“即心是仏”に対する執着や誤解を避けるため、アンチテーゼとして“非心非仏”を云う。
更に数百年後、日本の道元が『正法眼蔵』「即心是仏」の章を著す。
○便了は、けりがつくの意。
○只如は、たとえばと読む。


以下、私見を交えて。

この問答は、飯を喫する事や、東や西への動作に対して、いちいち良いとか悪いとか問うべからず、つまり、“即心是仏”や“非心非仏”について、どちらが良いとか悪いとか、「得よう」とか「得れない」とか、そういった問題を持ち込むな。という事だと理解してみた。
「得る」「得れない」、「知る」「知れない」の類いではない。と言いたいのだろう。

例えば、同じく南泉の言葉に、「道は、“知”にも属せず、“不知”にも属せず、知はこれ妄覚、不知はこれ無記。」(『無門関』19)というのがある。

また、南泉の師、馬祖も『景徳伝灯録』の中で次のように云う。
「道は修するを用いず、但だ汚染すること莫れ。」
後に、道元禅師もこの辺りから影響を受けたであろう。『普勧坐禅儀』の中で「所謂坐禅は習禅には非ず」と云っている。

更に、私自身、ある坐禅会で、ある参禅者さんに質問された。
参禅者さん「私は毎日坐禅しているのですが、どうもイマイチ坐禅がわからない。禅蔵さんみたいに大学で禅を学んだら、坐禅がわかるようになりますか?」
私「毎日坐禅をなさっているのですか?それでしたら、もうそれで充分ではございませんか?」

“坐禅をしている”という事実で、ご自分の決着がついているはずなのに、まだその事実以外に「何かあるんじゃないか」と頭でお考えなのでしょう。

さて、その他に今回は、「即心是仏を“信ずれば”便了す。」という点に私は注目した。
ここから理解出来る通り、“信じること”は宗教上大切なファクターであり、「禅」は、流行りのエクササイズでも、哲学でもなく、宗教であり、そこでは“信仰”を無視する事は出来ない。
但し、宗教だから良いとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか、そういった“考え”は、別問題である。


尚、“即心是仏”の問題点については、当ブログ「景徳伝灯録・2(神会の正体)」後半辺りに少し述べたので、そちらも参照されたい。


合掌
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景徳伝灯録・5( ここから本題)

2010-05-16 08:10:52 | 日記
今回から、私自身が目的とするところの、本題に入る。

『景徳伝灯録』巻八、南嶽第二世、馬祖嗣、南泉願

テキスト135頁、4行目から。

「師喚院主。院主応諾。師云、仏九十日在朷利天為母説法。時優填王思仏、請目連運神通三轉、摂匠人住彼雕仏像、只雕得三十一相。為什麼梵音相雕不得。院主問、如何是梵音相。師云、賺殺人。」

〔師、「院主」と喚ぶ。院主、応諾す。師云く、「仏は、九十日、朷利天に在って母の為に説法す。時に優填王、仏を思い、目連を請して、神通を運メグらすこと三転し、匠人を摂して、彼カシコに住き、仏像を彫らしむるに、只だ三十一相のみを彫り得たり。什麼の為ユエにか梵音の相を彫り得ざる」。院主問う、「如何なるか是れ梵音の相」。師云く、「人を賺殺す」。〕
(注:朷利天の“朷”の字は、正しくは、手偏に刀と書く)

南泉普願(748~834)
しばしば王老師と自称する。馬祖下にて、同門の百丈懐海、西堂智蔵とともに三大士角立と称された。
南泉は、その下に趙州を出し、曹洞宗の祖、洞山良价にも強い影響を与えている。

◆解説
○師とは南泉の事。
○院主インスとは寺の監院カンニン(総務部長のような存在/対外的寺務一般を掌握/当初一人だったが職務が多いので三人に分掌された※①都寺ツウス-監院②監寺カンス-副監院③副寺フクス-会計)の事。
○朷利天とは、朷利は音写で“33”の意、三十三天と漢訳する。欲界の六天のうちの第二、須弥山の頂にあってインドラ神(帝釈天)が住む。
○「優填雕像」という優填王が釈尊を懐かしく思い、栴檀をもって仏の像を造った“おはなし”がある。
○梵音とは、仏が持つ三十二相の一つ。梵音声相・梵音深遠相と呼ばれ、清らかで妙なる声。
○賺殺タンサツとは、賺は“だます”というような意味。「~殺」は“殺す”という意味ではない。動詞の後に付いて、前の字の意味を強める。

この問答は、師が「院主くん!」とパッと呼び掛けて、間髪を容れず院主が「はい!」と応えた。
本来ここで完結しているのだ。
パッと呼び掛けて、とっさにサッと応える。
これで、何一つ欠ける事なく完成していて、他に余計なものなど必要としない。師は、院主がその境地を体得していると思った。
念のため試しに、余計な話しを院主に振ってみた。
すると院主は「梵音の相ってなんですか?」と間抜けな質問をした。
師は、院主がその境地を体得していなかった事を知り、「人を騙しやがって!」と言った。


以下、私見。
この問答は、「以心伝心」が通じているかどうかがポイントになっている。
院主は最後に、間抜けな質問などせず、黙って立ち去れば良かったのではないだろうか。
何故なら、「院主くん!」「はい!」で本来の決着がついているのだから。

またこの問答は、“以心伝心”の象徴的エピソードとして有名な、釈迦牟尼仏から摩訶迦葉への伝法「破顔微笑」に続く、摩訶迦葉から阿難への伝法が素になっているようだ。
迦葉尊者「阿難くん!」
阿難尊者「はい!」
迦葉尊者「門前の幡を下ろしなさい」(「よく出来た!説法は終わりだ」という意味)



※お知らせ。
いつもこのブログを読んで下さっている方々には、心より感謝しております。
さて、新米僧侶の私は、有り難い事に今後、施餓鬼会等、お寺でのお勤めお手伝い等々お誘いを頂いております。
大学での禅・仏教の勉強以外に、お経等々、色々と覚えなければならない事が沢山あります。
そのため、ブログの更新は、今後回数が減るかも知れません事をお知らせ申し上げます。

合掌
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景徳伝灯録・4( 禅門規式・後編)

2010-05-13 19:41:40 | 日記
前回、東山法門について触れた。
そこで5祖弘忍について、1つ補足しておきたい。
弘忍の作とされる『修心要論』には、具体的な坐禅の作法が示されているという。
これはある意味、珍しい事である。
なぜなら前にも触れたように、「禅」については「心」や「精神面」の問題なので、身体で行なう「坐禅」作法について書いている文献は、必ずしも多くないからだ。

まぁしかし、日本では我が道元禅師などの影響で「坐禅重視」が当たり前になっているので、「元々は身体の坐禅は重視されていなかった」という歴史的事実を受け入れない、もしくは、こうした事実に目を向けようとしない人が少なくないのかも知れない。

逆に言えば、それだけ我が道元禅師の影響が、現在の参禅者にも浸透していると言えるし、だとすれば私も宗門の人間としては喜ばしい。

さて、本題に入る。
『伝灯録』巻六、百丈懷海の「禅門規式」、ここに禅門における様々な規則が示されている。

特に有名なのは「仏殿を建てるべからず」という内容だ。
「各寺院の生身の住持が“仏”であり指導者なのだから、その他に仏殿など必要がない」というのである。しかし実際には、当時の権力者の加持祈祷等々行なわなければならず、その場所として仏殿は建てられていたようだ。

社会との関わりの中で、教団が持つ教義と矛盾するケースもあるのは、昔も今も変わらないという事だろう。

次に私が注目したのは、
「其(門+去皿)院大衆朝参夕聚…」〔寺内全体が朝夕に集まって…〕住持の説法をうける。

これに対して、坐禅については、「任学者勤怠」〔学者の勤怠に任す〕と書かれている点だ。

毎日2回朝夕に、説法の時間が設けられているのに対して、驚くべき事に、坐禅に関しては、やるもやらないも各自に任せるというのだ。
この点について以前私は、ある先生に質問をした。
「禅門での規則を示す事を目的とした書物の中で、こと坐禅に関しては“学者の勤怠に任せる”と書かれているという事は、当時、坐禅はそれほど軽視されていたと観て間違いないですか?」
しかし先生の見解は違った。
「そりゃあ逆じゃないか?仏教における規則は、基本的に“随犯随制”だ。つまり何か問題があった時に、その問題に対する規則が作られる。“坐禅は学者の勤怠に任せる”という事は、坐禅については何の問題も発生していないという事だ。って事は、当時の修行僧たちは黙ってても坐禅してたって事だろ。」

更に先生は言う。
「後々になって“この時間帯は坐禅しなさい”って決められるようになったのは、皆が坐禅しなくなったからじゃなくて、坐禅ばっかりしてる奴が増えたからかも知れないでしょ?僧堂での団体生活で、自分だけ勝手に夜中まで坐禅してるとか、そういうスタンドプレーは許されないって事じゃないかな。」


なるほど、だとすれば坐禅を軽視していたのは、誰あろう私自身だったのかも知れない。

いずれにせよ、自分の知恵の浅さを痛感した。


合掌
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景徳伝灯録・3( 禅門規式・前編)

2010-05-12 06:55:34 | 日記
『伝灯録』巻六に、馬祖下の百丈懷海が登場する。
中国で名高い禅の「二祖」と言えば、インドから中国へ禅を伝えた“達磨”と、もう一人は、禅宗独立の祖としてこの“百丈懷海”が挙げられる。
それは百丈が『百丈清規』という禅宗教団のルールブックを著して、教団が自給自足を目指した事もその由縁の1つと言える。
『清規』を最初に書き示したのが百丈であり、ずっと後には、日本の道元もその影響を受けて『永平清規』を書いた。
とはいえ、インドでは考えられなかった出家者らによる作務や、自給自足を目指す教団生活。
こうした生活そのものは、百丈の『百丈清規』から始まったのではなく、既に東山法門の頃から行なわれていた。

※東山法門とは。
先ず初期の禅門系譜を見て頂きたい。
(西天28祖/東土初祖)達磨―(東土2祖)慧可―(3祖)僧粲―(4祖)道信―(5祖)弘忍―(6祖)慧能。
更に、6祖慧能の弟子である南嶽懷譲。その弟子、馬祖道一。更にその弟子に当たるのが百丈懷海であるが、自給自足を目指した教団生活は、4祖道信~5祖弘忍の頃から行なわれていたらしい。
この、道信や弘忍が開いた教えを“東山法門”という。
これには、地理的呼称と、当時の正当な禅の法門という意味が含まれている。

さて、達磨から僧粲までは、比較的少人数で修行をしていた。
しかし、道信、弘忍の頃になると、弟子の数は400~500、更には千人近くに増えた。
こうした人数増加もあって、農耕等の自給自足も目指し、それに伴い一ヶ所での定住生活を余儀なくされた。

弟子の人数が増えた事で、もう1つ重要な問題が持ち上がった。
1人1人の弟子に対する教育に、じっくり時間をかけれなくなり、弟子たちの教育が簡素化されていった。
その結果、早期卒業を促す事にもなったと思われる。

この風潮が背景となって、現在でも簡単に「“禅”がわかった」“つもり”になってしまう人を、多く生み出しているように感じる。

さて、史上初の『清規』書『百丈清規』についての話しに戻そう。
清規とは、禅林における僧侶の守るべき規則である。これを初めて制定したのが百丈懷海なのだが、実は『百丈清規』は散逸していて現存しない。
だが、ある書物等で、その内容の片鱗を伺い知る事は可能である。

それが、『景徳伝灯録』巻六に収められている「禅門規式」なのである。


以下、次回に続く。


合掌
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