新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

波乗り雑記帳4ー都内の交差点のど真ん中でー

2018-03-25 07:38:31 | 日記
18歳当時の僕は、ついにサーフボードを手に入れた。

しかし、ここでいきなり問題に直面する。

当時はまだ電車やバス等々の公共交通機関に、サーフボードの持ち込みは禁止されていた。(ちなみにスキー板は当時から持ち込み可能だった)
なので、サーフボードを買ったサーフショップから、僕が独り暮らしで住むアパートまで、どうやってボードを持ち帰るかが問題だった。
前に書いた通り、当時の僕はまだ車も車の免許も無かった。

そこで、ある女性に助けてもらったのだ。

彼女は、18歳当時の僕と同じ年の彼女(都内某女子高3年)の、クラスメイトのYさんだ。

Yさんは、輸入自動車を扱うあの有名な会社の社長令嬢だった。そのせいか、Yさんは18歳に成ると同時に いち早く車の免許を取得していた。
そこで、Yさん運転の車に僕のサーフボードを積んで、サーフショップから僕が住むアパートまで送ってもらったのだ。
但し、免許取り立てのYさんは、まだまだ運転が不慣れで、かなり緊張した様子で運転していた。
そして、もうすぐ僕のアパートに到着しそうな頃、都内の片側数車線ある交通量の多い大きな交差点で、赤信号の先頭に停止した。

Yさんは、ここで初めてサイドブレーキのレバーを引いた。
そして大きくため息をついて次のように言った。
「ふ~っ!もうすぐ禅蔵くんちに到着する頃になって、ようやく運転に馴れてきたよ(笑)」と。

次の瞬間、信号が青に変わった。
「あれ⁉ どうしょう(汗)」Yさんは慌てていた。
先ほど引いたサイドブレーキを、どうやって戻すのか分からなかったのだ。
これを戻さないと車は発進出来ない。
後続の車からはクラクションが鳴らされる。
Yさんは、「うるさいなぁもう!でもコレどうやって戻せばいいんだっけ⁉ 戻らない…、戻れ~!この~!」と言いつつ、サイドブレーキをガチャガチャやりながら、ようやくサイドブレーキを解除し、無事に発進した。

こうして僕は、Yさんのお陰で、買ったばかりのサーフボードを自分が住むアパートに持ち帰る事が出来た。

尚、Yさんの名誉のために付け加えるが、僕がYさんとお会いしたのはこの日だけである。
でも、あのサイドブレーキの一件は、僕にとっては とても微笑ましい思い出として鮮明に記憶に残っている。
あの時は、本当にキュートな女子高生だったYさんも、きっと今頃は、セレブで素敵な大人の女性に成長なさっている事と思う。
いずれにせよ、Yさんには感謝している。
「ありがとうございました」

さて、上記の一件は僕が18歳になった年の9月だった。
そして、次に問題なのは、電車やバスにサーフボードが持ち込めないこの時代に、どうやってこのボードを持ってサーフィンをしに海へ行くか、である。

そのチャンスは、1ヶ月後の10月にやって来た。

以下はまた次回。




◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~◆

重要な事

2018-03-18 05:56:06 | 日記
我が禅宗では、生死(しょうじ)の問題を重視する。

従って、我々禅僧が生死に関わる葬儀などの死者供養をお勤めするのは自然な話しである。

いや、我が禅宗のみならず、早くに実母を亡くした若き日の釈尊が、生死について深くお考えになった事が1つの引き金となって やがて仏教が成立した。従って、生死の問題は仏教の原点と言ってよい。

更に言えば、「釈尊が亡くなった時、釈尊を火葬したのはマッラ族という一般人たちであって、釈尊の弟子たち(僧侶たち)は釈尊の葬儀はしていない!」と、思っている人達は少なくない。
しかし、これは間違いである。

亡くなった釈尊の身体を、マッラ族(一般人)が火葬しようとしても火はつかなかったと伝えられている。
しかし、釈尊の弟子たち(カッサパはじめ500人の修行僧)が礼拝すると、釈尊の火葬のための薪はおのずと点火した、と伝えられているのである。
つまり、一般人たちだけでは釈尊の火葬は不可能であった。しかし僧侶たちの礼拝供養によって初めて釈尊の火葬が実行されたのだ。
これはまさに、仏教僧は初めから葬式に携わっていた証であろう。

だから僕は、日頃、僧侶として しっかりと亡くなられた方々のご供養をさせて頂いている。

そもそも生死の問題は、我々仏教僧侶のみならず、全ての人にとって重要な問題であろう。

一方で、大宇宙が生み出す一期一会の波に乗るサーフィンは、自然の素晴らしさや自然の厳しさを教えてくれる。

自然と関わる事は、生死の問題と同様に、我々サーファーのみならず、全ての人にとって重要な事だろう。

多くの人達は、花見をしたり、月見をしたり、水族館や動物園へ行ったり、部屋に観葉植物を置いたり、あの手この手で、何とかどこかで自然を感じようとする。

そして、この生死の問題を見失い今生きている命の素晴らしさを忘れてしまったり、自然から離れてしまって息抜きやリフレッシュが出来なくなると、人は、ストレスに陥ったりする。

尚、僕は、亡くなられた方々のご供養のみならず、1人でも多くの人のため、世界の貧しい子供たちにお金を送金し続けている。
一方で、自然のため、自然環境保護団体にも寄付金を送り続けている。
それらの事は、今までにも度々ブログに書いている通りだ。

貧しい子供たちに多幸を。
そして、僕がサーフィン中に出会うスナメリ(イルカの一種)らが住みやすい自然環境を。

禅蔵 合掌




◆新・からっぽ禅蔵◆

禅話115ー宗乗ー

2018-03-11 07:10:48 | 日記
先日、久しぶりに某寺院の坐禅会のお手伝いをさせて頂いた。

そこにやって来る一般の参禅者さんたちにご指導させて頂いていて、僕は、ふと次のような事を思った。

「この人達は、本当に坐禅がお好きなのかなあ? もしかしたら、坐禅よりも、坐禅後の茶話会でのおしゃべりが楽しみで来ているのではないのかなあ?
或いは、坐禅をすると あんな効果があるとか こんな効果があるとか、坐禅そのものはこの人達にとって単なる手段であって、坐禅を通してサトリやら何やらの効果を期待する欲望優先なのではないのかなあ?
本当は、この人達にとって、坐禅そのものはどうでも良いのではないのかなあ?」と。

一方で、真冬の海でサーフィンをしている僕らは、間違いなくみんなサーフィンそのものが大好きだ。
好きじゃなきゃ、夜明け前から早起きして、極寒の真冬の海に入るわけがない。
そして、サーフィンは何かのための手段ではなく、サーフィンそのものが楽しいのだ。

同様に、坐禅も、何かの効果を期待する手段ではなく、坐禅そのものが素晴らしいはずなのだが……。

それはともかく、以下は本題。


◆報恩和尚〔懐岳〕


○原文

問、「宗乗不却、如何挙唱?」
云、「山不自称、水無間断。」


○試訳

(弟子が)問う、「宗乗(しゅうじょう=宗門の教え)を却(しりぞ)けずに、如何(いか)に挙唱(こしょう=節を付けて唱える)す?」
(師匠である報恩和尚)云わく、「山は自称せず、水は間断なし。」


※山は、自らを山だと称する事は無いし、音の反響で起きる山びこも、山の側から起こす事は無い。
また、水には切れ目がない。
ただあるがままの有り様を見せてくれている万物に着目せよ、という事らしい。

いや、少なくとも、禅宗宗門の教えを、山や水などの自然物の有り様に例えて表現されている。
この事から、禅に於いても、自然の有り様を理想としている事が伺える。

禅僧である僕もまた、自然なる海に出てサーフィンをする。
極寒の真冬の海でもね(笑)


※なお、本日で、あの3.11の大災害から7年である。
その日に亡くなられた方々のご冥福を祈る。
合掌
先日、某テレビ番組で、ある専門家が次のように言っていた。
「原発事故から7年経った、と言うのは間違いだ。正しくは、原発事故が7年も続いている、のである!」と。
まったくその通りだ。
地震は自然災害だが、福島第一原発の事故は完璧な人災である。
その事故は、7年経っても解決するどころか問題が山積していて明確な解決方法さえ無い。まさに、事故は今も継続中なのである。
それでも、「原発を主要電源とする」と明言している狂人 安倍晋三氏にNO!




◆新・からっぽ禅蔵◆

波乗り雑記帳3ーサーフボードー

2018-03-04 07:30:07 | 日記
斯くして、当時18歳の僕は、人生初のサーフボードとウェットスーツを買った。

サーフボードのほうは、そのサーフショップのオリジナルで、千葉県の外房の某所でシェイプされた(作られた)ものだった。

ちなみに千葉県の外房は、国内のサーフィンエリアの中でもトップクラスの1つである。
気象状況にもよるが、基本的には湘南の海よりも波が有り、サーフィンに適している。
更に、2020年の東京オリンピックのサーフィン会場も、千葉県の外房に決まっている。

それはともかく、初めて買ったサーフボードの長さは、少し長めで190㎝はあったと記憶している。
だが、幅や厚みなどの詳細はもう覚えていない。とにかく、初心者向けのやや長めで浮力があるショートボードというヤツだ。

この当時は、ロングボードに乗っているサーファーは皆無だった。
これより更に古い時代には、ロングボードしか無くて、サーファーみんながロングボードに乗っていたらしい。
だが、僕が18歳でサーフィンを始めた頃には、ショートボードの時代になっていた。
ちなみに現在では、ロングボードに乗っている人や、ショートボードに乗っている人など、各人の好みによって様々だが、僕が18歳の頃は、基本的にショートボードしか無い時代だったのだ。

ところで、その当時オーストラリア出身のマーク・リチャーズというプロサーファーが、4年連続でサーフィンのワールドチャンピオンになった。
4回もワールドチャンピオンになるなんて、ちょっと信じられないほど凄い事で、マーク・リチャーズほどのプロサーファーはもう2度と現れないだろう、と思っていた。
しかし、ずっと後に、マーク・リチャーズを遥かに超える あの、ケリー・スレーターが出現する。が、ケリー・スレーターの事は今は触れない。

さて、次にフィンについて言及したい。
その頃のサーフボードは、例えロングボードであろうと、ショートボードであろうと、フィンはセンターに1本だけの、“シングルフィン” しかなかった。
ところが、4年連続ワールドチャンピオンのマーク・リチャーズが乗っているショートボードは、センターにはフィンが無くて、両サイドに1本ずつ、やや小さめのフィンが付いていた。“ツインフィン” である。
このツインフィンショートボードは、当時大流行した。
基本的に、初心者サーファーはシングルフィンのボードに乗り、中・上級者はツインフィンのボードに乗っていた。
なお、トライフィンや4フィン(後のクワッドフィン)等々はこの当時はまだ開発されていない。
フィンは、シングルかツインのどちらかしかなかった。
とにかく、僕が最初に買った初心者向けのボードも、当然シングルフィンだった。
僕が買ったボードは8万円ほどするものだったが、別売りのフィンは、サービスで付けてくれた。
ほかにも、リーシュコードやワックス等々の小物も、当時のサーフショップはサービスで付けてくれた。

リーシュコードとは、サーフィン中にボードを流さないために、ボードと自分の足首を繋ぐコードの事なのだが、実はその当時、そのコードの事を「リーシュコード」とは呼ばず、「パワーコード」と呼んでいた。
多分、「リーシュコード」と呼ぶほうが正しくて、当時呼んでいた「パワーコード」というのは、複数あるリーシュコードメーカーの中の、1つの商品名であったのではなかろうか?

さて、サーフィンを知っている人ならば、「あれ?デッキパッドはサービスで付けてくれないの? 付けてくれないならデッキパッド買わなきゃじゃない?」と思うかも知れない。
ワックスと同様に、滑り止めの効果があるデッキパッドは、この頃まだ開発されていない。

それから、ワックスも、後には色々なものをサーフショップで見かけるようになるが、当時は、サーフボード用ワックスと言えば、基本的に、“セックス・ワックス” しか無かった。

サーフィンを知らない人が聞いたら、「セックスワックス?何そのエッチな名前は?」と思うかも知れないが、「サーフィン用ワックスの中でも一番有名なワックスがセックスワックスだ」と言っても過言ではないと思う。

それから、サーフボードを入れるニットケースやハードケース等々の “ボードケース” も、この頃はまだ全く無い。

さて、次にウェットスーツ。
ウェットスーツは、各季節用のものを数種類購入するのがベストだが、あまり予算が無い18歳当時の僕は、とりあえず、厚さ3ミリのジャージ素材のフルスーツを1着だけ買った。
HIC(ハワイアン・アイランド・クリエーション)というメーカーのものだったが、このブランドは最近では目にしないので、今はもう無いのだろうか?

HICに限らず、当時は頻繁に見かけたサーフブランドでも、今は全く見かけないものは少なくない。
逆に、当時はまだ無かったが、今は頻繁に見かけるサーフブランドも多い。

ちなみに、サーフィン関連のメーカーで、当時も今も変わらず人気があるブランドを1つ挙げるとすれば、僕は、“クイックシルバー” が最初に思い浮かぶ。
実際、僕自身が最も長い間愛用したサーフトランスは、クイックシルバーのものだった。
このサーフトランスは本当に気に入っていて、完全に色あせるまで はき続けた。

なお、クイックシルバーのマークを2つ合わせてハートマークみたいになっている女性向けブランドの “ロキシー” は、かなり後世になってからのものだ。

以下は、また次回。




◆新・からっぽ禅蔵 別録~『波乗り雑記帳』~◆