新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

「おお神よ!」だけが宗教か?

2014-10-29 16:54:25 | 日記
警察官による犯罪は跡を絶たない。

特に、警察官が、片想いの女性に対してストーカー行為のあげく、拳銃を使って女性を殺害したストーカー殺人。
また、婚約者を殺害して自らも自殺した警察官による無理心中。
そのほか様々あるが、特に警察官による、女性に対する痴漢行為が多いようだ。

一方で、そうした痴漢が多く出没する電車内で、痴漢を取り締まる鉄道警察隊がいる。

ところが、その痴漢を取り締まる鉄道警察隊員が、女子大生の尻を触り、痴漢で逮捕されたそうだ。

もう、ここまで来ると呆れて笑ってしまう。

しかし、笑ってばかりもいられない。
そうした犯罪を次々に犯す警察官には充分警戒したい。
特に、女性の方々は気をつけましょう。


さて、以下は本題。

仏教徒ではなくても、「諸行無常」という事実は理解出来るのではなかろうか?

諸行無常の「むじょう」という響きから、なさけ容赦ない「無情」と勘違いして、「諸行無常」を、何やら悪い意味だと思っているようなおバカさんは、まさか居ないであろう(笑)

諸行無常とは、森羅万象の全ては、固定化した常には無い。
つまり、万物はとどまる事無く変化し続けているという“事実”を述べたものだ。

この事実があるから、僕らはこの世に産まれても来れたし、とどまる事なく成長、或いは変化し続けられている。
この事実を曲げる事は不可能であろう。

大学在学中、僧侶でもあるT先生が次のような事を言っていた。

「私はお寺の長男として産まれたんですが、後を継いで住職になるなんて、はじめはイヤだったんです。何だか神秘的な宗教の話しなんかインチキ臭くて嫌いなんです。でも、例えば“諸行無常”、これは事実ですよね。事実ならば胸を張って人様に説けると思って後を継いだんです」と。

とても共感できるお言葉だった。

僕も、インチキ臭い神秘的な話しなんか信じないし大嫌いだ。
「宗教イコール神様ホトケ様を信じる事」と思ったら大間違いである。

で、「良い事がありますように」と神頼みをしたり、「この御守りで幸せになりますように」と願ったりするのが好きな人達がいらっしゃるが、まあ、それがご趣味ならばご趣味として良いのかも知れない。

だが、この世の事実が諸行無常である以上、ずっと良い事が続く事も有り得ないし、ずっと幸せな気分でいれる事も、全く有り得ないのである。

神頼みをしようが、宗教嫌いであろうが、良い事もあれば悪い事もあるのである。

そもそも、良し悪しそのものが、自分の都合に良いか、都合が悪いかの差でしかない。
万人共通の良い事も、万人共通の悪い事も存在しないのだ。

諸行無常という事実と向き合って、2度と戻らない今、今、今、今の一瞬一瞬を大切に生きたいものである。

宗教が、人間の生き方のある種の指針を示すものであるならば、有りもしない能書きに捕らわれないで、リアルにその場その場の事実と向き合う勇気をくれるのも、優れた宗教と言えそうである。

いずれにせよ、諸行無常は、万人に等しく共通の事実である。




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禅話47―我見あれば会得不可なり―

2014-10-26 18:38:15 | 日記
先日、某社の社員研修の一環として、坐禅のご指導をさせて頂いた。
会社業務終了後という事もあって、けっこう短めなスカートのままのOLさんたちも少なくなかった。
彼女たちには、こちらで事前に用意してあるひざ掛けをお配りした。
坐禅が終わったあと、参加者の中の一部の男性が、次のように話していたのを聞いた。

「坐禅をすると何か変わるのかなと思ったけど、何も変化はないなぁ」と。

なるほど、初めて坐禅をしてみる人の中には、坐禅に対して過度な期待をしている場合はよくある。

坐禅を長年続けている人は、結局、坐禅そのものが好きなのだ。
好きじゃなきゃ続かない。

坐禅を、せいぜい4~5年未満でやめてしまう人は、結局、坐禅を何かになるための“手段”と考えていただけで、坐禅そのものを楽しんでいなかったから短期間でやめてしまうのであろう。

坐禅は何かの手段ではない。
坐禅は坐禅だ。
坐った途端にズバッと“坐禅”が完成している。
その上なにを期待すると言うのか?

そもそも、ちょっと座った位で、サトッタとか何とか変化がある人は、また直ぐにコロコロ変わる人だ。

まあ、それはともかく、以下本題に入る。



◆司空山本浄和尚(667~761)


○原文

問、「今見山僧相、不見山僧無相。請為於相中説無相理看。」
師曰、「浄名曰、『四大無主、身亦無我』今即無我、所見与道相應。大徳、若以四大有主、主即是我、若有我見、恒沙刧中不可會得。」


○訳文

問う、「今、山僧の相にまみえるも、山僧の無相にまみえず。為に請う、相中に於いて説無相理の看を。」
師曰く、「浄名曰く、『四大に主なく、身はまた無我なり』と。今即ち無我にして、所見にして道と相応なり。大徳よ、もし四大の主有るを以て、主即ち是れ我とし、もし我見有れば、恒沙刧中にも会得できず。」


※要するに、我見をもってしている限り、永遠に、一定の境地に達する事は出来ない、というような話し。

尚、浄名とは、あの維摩居士(ヴィマラキールティ)の事。
在家のかたにとっては、維摩居士は、ある意味スーパーヒーローのような存在。
維摩居士を知らない坐禅マニアさんは居ないであろう。
また、四大とは、地・水・火・風の事。
我々の身体に引き寄せて考えれば、骨肉(地)・血液(水)・熱(火)・息(風)といったところか。
我々僧侶が病気になる事を、「四大不調」と言い、死ぬ事を「四大分離」と表現する事もある。
死は消滅ではなく、単なる分離に過ぎない。そこに霊だの心だのの考えは含まれない、という事だ。




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正しい人が評価されるとは限らない

2014-10-23 09:55:10 | 日記
「俺にはお前しか見えない」とか「俺は絶対にお前を裏切らない」などとキモいセリフを女性に言えちゃう男性は少なくない(笑)
しかしそうした言葉を冷静に見れば、女性を束縛しようとするセリフでしかない、とも言える。
つまり、冒頭の言葉の裏には、「俺以外の男は見るなよ!」とか「絶対に俺を裏切るなよ!」という圧力が隠れている可能性が高い。
男女の縺れの果てに、男が女性を殺害する事件は跡を絶たない。
冒頭のようなセリフを言えちゃう男性には気をつけましょう。
いや、ジョーダン抜きに、殺されてからでは遅すぎるのだ。

殺害された女性たちの冥福を祈る。

合掌

で、テレビドラマ「ごめんね青春」前回の放送の中で、冒頭のようなセリフについて、次のようなセリフがあった。

「お前しか見えない」は、「お前さえよく見えていない」に等しい、と。

これは、「1つの言語しか知らない者は、1つの言語さえ知らない」や、「1つの宗教しか知らない者は、1つの宗教さえ知らない」という言葉に通じる。

僕としては、どれも納得できる言葉だ。

それとは少し違った話しだが、以前こんな事があった。

むかし、某バイト先での事。

いつものように僕は、外回りから会社事務所に戻った。
すると、何やら事務所の様子がおかしい。

聞くと、事務員の女性Aさんが重要な書類をなくしてしまったという。
彼女は青い顔をして必死で書類を探している。
気の毒に思った他の男子社員たちも一緒になって探し回っている。
全員深刻な顔だった。

そこで僕だけ笑顔で、彼女に、次のような言葉をかけてあげた。

「Aさん。探すのやめてコーヒーでも飲みましょうよ♪だいたい必死に探している時って見つからないものですよ。忘れた頃に出て来ますよきっと!」と。

僕は、良かれと思ってそう言ったのだが、Aさんをはじめ全員に、にらみつけられた。
その目は、「禅蔵てめえ!この能天気やろーめ!黙ってろ!」と言いたそうだった(笑)
そして彼女たちは、僕の言葉を無視して探し続けた。

だが、結局見つからなかった。

ついに諦めて、お茶でも入れようとした時に、彼女は「あっ!」と叫んだ。
彼女は言った。
「そーだ思い出した!あの書類は自宅に保管しておいたんでした。皆さんすみませんでした!自宅でした!」と。

そこで僕は言った。
「ほ~ら。必死で探すのをやめたから解決したじゃありませんか♪」と。

すると、僕はなぜか再び、彼女に にらみつけられた(笑)

僕の忠告が正しかったのに、なぜ憎まれなければならないの?(笑)と思った。

つまり、必ずしも正しい人が評価されるわけではないのだ。
この世の中は、正しい人や正義、妥当で的を得た発言などが高く評価される、とは限らないのである。

「正しい人が評価されないなんて不条理ではないか!?」と騒ぎ立てる必要はない。
世の中はその程度のものなのである(笑)

それはともかく、Aさんはパニックになって必死に探すあまり、冷静さを失って、実は探し物は自宅に置いてきた事を、なかなか思い出せなかったわけだ。
間抜けな話しだが、人間盲目的に夢中に成りすぎると、こういう事はよくあるものだ。

例えば

「これこそ悟りだ!」とか、「これこそ宗教だ!」と熱く語っている人には、実は、悟りも宗教も見えていない可能性が高い。

皆さん、中道、中道♪
何事も、ほどほどに(^^)




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これだけの事です

2014-10-19 14:25:19 | 日記
【写真:小金井にある江戸東京たてもの園を散歩して来た】

先日、ご法事お勤めのため某墓園に行った。
そこで、僕以外に4人ほどお坊さんを見かけた。
だが、4人ともなんだかダラ~ッとしていて「え、あれでも僧侶?」と思ってしまった。
「人のふり見て我がふり直そう。僕自身シャキッとしなくては!」と思った。
その帰り道、都バス内でキリスト教のシスターお2人と乗り合わせた。
他宗教だが僕のほうから挨拶させて頂いた。
彼女たちも気持ちの良い挨拶を返してくださった。
更に、隣に座った綺麗な女性から話しかけられた。
日蓮系の信者さんで、宗教関連の話題について話しかけられたのだった。
彼女も、きちんとなさっていた。

シスターも、新興宗教信者さんもしっかりなさっている。
我々仏教僧侶も、しっかりしなくては!


さて

禅についての法話や提唱などの時に、「パンッ」と手を叩いたり「パチッ」と指を弾いて見せ、「はい。この通り」という示し方しかしない老師様は少なくない。
特に弾指は古くから禅文献にも見える。
つまり昨日今日はじまった指導法ではないのだ。

そもそも禅問答は、相手がわかろうが、わかるまいが、それは相手の問題。
師(指導者)は、真実だけを伝えるのが千年以上前からの伝統である。
「正法眼蔵」を書かれた道元禅師も、待機説法などの方便には否定的なところがある。
現代の一般教養でも、例えば大学の講義で、小学1年生レベルの勉強は教えていない(笑)

さて、「パンッ」と手を叩いたり、「パチッ」と弾指するだけで、真実ありのままの境地を示そうとする老師様。
それを聞いていて、「いや~、あの老師様の話しは難し過ぎてサッパリわからない」と言う人が、僧侶の中にも居て驚かされる。

そういう僧侶は、特に大学で禅・仏教を学んだ経験もなく、個人的に禅の思想に興味も持たず、ただ安居修行しかしてきていないような場合が多い。
安居修行さえしていれば、自分は立派な僧侶だと勘違いする人さえいる。

何年も安居修行しても、はっきり言って安居中には、個人的に時間をかけて禅・仏教の思想を学べるような環境は無い。
例えば、図書館があって、自由に専門書を手に取り、じっくり勉強する。なんて事は安居修行先の僧堂では有り得ないのだ。

その結果、冒頭示したような、「パンッ」と手を叩いて示されても、「パチッ」と弾指されても、「難し過ぎてサッパリわからない」と言う僧侶も出てくる。

まず、“難し過ぎて”と言っている時点でアウト。
話しにならないと言うしかない。

「パンッ」や「パチッ」は、「言語で説明しなくても、頭で考えなくても、今音が聞こえたであろう」という事だ。
しかし、禅の語録もほとんど読んだ事がなければ、それすらわからないのだろう。

さて、それを受けて、「え?どういう事?なぜ老師様は手や指を鳴らしたの?う~む難しい…」と頭で考える。
「考えるな」と示されているのに「難しい」と考える。
そのように、老師様が示されている意図に全く気づかないから、「難しい」などという的はずれな事を言い出すのだ。

僕は、手を叩いたり弾指するだけの老師様のやり方が、素晴らしいと評価しているわけではない。

しかし、頭の中の考えばかりに依存し過ぎて、「難しい…」と言ってる禅僧ってどうだろう。

まあ、手を叩くだけとか、弾指だけでは、“簡単過ぎる”故に“難しく感じる”のかも知れない、と弁護しておこう。

そして、一般の方々も、「人生の意義だの心だの」と、頭の中での考えを手放そうとはしない。
自ら“考え”を作り出し、“自ら作り出した考え”に苦しむのが大好きな人達で溢れている。

自らが作り出した苦しみに「苦しい!」と言いながらも、その“苦しみ”に、しがみついて決して離そうとしない人が多い。


心も意義もない

「パチッ!」(弾指音)
ただ、これだけの事なんですけどねぇ(笑)





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禅話46―禅―

2014-10-16 13:34:19 | 日記
僕は出家前から、30ヶ寺位の禅寺(曹洞宗、及び、臨済宗)の坐禅会に参禅し、他に、天台宗、真言宗等の御寺院様での瞑想、仏教系大学在学中の4年間は坐禅をする参禅部に所属。他に、必修授業にも「坐禅」があった。更に、タイ上座仏教僧として、タイのチェンマイで瞑想三昧してきた。
その意味で、ある程度の坐禅・瞑想の経験をしてきたつもりだ。

で、今も坐禅会のご指導等お手伝いさせて頂いている。
ご指導に当たって、事前に次のように指導してほしいと言われている。

A寺でのご指導の場合。
「坐禅は、1チュウ(1回)40分。警策(バシーッと肩を叩く棒)を望まれる参禅者さんには、思いきり警策を打ってあげて下さい」と言われている。
つまり、「坐禅中だけではあるが、禅寺の修行僧と同じように坐禅を体験させてあげたい」という事である。

一方、B寺でのご指導の場合は、A寺とは真逆だ。
「一般の人達に厳しい事はさせられません。坐禅は1チュウ15分~長くても20分迄にしてあげて下さい。警策を望まれる人には、優しくポンッと叩いてあげて下さい。間違ってもバシーッと打たないで下さいね」と言うのだ。

まあ僕は、A寺ではA寺流に、B寺ではB寺流にご指導させて頂いている。
一見、A寺のほうが厳しくて、B寺が優しいように思われるかも知れないが、果たしてそうだろうか?

坐禅がやりたくて来ている人達に、出来るだけしっかりと坐禅を体験させてあげようとするA寺のほうが優しい思いやりがあるのではないか?
一方、B寺では一見優しいように見えて、ほとんど坐禅をさせていないのではないか?
わざわざ片道何十分も何時間もかけて寺に足を運んで来た人達に、坐禅はたったの15分だけ?
しかも、気の迷いを断ち切りたくてバシーッと打って欲しがっている人達に、軽くポンと叩くだけ?
それでは直ぐに物足りなくなって、結果的に坐禅がつまらないものに感じてしまうのではなかろうか?

皆さんなら、A寺とB寺どちらで坐禅したいですか?


さて、以下は本題。




◆智策和尚

○原文

師曰、「妙湛圓寂、軆用如如、五陰本空、六塵非有、不出不入、不定不乱。禪性無住、離住禪寂、禪性無生、離生禪相。心如虚空、亦無虚空之量。」


○訳文

師曰く、「妙湛なる圓寂は、体用如如にして、五陰は本より空にして、六塵有らず、出でず入らず、定まらず乱れず。禅性は無住にして、禅寂に住すを離れ、禅性に生なく、禅相に生ずるを離れる。心は虚空の如く、また、虚空の量は無し。」





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