新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

お盆に法事、通夜・葬儀

2017-07-30 07:46:15 | 日記
忙しい!

毎年の事だが、7月(東京と他一部地域)・8月(東京周辺県など多くの地域)のお盆時期は、我々僧侶にとって1年で一番忙しい。

しかも、最近では、7月・8月それぞれの15日前後のみならず、7月~8月全体のどこかにお盆のご供養を希望なさる方々が増えたため、7月~8月中、我々僧侶はずっと忙しい。
いや、少なくとも都心部で活動させて頂いている僕は忙しい。

更に、お盆のご供養だけでも忙しいのに、加えて、その他の年回法要などの法事は勿論、通夜・葬儀が連日続いている。

そのせいか、最近ちょっと体調が悪く、少しでも空いた時間があれば、僕は、いま病院に通院している。

そもそも、数年前の安居修行中に、完璧に身体を壊して下山してから、何年経っても症状は全く改善されていない。

それなのに、僧侶としの活動をバリバリやって、その上、休みの日にはウォータースポーツをやったりしているのだから、病院行きになるのは当然と言えば当然の結果である。

しかし、休みの日の遊びはほどほどに出来ても、僧侶としてのお勤めは手を抜くわけにはいかない。

僕は、安居修行中にも倒れたが、今も、倒れるまでお勤めさせて頂くのみである。

それでは、今日も、鎮痛剤を飲んで痛みを誤魔化しつつ、ご法事に行って参ります。

合掌




◆新・からっぽ禅蔵◆

ブラック葬儀社ー2ー

2017-07-24 16:25:05 | 日記
15/12/02に、当ブログに於いて「ブラック葬儀社」という記事を書いた。
それ以後も、酷い葬儀社スタッフに当たってしまう事は度々あった。
しかし、ぐっと我慢して、ブログなどには何も書かなかった。
だが、先日、ちょっと酷すぎる葬儀社スタッフがいたので、これは書こうと思う。

それは、某家様の葬儀の時の事だ。

まず、いつも通り司会担当者が、僕が居る僧侶控え室にやって来て、そこで打合せを行った。

そこで、次のような話しもした。
その内容は、以下の如くである。

葬儀告別式後に、式場から15キロも離れた火葬場への移動がある。

日頃 公共交通機関を利用している僕は、霊柩車の後部座席に乗せてもらったり、または、葬儀社スタッフの車の助手席に乗せてもらったり、或いは、親族の方々が乗るチャーターバスの空いた席に乗せてもらったり、または、タクシーを呼んでもらったりして、火葬場へ移動をしている。

いずれの方法で移動するかは、僕が決定する事ではなく、それぞれの葬儀社さんの考え方や都合、或いはご好意によって決まるのだ。

ただ、タクシーでの移動の場合、「前を走る霊柩車から離れずに付いていって下さいね」と運転手さんにお願いしても、全く従ってくれずに、1個目の信号でもう前の霊柩車と離れてしまい、その後もノンビリ走られて、結局、火葬場で、故人や喪主・親族の方々を長くお待たせしてしまった事がある。
なので、親族の方々と同じバスに同乗させて頂いたほうが、待たせる事がない、という点で安心ではある。

実際に僕が体験したそのエピソードを、司会担当者に伝えた上で、僕は次のように明言した。

「だけど、バスに乗るかタクシーを呼んで頂くか、そのほか何で移動するかは、もちろん御社にお任せしますよ」と。

司会担当者、「わかりました。ではタクシーを呼びますのでタクシーでご移動お願いします。」

僕、「そうですか。わかりました。それではタクシーの手配、お手数おかけしますが、宜しくお願いします。」

以上のように、まったく問題なく打合せは終了した。

ところが、である。

その後、その司会担当者は、自らの上司や、僕がお世話になっている僧侶派遣会社へ、有り得ないようなウソのクレームを通報したのだ。
それによれば こうだ。

「今回来た禅蔵という僧侶は、火葬場への移動の際に、“オレはタクシー移動はイヤだ!バスじゃなきゃイヤだ!バスに乗せてくれ!”とゴネている」というのだ。

そして直ぐに、僧侶派遣会社から僕の携帯電話に電話がかかってきた。

「禅蔵さん!タクシーはイヤだ、バスに乗せてくれ!なんて、そんな我がまま言って葬儀社さんを困らせないで下さい」と。

僕、「ちょっと待って下さい。そんな子供みたいな事を言うわけがないじゃありませんか。」

僧侶派遣会社、「…そうですよねえ……。」

僕、「そんなウソのクレームをつけるなんて、明らかな悪意を感じます。おそらく、司会担当さんが、僕の何かが気に入らなくて、僕を落とし入れてやろうという意地悪を働いたのでしょう。」

もちろん、僕は、僧侶派遣会社の方とは長いお付き合いをさせて頂いているので、司会担当者のウソなどに騙されず、僕を信用して下さったようだ。

それに、当の葬儀の喪主様はじめ親族の方々も、僕に好感を持って下さり、既に四十九日法要のご依頼を頂いている。

それから、僕はつい先日マイカーを買った。
今後は、なるべくマイカーで通夜・葬儀、法事に行こうと思っている。
なので、まあ、そうなれば、移動に関連する嫌がらせを、葬儀社スタッフから受ける事も減るであろう。

葬儀社さんは、僧侶に対してつまらない嫌がらせなどをしているヒマがあったら、故人のためのご供養に全力を注いでほしいと願うばかりである。

合掌




◆新・からっぽ禅蔵◆

禅話106ー自己の本分ー

2017-07-16 06:51:50 | 日記
先日、いつものように、某湖でカナディアンカヌーを漕いで楽しんだ。
その場で、僕のカヌーの先生と雑談している時、たまたま話しの流れで、僕は、「実は昔サーフィンをやっていたんです」と白状した。
すると先生は、次のように言った。
「なるほど、やっぱりそうか。いや、禅蔵さんの、水の上でのバランス感覚は かなり優れているので、過去に何かのウォータースポーツをやっていたんだろうなあ、とは思っていたんですよ」と。

僕にとって それは、とても嬉しいお言葉であった。

思えば、人が、知識によって何かを語っても、その人の背景までは見えてこない。
しかし、身体の動きはウソをつかない。
ちょっとした動きを、見る人が見ればその人の背景までが見えてくる事がある。

例えば、口先でいくら禅を語っても、実際に坐禅をしてもらえば、本当に禅に精通している人かどうか、見る人が見れば直ぐにわかる。


さて、それはともかく、以下は本題。


◆靈巖和尚〔慧宗〕


●原文

僧問、「如何是學人自己本分事?」
師云、「抛却真金、拾得瓦礫作什摩?」


●試訳

僧問う、「如何(いか)なるか是(こ)れ學人(がくじん=修行者)自己の本分(根元的な自己の本性)事?」
師云、「却(かえ)って真金(しんきん=ここでは輝くありのままの本性)を抛(ほう)り〔捨てて〕、瓦礫(がりゃく=ここではガラクタのように役に立たない理屈)を拾い得て什摩(なん)と作(な)す?」
(*〔〕内は補足。)


※体得すべき事は、理屈よりも行動で示すべきであり、その行動の中に、生き生きとした本来の自己の有り様が体現される、のかも知れない。

そんなわけで、先日、僕はおよそ15年ぶりでサーフィンをした。
15年ぶりなので、インストラクターさんに付いてもらってのサーフィンであった。
海に入って一発目の波に乗った時に、インストラクターさんから次のように言われた。
「おっ!禅蔵さん、15年経っても体が波乗りを覚えているんですね!」と。

ここに、僕にとっての “自己の本分” があるのかな?(笑)



【サーフィンはスマホ片手に出来るものではないので、今回は写真は無い。】

◆新・からっぽ禅蔵◆

花と海

2017-07-09 08:28:15 | 日記
映画「モアナと伝説の海」を観た。
普通に、子供向けのアニメ映画だと思っていたが、映像の美しさは従来のアニメを超えていた。
特に、髪の毛の質感と海の水の質感はなかなかリアルで素晴らしい。
それから、音楽がいかにも南国的で良かった。

さて、映画の劇中、主人公の少女モアナ(16歳)が、海に漕ぎだして、初めてサンゴ礁を越えて沖に出たとき、彼女は波に飲み込まれて危険な目に遭う。

次々にやって来る波に何度も飲み込まれて息が出来ない状況に陥るのだ。
この状況は、実はサーファーなら誰もが共感するシーンである。
なぜなら、サーフィンをする者であれば、必ずと言っていいほど、ほぼ同じ状況に陥った経験があるからだ。
元サーファーの僕も、過去に何度も経験した。

それから、先月6月9日に、当ブログ記事「女神からの贈り物」を書いた。
そこで、僕が乗ったシーカヤックの側に、何処からか花の輪が流れ着いた事を書き、その写真もアップした。

この花の輪は、女性が身につける冠である事が、「モアナと伝説の海」を観て分かった。(男性もかぶるかも?)
映画の前半の某シーンで、モアナが頭にかぶっていた花の輪と、僕の乗ったシーカヤックの側に流れ着いた花の輪が、色まで同じものであった。
更に、映画のクライマックスに登場する女神テフィティも、ほぼ同様の冠をかぶっていた。

いずれにせよ、湖や海などの水辺で遊ぶ僕にとって、ある意味 身近に感じられる映画であった。

なお、自然は、差別なく多くの恵みや癒しを与えてくれる一方で、同情もしてくれないし容赦もしてくれない。
自然は、一点の迷いもなく ただ自然のままなのである。

九州北部豪雨で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

合掌





【写真:静水域に浮かべたカナディアンカヌー】

◆新・からっぽ禅蔵◆

信心と不信心

2017-07-02 14:00:58 | 日記
僕は、僧侶としてのお勤めの1つとして、ご依頼頂いた方のお宅へ出向いて、そのご自宅の仏壇前でご供養させて頂く事もよくある。

先日、2件のお宅へ伺ってご供養させて頂いたのだが、この2件のお宅、とても対照的だった。

まず1件目。

そこは、古びた団地の狭い一室。
ご依頼人はその部屋の主人で、70歳近い男性だった。

この方の態度が、かなり悪かった。
彼は、「どうせ貴方の寺は小さな寺なんだろう? 私はこれまで大寺院としか付き合いがなかったけどね」などと、僕に対して嫌みっぽい事ばかり言っていた。

何が気に食わないのか?我々僧侶に対して、言わなくてもいいような嫌みばかり連発するならば、僧侶など呼ばなければ良いのに。

まさか、ご自分は料金(お布施)を払う “お客” で、僧侶はサービスを行う “従業員” とでも思っているのだろうか?

なんのためのに僧侶を呼んで、どなたのためのご供養なのか? もう一度よく考えてみて頂きたいものだ。

少なくとも、僧侶に嫌みを言って、ご自分の身内の供養を台無しにしてどうするのだろうか?

さて、

一方、2件目のお宅は、1件目とは全く違った。

そこは、ドラマに出てくるような、驚くほどの大豪邸だった。
東京都23区内にあるその大豪邸に、僕と同年代の女性がお1人で住んでいた。
彼女は独身で、亡くされたご両親のご供養のために僧侶を依頼したのだった。

梅雨らしく小雨が降る中で、彼女は玄関先に立って僕を待っていた。
ほとんどの場合、室内で僧侶の到着を待つものだが、彼女は、玄関の外に立って僕を待ち続けていたのだ。
そして、「雨の中すみません」と言って僕を労い、極めて丁寧に、僕を豪邸の中に招き入れてくれた。

読経の直後、彼女から、お経の内容について幾つか質問を受けた。
その質問内容から、彼女が日ごろお経について勉強なさっている事がうかがい知る事が出来た。
おそらく、「禅・仏教は学問じゃない!修行の実践あるのみだ!」などと言ってほとんど勉強していない僧侶では、彼女のハイレベルな質問には答えられなかっただろう。
そんな彼女は、ときどき本山にもお参りに行くそうで、ご両親の供養のために、出来る限りの事をなさっている事が ひしひしと伝わってきた。
更に、彼女から受け取ったお布施の中身は、金額は公言しないが、驚くほどの高額だった。
いや、高額だから良いという事ではないが、彼女の言動の全てから、深く清らかな信心と、亡くなられたご両親への、真っ直ぐなご供養のお気持ちが伝わってきたのだった。

帰りには、彼女はまた、小雨の降る中で、僕の姿が見えなくなるまで見送ってくださった。

改めて、彼女のご両親のご冥福を、深くお祈り申し上げます。

更に、彼女のご健康、ご多幸を、ご祈念申し上げます。

合掌

ところで、個人差はあるが、僕の経験上、なぜか裕福な人ほど礼儀正しくて、貧しい人ほど感じ悪い人が多いように思える事がある。
裕福な人には気持ちにも余裕があり、貧しい人は やけっぱちになっている、という事なのだろうか?

ちなみに、日ごろ公共交通機関を利用していると、若者ほどマナーが良くて、一方、マナーの悪い高齢者を多く見かける。

いずれにせよ、現実は、イメージや先入観とは “逆” の場合がある、という事を言っておきたい。





◆新・からっぽ禅蔵◆